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電算センター一設備投資抑制下でも建設-

『トヨタ・グローバル10』より ⇒ 部品表データベースとIBM360・370には遊ばせてもらった。好きなように使っていた。

電算センター建設はトヨタ百年の計

 オイルショックで世の中暗くなった。マイカー自粛、週休2日、ガソリンスタンド休日休業で、いずれの企業も石油と電力10%節減に努力していた。高岡工場事務館では工場電算機の運用を高岡電算課で行っていたが、今後の電算化の在り方を考える機会をオイルショックは与えてくれた。高岡・元町・堤とALC集中管理をしているが、本社にも電算機があり、受注・生産・配車の仕事をしている。デイリーオーダーで細かな指示をして、受注一配車のリードタイム短縮を指向している。電算機は長足の進歩を遂げている。本社と工場に分かれて電算機とシステム要員、さらにオペレーターを置く必要はない。本社・工場電算機の統合計画は水谷聴部長の了承を得て進んでいた。技術部門にあるUNIVACのTSSシステムも飽和状態で、電算センター建設は、事務・技術の電算プロジェクトとして集議書の決裁も下りていた。

 突然政府の総需要抑制のお達しが出て、経理部は設備投資の削減を求めてきた。生産機能会議では設備投資案件の審議が行われた。議長は楠兼敬取締役である。今までの増産投資は中断、新製品切替投資も最少に留める、新型クラウン設備投資50%節減など厳しいものだった。電算センター建設は再検討になった。

 半年や1年遅れても電算センター建設は問題なかろうということだが、それは違うのではないか。「電算センター建設はトヨタ百年の計、遅れることは許されない」と水谷部長に答申した。部長は部品表の電算化を陣頭指揮していて、早期に完成することが技術部門だけでなく会社として極めて重要であるとの認識であった。ただ、単に電算部門の合理化ではないということをトップに理解してもらわねばならない。

電算化二-ズの多様化に対処

 一つは排気ガス規制である。技術部門の総力を挙げて開発に血眼である。50年規制は待ったなし、さらに厳しい53年規制に取り組んでいた。組立ラインで排出ガス対策車の全車両の排気ガスを検査して配車するシステムになっている。米国の規制は抜き取り検査でよいことになっている、日本でも基準値は違うが抜き取り検査でよかった。工程能力が安定していればよいかもしれないが、年々規制値は厳しくなっていく。全数検査で1台も排気ガス不合格車を出さないと決めたのは、世界でトヨタだけであった。恣意的検査になる抜き取り検査よりも全数検査でデータを解析し、エンジン開発部門に迅速にフィードバックする目的もあった。

 二つ目は部品表の活用である。デザイン部門、設計部門でCAD(コンピューター援用設計)が、生産準備部門でCAM(コンピューター援用製造)が急速に進む。それを先取りしなければ企業競争に負けるのではないか。月間100時間を超える超多残業を救うのには電算化以外にはない。1年遅れてもよいという見解が分からない。GMではCADが進んでいる。日産もCADを開発したという情報もある(自動車技術会の日本の自動車技術240選では、生産技術分野で1971年に日産がCAD開発と出ている。トヨタの「かんばん方式」は1960年と記されている)。

 三つ目は特許贋報管理である。留学帰りの先輩が5年前に発足した特許管理部に配属になり、多忙な技術屋をアシストする仕組みが電算機でできないかと言っている。5年間に出願も登録も5倍になった、今後ますます増えるだろうとのこと。本社電算機でできるかどうかは分からないが、電算化ニーズが多様化し、それに対処しなければならないのは確かである。

 水谷部長は部課長会で一人ずつ意見を聞いた。2人の課長を除いて全員が会社の意向なら延期やむなしであった。技術電算室も1年遅れても構わないと言う。「トヨタ百年の計」は四面楚歌だが電算部担当役員の松尾易一常務は総合企画室、購買部門も担当していて、「そう信ずるなら生産管理関係役員を説得しろ」とのこと。

