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未唯への手紙

未唯への手紙

言葉をイメージに

2014年12月14日 | 1.私
投票活動

 投票してきました。投票用紙を見つけるのが大変でした。奥さんが「テーブルの上にある」と言われたけど、たやすいことではない。投票所には、年寄りばかりが来ます。

 内の連中は、誰も、一回も投票しないでしょう。投票することが日本を変えることにならないから、投票行動を促すことができない。

家での作業

 本当に独りぼっちという感覚が強いですね。パソコンに向かう気がないです。紙をどうしましょうか。やはり、タブレット側でやるしかないでしょう。タブレットからプリントアウトできるモノを設定しておきます。ネットを使わずに。プリンターとメガネのお金は奥さんに出してもらいましょう。

 こう考えると、孤独がベースなんですね。

ICレコーダー650

 ICレコーダーをなるようにセットしました。誤動作が多すぎるので。

 650レコーダーのバッテリーの減りが早い。まあ、3分間の充電で1時間の録音ができるので、簡易的な充電を出来るようにしておく。

L1存在と無

 「存在と無」は非常に難しい。というか、存在と無が私の中で同居していることを認識した時から、私は始まった。この状態で考えるのであれば、当然、次元は超えていく。宇宙は、心と同様に、端と中心がつながっている。

未唯空間の詳細項目

 未唯空間の詳細項目が必要十分であるかを、曼荼羅で見てみましょうか。

 詳細項目でも4つの関係をハッキリさせましょう。それでベクトルを作る。4つだからと言って、4次元になるものではない。対比とか、生まれたところから終わるところ。

未唯へ

 駅前から体育館まで歩いた。ちょっと歩くと、心臓が痛いですね。本当に大丈夫なのか。

 体操は11時から始まるかと思ったら、11時から入場です。しょうもない。始まるまで待てない。

A6フォルダー

 「私は私の世界 私の世界のすべて」をA6フォルダーに入れている。かなり、気に入っている。A6フォルダーはもっと、在ってもいい。丁度いい、心のメッセージです。まず、ここから発信でしょう。分からないけど。

 スタバと同様に、マクドナルドもスタッフ自身を売らないといけない。その時に心のメッセージがほしい。言葉をイメージにすること。

退職準備

2014年12月13日 | 5.その他
テーマとジャンルの二軸

 テーマでの考え方は一応、乗り切った感じです。二つの軸ができて、本当によかった。安心して、この上に色々なモノを載せられます。郭にできます。とりあえずは、パートナーも含めて、現象を見ていきましょう。

 ジャンルでいろいろ所に展開しても、テーマでくっつけることができる。だから、気にしない。色々な側面を出しておきます。

構想にミッションがない

 かれに構想にはミッションがない。何のためにこの部署があるのか、何をすべきなのか、そして、誰に聞くべきか、誰にやらせるのか。だから、章もない人間しか集まってこない。後付けの説明をくり返す。自分に構想がないから、集まってきた連中にやらせようとするけど、さらに構想がない。世の中を見ていない。

 その中で、パートナーの全体を考え、先を見る姿は、見る人が見たら、本来、一番目立つはずです。しょうもない人にとっては、邪魔くさいでしょうね。そう考えると、電算部の時も研究開発部の時も一流の人間が居た。それらと組めたから、一流のことができた。より多くの人を食わせるのではなく、皆が動けるようにするだけです。

本屋の新刊書

 新刊書の情報「2040年の新世界」「トヨタの危機」

朝の感覚

 世界にただ一つ、宇宙にただ一つ。これも<今>という瞬間でしょう。なぜ、こんな先のことが気になるのか。

ICレコーダー

 ず~と付けっぱなしでした。

 一つ一つの言葉を体言止にします。見本はIさんのセンテンスです。

駅前のスタバ

 豊田駅前のバリスタ情報「唯」「めざめは21歳でもうじき誕生日」そんな若いんだ。専門学校を出たけど、就職なく、フリーター。シュガーポットは隅っこにおいてあるだけです。売る気なし。

