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飛騨高山のユニバーサルツーリズムに向けた取り組み

『インバウンド地域創生』より 飛騨高山のユニバーサルツーリズム

ユニバーサルツーリズムという概念は今世紀に入ってから定着しつつある概念であり、その内容は観光庁によれば、「できるだけ多くの人が最大限に旅の楽しみを享受するための観光環境創出のための取り組み」とされている。多くの人が旅の楽しみを享受することは望ましいことであるが、具体的に何をどのように取り組むのかについては、不明瞭な点が多い。一方、飛騨高山は現在、その名を国内外に広く知られる観光都市であるが、歴史的町並みといった観光資源もさることながら、長い間バリアフリーのまちづくりを展開してきたことでも知られている。そのコンセプトは「すべての人を旅へ」とされ。ニバーサルツーリズムの理念と通底したものである。この意味において、飛騨高山のこれまでの地道な取り組みの歴史は。ユニパーサルツーリズムに向けた取り組みの展開過程と捉えることもできる。本章では、飛騨高山のユニバーサルツーリズムに関する取り組みがどのように展開し、どのような効果をもたらしたのかを明らかにする。

飛騨高山においてユニバーサルツーリズムが推進されるようになったきっかけは、1998年、当時の高山市長の年頭あいさつであった。当時、すでに観光産業は高山市の基幹産業の1つと位置付けられ、観光産業の浮沈が市の命運を左右するような状況にあったが、飛騨高山を訪れる観光客は1990年をピークに減少傾向にあった。バブル経済が崩壊し、国内旅行全体が低迷するなかで、国内旅行者の「安・近・短」という旅行志向はますます高まり、交通不便である飛騨高山は苦戦していたのである。

1994年に前市長の急逝を受けて選ばれた土野守市長は、観光活性化に向けた重い課題に頭を悩ませていた。加えて、高齢化問題も喫緊の課題であった。市の高齢化率は国の平均よりも先行し、また加齢に伴い障がいを持つ人が増加していた状況に対して、上野氏は、「市民の誰もが自由にまちに出られるようにしたい」と考えた。旅行市場からの情報収集と分析、市の責任者が集まる勉強会を重ね、観光誘致に向けた課題を発掘していき, 1996年には基本的な方策が固まっていく。同年12月には、全国民的な課題としての超高齢社会への対応、そして「すべての人を旅へ」の理念に沿った障がい者へ配慮する観光政策が最優先テーマとして確定した。このころ、高齢者や障がい者の外出活性化効果も確認されだしており、市は市民の外出環境と観光客の訪問環境の整備は一致するという解答を見いだした。こうして、「住みよい町は行きよい町 バリアフリーのまちづくり」というコンセプトがその後のまちづくりの基本理念となり、1998年1月、土野氏は「バリアフリーのまちづくり」を宣言した。

1996年には早速コンセプトを実行に移すべく、障がい者のモニターツアーを開始した。具体的には、肢体障がいにより移動が困難な方や、視聴覚障がいにより情報を入手することが困難な方、そして言語の違いにより情報を入手するのが困難な外国人に実際に町を歩いてもらい、問題点を指摘してもらうツアーである。これまで500人以上の参加者からの指摘を受け、対応を重ねてきた。森田らの研究によれば、初期のモニターツアーは、主に車椅子利用者や高齢者を対象にしたもので、参加者からの指摘によって道路の段差解消や多目的トイレの設置などが進んだが, 2001年頃からは情報バリア解消のため、視覚・聴覚障がい者を対象としたモニターツアーが実施され、さらに近年では外国人観光客や旅行会社の担当者を対象にしたツアーが実施されるようになった。モニターツアーを通して、旅行者の生の声を収集して市全体で共有し、各担当部局がハード・ソフトの両面からさまざまな取り組みを実施してきた。

