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壁、われわれと他者

『地図で見る中国ハンドブック』より

壁、われわれと他者

 中国的空間は視覚をさえぎるもの(ついたて、幕)と壁(北京の胡同、紫禁城、北京皇城、万里の長城)で構成されている。それは中立、同等、同形のものではない。それは個人、家族、コミュニティ、民族を区別する手段である。社会から介入してくる規範の圧力に直面すると、自立や私生活を主張するのはむすかしいが、中国的空間は、それに対して自由でいられる手段をあたえる。

伝統的な家

 家庭空間は人間関係のきわめて序列化された概念を反映している。伝統的な家のなかでは、それぞれが社会的・空間的な場所をもっている。中国北部の、方形の中庭のある家(四合院)には、家を隠す壁があり、公共空間と接続する部分で家を特色のないものにしている。ファサードという考え方はそこにはない。開口部は内部に向けた光の井戸であって、外部に面した窓ではないのである。視覚をさえぎるもの(幕、石、壁)が入口の扉の後に置かれ、家族にとってのよそ者を受け入れる庭に行くためには、それをよけて通らなければならない。次に、家族の豊かさに応じて、別棟や居間のある中庭がいくつか続くこともある。それは応接の場と、もっと内部の私的空間とを対置させるものであり、選別的・段階的に私的空間に近づくよう派生したのかもしれない。家族は年齢や性別によって配置されている。次男の庭の次に、奥まったもっとも近づきにくい庭がある。それは家長夫婦のための庭である。長男が自分の中庭をもたない場合は、家長夫妻のすぐそばに長男家族がいる。

境界としての万里の長城

 同様のやり方で、万里の長城は漢民族の世界と「蛮族」の世界の境界を示している。その高さによって、北方民族の侵入に対する物理的な障壁の役割を果たしていたにちがいない。しかし、その役割はかなり象徴的なものであり、ところどころにある門は、民族同士が接触したり交易したりする場であり、また争う場でもあった。

 万里の長城は歴史のなかで建てられたさまざまな城壁からなっている。初期のものは紀元前5~3世紀に建てられた。明は15~16世紀に、すでにあったいくつかの城壁のあいだの区間をつなぐよう命じている。そして現在の万里の長城が築かれ、その全長は約3000キロメートルで、潮海から中央アジア付近まで横切る地域の地形とみごとに一致している。

「内」と「外」

 万里の長城はとりわけ政治的な空間の概念を具体化したものだ。場所は対等なものではなく、社会の構造的序列が土地に反映されている。万里の長城のこちら側の土地はたんに中国の境界をなすだけではなく、「われわれ」つまり中国文明の親密な内部領域である「nei (内)」を示し、「他者」つまりよそ者(蛮族)の外部領域である「wai (外)」と対置されている。

 帝国の制度では、こうした階級的な区別がいくつもの段階で存在し、さまざまな身分を識別していた。皇帝は中心を体現し、最初の円(万里の長城によって範囲を定められている)は漢民族をひとつにまとめていた。第2の円は貢ぎ物を納めて中国の優越を認める異邦人であり、それより大きい円は、文明化した世界とまったく無縁の蛮族たち(夷秋)のところまで広がっていた。

 このように中国はごく早い時期から、自国の政治=領土システムのなかで外国人にも位置をあたえていたが、それは決定的に「われわれ」の外の地位をあたえるものであったり、文化の違いをとがめて距離を置いた序列に組み入れたりするものであった。時がたつにつれて(そして世代をへるにつれて)、外国人がそれぞれの身分で漢文明に同化するのは自由にまかせていた。このロジックは、中華人民共和国のなかでの国籍、自治区創設の際、その後、1980年代に沿海地方を(経済的な面で)開放する際にも見られた。沿海地方の開放は地理的にかぎられたものであり、外国にあたえられた場所をふくんでいた。

 かつては世界の中心であり世界そのものだった帝国の、20世紀における大きな変化は、国民国家になったことだ。これからは平等な領土という原則にもとづく近代的な境界線を越えて、隣国と対等に交渉していかなければならない。

人間関係とネットワーク

 内部の中国社会は「内」と[外]の対置によって構成されている。その関係性にはおもに3つのタイプがある。ひとつは血縁関係で、すべてが共有される。もうひとつはフランスの心理学者が空白の関係とよぶような関係である。この関係では相手と無関係で、おたがいに相手を見きわめることができない。最後に、特別な個人間の「関係」(guanxi)は、贈り物とお返しの原理にもとづくネットワークの根源になっている。

