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伝統的マーケティングからデジタル・マーケティングヘ

『コトラーのマーケティング4.0』より デジタル経済におけるマーケティング4.0

経済協力開発機構(OECD)によると、デジタル・イノベーションは諸国を持続可能な繁栄に近づけることができる。マッキンゼー・アンド・カンパニーは、最も重要な経済的影響を与えたイノベーションのトップ10を選び出している。モバイル・インターネット、知識労働の自動化、モノのインターネット化(loT)、クラウド技術、先進型ロボット、3D(三次元)印刷などだ。これらのデジタル技術は数年前からあったものだが、その影響は、複数の技術の融合によって拡大され、ごく最近、頂点に達した。

これらの技術は、社会的交流(ソーシャル・ネットワーク)だけでなく、小売り(電子商取引)、輸送(自動運転車)、教育(大規模な公開オンライン講座)、医療(電子カルテやパーソナライズされた治療)など、多くの経済分野を発展させる助けになる。だが、デジタル経済を牽引するこれらの技術の多くは、同時に主要産業に打撃を与え、既存の大手企業をうろたえさせている。たとえば、ボーダーズやブロックバスターなどの大手小売企業は、デジタル技術を活用して新規参入した企業によって打撃を受けた。そうした新規参入企業--アマゾンとネットフリックス--は、今ではそれぞれの産業で新たな大手既存企業になっている。興味深いことに、かつて打撃を与えた側の企業でさえ、同じ運命にみまわれかねない。アップルのiTunesは、かつてオンライン音楽販売で実世界のCD小売店に大きな打撃を与えたが、スポティファイとその音楽ストリーミング・サービスというビジネスモデルによって打撃を受けている。アップルにおける音楽販売の売り上げは、二〇〇〇年代初めのピーク以降、低下の道をたどってきた。アップルは二〇一五年半ばに、スポティファイに対抗するため、独自の音楽ストリーミング・サービス、アップル・ミュージックをスタートさせた。

ほとんどの顧客が、新しい破壊的技術に適応し、わくわくすると同時に不安も感じている。たとえば知識労働の自動化は、生産性を向上させているだけでなく、失業の不安ももたらしている。3D印刷は、迅速なイノベーションという点で可能性の世界を大きく広げたが、銃の製造に使われるといったマイナス面もある。

最も重要なジレンマは、おそらくモバイル・インターネットによって生じているものだろう。モバイル・インターネットはピア・ツー・ピア(対等な者どうし)の接続性をもたらし、顧客にパワーを与えて、それまでよりはるかに情報に通じだ賢い顧客にしている。だが、エセックス大学のプルジビルスキとワインスタインの調査によると、携帯電話は人間関係を害するおそれもある。携帯電話は人々の関心を現在の環境からそらすこと、また、もっと広いネットワークとつながることができるという感覚は、すぐそばの他者に共感する能力を妨げやすいことが、この調査で明らかになったのだ。それだけに、デジタル経済に向かう動きが強まるなかで、顧客は自己実現と他者への共感を同時に可能にする完璧な技術の応用を強く求めている。

デジタル経済へのこの移行・適応期間には、マーケターが破壊的技術を予想し、活用するための手引きとなる新しいマーケティング・アプローチが必要だ。マーケターたちは過去六年にわたり、『マーケティング3・O』の続編を求めてきた。『マーケティング3・O』はきわめて広く受け入れられ、二四の言語に翻訳された。われわれは同書で、製品中心のマーケティング(1・O)から顧客中心のマーケティング(2・O)へ、さらには人間中心のマーケティング(3・O)へという大きな変化について論じた。