2005年3月には「誰にもやさしいまちづくり条例」が制定された。「バリアを取り除くまちづくり」から「バリアを生まないまちづくり」へと視点を換え、ユニバーサルデザインの考え方に基づくまちづくりの方向を示したもので、ハードとソフトの施策に行政、市民、事業者が一体となって取り組むことを定めた。

(1)ハード整備

 まず道路のバリアフリーである。市街地内の道路を歩車共存型道路として整備している。具体的には、段差の解消、歩道のカラー化、車道幅員の縮小、グレーチングの網目変更など、実に細やかな配慮を行っている。さらに、多目的トイレの整備や、公共施設のバリアフリー化などがあり、市民と観光客の双方にとって快適な環境の創出に取り組んできた。予算は乏しかったが、雪が少なかった年には浮いた除雪費を充てたり、市の土木課職員が自ら作業衣姿で汗を流すなどの努力を重ねながら、ハード面での取り組みを着実に進めていった。他方、市がバリアフリーのまちづくりを開始した19%年から車椅子用トイレやリフトの設置、段差解消などの施設整備を開始したホテルなど、市のバックアップの下で民間事業者も着実にハード整備を進めていった。

(2)ソフト施策

 先のモニターツアー自体がソフト施策の1つでもあるが、このモニターツアーで発見された課題に対して、次のような施策が展開されてきた。

 1つは、情報のバリアフリー化である。視覚障がい者に配慮した「点字や音声による観光マップ」、さまざまなお客様を迎えるための事業者の対応の仕方をまとめた「人にやさしいコミュニケーション365日」といった冊子の作成、市のホームページは、音声読み上げ、拡大文字などバリアフリー基準に合わせたものとし、観光情報は日本語を含む12言語で表記するなど、多様な施策が実行されてきた。市の取り組みに呼応するように、2000年には市内事業者が「海外誘客おもてなし365日」を発行した。このなかでは、外国人旅行者の目的や嗜好、予約や食事などのサービス、外国人の生活習慣や簡単なコミュニケーション方法を掲載することで、官民が協力して来訪者をもてなす受け入れ体制の構築を進めてきた。2009年に制定された「高山市おもてなし国際化促進事業補助金」は、市内の事業者が外国人を迎えるにあたっての必要なおもてなしとして、メニューや屋内看板の多言語化を行政が補助するものである。具体的には、多言語化に要した経費の3分の2、上限20万円を補助している。市はその他に、宿泊施設のバリアフリー化やタクシー座席のサポートシート改修などに関する補助、融資制度など、幅広い分野で民間事業者のバリアフリー化を支援している。
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「外の世界」と「自分の世界」

『グローバル時代の「開発を考える』より 「自分の世界」から踏み出してみる

「外の世界」につながるとはどういうことか、そして「自分の世界」を拡げるとはどういうことかについて、少し考えてみましょう。

たとえば、最近、「○○年に一度の大雨」というニュースをたびたび耳にしないでしょうか。地球が温暖化しており、日本でも異常気象が頻発していることは皆さんも聞いたことがあるのではないかと思います。その主な原因として、二酸化炭素(CO2)などの温室効果ガスの排出量の増加が指摘されています。中には日ごろ、エレペーターやエスカレーターではなく階段を使ったり、エアコンの設定温度を守ったりして、節電を心がけている人もいるでしょう。電力の消費を少なくすることで、発電所で燃やされる石炭や天然ガスの量を減らし、CO2の排出が抑えられるというわけです。こうした節電の努力はもちろん大切です。しかし、この地球温暖化の話を、個人でできる日常の範囲内、つまり「自分の世界」の中だけで考えると、エネルギーを大切に使おうとか、こまめに節電しようという話にどうしてもなりがちです。その結果、「外の世界」で何か起きているのかが分からないまま、実はその影響を受けてしまっていることに気づかないことがあります。