 社会的関係は、特別な個人関係によって築かれている。それは「外」を排除する「内」の秩序である。こうした考え方は空白のコミュニケーション手段に頼るのを制限する。他者との接触は相手を特定できない名簿(電話帳、リスト)を使・Jておこなうことはできない。もしある「関係」がわたしを推薦して、わたしに価値や信頼性をあたえ、共通の知人であることを証明してくれなければ、わたしは知らないだれかと接触することができない。「関係」によってわたしは匿名性から脱することができる。「関係」はこのように共通の知人のネットワークによって築かれる。ここでは、関係を築くための名刺のような道具が大きな役割を果たすのは、使用可能なネットワークや、その具体的価値が明らかな場合に限られるc

 社会的関係の基礎にあるのはふたつの考え方、つまり信用(xinyong)と面子(mianzi)である。対話者はわたしを紹介してくれた人を信頼しているので、わたしは対話者の前でその恩恵を受けることができるのである。関係を築くのは、わたしのもともとの関係への信頼を担保としている。もしわたしが約束を守らなければ、わたしは面子を失い、わたしを紹介してくれた人の面子をつぶし、ふたりとも信用を失う。そのかわり、こうしたネットワーク構造のなかでは、接待や贈答が避けがたいものとなる。

 このような構造は、個人に対するコミュニティの重圧となってあらわれがちである。個人は公然と独立を主張することも、ほかと異なる意見を言ったり、私生活を守ったりする自由権を要求することもできない。したがって個人は、なんであれ視線をさえぎるもの(壁、幕など)の決定的な役割で占有空間をととのえることによって間接的に集団から身を守りながら、同時に、行動範囲を広げるためにコミュニティの連帯も動員しようとする。

文化的価値観

 国家は神聖な役割をつとめていた。皇帝はその正当性を天から得ていたのであり、人間の秩序と世界の秩序は一体となっていた。政治家は宗教的活動を認め、そして自分の利益のために用いた。宗教的活動は、時がたつにつれて中国文明の基礎となり、20世紀にはさまざまな運命をたどったとはいえ、つねに現実的意義をもっていた。儒教、道教、仏教という3大宗教にくわえて、家族や共同体のしきたりもある。

 中国の文化的アイデンティティを構成するさまざまな宗教的活動は、人間の多様な欲求にこたえながら、たがいにしりぞけあうことなく調和している。
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中国の課題 中華帝国から中華人民共和国へ

『地図で見る中国ハンドブック』より

大国の課題

 もはや中国は加速度的な変化をとげているだけではない。経済面や政治面で、世界的な大国のひとつにもなった。今後、中国の現状を理解するためには、この大陸国家の国内の課題と、グローバル化し相互依存の関係にある世界のなかでの役割とを、完全に結びつけることが必要となる。ブラジルやインドのようなほかの新興大国よりも明確に、拠点としての存在を示している中国は、世界的規模の商業、財政、外交、軍事の均衡に大きくかかわっている。

 いまでは中国の主役をになう人々の関心もきわめて多様になっている。共産党は依然として専制的で、経済情勢の中心的役割を果たしているが、新しい勢力の出現にも注目すべきである。たとえば中国の大企業

 内陸の大都市、中間層の台頭や最新の通信技術の発展とともに表面化してきた世論、過激で暴力的な反対派の台頭、そして世界にちらばるさまざまな層の華僑が占める地位などだ。中国はつい最近まで範囲をきっちりと限定された開放区によって保護されていたが、今日ではグローバル化のプロセスやそのロジック、脅威に全面的にさらされている。このように中国は、国内の矛盾や国外の影響を反映して、かつてないほど多元的になっている。

新興国の社会的矛盾

 近年、30年にわたる中国の改革によってもたらされた変化が、ふたつの動きによって明らかになった。

 2000年代末は、世界的な金融危機と、毎年10パーセントを超えていた成長が終わりを告げた時期でもあったことから、一大転機を画した。それ以後は社会・経済・環境の問題が最重要なものとなったのである。それはもはや毛沢東主義の破綻からくる問題ではなく、改革そのものの問題だった。「改革以後」の中国はいま、不平等や社会の欲求不満、当局の営利主義、地域格差、環境破壊、そしてあらゆる代価を払っての経済成長から生じた公衆衛生上のリスクに対応しなければならなくなっている。経済成長は1970年代末に、政府が政権を維持するために国民とかわした暗黙の合意であった。もうひとつの動きは、国家の都市化にあらわれている。フランスのある社会学者[アンリ・マンドラ]が論じたような「農民の終焉」とまでは言えないにしても(絶対的価値観に照らせば、とてもそれどころではない)、中国の多くは都会的になった。いまでは発展戦略と近代性の価値観が都市社会から展開されている。都市の中間層は、所有権の取得や経済活動の第3次化、若い世代の職能向上とともに、個性を示すようになっている。こうした人々はいまや不動産や余暇、健康の権利、法的要求の表明など、具体的な利益を主張している。現政権とのあらたなバランスの種が芽吹きつつあり、現政府の利益となるように展開されている「調和のとれた」社会というスローガンや、腐敗幹部の表向きの追求では満足しないだろう。