われわれはここで、マーケティング4・Oを発表したい。マーケティング4・Oとは、企業と顧客のオンライン交流とオフライン交流を一体化させるマーケティング・アプローチである。デジタル経済では、デジタルの交流だけでは不十分だ。それどころか、ますますオンライン化している世界で、オフラインの触れ合いは強力な差別化要因になる。マーケティング4・Oは、スタイルと内容を融合させるものでもある。技術トレンドのめまぐるしい変化のせいで、ブランドがより柔軟に適応することは必要不可欠だが、その一方で、ブランドの本物の個性がかつてないほど重要になっている。ますます透明性が高まる世界では、オーセンティシティ(真正性)が最も貴重な資産となる。さらにマーケティング4・Oは、マシンーツー・マシンの接続性と人工知能(AI)を利用してマーケティングの生産性を向上させ、同時に人間と人間の触れ合いを利用して顧客エングージメントを強化しようとする。

伝統的には、マーケティングはつねにセグメンテーションから始まる。セグメンテーションとは、地理的・人口動態的・心理的・行動的プロフィールにもとづいて、市場を均質な集団に分けることである。セグメンテーションの次には、通常、ターゲティングが行われる。これはセグメントの魅力度やブランドとの相性にもとづいて、ブランドが売り込み対象にするセグメントを選ぶ作業である。セグメンテーションとターゲティングは、どちらもブランド戦略の基本要素である。この二つを行うことで、効率的な資源配分とより明確なポジショニングが可能になり、マーケターは複数のセグメントに、それぞれ差別化されたオファリングを提供しやすくなる。

だが、セグメンテーションとターゲティングは、ブランドと顧客の縦の関係--ハンターと獲物のような関係--を表すものであり、マーケターが顧客の同意なしに行う一方的な決定だ。マーケターがセグメントの境界を定める変数を決定するのであり、顧客の関与は、通常セグメンテーションとターゲティングの前に行われる市場調査で意見を述べることだけである。「ターゲット」であるがゆえに、顧客はともすると、白分たちに向けられたどうでもいいメッセージにずかずかと割り込まれ、わずらわしいと感じる。多くの顧客が、ブランドからの一方的なメッセージを迷惑なものとみなしている。

デジタル経済では、顧客はコミュニティの横のネットワークの中で互いに社会的につながっている。今日、新しいセグメントになっているコミュニティは、従来のセグメントとは異なり、顧客白身が定めた境界の中で顧客によって白然につくられている。顧客コミュニティは迷惑メッセージやどうでもいい広告とは無縁である。それどころか、人間関係に基づいたネットワークは、企業が無理やり割り込もうとしたら、それを撥ねつけるだろう。

顧客コミュニティと効果的に関わるためには、ブランドはパーミション(許可)を求めなければならない。セス・ゴーディンが提唱したパーミション・マーケティングは、マーケティング・メッセージを送る前に顧客の同意を求めるという考えを中心に据えている。だが、パーミションを求めるとき、ブランドは餌をぶらさげたハンターとしてではなく、力になりたいと心から思っている友達として行動しなければならない。フェイスブックの仕組みと同じく、友達申請を「承認する」か「却下する」かの決定権は顧客が握っている。これはブランドと顧客の横の関係をはっきり示している。もちろん、セグメンテーションやターゲティングやポジショニングが顧客にとって透明性の高いものであるならば、企業はそれらの慣行を引き続き行ってもよいだろう
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信頼--社会を支えるベースライン

『大人のための社会科』より

「安心社会」から脱却できない日本

 なぜ日本社会では一般的な信頼が低いのでしょうか。山岸の解釈は、日本は長らく「信頼社会」ではなく、「安心社会」であったからだ、というものです。山岸によれば、「信頼社会」と「安心社会」は似て非なるものです。「安心社会」とは、個人が特定の集団に長期間にわたって関与し、そのことによって集団のメンバーとして認知されるような社会です。はたしてその個人は信用できるのか。このことは集団内部において時間をかけて評価されます。長期の評価を通じて、個人は最終的に所属を認められ、「安心」を得ることができるのです。

