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未唯への手紙

未唯への手紙

文革とは何か、何が文革で、何が違うのか

2017年09月29日 | 4.歴史
『文化大革命 <造反有理>の現代的地平』より 文革とは何か

文革とは何か、何が文革で、何が違うのか考えてみよう。文革とは災難であり、大きな災禍であったという人がいる。なぜなら、文革中に多くの人が死亡し、あるいは負傷したり、無実の罪を着せられたからだ。一方、文革は人民の盛大な祝祭日であったという人もいる。なぜなら、文革中に人々はわずかな時間ながらも言論の自由と結社の自由士旱受し、特権階級を批判する権利を手にしたからだ。私は前者の観点に賛成するが、その論拠は中国の統治階級のエリートとは異なる。彼らは、自分たちが文革中に苦労を味わい、ひどい目にあったので文革は災難だと考えているが、私がさらに重要だと考えているのは、幾千幾万の中国の民衆があらゆる苦しみを経験し、すべての民族に災難をもたらしたからだ。以下、簡単に十の事例を挙げて、文革中に何が起きたのかを説明しよう。

ひとつは、大学入試の取り消しである。一九六六年六月、中央政府は大学入試を取り消す命令を下し、大学生と中高生は授業を受けずに革命に加わった。中国で入試による大学入学が復活したのは一九七七年末のことだ。

二点目は、大批判大会とつるし上げ大会である。学生たちといわゆる革命大衆は、校長、教師、学者、芸術家、作家、官僚を公の場で謎責して辱め、彼らは反革命の修正主義分子と呼ばれた。言うまでもなく、例えば、地主、富農、右派分子などの伝統的な階級の敵は、さらにひどい迫害を受けた。

三点目は、個人崇拝である。毛沢東は「偉大な指導者、偉大なリーダー、偉大な総司令官、偉大な舵取り」と呼ばれ、彼の言葉は「その一言一言が真理であり、その一言は二万語に値する」と考えられ、憲法と法律を超越する威力を有していた。『毛沢東語録』は五十余りの言語に翻訳され、総印刷部数は五十億冊余りに上る。

四点目は、「破四旧」である。いわゆる「破四旧」とは、「旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣」を打破する運動で、「新思想、新文化、新風俗、新習慣」を打ち立てるのだと言明された。学生たちは図書館で略奪し、書籍を燃や・し、教会やモスクをたたき壊し、墓地を破壊するなどした。また彼らは、地主のようないわゆる階級の敵を北京などのあらゆる大都市から追い出した。文化大革命によってもたらされた破壊は、実に驚くべきものだった。一部の統計データによれば、紅衛兵が二九六六年八月に北京で実際にやったことは、千七百名余りを撲殺し、三万世帯余りの家捜しを行い、個人所有の住宅五十二万件余りを没収し、十万人近い人々を北京から追い出したという。

五点目は、血統論である。高級幹部の子弟は一九六六年五月に紅衛兵を結成し、組織は血統論を原則とした。「親が英雄なら息子は好漢。親が反動的なら息子も馬鹿」というのが彼らのスローガンだ。彼らは出身階級が良くないクラスメートを陵辱し、彼らが運動に参加する権利を剥奪した。

六点目は、革命経験大交流である。中央政府の奨励によって、一九六六年夏以降に中国の中高生と大学生であれば、誰でもどこへでも自分の行きたい場所に行けるようになった。「革命経験大交流」によって、飛行機を除くすべての交通機関を無料で利用することができ、訪問先では無料で食事を提供してもらうことができた。無銭旅行に出かけた人は一千万人以上にのぼり、その大多数は北京に行って、毛沢東の謁見を受けたのだ。当時の交通や生産がどれほどひどい状態だったか想像できるだろう。

七点目は、革命模範劇である。文革期間中、中国の八億人が鑑賞できたのはわずか八種類だけのいわゆる革命模範劇だった。それらはすべて毛沢東夫人の江青の指示によって制作され、彼女は「文化大革命の旗手」と称えられていた。

八点目は、イギリス代表処を焼き討ちしたことである。一九六七年八月二十二日、革命運動の大衆はイギリスの駐北京代表処を包囲して強行突入し、攻撃、破壊、略奪、建物や車への放火を行い、イギリスの外交官を侮辱し、殴打した。また同時に、香港でも暴動が発生した。

九点目は、知識青年の下放である。一九六八年末から、千七百万人の中高生が強制的に農村や山間部に追いやられ、革命の再教育を受けた。

十点目は林彪事件である。一九七一年九月十三日、林彪とその妻と息子が中国から逃亡し、飛行機事故によってモンゴルで死亡した。当時の中国共産党規約と中華人民共和国憲法に基づけば、林彪は毛沢東の法定継承者だったので、林彪事件は中国共産党にとって深刻なイデオロギーの危機となった。

文革による最大の破壊は、法治を踏みにじり、人権を侵害し、人を傷つけたととだ。以下、政府機関の発表によれば、不完全な統計データではあるが、文革中に四百二十万人が拘禁と審査を受け、百七十二万人が不正常な死によって命を落とし、十三万人の政治犯が反革命の罪でその場で死刑に処せられた。武闘で死亡した人は二十三万人、障碍が残った人は七百万人余りに及ぶ。

「文革とは何か」を理解するには、以下の問題について考える必要がある。つまり、毛沢東はなぜ文革を発動したのかという点だ。文革の混乱や破壊行為は多くの人にとって、必要なかった。毛沢東は、自らが設立した政党と政権を、大衆を動員して打ち倒し粉砕する必要などなかったのだ。彼が自分の政敵を打倒したいならば、ソ連でスターリンが行ったように、また毛沢東が文革以前に国防部長の彭徳懐元帥を粛清したように、党内の粛清によって目的を達成することが可能だった。


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