実は、2014年の統計によれば、世界全体のCO2の排出量のうち4割以上を、中国とアメリカのたった2カ国が占めているそうです。中国は急速な経済成長を背景にCOJ貸出量が急激に増加している一方、人ロー人当たりの排出量が最大のアメリカは、ドナルド・トランプ氏が大統領になって、温室効果ガスの排出規制を内容とするパリ協定からの離脱を表明しました。もし中国のCO2の排出に歯止めがかからず、アメリカが正式に離脱となれば、C02排出量の削減という国際目標の達成は困難なものとなるでしょう。排出量に歯止めがないわけですから、私たちがいくらこまめに節電しても、実質的に地球環境を守るための行動としてはあまり効果がないことになってしまうのです。

こうした「外の世界」の現実を知るということは、私たちと「外の世界」とのつながりを知ることでもありますが、その時私たちはどのような態度や行動を取ったらよいでしょうか。それは、節電なんかしたって意味がないと投げやりになることではありません。そうではなくて、この事態をまずは冷静に受けとめて、次なる改善策や解決策をあきらめないで考えていこうとすることです。このように「外の世界」の出来事が、「自分の世界」に大きな影響を及ぼすのは、地球温暖化に限ったことではありません。それ以外にどんな出来事があるのかについては、この本の各章でご紹介してきましたが、私たちにとって、これからますます必要となることは、「外の世界」で何か起きているのか、そして、それがどのような影響を「自分の世界」にもたらすことになるのかを想像力を働かせて読み解いていくことではないかと思います。それが「外の世界」とつながるということであり、そのつながりによって生じる問題を解決していくことが「自分の世界」を豊かにしていくことにもつながっていきます。ただし、ここで難しいことは、最初に述べたように、「外の世界」の出来事が「自分の世界」からはなかなか見えづらいということです。

なぜ「外の世界」の出来事が見えづらいのか、図1を使って説明してみましょう。「自分の世界」というものは、「自分」を守ってくれる個室のような空問ですが、自分の成長とともにこの空間も拡がっていきます。まだ歩けない赤ん坊の時はベビーペッドの上が、立って歩けるようになれば家の中が「自分の世界」です。小学生になれば、学校と自宅を囲んだ範囲が「自分の世界」となり、中学・高校・大学へと進み、社会に出て仕事をするようになるにしたがい、自分の行動範囲だけでなく、興味関心も広がっていきます。しかし大人になるにつれ、行動範囲はやがて通勤範囲と重なり、自分の所属する組織や自分の仕事から物事や世の中を見るようになります。こうしてその人の見方や考え方は、ある意味で専門的になっていきますが、同時に、視野が狭くなったり、立場に縛られたり、自分との直接的な関係が見えないことには関心が向かなくなったりして、「自分の世界」はそれ以上には拡大しなくなるのです。こうして固定化された「自分の世界」から見える「外の世界」はいつも同じように見えてしまい、その結果「外の世界」に対して、先人観や固定観念を抱くようになるのです。その。なぜ、外の世界はグローバル化し、どんどん複雑なものになっているので、「自分の世界」がそのまま変わらなければ、「外の世界」との距離はさらに拡がり、ますます見えにくくなってしまうのです。

しかし、「外の世界」が見えにくいと何が問題なのでしょうか。それはたとえば、生きる上での「選択肢が限られる」という問題が考えられそうです。「外の世界」には、地球温暖化のような問題や危険がたくさんある一方で、自分の人生や世界をより豊かにしてくれる可能性やチャンスも広がっています。「外の世界」で起きている問題を解決し、危険を未然に防ぎながら、可能性やチャンスを生かしていくことができれば、自分の選択肢を増やすことにつながるでしょう。逆に言えば、「自分の世界」の中にいるだけでは、生きる上で自分か選び取ることのできる方法やアイデアが限られてしまうということです。

