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キリスト教の神の国とイスラームのウンマ

『帝国の復興と啓蒙の未来』より

西ローマ帝国の晩期に生きたラテン教父アウグスティヌス(430年没)はその大著『神の国』の中で、神の国と地の国を対立させる二国論を展開し、後の西欧キリスト教思想に大きな影響を与えた。

アウグスティヌスは聖書の記述を元に、教会がキリストを頭とするキリストの身体であるとみなす。アウグスティヌスは教会を「キリストとその教会なる神の国」「聖なる教会である神の国」「この世において遍歴している神の国、即ち教会」などと呼んでおり、キリストに従順な「神の国」を代表するものは教会であり、「地の国」の覇権を代表するのがローマ帝国であった。しかし真の神の国は天上的なものであり、地上の可視的教会には、地の国が入り込んでおり、この世の教会には悪人が善人の間に混ざっており、最後の審判にふるい分けられる。(松田禎二「アウグスティヌスにおける『神の国』の意義」『中世思想研究』第21号、中世哲学会、75~76頁、加藤信朗「アウグスティヌス『神の国』における二つの国の理」(『中世思想研究』第45号、中世哲学会、15頁)

このアウグスティヌスの二国論に基づく西欧中世のキリスト教の世界観は、「教会の外に救いなし」(キプリアヌス)との立場から、異教世界に対しては、西欧、神の国を代表する即ち(ローマ・カトリック)教会と(西/神聖)ローマ帝国と、地の国を代表する異教の諸国を対立させるものであると同時に、西欧内部では神の国の地上における代表である可視的(ローマ・カトリック)教会と、地の国である(西/神聖)ローマ帝国を並立させる二重構造の二元論的なものであったが、「地上における神の国」の政治権力の所在をめぐってローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝の間で所謂教権と俗権の対立が生ずることになる。そして宗教改革後、西欧で教皇権が弱まり、ついにはカトリックのキリスト教の独占が崩れると、キリスト教系のカルト諸宗派までもが自宗派を神の国を代表する教会とみなすようになり可視的教会は内実を失い、政教分離が既成事実化し、世俗化の進展、教会人口の減少とそれに反比例する主権国家の権力の肥大化に伴い教会は世俗国家と対抗する実体であることをやめることになる。

キリスト教によると「教会の外に救いなし」との原理により、全ての異教徒の支配は「地の国」の覇権として範喘的に悪であるばかりか、可視的教会による統治ですら、「地の国」の悪による汚染を免れない。ところがその一方でキリスト教は「神のものは神にカエサルのものはカエサルに」との福音書のイエスの言葉、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」との「ローマ人への手紙」13章1節のパウロの言葉によって、キリスト教が覇権を握っている限り、たとえ悪であろうとも「地の国」の支配には服従が義務であると説く。

西欧中世においては、コンスタンティヌス一世(337年没)が313年にミラノ勅令でキリスト教を公認し、392年にはテオドシウスー世(395年没)はキリスト教を国教化した。コンスタンティヌスー世は325年に第1回ニカイア公会議を開き、三位一体説を正統と公認し、以降、キリスト教の教義への国家の干渉が常態化する。それゆえこれ以降の政治化したキリスト教をコンスタンティヌス体制とも呼ぶが、このコンスタンティヌス体制下の中世西欧はカトリック教会がローマ帝国を利用し、異教徒を殲滅し、臣民にカトリックを強制する全体主義的社会となった。

しかしこの西欧のコンスタンティヌス体制のカトリック全体主義体制は、ルネサンス、宗教改革、それらの結果としての社会の世俗化の進展により崩壊し、アウグスティヌスの二世界論に基づき、キリスト教の諸宗派が、自分たちの教会こそが真の「神の国」であると自任しつつ、現世ではそれぞれの「地の国」の覇権を追認し、その下にある他の諸々の可視的教会と異教、無神論とも共存する近代的政教分離の多元社会に変質するのである。

イスラームにおいてキリスト教の教会におおまかに対応する概念はウンマである。クルアーンにおいては「ウンマ」は人間のみならず動物に対しても用いられる「集団」を指す語であったが、イスラーム学の用語としては、宗教集団、特に定冠詞を付して「アル=ウンマ」といった場合には、ムスリムの集団を指すことになる。