 ある意味で、集団内部では相互監視の状態が持続的に続きます。集団内部で信用を失えば、そこに残ることはできません。逆に、集団内部でメンバーとして承認されれば、その後は、「この人は信用できるか」と目を光らせる必要はなくなります。同じ集団に所属しているというだけで、「この人は大丈夫」と思えるからです。

 終身雇用や年功序列といった特徴をもつ日本企業に代表される、いわゆる「日本型組織」は「安心社会」の最たるものでした。しかしながら、そのような日本の「安心社会」にも変化がみられると山岸はいいます。

 社会の流動性がしだいに高まり、一人の個人が一生涯、同じ組織に所属することは必ずしも一般的とはいえなくなっています。組織の側では、所属メンバーを生涯にわたって丸抱えすることが難しくなっていますし、個人の側でも、固定した人間関係に縛られることを忌避するようになっています。

 そうだとすれば、個人は特定集団を離れ、自分で信頼関係を構築しなければならなくなります。特定の集団に所属しているから安心して付き合うのではなく、自分の目で、誰が信頼できるかを判断しなければならないのです。このことは一定のリスクをともなうものの、いったん信頼を構築できれば、どの組織に所属するかにかかわらず、関係を期待することができます。

 もちろん、誰が信頼できるかを見分ける目をもつことは容易ではありません。さまざまな試行錯誤において、ときには痛い経験もすることでしょう。そのような経験を経て、人は独自の「目」をもつようになります。他者の感情や思考を理解し、社会的に適切に行動する能力を社会的知性とよぶならば、そのような「目」は一種の社会的知性にほかなりません。

 ここで興味深い逆説があると、山岸は指摘します。すなわち、「世間の人は信じることができない」と疑ってかかるより、「世の中のたいていの人は信頼できる」と思っているほうが、そのような社会的知性の発展につながるというのです。人を疑ってばかりいると行動は消極的になり、社会的知性の発展のための経験を積むこともできません。これに対し、人を信頼してかかるほうが、試行錯誤はあっても、最終的には人をみる「目」をもてるようになるというのです。

 しばしば契約社会といわれ、人間関係が流動的とされるアメリカが、日本と比べて他者に対する一般的信頼が高いのは、そのような信頼がなければ、新たな関係構築の動きも生じないからでしょう。人はあえて、他者を信頼しようとしているともいえます。これに対し、長らく「安心社会」だった日本では、所属する組織の外部にいる人間に対しては信頼することができません。結果として、「世の中の人は信頼できない」という人が多いのです。

 ある意味で日本社会は、「安心社会」ではなくなりつつある一方、新たな「信頼社会」にはうまく適応できずにいるのかもしれません。多くの人はより「個人主義的」な生き方をしたいと思いつつ、集団を離脱するにはあまりにリスクが高いので、結果として周囲に同調してしまっていると山岸は指摘します。

 このような山岸の解釈がすべて正しいかどうかは、あらためて検証すべきでしょう。とはいえ、社会に対する一般的信頼が決して高いとはいえない日本社会という指摘については、真剣に検討すべき意味がありそうです。

「信頼」とは何か

 「信頼」とはおもしろい概念です。多くの社会科学者が独自の視点から、この概念に切り込んでいます。一例をあげればドイツの社会学者のニクラス・ルーマンです。ルーマンは信頼を「複雑性の縮減」という視点から定義しています。これだけだとややわかりにくいので、もう少し説明しましょう。

 人間を囲む外部環境は複雑です。無数の人々や組織がそれぞれの活動を行い、そのすべてを把握することは不可能です。そのような外部環境を把握してから、自分の行動を決定しようとすれば、いつまで経っても決められない状態が続きます。