「豊かさ」について考えた第1章で、「豊かさ」とは、自分で自由に選択できることであり、「貧しさ」とは自分で自由に選択できないことだという考え方を紹介しました。たとえば、人は誰でも自分に合った仕事を選ぶためには、自分の適性や可能性をいろいろ試した上で、つまり、選択肢をできるだけたくさん持った上で、自分の意思で進路や仕事を決めることができるとよいと思います。ところが、自分の本当の適性や将来の可能性というものは、意外と自分だけでは分からないことが多いものです。そうだとすれば、「自分はこういう人間なんだ」と決めつける前に、自分を違った環境に置いてみたり、今までやったことのないことに挑戦してみることで、今までとは違う「もうひとりの自分」と出会うことができるようになるかも知れません。いずれにせよ、「外の世界」につながり、「自分の世界」を拡げる機会をできるだけ増やしていくことが大切ではないかと思います。
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国民と国家の関係を変えた日清・日露戦争

『天皇の戦争宝庫』より

国民と国家の関係を変えた日清戦争

 御府の存在が強調されたのは軍国主義が台頭した昭和期だった。修身の授業では御府の由来が教え込まれていた。

  「かしこくも明治天皇は、明治二十八年、日清の役が終ると、この戦役に没したわが忠勇な将兵の英霊を、とこしへに慰めようとの大御心から、特に吹上御苑の南に、一府を御造営あらせられた。これを振天府と御命名、陣没将校の写真を掲げ、将士の姓名を記録し、あはせて、凱旋将士の献上したあまたの戦利品を収めたまうて、その功績をしのばせられ末長く後の世まで伝へようと、はからせられた」(文部省『高等科修身-男子用』一九四四年)

 ただ、一八九九(明治三十二)年三月三十一日の「都新聞」に振天府拝観の初出記事が登場し、同年春以降「急に新聞記事を賑わす」ことになったという事実もある。「宮内省によって記者達に喧伝され始めるのが明治32年」(川瀬由希子「軍人の肖像写真と振天府政策」)だったからだ。

 日本は日清戦争で一時領有した遼東半島を露独仏の三国干渉により返還せざるを得なくなった。「日清戦争が始まり、連戦連勝で国民は有頂天」であったところ、「恐い叔父さんがこう三人も揃って忠告してくれたのだから、我国でもこれは嫌々と言うわけにいかぬ」(生方敏郎『明治大正見聞史』一九二六年)と冷や水を浴びせられた。

  「これによって初めて日本国民は、外交というものの本当の味を覚えたのだ。戦争とは、敵国だけを相手にするのではなく、常に周囲の第三国を計算の中に入れておかねばならぬ。戦争に勝っても、外交に負けるということがある。世の中は思ったよりも複雑な、面倒なものだ。ということを我々は教えられた」(同)

 これに対して「臥薪嘗胆」のスローガンのもと、朝野あげて三国干渉を主導したロシアへの復仇ムードが高まり、日本は軍備拡張路線を突き進んでいく。

 軍事費調達のための地租税増税案が成立したのが一八九八(明治三十一)年であり、「国民の合意を得る方法として、日清戦争での戦勝の共通体験を呼びおこすこと、戦争で負傷・戦没した国民に対する国家の償いを明らかにすることが重視された」(「軍人の肖像写真と振天府政策しという時期だった。

 御府=振天府は「戦勝と兵士の忠誠心を天皇と結びつけるために、戦利品・肖像写真・人名帳を皇室で保管・閲覧する施設」(同)であり、プロパガンダの素材として注目されたのだろう。政策的な「上からの教宣」であり、それが記事の頻出のわりには招魂社ほど人口に檜曳しなかっだ理由かもしれない。

 日本の近代化以降、この日清戦争ほど国民と国家の関係を変えた出来事はなかっだのではないだろうか。生方敏郎は「日清戦争になるまでの私の周囲は、ことごとく反明治新政府の空気に満たされていた」と書いている。西南戦争の際も庶民は圧倒的に西郷びいきであり、「老人連は御一新をただ薩長武士の企てた革命とのみ考えていた」(『明治大正見聞史』)という。