カトリック教会は1869~70年の第1回バチカン公会議で教皇の無謬を正式に決定したが、伝統的に教皇、公会議の総意、全ての司教の総意、全ての教会員の総意の無謬を認めてきた。一方、イスラームにおいては、預言者ムハンマドの無謬性については合意が存在するが、ムハンマドの没後については見解が分かれている。スンナ派法学は、「私のウンマは誤謬において合意することはない」とのハディースに基づき、ウンマの総意(イジュマー)は無謬とされ、イジュマーはイスラーム法のクルアーン、ハディースに次ぐ第三法源となる。他方、シーア派は、預言者ムハンマドの後継者に指名したイマームが預言者ムハンマドの無謬性を継承したものと考える。

つまりキリスト教の教皇とシーア派のイマームが共に無謬の教主であるのに対して、その総意において無謬である、との意味にいて、キリスト教の教会の概念とスンナ派イスラムのウンマの概念は、真理の護持者としての共同体という性格において共通性を有している。

確かにキリスト教の教会とスンナ派のウンマは、共に無謬の共同体である点においては類似しているが、実は似て非なるものである。キリスト教の「教会」は「地の国」が混じることでより善人に紛れて悪人が入り込んでいるため、地上の可視的教会が「天の国」と同一視されることはない。しかし、キリスト教には、キリスト教徒になるために資格のある聖職者によって公式に洗礼を施される必要があり、それゆえメンバーシップが明確で外延が定まった可視的教会といったものが成立しうるのに対し、イスラームには誰かをムスリムと認可する資格がある聖職者もいなければ、認可の手続きもなく、それを登録する機関もないため、ウンマにはそもそもメンバーシップもなく、外延もはっきりと定まらないため、可視的ウンマなどという概念そのものがそもそも成立しないのである。

信仰がないのにムスリムを自称する者は、クルアーンの中でも「偽信者たちは獄火の最下層にいる」(クルアーン4章145節)と言われており、預言者ムハンマドの時代にも存在したが、ムハンマドは彼らが表面的にイスラームの規則を守り自分でムスリムを名乗っている以上、獄火の住人である偽信者であっても現世では法的にムスリムとして扱うべきと定めた。

預言者ムハンマドの没後、第4代正統カリフーアリーの時代に、カリフ・アリーを認めないシリア総督ムアーウィヤとの内戦が起き、ムアーウィヤの反乱へのアリーの対応をめぐって、イスラーム史上最初の分派が現れる。罪を犯したムスリムは背教者として処刑すべきである、と考える「聖徒の共同体」ハワーリジュ派である。

ハワーリジュ派はアリーに反旗を翻して粉砕されるが、後にカリフーアリーはその刺客の手で暗殺される。その後、ハワーリジュ派は分裂を繰り返し最終的に殲滅されるが、他宗派を全て異端視し殺害する「過激派」、「テロリスト」、「狂信的カルト」ともいうべきこのハワーリジュ派の出現とそれによるカリフの暗殺というスキャンダルにもかかわらず、イスラームは、正統教義を決める資格のある聖職者制度を設けることもせず、カリフが教学に介入し正統教義を定めるといったことは生じなかった。

つまり、キリスト教の教会に生じたように俗人の上に立つ霊的権威を有する聖職者階級が公式に信徒のメンバーシップの内包と外延を定め、世俗権力が聖職者階級の人事や彼らによる教義の決定に公式に介入する、といった制度は、イスラームのウンマには成立せず、誰がムスリムであるのか、イスラームの正しい教義は何であるか、についての判断は、神の前に一人立つムスリム個々人に委ねられる、とのイスラームの理念は、預言者の高弟たちの時代に早くも生じた内戦と暗殺の混乱にもかかわらず維持されたのである。