ポータルの進め方

 ポータルの進め方は絵に描いた餅。

 SFDCは役員を動かさないといけない。あんなものでは、販売店に見せれない。ましてや、その上に販売店の思いを載せることができない。

「復讐するは我にあり」

 「復讐するは我にあり」という言葉の意味は、神が復讐するから、あなたは考えなくてもいいということらしい。そこまで、一神教は依存できるのか。

退職準備

 月曜日は退職準備を行います。あと、本当に少ししかない。忘れたいので、準備を避けてきたけど、諦めましょう。

 紙を使わない世界もいれます。免許の関係で、目をどうするか。目が目をどうするのか。どうでもいいことはどうでもいいけど。最終出社は1月29日にすれば、20日間の年休です。

 未唯空間の詳細に取り掛かります。月曜日から最新にする。

私が変わることで、現象が変わる

2014年12月13日 | 2.数学
『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』より 無常を知るということ

私たちは「生の現実」に触れることができない

 「現象学とは何か」ということを乱暴にまとめるなら、「物事を正しく見るにはどうすればいいか」を考えつめた学問のことです。「物事の見方」が間違っていたら、あらゆる学問が成り立ちません。現象学はその部分をしっかりと基礎づけようとした。そういう意味で、現象学はあらゆる学問の基礎だとフッサールは言ったわけですね。

 ここで問題なのは、なぜ「現象」なのか、ということです。「現実」学でもなければ、「認識」学でもなく、なぜ「現象」学なのか。

 これは、僕ら人間が「生の現実には絶対に触れることができない」という洞察に基づいています。僕らが視覚、聴覚、触覚などで体験していると信じているモノは「生の現実」ではないということにフッサールは気づいた。(このあたりはどことなく、仏教の「空」や「無常」の考え方に通じるものを感じる人も多いでしょう。)

 「生の現実ではない」と言われても、ピンと来ない人が多いかもしれませんが、もう少し噛み砕いて言えば、僕らは自分たちが体験していることが本当かどうかを、自分では確認できない、ということに気づいたのです。

 例えば僕らは、夢の中で触れたものに、ものすごいリアリティを感じたりしますが、夢は決して「現実」ではありませんよね。その一方で、僕らは目の前で起きている(はずの)ことでさえ、見落としたり、誤って認識したりすることがよくあります。

 そうすると、いま目の前にある「現実らしきもの」も、夢の中で触れる「現実らしきもの」も、「現実であるという確証がない」という点では同じ、ということになってしまう。それらを区別する客観的で再現性のある方法はどうやら存在しない、というのがフッサールの気づきです。

 そこで、フッサールはそれが現実かどうかということはひとまず「括弧」に入れて、僕らが体験している「現実らしきもの」を「現象」と呼ぶことにして考察を進めましょうと提案しました。これが、現象学が生み出した画期的な物事の捉え方です。

一夜にしてさびれた商店街

 先にも少し触れましたが、現象学では「現象の変化」をもたらすものには、現実の変化と、(現象を映す)僕らの心の変化の二つがありうること、そして両者を僕らは自分では区別できない、ということを指摘しています。これは現象学という学問の出発点ですが、これ自体がけっこうアバンギャルドな指摘だと僕は思います。要するに現象学というのは、「本当に現実が変わった」ということと、「気のせいで変わったように感じる」ということの間には本質的な差がない、ということを言っているわけです。

 このことについては、僕は思い出す風景があります。幼いころから僕が育った地元の商店街は、とても活気があって、賑やかなところでした。ところがあるとき、駅の近くにダイエーができたんです。僕は母親に連れられてダイエーに行きました。今でも思い出しますが、ダイエーはものすごく明るかったことが印象に残っています。お店がたくさん入っていて、新鮮で安い野菜や魚が、明るい照明に照らされてピカピカ光っていました。

 そして、不思議だったのは次の日、いつものように商店街を歩いたときのことです。あれほど明るくて、活気があると思っていた商店街が、ずいぶん暗くて、ジメジメして、辛気臭い場所に感じた。このときの感覚はありありと思い出せるんですが、考えてみると不思議ですよね。