 それが日清戦の勝利で一変した。「国民の悦びは全く有頂天という言葉に相当していた」といい、反政府的な空気は霧のょうに消えていった。明治国家としては、「国民」を初めて統一できた時期であり、国家への忠誠と負担を要求する絶好の機会であった。

 ここで日清戦争の経過を簡単に振り返っておこう。日清戦勃発の要因は一八九〇(明治二十三)年当時に首相を務めた山県有朋が唱えた「利益線」という概念だった。国益上守らなければならない範囲を国土より外に設定することで、日本にとっての利益線は北は朝鮮半島、南は台湾対岸の福建省だった。

 海岸線が長大で国防上は脆弱だった日本列島を守るため、防衛線を外に張り出す発想だ。利益線の概念は軍拡を正当化すると同時に他国領土へ勢力圏を拡大することで戦争を誘発することにもなる。

 一八九四(明治二十七)年二月、朝鮮半島で近代化政策の失敗で疲弊した地方の農民と民衆宗教「東学」による武装蜂起が始まる。朝鮮政府は反乱鎮圧のため清に派兵を要請、清は約千人の軍を派遣した。利益線への清の進出に敏感に反応した日本政府はこれに対抗して約八干人の兵力を朝鮮半島に送った。

 清は日本との戦争を避けたい意向で、両国は撤兵をめぐって交渉を続けた。日本政府は七月、交渉を打ち切り、清と断交することを決定する。戦争は同月下旬の豊島沖海戦で始まった(両国の宣戦布告は八月一日)。海戦と同じころ、日本陸軍は朝鮮国王が住む景福宮を攻撃した。

 日本の世論は「日清の戦争は文野の戦争なり」(時事新報社説)というように、文明=日本、野蛮=清という構図でこの戦争をとらえた。国民は一致して政府と戦争を支持した。

 緒戦の朝鮮・牙山の戦いで清軍を敗走させた日本軍は、九月に平壌を攻略。十月には鴨緑江を渡り、清国内に進攻した。十一月には遼東半島突端の旅順を占領。この際、一般市民を巻き込んだ虐殺事件が起きている。海では九月の黄海海戦で日本海軍が清の北洋艦隊に完勝した。

 翌一八九五(明治二十八)年三月から山口県下関で日本側全権の伊藤博文、陸奥宗光、清国全権の李鴻章との講和協議が行われ、四月十七日に講和条約が調印された。朝鮮の独立承認と遼東半島・台湾の割譲、二億両の賠償金という清にとって苛酷な内容だふた。

 しかし、戦争はここで終わらなかった。台湾では先住民による激しい抵抗があり、日本は約七万六千人(軍夫を含む)を送り込んだ。完全に平定されたのは同年十一月だった。日本軍は約五千三百人の死傷者を出した。台湾側も死者は約一万四千人に上ったが、非戦闘員が無差別に虐殺されたケースが多かったという。

日露戦争の辛勝

 北清事変後、満州から軍を引かないロシアに対し、日本政府内では「満韓交換論」が主流を占めていた。ロシアの満州支配を許容するのと引き換えに、日本の利益線・韓国を確保しようとするものだ。まだ満州は「日本の生命線」ではなかった。

 一九○二(明治三十五)年一月三十日、日英同盟が調印される。イギリスにとって日本を「アジアの番犬」とし、日本にとっては世界帝国のイギリスの威を借ることのできる軍事同盟である。ただ、この時点で日本政府は日露協商の成立も模索しており、必ずしも口シアとの戦争をにらんだ同盟ではなかった。

 北清事変後も満州に居座り続けたロシアは列強各国からも非難を受けたため、同年四月に清と撤兵協約を結ぶ。しかし、十月までの第一次撤兵は行われたが、翌○三年四月上旬が期限の第二次撤兵は行われなかった。