領土の緊張関係と地域の統合

 中国の最大の課題は長期にわたるものでもある。領土の広大さは発展の不均衡をもたらし、改革がそれをいっそう悪化させた。沿岸地方は当初、鄧小平の決然とした選択の恩恵を受けて発展の拠点となり、その後は発展を地方に広げていくことになった。しかし中国政府は、人口密度も民族もさまざまで、発展のしかたもまちまちである地域を、あらためて全国的に統合する手段をすぐに講じなければならなかった。1990年代から大規模な国土整備計画が実施され、大河川である長江での三峡ダムの建造や、西部開発政策が開始される。2000年代になると、高速鉄道のインフラや、全国レベルの大都市建設に重点が移った。

 現在の中国の地域構成は、地域的規模と大陸的規模を考慮に入れたものになっている。それは近隣諸国との結びつきができたおかげであり、とくに連雲港の沿岸から口ッテルダムやアントウェルペンまで、カザフスタンやロシア、ドイツを経由する大陸横断路線ができたことによるものである。このように中国は、陸のシルクロードをふたたび作りなおして、マラッカ海峡をとおる海路に依存せずに商品輸送ができる手段を得ようとしている。

経済成長から世界の主役へ

 中国の影響力はけたちがいになっている。貿易の飛躍的発展、地政学的な立場、現在の財政力、軍事力の近代化などのおかげで、急速にアジアの中心的な位置を占めるようになった。日本やインドはこれほどそろった切り札をもってはいない。

 経済成長に欠かすことのできない鉱物資源やエネルギー資源の探求、さまざまな部門での市場の独占、産業への投資や買収、そしてふたたび活発化しているアジア大陸から世界各国への移動の波などによって、中国はここ15年間で世界の大国として認められるようになった。外交的な、そしてときには軍事力による国際問題への関与には、文化の伝播という戦略もともなっている。その最たるものが中国語と中国文化を教える孔子学院である。

 このように中国は「ハードパワー」でも「ソフトパワー」でも、経済大国のあらゆる属性をそなえている。決定的なパートナーとなった中国は、ほかのどの国よりも「南北問題」という解釈をうち破っている。だからこそ、変化しながらわれわれも変化させ、われわれの将来に全面的に関与しているのである。

中華帝国から…

 紀元前3世紀から紀元後19世紀まで幅をきかせていたのは、帝国を世界全体とみなす考え方である。中国は文化や宇宙論だけでなく政治によっても、統一的理想を支えていた。次々に領土を統治下に組み入れてきた中国は、アジア世界の中心を占めるようになった。しかしアヘン戦争のあとに作り出された西洋とのあらたな勢力関係は、中国の初期のグローバリゼーションを終結させた。

皇帝が築いたもの

 帝国は紀元前221年に始皇帝によって築かれたが、帝国のイデオロギーが確立するのは漢王朝の時代である。それは天命(tianming)という宇宙論的な法制と、中央集権的な全体主義、法家の刑罰の厳格さ、儒教の倫理、道教の観念を統合したものである。

 中国の政治は神聖な任務をつとめていた。社会的秩序と宇宙の秩序を同一視し、皇帝を天と人の配置の中心に置いていた。唐の時代にはおもな3つの宗教的活動(儒教、道教、仏教)が識別され、地方の信仰や、家族による祖先崇拝も認められていた。

 中国の王朝は文官を養成するシステムをしだいに確立した。隋の時代からは科挙という官吏登用試験が実施され、清朝末期に廃止されるまで1300年以上続いた。

 仏教も、元や清といったモンゴルや満州の王朝も、イスラム教や産業革命前のヨーロッパとの接触も、中国の帝政を変えることはなかった。

西洋の脅威

 第1次アヘン戦争は決定的な時代の幕開けとなった。人口急増ですでに弱体化していた帝国は打撃を受け、経済的・社会的・政治的危機におちいった。そしてテクノロジー、生産性、軍事力が産業革命による革新でまさっていた西洋世界と対決することになる。中国への外国人の入植が増加し、マカオや香港などは植民地の形をとるようになった。植民地化は港や都市の開放となってあらわれ、上海や、現在の武漢や天津で租界がつくられ、急速に都市の大部分を占めるようになった。こうした外国の存在は結局アジアに、ヨーロッパや日本の延長である広大な勢力圏を生み出した。たとえば満州では口シアと日本が競いあい、長江の中・下流域はイギリス、インドシナに隣接する中国南西部はフランスの影響下に入った。中国の現在の国境は、西洋の植民地列強が当時押しつけた境界線上にある。