イスラーム法学の多数説では、ムスリムになるためには、イスラームの証言法の一般規定に基づき2人の証人の前に「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒なり」と唱えればよく、承認が制度的に認められた聖職者である必要もなく、裁判所など公的機関に届ける必要もない。どこで誰がムスリムになったか、を統括する者も機関も存在しないのである。またハナフィー派の少数説では、多神教徒や無神論者がムスリムになるのは神の唯一性だけを信ずれば十分であり、証言をしなくても、ムスリムの真似をして礼拝をしただけでもムスリムとみなすことができるとされる。インドやチュルク系諸民族の間ではハナフィー派が大多数であるが、彼らの改宗にあたっては、入信のハードルが低いこのハナフィー派の入信規定が有用であったと考えることもできよう。

イスラームは全人口のおよそ8~9割を占める多数派のスンナ派、1~2割のシーア派に大別されるが、シーア派も9割以上を占める12イマーム派、その他ザイド派、イスマーイール派に分かれ、また300万人弱のハワーリジュ派の流れを引くとも言われるイバード派、更にはイスラーム教の一派か否かが曖昧なアラウィー派、ドルーズ派などの分派が存在する。しかしウンマは、その内部で分派が時に殺し合いに至る争いを繰り返しながらも、ついに1000年以上にわたって一度もその内包(教義)と外延(メンバーシップ)を公式に制度化してどれか二つを正統としそれ以外の諸分派を異端として排斥することなく、いわばこの世における「不可視的教会」として存続してきたのである。
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戦場に行った哲学者たち

『私たち、戦争人間について』より

トヨタ戦争

 本来は武器ではないものが、武器として利用されることも珍しくない。

 海外の一部の紛争地域では、しばしば頑丈な日本製のピックアップトラックの後部に重機関銃が積み込まれ、実質的に戦闘車両として利用されている。一九八〇年代のチャド・リビア紛争では、そうした例が多く見られたため「トヨタ戦争」という言葉も生まれたほどである。

 武器・兵器だけでなく、いわゆる土木工事技術もまた、軍事の根幹であるとも言える。陣営を築いたり、橋をかけたり、壕、柵、落とし穴、あるいは地下トンネルを掘ったりするなどの作業は、古代から現代にいたるまで兵士たちの重要な仕事である。

 攻城塔など大型の兵器は、それが必要な場所に来てから製造や組み立てがなされたので、兵士たちにはちょっとした大工仕事も求められた。

 敵との直接的な戦闘をうまくやることが重要なのはもちろんだが、土木工事や大工仕事を手早く効率的にすすめる技術や組織があることは、そのままその軍隊の強さの一部なのである。また、作戦立案のみならず、兵員や物資の輸送計画を正確にたてるためには、「地図」の精度を向上させることも極めて重要になっていった。測量技術や地理情報は、古代から現代にいたるまで、軍事において欠かせないものである。

 第二次大戦中の日本軍の「風船爆弾」は、一見したところ原始的で滑稽なものにも思われるが、実はジェット気流などに関するかなり高度な科学知識に裏打ちされたものであった。各地域の天候がどうであるかという情報もまた、戦闘から災害派遣まで、あらゆる軍事行動において重要となる。

 戦争が気象条件によって大きく影響を受けることは、元寇における「神風」が典型例としてあげられる。日本では、太平洋戦争中にあたる一九四一年から一九四五年までの問、天気予報は機密情報として発表が中断された。

 物理学者で、随筆家としても知られる寺田寅彦は、「戦争と気象学」というエッセーのなかで、戦史の事例をいくつか示しながら、戦争において気象学がいかに重要であるかを語っている。

 寺田寅彦の弟子である中谷宇吉郎も、戦争と無縁ではない。中谷は世界で初めて人工雪の製作に成功し、「雪は天から送られた手紙である」というロマンチックな言葉を残したことでも知られている科学者だ。

 だが中谷は、航空機の翼への着氷に関する研究や、霧を消去する研究なども行った。翼への着氷や霧は、。軍用機の飛行や離着陸に関する極めて重要な問題だからである。軍用機を山頂まで運び、風洞を作って雪を含んだ風を航空機に当てるという実験を行ったという記録も残っている。

