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未唯への手紙

未唯への手紙

満洲の特急列車あじあ号

2017年09月30日 | 4.歴史
『満洲の土建王 榊谷仙次郎』より

特急列車あじあ号

 十月二十八日、「大連新京間の特急亜細亜の試運転に招待され、八時に駅に行く。八田副総裁も乗っておられる。八時五十分亜細亜は静かに出発す。引出しの音がしないので、出たか出ないか分からないくらいである。振動もなく乗心地良し。展望車は勿論一等車、二等車椅子も上出来で、布は日本の神戸工場で作ったものを二等だけは使っている。一等は舶来品。沙河口杉浦熊男工場長が昼夜兼行誠心誠意作られただけあって、実に心地良い。木材は外国品を排し、吉林の用材を大部分使用している。価格は外国品の三分の一に当たり、チークは使用せず、機関車ボールベアリングと冷房器だけは遺憾ながら日本品で間に合わず、外国品を使用したのであると、杉浦工場長は苦心の結果を話しておられた。一、二等車の腰掛けレザーは高島屋が請負、大阪住吉工場で出来たとの事。誠に上等である。外国品以上だと言っている。冷房器についていろいろ説明あり、外より空気入れるため内部より綿ネルを以て締め付けられてある。亜細亜の機関車及び客車共に之が製造については随分苦心されたようである。スピードは最少八○キロ、最大一二〇キロ。三等車に乗り込む者を申し込ませた所二〇〇〇人余りの申し込みあり。抽選して六〇人に決めたとの事。十一時四十四分大石橋に着く。奉天着が十三時三十七分、大連、奉天間四時間四七分であった」(日記)

 満鉄が誇る特急「あじあ(亜細亜)」の試乗体験記である。

 今日、満鉄といえば特急「あじあ」。「負」の面だけが強調されがちな、満鉄、いや満洲が生んだ

 「あじあ」は最大のスターと言ってよい。余談になるが、「あじあ」の誕生から満鉄の終焉までを簡単に触れてみたい。

 満鉄が特急列車の建造を社議決定したのは三三年八月二三日、翌年の十一月には早くも試運転にこぎつけた。「あじあ」を牽引する機関車パシナの設計、製造に当たったのは機関車係主任、後に「機関車の神様」と言われる吉野信太郎であった。当時、日本最速の「燕」の平均速度が六六・八キロなのに対して、「あじあ」は八二・五キロと大きく上回り、東洋一のスピードを誇った。そして時代の最先端をゆく流線型のボディである。試運転に試乗した米国の記者団は、満鉄独自に開発したものであることを信じなかった。鉄道後進国の日本に出来るはずがないと思っていたのである。しかし華やかにデビューを飾った特急「あじあ」であったが、四三年二月二十八日に終幕を迎えた。戦況が厳しくなり、貨物輸送の妨げとなるとのことから、関東軍の命令によって運行停止、わずか八年四ヵ月の命であった。

 ちなみに今日、新幹線の生みの親とされている島秀雄(当時、国鉄技師長)の父、安次郎は一九年、「我が鉄道は狭軌にて可なり」という国会議決に署名することを拒否して、鉄道省技監の職を辞し、満鉄に入社、一九年から二三年まで理事とし、広軌高速長距離列車の開発を主導。三九年、東京・下関間の広軌路線を九時間内で走る、通称弾丸列車計画が浮上すると、汽車製造会社の会長の職にあった安次郎は、再び鉄道の現場に戻って、幹線調査会特別委員長に就任するが、戦況の悪化によって計画は頓挫。