 お客さんをダイエーに取られて、商店街がさびれてしまったのはずいぶん後の話です。しかし僕はダイエーができた次の日に、商店街がさびれたと感じた。おそらくその変化はかなりの部分、僕の認識の変化によってもたらされたものだったのでしょう。

私が変わることで、現象が変わる

 ただ、ここで重要なのは、それが仮に僕の認識の変化だったとしても、僕にとっては「商店街に活気がなくなった」という現象は変えようがないぐらい、リアルなものだったということです。

 つまり、確かに現象というのは「僕らの認識次第」でいかようにも変わる性質を持っています。しかし、僕らが現象を受け取るときの「受け取り方」というのは、実は自分ではほとんどコントロールできないのです。

 すぐに子供の悪いところばかりに着目してしまうお母さんに、「子供のいいところに目を向けてくださいね」とアドバイスしても、そう簡単に見方を変えることはできません。そもそも、お母さんだって悪気があって子供の悪いところを見ているわけではありません。我が―-「行」は現象をコントロールする方法子が心配で心配でしょうがないから、ついつい悪いところに目がいってしまうのです。 少なくともそのお母さんにとって「子供の悪いところに着目してしまう」ということは必然だったし、その見方を変える、というのは時に、「現実を変える」よりも難しいのです。

 「現象」というのは、それを見る人の物の見方を変えることで変わります。しかし、「自分の物の見方」を自由にコントロールするというのは、そう簡単ではない。理論的には、現象は認識によってコントロールできるはずですが、それを実践するのは至難の業だということです。

 さて、現象学について字数を費やして来ましたが、ここにきて、ようやく話を仏教に戻すことができます。というのも、仏教の行というのは、まさにその「認識のコントロール」という領域に踏み込んだ方法論だからです。

 現象学というのは巨大な学問ですので、ここで紹介したのはそのほんの一端に過ぎません。ただ、少なくとも現象学が提示する「現象は認識によって左右される」という知見は、仏教心理学にも一脈通じるものを僕は感じます。というのも、仏教もまた、人間は「生の現実そのもの」に直接触れているわけではなく、一人ひとりの「心のありよう」に縛られた物の見方でしか現実に触れることができない、と考えるからです。

 では、仏教が現象学と異なるところは何か。それはやはり、「行」があることです。行というのは、現象学的な捉え方をすれば、「認識(計心)を変えることによって現象をコントロールする」ための方法論ということができます。例えば瞑想を続けている人は、自分の認識している世界が自分の心に映った「現象」に過ぎないということを、身体的実感をもって感じられるようになってきます。そう考えると、仏教というのは「現象学的な物の見方」を自分の手に受け止め、それを実践していくための方法論という捉え方ができると思うのです。

 現象学に限ったことではありませんが、僕らはいくら自分の物の見方を変えようとしても、そう簡単には自分がそれまで慣れ親しんだ固定観念を捨てることはできません。現象学は学問としては巨大で、精緻なものですが、それを学んだからといって精神の自由を得ることにはつながらない。


イスラム法と現代社会

2014年12月13日 | 4.歴史
『教養としての宗教入門』より 戒律 イスラム教

六信、五行

 ユダヤ教やキリスト教に比べると、後発のイスラム教の信仰内容はかなりコンパクトに整理されている。ユダヤ教徒ほどたくさんの戒律は背負い込まないし、キリスト教徒ほど観念的な神学を語ることもない。イスラム教徒として守ることになっているのは、六信と五行である。

 六信はイスラム教徒が信じるべき六つのもの--神、天使、預言者、啓典、来世、定命--を指す。前述のとおり、預言者にはムハンマドのみならず、聖書の預言者やイエスも含まれる。啓典とは神が啓示した書ということだが、クルアーンのみならずユダヤ教やキリスト教の聖書を含む。来世とは終末後の世界で、人間は楽園か火獄に行く。定命とは一切をご存じの神の予定のことである。