戦場に行った哲学者たち

 戦争は「悪」とされている。だが、これまでさまざまな人が、直接的、間接的に戦争にかかわってきた。

 哲学史に名を残している天才の一人に、ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインがいる。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という有名な言葉で終わる『論理哲学論考』の著者として知られている人物だ。そんな彼も、第一次大戦時にオーストリア=ハンガリー帝国軍で任務についている。

 軍隊の仕事といってもさまざまな職種があるが、ウィトゲンシュタインは事務仕事でも後方支援でもなく、戦闘員であった。一九一四年にドイツ軍がベルギーに侵攻すると、ウィトゲンシュタインはすぐに志願し、クラクフの第二砲兵連隊に配属された。彼は当時、二五歳であった。

 彼はそこで探照灯を扱い、観測手としても活躍し、河川で活動する小型砲艦にも乗った。砲兵隊作業所ではエンジニアとしても評価され、後にサノックの第五曲射砲連隊に転出して最前線に送られたときには激戦を体験し、複数の勲章を受けている。

 ウィトゲンシュタインは伍長に昇進した後、士官としての訓練を受けるために砲兵隊士官学校に派遣され、二九歳のときに少尉に任官された。その数ヶ月後にも戦闘に参加し、「金の勇敢章」にも推挙されている。

 彼は、こうした軍務のかたわらで、トルストイの『要約福音書』に夢中になり、信仰について考え、そして二〇世紀を代表する哲学書となる『論理哲学論考』の草稿を準備していたのである。

 『ウィトゲンシュタイン「秘密の日記」--第一次世界大戦と「論理哲学論考」(春秋社)によれば、ウィトゲンシュタインの属していた第二四歩兵師団の兵士の生還率は二〇%程度で、曲射砲連隊所属時のブルシーロフ攻勢も激戦だったので、彼が無事に生還できたことは「一種の奇跡」であるという。

 同じ哲学者としては、「我思う、ゆえに我あり」という言葉で有名な、一七世紀のルネ・デカルトも軍人であった。彼は三十年戦争に従軍している。さらに遡るなら、紀元前のソクラテスも、重装歩兵として幾度かの戦闘を経験している。

 ソクラテス、デカルト、ウィトゲンシュタインという大物哲学者は、いずれも志願して戦場へ向かった。ウィトゲンシュタインにいたっては、両側鼠径ヘルニア、および近視のため、「兵役不適格」とされたにもかかわらず、それでも自ら望んで戦争に行ったのである。

 小泉義之は『兵士デカルト--戦いから祈りへ』(勁草書房)のなかで、戦争に参加した哲学者としてこの三名をあげ、戦争から生還したソクラテスは「いかに善く生きるか」を考え、デカルトは「いかに魂を鍛えるか」を考え、ウィトゲンシュタインは「いかに祈るか」を考えたのだと述べている。

 だが、ここにあげた人々のなかに、戦争や軍事を哲学の主題としたり、自らの戦争への関わりを後悔・反省したりするような文言を残した者はいない。

 人間やこの世の真理を探求しようとする哲学者が、しかも戦争を経験した哲学者白身が、

 直接的には戦争についてほとんど考察を深めておらず、具体的な反戦運動をした形跡もない

 というのは、現代の平和主義者の方々からすると少々不可解なのではないだろうか。
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私が死ぬということ 「無」という名の有

『明るく死ぬための哲学』より 私が死ぬということ 「死」より重要な問題はない

ここで、あらためて「無」について考察してみよう。「無」という言葉によって、われわれはそのつど明晰に何かを理解しているかのようであるが、そうではない。「この部屋には猫がいない」という意味ははっきりしているようである。しかし、この部屋にはテーブルとか椅子とかパソコンとか冷蔵庫とか……さまざまな「存在する」ものがあるだけであり、それに加えて「否定的猫」がいるわけではない。さらに、私が「この部屋には猫がいない」と判断することは、「この部屋には恐竜がいない」と判断することとは別である。私は「猫がいない」ということによって、「恐竜がいない」ということとは異なったことを言いたいのだ。だが、この部屋に「ある」ものを網羅的に挙げてみても、「猫がいない」ことと「恐竜がいない」ことの違いはそこからは出てこない。別の言い方をすれば、この部屋の写真を撮っても、「猫がいない」風景」と「恐竜がいない」風景しという異なった風景が撮られるわけではない。完全に同じ風景なのである。