 租界は1940年代はじめに返還されたが、共産主義政権によれば、「恥辱の世紀」が終わるのは、中華人民共和国が成立した1949年になってからのことである。

中国のグローバル化

 中国はこうして3つの形のグローバル化を受け継いできた。いずれも中国を中心とするが大きく異なっていて、たがいに重なりあい、それぞれに接点がある。

 帝国的概念あるいは中華思想は、中国が宇宙論的中心であり、国家の首都や北部の平原から世界の文化や政治をつかさどるものとみなしている。

 ネットワーク的思想は、とくに広東省や福建省や浙江省のような南部の地域を、組織網によって、東南アジアの19世紀末に誕生した新国家にある華僑共同体や、西洋のチャイナタウンに結びつけている。今日、長江下流域や東北部、さらには中川令体からの大陸移動をあらたに増やしているのは、強力な華僑のネットワークである。

 以後に、沿岸都市によるグローバル化は、主要都市と沿岸をかけあわせた概念である。上海や香港のようにかつての租Wや外国の植民地の後継者であることが多い沿岸の大都市は、中国全体と世界システムを同化させる偏光装置の役割を果たしている。このような世界との同化をになう領土モデルは、じつはすでに古くから存在していたが、近代になってから日立つようになった。

たえまない両構成

 受け継がれた3つのグローバル化の形は、西洋中心のグローバル化によってあやうくなっている。グローバル化し競争原理が働いている世界のなかで、中国はみずからこの3つの概念をたえまなく組み立てなおさなければならなかった。こうした世界のなかでは、国家間の関係は国際的な組織によって規定され、大国はもはや唯一の文化や政治の規準に一致するものではなくなり、アジアにおけるアメリカやロシアがそうであるように、しばしば外部の大国がその地域にかかわろうとする欲求によって複雑になる。

 中国のグローバル化は今後、近隣諸国やパートナー国との外交や貿易のあらたな関係を考慮に入れなければならない。したがって中国の力の再確認はまず、現代の大国とはなにか、そして中国がアジアや世界でどのような位置づけをみずから定めているのかを再定義することからはじまる。

 逆説的になるが、中国と中国社会はグローバル化のなかに、領土や経済や人間を一体化する新たな手段を見いだしているのである。

…中華人民共和国へ

 中華人民共和国の行政区分は長い歴史の延長上にある。地域の編成には手直しがくわえられているが、省や県は明やその前の時代にまでさかのぼることができる。つまり地方の主体性が、中国の広大さとしっかりとつりあっているのである。20世紀には近代化によって中国が国民国家として再定義されることになるが、それは共産主義政権のもとできわめて繊細な行政区分となってあらわれている。
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玲子さんとの2回目のスタバでのおしゃべり

本棚システムのオープン

 グーグルに置いておいて、ユーザー検索を追加すれば、それでオープンできる。そういう意味ではシステムは出来上がっている。やること、やりたいこととつながっています。

玲子さんとの2回目のスタバでのおしゃべり

 スマホを奥さんが選んだ理由。

 新刊書からのDNAの抜き出し。

 グーグルのDocumentの優位性

 YouTubeが勝手にTVに出力される。それに対しての奥さんからのクレーム。

 玲子さんの姪のサチの読書好き

 ギリシャ人街とギリシャ人の個性

 (35分経過)話の途中でのスポイル発生

 紙をなくした図書館システムの構想

 アマゾンのコンテンツ送付システム

 モータースポーツ「無限」の人へのサポートと奥さんのロンドン訪問

 ペテルスブルグの話

 ローマの食事

 (1時間10分経過)博子登場 玲子の症状と発生タイミング

 スマホ購入のいきさつ

 家族は私を無視している

 今のアテネの家には駐車場がある

 コペンハーゲンの図書館のやさしさ

 モトは奥さんにすり寄っている。1280えんのうなぎ。三等分

 博子のスマホとLINE設定しようとしたが失敗。

 アーちゃんはモトになついている

 次が女の子ならナノ(n)という名前

 ドクハラで追い出されようとなったこと

 サチの司書観を変えたい。次はサチも含めたおしゃべり?
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