 五行はイスラム教徒が行なうべき五つのこと。信仰告白、サラート(礼拝)、ザカート(喜捨)、断食、ハッジ(巡礼)である。

 信仰告白とは、「アッラー以外に神はなし」「ムハンマドはアッラーの使徒である」の二つの項目を証言すると誓うことだ。二人の男性イスラム教徒の前でこれをアラビア語で唱えれば、イスラム教に入信したことになる。サラートは二日五回メッカの方角に向かって行なう礼拝である。ザカートは宗教的な献金・税金のようなもので、貧困者などに分配される。五行の断食はイスラム暦のラマダーソ月に行なう一か月の断食だが、断食とはいえ日没後は食べる。イスラム暦は純粋な太陰暦(一年は三五四ないし三五五日)だから毎年どんどんずれていくので、断食が夏になることも冬になることもある。ハッジはメッカヘの巡礼だが、体力と財力かある者だけでよい。

 と、こう並べると、けっこう信じるものも多く、やることも多いじゃないかと思われるかもしれないか、世界の宗教の多くか信者にたくさんの儀礼や信条を要求するのと比べれば、少ないと言える。それに内容か比較的具体的であり、頭をひねらなければならないような部分かないから、その意味でもシンプルだ。

イスラム法と現代社会

 イスラム教はシンプルだとはいっても、イスラム教が歴史的に政治や法律の領域を広く覆ってきたことを忘れるわけにはいかない。このあたり、仏教やキリスト教とはかなり違っている。仏教は原則として修行者の宗教であり、在家に関しては、精神的指導を与えるという以上のものではない。キリスト教はローマ帝国の支配機構の只中に生まれたので、自らの持ち分を精神の王国に限り、政治と宗教との間に緊張関係を認める。しかし、イそフム教は、社会に唯一神の正義をゆきわたらせるという建前どおり、壮大なイスラム法(シャリーア)の体系を築き上げてきた。

 それはクルアーン、ハディースなどを出発点として、かっちりと論理的に出来上がったシステムであり、礼拝の仕方のような宗教的なものから、結婚や離婚や遺産相続など民法にあたるもの、商法にあたるもの、刑法にあたるもの、さらには国際法にあたるものまで、人生の万般におよんでいる。やっていいことと悪いことの判断は、義務、推奨、許容、忌避、禁止の五段階評価でなされる。たとえば契約の履行は義務であり、貧者への施しは推奨され、盗みや姦通や飲酒や利子を取ることは禁止である(酒以外に渇きを癒すものかないときは許容扱いである)。

 シャリーアをもっているというのは、六法全書と宗教の戒律をセ″卜でもっているようなもので、その重みはたいへん大きい。現代のイスラム諸国では国内法は西洋式の法律か運用されているが、信者の日常生活の規定としてはシャリーアが生き続けている。

 現代におけるイそフム復興とかイスラム主義とか言われる思潮の中には、このイスラム法を国内法にしたいという要求かある。そうなってくると、近代西洋の政教分離の原理に抵触してしまうし、中世の昔の法の運用や刑の執行を、官僚機構や警察や軍隊をもった近代国家の権力でやっていいものやら、わからなくなる。また、男女間における扱いの差異も問題になる(たとえば家族の扶養義務は男性か負う、女性の遺産相続の権利は男性の半分である、など)。ほとんど執行されることはないとはいえ、姦通者への石打ちのような身体刑は、現代人の感性にも正義観にも合わない。イスラム教徒たちの間にも、意見の一致か見られなくなってきている。

 イスラム教は、建前としては、近代国家の法制度のまるまる全体に匹敵する一個のシステムなのである。だからシステムとシステムとの摩擦やギャベフの問題かどうしても生じてしまう。これは個人としてのイスラム教徒か保守的か開明的かということとは別問題なのだ。信仰(心の中)ではなく、システム(社会の約束)に注目することで、イスラム問題のややこしさか日本人にとっても理解可能なものになるかもしれない。

物価が下がるとなぜまずい?

2014年12月13日 | 3.社会
『ディープな政治・哲学』より 物価が下がるとなぜまずい?