「否定」は世界に起こる物理現象ではない。それは(そう言うしかないからそう言うにすぎないのだが)「意識」において起こることである。「ここには猫がいない」と判断する人(意識)Aは、「ここには恐竜がいない」と言いたいのではない。両者とも物理現象として「ない」点では同じだが、Aにとっては雲泥の差がある。ここで、「意識」と言うと心理学的事態を想像しがちであり、心理学的事態もまた世界内で(大脳内で?)起こることであるから、むしろ「言語」と言おう。私が言語を学ぶと、私はなぜか世界を「存在と無」という対立でとらえるようになるのだ。そして、さまざまな「無」を語るようになる。「俺には、金もなく、地位もなく、恋人もなく、生きる希望もない」というように。

こういう判断を下すとき、私は何をしているのであろうか? いろいろ答えられる。ヒュームにならって答えれば、私はまず「金」を思い浮かべて、次にそれを消去する。同様に、「地位」を「恋人」を「生きる希望」を思い浮かべて、次にそれらを消去するのだ。つまり、否定としての無は肯定を立てそれを消去するという二重の操作によって、成立する。すぐに気づくことだが、ここには「時間」が、そして「記憶」が関係している。時間がなければ、「まずX、次にY」という操作はできないであろうし、時間があっても記憶がなければ、「まずX」と言った瞬間にすべてを忘れてしまうなら、「次にY」と言っても、XとYとの関係を付けることはできないであろう。われわれは「時間における存在と無」を根源的に知っていて、それに乗っかって二重の操作をしている。あるとき(t1)に猫を思い浮かべて、次のあるとき(t2)にそれを消去するとき、「さっき(t1で)存在していた猫がいま(t2)消えた(無に転じた)」と自然に言えるのだ。

すなわち、「あった」というあり方は、はじめから存在とその否定とを含んでいる。「さっきここに猫がいた」という判断は「さっきここに猫がいた」ことと「いまここに猫がいない」ことの両方を語っている。しかし、このことを忘れて、われわれはおうおうにして「いま何かがない」という否定的判断それ自体がある状態を直接表現していると考えてしまう。「いまここに猫がいない」と語るとき、「いまここに『猫がいない』という状態がある」という主張をしているのだ、という錯覚に陥ってしまうのである。

以上のことは、心の状態のほうがわかりやすいであろう。「私は悲しかった」という判断は「さっき私は悲しかった」ことと「いま私は悲しくない」ことの両方を語っている。しかし私が「いま私は悲しくない」と語るとき「いま『私は悲しくない』という心の状態が生じている」という判断を下しているかのような気がしてくる。このことは、「いまここには何もない」と語るときですらそうである。この場合、「さっきここに何かがあった」ことと「いまここには何もない」ことの両方を語っているのであるが、そのすべてを忘れて、ただ「いまここには『何もない』という状態がある」すなわち、「無がある」という根源的判断を下しているのだと錯覚してしまうのである。

時間の一瞬を切り取ってみれば、「何か」(たとえ「空虚」であっても)が「ある」だけなのであり、そこに無はない。それなのに、言語を学んだわれわれは「無」をはじめから「無がある」こととして理解してしまう。だが、言葉を学んでいない存在者(動物)は、ただ夥しい数の「何かあるもの」に囲まれているだけであって、「無」を、すなわち「無があること」を理解することはできない。

サルトルは「対自」すなわち人間存在は、「無を世界に到来させる存在である」と言ったが、これは正確ではない。むしろ、人間存在ではなく、言語あるいは言語を学んだ人間存在は、「無」ではなく「無という名の有(概念あるいは否定としての有)を世界に到来させる存在」なのである。人間存在といえども、無それ自身を世界に到来させることはできない。無はみずから運動しないばかりではない。無は他のもの(有)によって運動させられ、到来させられることさえできないのだ。もし、無が人間存在によって世界に到来させられうるのであれば、それは人間存在が「無」という言葉を学んだからであり、そのことによって「無」が「無という名の有」に変身したからである。この変身によって、はじめて無は人間存在によって世界に到来させられうる。