 そのような状況に対し、人間はどのように対応するのでしょうか。環境の複雑さを、何とかして減らすしかありません。そこで出てくるのが「信頼」です。この場合の信頼とはある人がなぜそう行動するのか、いちいち考えることなく、「この人はこのように行動するはずだ」と想定できることをさします。もちろん、人間は自由な存在ですから、こちらの想定どおりに行動するとは限りません。とはいえ、まわりのすべての人間について、「この人は予想外の行動をするかもしれない」と疑っていては、社会生活を送ることができません。一定のリスクをともないつつ、人は他人を「信頼」せざるをえないのです。

 このようなルーマンの「信頼」は、きわめて包括的で、抽象度の高い定義でしょう。これに対し、もう少し具体的な水準で信頼を論じる社会科学者たちもいます。たとえば、アメリカの政治学者ロバート・パットナムは、民主主義を支える社会的基盤としての信頼を論じています。彼の場合、とくに「社会関係資本」という概念を用いていることが注目されます。

 世界の各地域のなかで、民主主義がより発展しやすい地域というものがあるのでしょうか。たとえばパットナムは、その著作『民主主義を機能させる』(邦題は『哲学する民主主義』二〇〇一年、原著一九九三年)において、イタリア北部は南部に比べ、統治が効率的に行われていることに着目します。その原因としてパットナムは、北部においては中世以来の水平的な市民どうしの協力関係や、自発的な団体の伝統があることを指摘しています。

 続いてパットナムは『孤独なボウリング』(二〇〇六年、原著二〇〇〇年)において、アメリカにおける自発的団体(アソシエーション)の盛衰について検討しています。背景にあるのは、アメリカの民主主義を支えてきたのは、草の根レペルで社会的目的のために活動する諸団体であるという考え方です。このような諸団体によって培われた人間関係こそが、アメリカ社会の基盤となっているというのです。

 人々が集団を組織し、共通利益を実現することが可能となり、社会全体が効率的に運営されるためには、そのための信頼や規範、ネットワークが欠かせません。このような意昧での「社会関係資本」があればあるほど、人はそれを前提に、自分の判断をすることもできるのです。

 逆にいまやアメリカでは、そのような「社会関係資本」が減少しているのではないかと、パットナムは警鐘を鳴らします。山岸の議論でも、アメリカは一般的信頼が比較的高い社会であると指摘しましたが、そのような信頼を支えていたのは「社会関係資本」の充実であったのかもしれません。日本社会の行方とともに、アメリカ社会の変化にも注目していく必要がありそうです。

 ちなみに、もう∵人名前をあげるとすれば、同じくアメリカの政治学者フランシス・フクヤマです。ペルリンの壁が崩壊した一九八九年、フクヤマは、「歴史の終わり?」という論文を発表しました。この論文でフクヤマは、自由民主主義体制が人類にとっての最終的な政府形態であり、いわば「歴史が終わった」と主張して話題をよびました。

 フクヤマは続いて『信頼』(邦題は『「信」無くば立たず』一九九六年、原著一九九五年)というタイトルの本を書きます。パットナムが民主主義の基盤としての「社会関係資本」を重視したとすれば、フクヤマは資本主義が発展する鍵として「信頼」の存在の有無に着目したといえます。言い換えれば、信頼に富んだ社会ほど、資本主義が発展する可能性をもっているというわけです。フクヤマにすれば、今日において重要なのは、自由民主主義か社会主義かという体制選択よりは、むしろ社会における信頼の有無であるというわけでしょう。「信頼」への注目は、冷戦の終焉が社会科学にも影響を与えた一例なのかもしれません。
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資料のデジタル化