 「あじあ」のスピードは満洲の鉄道が広軌であったから実現したことから、安次郎はあくまでも広軌にこだわった。

 秀雄は安次郎の勧めもあって、吉野に会うために四〇、四一年に渡満している。安次郎の信念は息子秀雄に引き継がれ、東海道新幹線(六四年開通)に繋がる。桜木町事件で国鉄を引責辞任していた秀雄を技師長に呼び戻したのは、当時の国鉄総裁、十河信二。満鉄時代は仙谷、内田、林の三代総裁にわたって理事を務めた十河だったが、石原莞爾失脚以来不遇をかこち、戦後は故郷の西條市長を務めていた十河を国鉄総裁に引っ張り出したのは、満鉄時代の同僚、村上義一であったとされている。村上は第三次吉田茂内閣で鉄道大臣を務めた。新幹線が満鉄の技術によって生まれたとは一概には言えないが、鉄道開発に情熱を燃やす人と人との繋がりによって生まれたことだけは間違いない。「人材の満鉄」と言われた社風は後の世にも引き継がれたのである。

 十一月一日、播磨町に建設中の榊谷組本店が落成。大連は前日来の雪交じり大風吹で一日延期したが、天候は回復せず、これ以上延期出来ないことから落成式が強行された。「風吹は昼になっても止まず、僕の気性を表していると、誰かが言っていた。午後二時より来賓続々集まる。三時から余興を始め記念撮影。四時から宴会。案内した人のほとんどが来てくれ、会場は立錐の余地もなかった。八時にようやく終わった」 (日記)

 二十九日、「本年は天候に恵まれず、創立以来の不成績である。請負金額からいえば昭和六年の請負金額は八二万円、七年が一六○万円、八年が一躍七五〇万円、本年はコー○○万円、とんとん拍子に進んで来たのだが、結果において拙かったのは、軍人が強敵に遭って戦死したのと同様である。しかしわれわれは戦死したのではない。多額の教育費を払って実地に体験したのであるから、これを土台として、我々は益々発展しなければならない」 (日記)

 十二月五日、新京で開かれた満洲土建協会主催の座談会で、満洲土建協会と日満土建協会の二本立ては紛らわしいとの意見が多数を占めたことを受けて、日満土建協会を廃止して満洲土建協会一本に改めることになった。その他、請負業の数が多すぎることもふくめて支店、出張所の統合、競争入札を止めて実費請負制度に改めるべきなど意見が出て、土建界そのものの改善が強く求められた。

 大連に戻った榊谷は組員を前にこう語った。「協会の仕事も多忙、組の仕事も多忙だが、私の立場上、どっちかと言えば組を犠牲にしても協会を発展させなければならない。今の協会は二七年に多数の人が反対するにもかかわらず、僕が作って今日まで発展させ、今に続いている。この使命は誰が何と言ってもやり抜かねばならない。万難を排してでも実行する覚悟である」

甘粕正彦

 満洲における特務機関の始まりは、一七年のシベリア出兵に遡る。シペリア派遣軍司令部付となって情報収集、並びに謀略工作を行なった、通称中島機関がその始まりである。任務は「統帥範囲外の軍事外交と情報収集」であることから、その存在も秘匿され、行動が表面化することはほとんどない。機関のトップはもとより陸軍将校だが、配下には軍人だけでなく、民間の日本人もいた。張作霖爆殺、満洲事変勃発、満洲建国に至る一連の関東軍の謀略工作の影の主役は特務機関で、土肥原賢二の名が広く知られる。満洲事変の後、中国大陸各地に続々特務機関が設立されたが、時には領事館の一部署であったり警察、行政の一機関であったりして、その存在は見えにくい。

 三一年、満洲が建国されると、民政部初代警務司長に甘粕正彦が就任。関東大震災の折の「大杉栄・伊藤野枝殺害」の首謀者との疑いのある、あの甘粕である。一〇年の刑期を大きく余して出所した甘粕は三一年に満洲に渡った。元憲兵大尉の甘粕は、満洲国の治安対策の基礎を作ったとされている。

 満洲建国後、満ソ国境の情報収集、謀略工作の中心になったのはハルビン特務機関であった。三二年に満州里に国境警察、黒河、再開、海拉爾に特務機関が、三三年に首都警察庁に特務科が、三四年に赤峰、図椚に国境警察、富錦、大連、奉天に特務機関が開設された。

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