こうして、われわれが何ごとかを「ない」とか「無」とか語ったとたんに、語られたものは「無という名の有」に変じてしまう。われわれは「無それ自体」をつかみ損ねてしまい、その抜け殻としての「無という名の有」を手中にしただけであるのに、無それ自体をつかんだつもりになってしまうのだ。同じように、われわれが「死んだら何もなくなる」と呟いたとたんに、語られた内容は「死んだら何もない状態が続く」というふうに変身してしまい、われわれはその「無限に続く無という状態」に対して恐怖を感じるという錯覚に陥ってしまう。これこそ、いかなる科学者も芸術家も文学者も考えない問題ではないだろうか? 哲学者は「ある」と「ない」とにこの世で最も大いなる問題を嗅ぎつけているが、他の分野で知的創造的活動をしている者のほとんどが、このことにこだわらないばかりか気づいてもいないようである。僧侶や宗教家の一部はそれを体験的に知っているかもしれないが、「無」という言葉の問題として知らない。それを精緻に語ることのできる僧侶や宗教家は同時に哲学者である。

「無」について考え尽くした(西洋)哲学者はヘーゲルであろう。若いころからヘーゲルは私にとってずっと嫌いな哲学者であったが、最近、年を取ったのか(?)ヘーゲルが身に沁みて「わかる」ようになってきた。まさに、彼は概念によって世界を(神さえ)語り尽くすことができると確信し、それを企てた。それは、「無」こそ世界の根幹を成しているという主張に基づいているが、それは厳密には無ではなく肯定性の否定性であり、これを無と区別するために「不在」と言うことができよう。

実在のレベルでは「存在」と「無」とはまったく異なった事態であるのに、概念(言葉)のレベルでは、両者は互いに区別できないほど似かよっている、いや同一でさえある。ヘーゲルの『論理学』はこの確認から出発している。しかし、これは数々の違和感をもたらす。私が「生きている」ことと「生きていない(死んでいる)」ことは、恐ろしく違う。だが、こう言語で表現してしまうと、あたかも同一の「私」という言葉が意味するものが、ただ「生きている」か「死んでいる」か、という差異に帰着してしまうように思われるのだ。そして、「私」は死んだ後にも「無」という状態の主体になってしまう。「私」は死後ずっと無であり続けるわけである。しかし、死とはそもそも主語(主体)としての「私」それ自体がなくなることではないのか?

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スマホで私の世界を描く

スマホで私の世界を描く

 このスマホを使えば、活用が出来ます。自分が作り上げる世界を描ける。ついでにToDoリストも入れ込みましょう。

 この時期にスマホを手に入れた意味はこのためだったんですね。このスマホの意味が分かりかけている。ついでにFBも。それでデカルトのような、生活に対しての謙虚さをスケジュールにいれる。

 スマホで中日劇場いくちゃんレミゼのチケット情報を見ていた。オークションで買えるんだ? お金はないけど!

 本棚システムのインフラはこの上に作り上げよう。そのために存在しているんでしょう。

キーとしてのブログ

 本当のシステムを作るためのインデックスですね。キーとなるのはブログですかね。

 コンテンツはブログでも見れるようにしている。この最近のインデックスは触っていないけど。

書き起こしが出来ていない

 書き起こしは9/6以来です。何という怠慢。木曜日の玲子さんとの会話で停まっています。

 夜10時からの時間は決めたのに。スマホの時間に切り替えましょう。自己管理しかないでしょう。奥さんの言うとおり、誰からも何も言われていない。私の世界の物語。

腕の痕

 腕の痕がすごいことになっている。傷が治らないというか、痕が残ったままになっている。こうなったら、長袖です。隠してしまえば、なかったことになります。その内、どうにかなるでしょう。

本棚システムを未唯宇宙につなげる

 本棚システムを未唯宇宙につなげましょう。知の入口はスマホで作ります。現有のアプリでつなげればスマートになるし、入りやすくなります。
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