『専門図書館の役割としごと』より 情報の編集と資料のデジタル化 ⇒ 未唯空間の他者への公開の参考にする

資料のデジタル化

 資料管理方法の変遷

  かつて、コンピュータが普及していない時代は、紙媒体によるファイリング管理が成されていた。やがて1970年代に入り、オンライン情報検索が実施されるようになると、紙媒体の報告書を光ディスクに記憶させる文書管理システムの利用が進んだ。光ディスクとは、主として文書、図面、写真等の画像(イメージ)情報の保管・保存を目的に、情報の読み取り、登録、記録、検索、複写を行うシステムである。こうした動きが、社内情報データベース構築の始まりと言える。
  このようにデータを光ディスクに蓄積し、データベースを構築する手法を、光ファイリングシステムあるいは光ファイルという。現在では、デジタル化か容易になったため、すでに使用されなくなっている。光ディスクに読み取る方式は、イメージ情報として記録されるため、別途、その画像情報の書誌情。報を作成して検索対象とする必要があった。なぜなら、当時はまだ報告書のコンテンツを直接検索できなかったからである。
  また、光ファイリングシステムのようなシステムを導入しないまでも、紙媒体の文書をデジタル化して、コンピュータで編集可能とする手法としてOCR(Optical Character Recognition : 光学的文字認識、以下、OCR)がある。OCRはスキャニングによって画像として読み取った文字を解析し、テキストデータに変換する処理のことであり、紙媒体の文書をデジタル化する簡便な方法して使われてきた。現在でも、短い紙資料を簡便に読み取らせるために利用されている。ただし、手書きの文字は正しく解析できないなど、OCRで処理できない場合もある。
  その後、コンピュータやネットワークの革新により、現代では、データや文書を最初からデジタル情報として作成・保管できるため、その収集・加工・編集は格段に容易になったと言える。今後の課題は、いかにしてそれらを加工・編集して戦略的な知恵にまで高められるかであり、そのためにはこれまで以上に情報に付加価値を付けることが要求される。

 デジタル化の目的

  ここでは、まず資料のデジタル化を行う目的についてまとめる。

  ①利活用の推進

   紙媒体で作成された資料を、誰もが必要な時に利用できるようにするためである。現代のような高度情報化社会においては、情報は当初からデジタル情報として作成(ボーンデジタル)されることが多いため、それらと同じネットワーク上で公開されれば、合わせて利用することができる。また、歴史的に貴重な資料類が多く保存されている場合は、倉庫に眠ったままにしておくよりも、デジタル化して現在の社員に広く公開するほうが、事業活動の推進に貢献できると考えられる。ただし、企業図書館など著作権法第31条に該当しない図書館では、アーカイブのための複製は認められていないため、注意が必要である。

  ②ネットワーク上でのコミュニケーションの実現

   ネットワーク化された環境のもとで、人々がコミュニケーションを行うためである。今日、親機関である企業はグローバルに活動しており、世界に点在する各部門とのやり取りは日常的になりつつある。そうした状況下では、時と場所を問わず、共通言語によっていつでもどこからでも情報の交換ができなければならない。

  ③原本の保存

   原資料自体が貴重である場合には、原本の保存のためにデジタル化を行うこともある。これは特に、美術館や博物館などに附設されている専門図書館などで求められており、保存のために継続的にデジタル化か進められている。ただし、①同様、著作権法第31条に該当しない図書館では注意が必要である。

 デジタル化の意義

  続いて、紙媒体の文書等をデジタル化することの意義についてまとめる。

  ①利活用の拡大

   紙媒体で保存されている限り、古くなるほど誰も見ようとしなくなり、まして利活用することはほとんどなくなる。デジタル化しネットワーク上で公開することによって、多くの人が利用できるようになる。

  ②保管スペース・コストの削減

   長年の間に、組織には膨大な分量の印刷版資料が蓄積され、非常に多くのスベースを占有することがある。印刷版資料の作成にかかるコスト(用紙代、印刷代、印刷機器代など)や保管スペースにかかるコストは、相当な金額に上る。デジタル化により、保管スベースやコストを大幅に削減することが可能となる。

  ③検索性の向上

   文書類の保管は、どれほど慎重に行っても必ずミスが生じる。いったん誤って保管された印刷版資料を探し出すことは、相当な手間と時間を要する。しかし、文書のデジタル化を行えば、ファイルに適切な名前を付けるだけで検索が容易になる。また、文書であればPDFにOCRデータを埋め込むことで、文書内の文字列を検索することも可能である。