 日本政府にはまだ満韓交換論、日露の協調論があったが、新聞の論調など世論が対露強硬論に転じていく。同年十月の第三次撤兵期限が過ぎてもロシアは動かず、世論は一気に硬化。各新聞は「開戦やむなし」の主戦論を唱え始めた。

 生方敏郎『明治大正見聞史』によると、このころ「毎日のょうに新聞には満州の風雲急なることが繰返し繰返し報ぜられた」という。郷里で落ちぶれて東京で植木屋をしていた生方の伯父までが次のように吹きまくっていた。

  「いやあ、この分ではいよいよ露西亜と戦争になるかなあ。早く戦争をおっ始めて、露西亜軍を敗北させ、セントピタースブルグヘ攻め上って城下の誓いをするがいいんだ。そして西比利亜はどうしても日本のものにしないということは間違ってるよ」

 日露両政府は問題解決の交渉を続けたが、世論の圧力もあり、ときの首相・桂太郎らは戦争の決意を固める。日本が戦争準備を始めるのに呼応して、ロシアも極東の軍備増強を続けた。一九〇四(明治三十七)年二月四日の御前会議で開戦が決し、政府は六日にロシア政府に対して交渉中止と国交断絶を通告する。

 宣戦布告は二月十日に行われたが、戦争は八日の日本陸軍の仁川上陸と旅順港外での日本艦隊のロシア艦隊攻撃で始まった。陸軍は第一-四軍に分かれて朝鮮半島、満州に展開。海軍は旅順港の閉塞作戦を実施した。

 八-九月の遼陽会戦で日本軍がロシア軍に勝利する。一方、八月からの旅順攻囲戦に日本軍は約十三万人を投入。死傷者は約六万人、戦病者約三万人、損耗率七割というおびただしい損害を出した末、翌○五(明治三十八)年一月に旅順のロシア軍を降伏させた。

 三月、日露双方で五十万人以上の兵力が激突した奉天会戦で日本軍はかろうじて勝利を収めたが、これ以上戦争を続ける余力は残っていなかった。五月、日本海軍が日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を全滅させる大勝利を得て、講和の機運が高まる。

 六月にアメリカのルーズベルト大統領が両国に講和を勧告、日露はこれを受け入れた。八月から九月にかけてポーツマスで講和会議が開かれ、九月一日に休戦協定が結ばれた。「日露戦争は、日本軍八万四〇〇〇人、ロシア軍五万人という多くの戦死・戦病死者を出して終わった。両軍の戦死者以外に、それぞれ一四万三〇〇〇人、二二万人という戦傷者もおり、彼らの社会復帰も戦後の課題であった」(原田敬一『日清・日露戦争』二〇〇七年)

 日露戦は日清戦のおよそ六倍強の戦病死者を出した。日本が最初に経験した近代戦であり、無残な大量死を招いた恐怖体験だった。

 旅順攻囲戦では乃木希典率いる司令部の突撃指令で屍の山が築かれた。恐慌をきたした兵士たちの間に、戦場から逃れるための自傷行為が続出したという。しかし、近代戦争の残酷体験は勝利の熱狂のなかで埋没し、戦死者の物語は軍神として語られるだけだった。

 未曾有の人的被害を出した戦争であり、辛勝もしくは引き分けに近い形ながら、国民には「大勝利」と信じられた。当然、振天府、懐遠府に次ぐ第三の御府を造営し、戦利品と戦没将兵の写真・名簿を収納すべきであった。
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イオンの文房具屋

自分一人の世界で前に進むには

 なかなか、起きれない。本当に参ってしまう。戻すのではなく、前に進まないといけないのに。何しろ、自分一人の世界だから。

 武器の総点検をしましょう。その為に、今、中途半端になっているモノは全て、ホールドします。中途半端に囚われない。

未唯空間の第4階層、第5階層

 未唯空間の第4階層、第5階層はもっと、簡単にしないといけない。その上で適切な表現に変えていく。やはり、もう一回、未唯空間から初めて行きましょう。

 そうと決まれば、オアシスとICレコーダーで充分です。だから、拡がりです。そして、最後は自分の世界です。当たり前のことは述べない。宇宙からの見方にしておく。

イオンの文房具屋

 先週オープンしたイオンの3階に文房具屋ができました。ラミーの万年室とかローディア全製品が揃っています。KDMになくて、東急ハンズまで買いに行った横罫9mmもありました。すごい!