 水谷部長は徹夜でA3判用紙1枚の「電算センター新築について」を書き上げた。取り上げた理由、現状の解析、対策、費用と効果、残された問題と将来計画、完璧なQCストーリーである。楷書体で体言止め、重要なところは太い文字、パツと見ればパツと分かる芸術作品でもある。部長はデミング賞受賞時、生産管理部で洗礼を受けている。実情説明書も書いている。資料も説明も抜群にうまい。棄議書とA3判1枚を持ち関係部署を回った。最後は大野耐一専務、以前「電算機が心臓とはけしがらん、盲腸になれ」と宣ったが、水谷部長には歩合会議の資料とデミング賞受賞時の資料作りで世話をかけた。元部下の説明を聞いて、黙ってA3判資料に黒々とサインをしてくれたとのこと。

半年の突貫工事で電算センターが完成

 決裁は下りた、松尾常務に建設場所を相談したら、社長の専権事項であるとのこと。秘書から質問が何回も下りてきた。一番吃驚したのは「電算センターが破壊されたら給与計算はできるのか」だった。電気が止まる、回線切れなどは想定内だがバッチ処理(入力データを一定期間に一定量まとめてから処理する方式)のバックアップは想定外であった。労働争議の頃「人員整理のときは組合の同意を要する」との労働協約を盾に、組合は裁判所に提訴した。弁護士は社長の直筆の署名がないから無効と喜んだ。それを聞いた豊田英二取締役は「会社は協約を守ると決めた。署名がないからと言うのではペテンにかけたと言われたらどうするのか」と疑問を呈した。組合員のことを考えるのは昔からだったかもしれない。豊田英二社長が決めた土地は本社工場内で門衛の詰め所の近く、消防自動車が常駐する所の南側であり、テロ対策に腐心した決断であった。

 地下1階、地上4階建てのビルは、オフィス部分を除き窓の少ない建物になった。それはよいとしても購買部のゼネコンとの価格交渉は難航した。最後は松尾常務自ら交渉していた。交渉が済んでやれやれと思ったら、今度は建築営繕課が材質、工程の見直しをしている。外壁はコンクリート打ちっぱなし、空調設計は内製とか費用逓減を交渉していた。工場電算機は夏休みでないと切り替えが難しい。半年の昼夜兼行の突貫工事で電算センターは完成した。技術電算室、本社電算室の電算機設置、高岡工場電算機の移転とALC回線切り替えも済んだ。統合は完了して組織も新電算部となり、6課、20係、300人の大所帯となった。外壁は美観を損ねるにしても問題はないが、空調の音が大きいとクレームが出た。たかが空調とはいえ設計にはノウハウがいる。内製化は建築営繕課の設計能力向上には寄与した。誰が上申したのか分からないが、電算センター玄関前に豊田章一郎副社長の「会社が苦しいとき、将来を考えて電算センタービルを建設した」という表示板が掲げられた。

 狂乱物価で資材は高騰、2回にわたり車の値上げをした。国内総市場は前期比50%減であり、1974年1月から3月まで減産した。営業利益は前期の17%になった。高度成長期から低成長期に転換する時、よくも電算センターを建てたものだと、今さらながら思う。

 統合後、将来の長期電算化ビジョンを描くように水谷部長から指示が出た。会社では忙しい、自宅で話を聞きたいとのこと。お宅にお邪魔して説明した。部品表のシステムが完成したら、技術部門の情報システム構築が喫緊の課題だと言った。「技術部門はアンチIBMではないか」「そうかもしれないが、会社の将来を考えれば効率的なシステム設計ができる機種の方がよい」「事務も技術もIBMではいろいろ言われるな」「事務系は工場ALC含めて国産機でもできる。技術系のCAD・CAMはIBMにすべきでしょう」

 排気ガス規制で技術部門は青息吐息、それを乗り切っても、10車種もある乗用車のFF(フロントエンジン、フロント駆動)化で技術部門は多くの残業を強いられている。CAD・CAMは工数低減だけでなく、開発のリードタイム(デザイン~設計~生産準備~製造)も短縮できる。一石二鳥との理解は深まった。

 1978年に根本正夫常務が電算部担当になった。部会では電算用語が難し過ぎる、100%正確でなくても分かってもらえる工夫をしてもらいたいと言われた。電算部の関係部署はお客さん、資料の作り方、説明に気配りをしてほしい。もう一つ、来年から部課長対象に経営管理能力向上プログラムが始まる。部課長方針から重要なテーマを登録して2年間切磋琢磨することになった。その積もりで準備してほしい。
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