  ④文書間の関係性の明瞭化

   文書と文書の関係性を明瞭にできる。たとえば、文書間に引用関係があることを明確にすることで、点在する文書をっなげ、関係づけることができる。

 デジタル化の方法

  デジタル化の方法にはいくつかあり、対象資料と目的に応じて適切な方法を選択することが必要である。また、デジタル化のデータ形式には、テキスト、静止画像、音声、動画などさまざまなものが考えられるが、ここでは一般的に図書館で取り組むことが多い、静止画像の作成方法について説明する。これには、以下の3つの方法がある22)。

  ①フィルム撮影によるデジタル化

   従来からのもっとも一般的な方法であり、以下の②③の方法に比べて、原対象を破損する恐れが少ない方法と言われている。また、中間作成物として、フィルム(通常はマイクロフィルム)が残り、デジタル資料の再作成の際に、原資料に再アクセスする必要がない。この方法は、これらの点がメリットである。
   しかし、撮影とデジタル化の2回の作業を行うために、費用が高くなり作業の負担も大きくなる。さらに、撮影環境、機器やフィルムの種類により出来映えが異なり、不十分なデジタル資料になる心配もある。これらのことがデメリットである。一般には、この方法は原資料が貴重である場合や、デジタル資料を長期的に提供する必要がある場合に適していると言える。

  ②直接スキャンによるデジタル化

   デジタル化の作業が1回で済み、費用が安価であることと、原資料の再現性が高いことなどがメリットである。ただし、撮影時に資料を破損する恐れがあることがデメリットであり、スキャン環境にも配慮が必要である。少量のデジタル資料を比較的安価に提供・公開するような場合に適した方法と言える。

  ③デジタルカメラ撮影によるデジタル化

   この方法も上記②と同様で、作業が1回で済み、比較的安価であること、原資料の再現性が高いことなどがメリットである。また、デメリットも同様で、撮影時に資料を破損する恐れがあり、撮影環境への配慮も必要である。
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豊田市図書館の28冊

373.1『子どもの貧困と教育の無償化』学校現場の実態と財源問題

672.1『日本商業史』商業・流通の発展プロセスをとらえる

410.28『100人の数学者』古代ギリシャから現代まで」

391.1『私たち、戦争人間について』愛と平和主義の限界に関する考察

368.64『男が痴漢になる理由』

369.3『大惨事と情報隠蔽』原発事故、大規模リコールから金融崩壊まで

368.61『拡大自殺』大量殺人・自爆テロ・無理心中

007.6『いちばんやさしいブロックチェーンの教本』人気講師が教える ビットコインを支える仕組み

518.8『ロンドン大火』歴史都市の再建

388.3『【図説】ゲルマン英雄伝説』

675『コトナーのマーケティング4.0』スマートフォン時代の究極放送

216.2『古都の占領』生活史からみる京都 1945-1952

018『専門図書館の役割と仕事』

368.2『入門 貧困論』ささえあう/たすけあう 社会をつくるために

368.2『エキタス 生活苦しいヤツ声あげろ』

369.16『聴く・伝える・共感する技術 便利帖』対人援助の現場で使える

397.21『[証言録]海軍反省会10』

210.6『明治国家と万国対峙』近代日本の形成

289.1『斎藤昌三 書痴の肖像』

312.22『中国はなぜ軍拡を続けるのか』

104『明るく死ぬための哲学』

007.3『インターネットは自由を奪う』--〈無料〉という落とし穴

035『百科全書』

491.37『激情回路--人はなぜ「キレる」のか』

301『大人のための社会科』未来を語るために

131.2『裸足のソクラテス』哲学の祖の実像を追う

316.4『グローバル・ジハードのパラダイム』パリを襲ったテロの起原

361.9『統計は暴走する』
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