 だけど、値段が540円です。ハンズでは450でした。店長みたいな人に聞いてみたら、それが定価ですとのこと。ハンズよりも高い文房具は初めて見た。定価以上という設定もあるんですね。

 品揃いはいいけど、最下段に一番高いものがあるのが、解せない。これでは、モノが確認できない。もったいない。その点ではKDMはよくできていると、感じます。図書館の本も同じだけど、低いところにある本は見えない。そういうときは、座り込んで本を探します。図書館もいい図書館かどうかを棚の工夫で見ています。

 玲子さんはもうちょっと、日本に居るみたいだから、お店を紹介しておきました。ここのレベルの文房具が豊田市でやっていけるとは思えない。壱年後にはかなり変わってしまうでしょう。小学生向けの商品だけに成っていることでしょう。それを歴史学で時空間に展開する。そして、未来学者として、未来に関与する。そんなところですね。

ショッピングモールは消費文化そのもの

 イオンにはタリーズが入っているけど、オープン系になっている。アレではダメです。外の雰囲気と変えないと、サードスペースになり得ない。

 ショッピングモールであれだけの部材を消耗することは正義なのかと思える。消費文化そのものはオワコンになっている。多分、半分くらいは捨てるんでしょう。

 松屋が入っている。200m先の松屋と業態を分けているつもりなんでしょうね。プレミアム牛丼になっている。併存はムリですね。松屋は松屋なんだから。従業員は外の松屋、市民は内の松屋なんですかね。

4つの役割

 なぜ、4つの役割として、数学者、社会学者、歴史学者、未来学者にしたのか。数学で内なる世界を作り上げ、社会学で他者の世界を探り、歴史学者として、歴史で時空間を行き来して、未来学者として、他者の世界に未来志向を入れさせたいのでしょう。

奥さんと未唯の役割

 「私の世界」に奥さんと未唯が居ると言うことは違和感です。これは生活編だから言えることです。そうなると、当然、「私の世界」ではない。彼らの役割は監視なのか、保護なのか、サービスなのか、よく分からない。大いなる意思はどう考えているのか。

 奥さんを見ていて感じるのは、歴史上の奥さんです。モーツァルト、ソクラテス、トルストイの奥さんの類です。モーツァルトだけでは成り立たなかった。奥さんがいることで、モーツァルトのミュージカルが成り立った。20才の生ちゃんがやりきれるかどうか。

未唯空間の項目という名の部位

 未唯空間の腰の部分に番号を振っておきましょう。部品表の部位のように。そうすれば、もっと、散文的になります。他者は存在しないから、知らせる必要はない。有るのは、私の世界のデータベースとの関係だけです。

豊田市の図書館を考える市民の会

 『図書館年鑑2017』の図書館統計・資料編に[豊田市中央図書館への指定管理者制度導入をめぐる要望・陳情等と回答]がありました。

 どうも「豊田市の図書館を考える市民の会」というものができて、豊田市中央図書館への指定管理者制度導入計画の凍結・再検討を求める要望書を、出していたらしい。私を抜きにして、「図書館を考える」ことができるとは思えないけど。

 TRCに対する要望書をTRC発行の年鑑に載せている。指定管理者はTRCで決まって、動き出している。NDCを決めているのもTRC.TRCはDNPの配下にある。図太い会社ですね。
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