どうしてデフレは起こるのか

 2012年末に誕生した安倍政権は、約15年間続いたデフレ不況を克服するための経済政策「アベノミクス」を掲げ、実際に2013年からは雇用統計や鉱工業生産指数などさまざまな経済指標で改善が見られるようになりました。

 ここで考えてみたいのは、デフレ(デフレーション)についてです。言うまでもなくデフレとはインフレの反対で、持続的に物価が下落する現象のことです。物価が下がるということは安くモノを買えるようになるということであり、高くなるより安くなったほうがいいじゃないか、と思う人もいるかもしれません。

 消費者の立場としては、「デフレ対策」の結果、物価が上がるのは困る、というのが正直なところかもしれません。給料が上がらないのに物価だけ上がっても……という声はきわめて切実です(特に地方では)。

 なぜデフレはまずいのか。そもそもなぜデフレが起こるのか。このテーマについて考えてみましょう。

問題 

 デフレとは、物価が持続的に下落することをいう。かりに、金融市場と財市場があり、外国との取引がなく、商品は一種類だけが貨幣を使って取り引きされると考えよう。このとき、何かデフレの原因となっているのか、またデフレはどのような弊害をもたらすのであろうか。

そもそもデフレとは何か

 先ほど確認した通り、デフレとは物価が持続的に下落する現象のことで、物価が持続的に上昇するインフレと対をなす概念です。物価指標にはさまざまなものがありますが、いずれの指標をとってみても、少なくとも1998年頃から2012年までの約15年間はデフレ基調であったと言えます。

 デフレは、戦前には珍しくありませんでした。1929年にアメリカに始まった世界恐慌も、その影響で起こった日本の昭和恐慌(1930~31年)も典型的なデフレ現象です。

 ところが第二次世界大戦後になると、先進各国ではほとんどデフレが見られなくなります。さまざまな原因が考えられますが、とりあえずここでは、第二次大戦後の世界では、15年もの閲続いた日本のデフレはとても珍しい現象だということを押さえておいてください。

 インフレの弊害は、よく知られています。下の写真は第一次世界大戦後のドイツの様子で、1年間で物価が2億倍もはね上がるハイパーインフレの結果、紙幣は紙くず同然になってしまい、100兆マルク紙幣までが登場しました。

 これはさすがに極端な事例ですが、インフレが起こると同じお金で買えるモノが少なくなってしまい、物価と同じだけ給料が上がらない限り実質的に貧しくなってしまいます。また年金生活者なども大変で、物価が倍になれば預金は半分が消え去ってしまうことになります。

 では、デフレの弊害はどういった点にあるのでしょうか。

 物価が下がるということは、モノを安く買えるということですから、一見するとよいことのようにも思えます。しかし、売る側から見ればモノを安く売らざるを得ないのですから大変です。売上げが減り、利潤が減りますから、コストを切り詰めないと立ち行かなくなります。人件費もカットされるでしょう。一時金を削減したり、正社員を非正規社員に切り替えたりするわけです。

 そうすると雇用者の可処分所得が減りますから、社会全体の購買力が低下し、いっそうデフレが進行することになるでしょう。これがデフレ・スパイラルであり、これは経済にとって最悪の現象です。

 そもそも物価の下落は不況と連動して起こります。もちろん、デフレと不況は概念としては区別されます。「デフレ」が物価に着目した概念であるのに対し、「不況」とは経済全体のパフォーマンスに着目した概念で、経済成長率、消費支出、鉱工業生産指数、完全失業率などの諸指標が悪いときに不況と言われます。

 とはいえ、社会全体の経済状況(マクロ経済と言います)が悪いとき(不況時)に物価が上昇するということは基本的に起こりません。というのも、物価とは社会全体の財・サービスの価格水準を表しますから、もし市場に流通している貨幣の量(マネーストックと言います)が一定であるとすれば、社会全体でモノが売れていないときには市場メカニズムによって必ず物価の下落を帰結するからです。

 ここで一つ注意しておくと、デフレというのは特定のモノの値段が下がることでなく、社会全体のモノとサービスの価格が持続的に下落する現象です。したがって、たとえば中国から安い衣料品などの輸入が増えたところで、それはデフレの要因にはなりません。

 技術革新によるコスト低減についても同様です。安い輸入品の増加や生産コストの低減は個々の財の価格を下げますが、物価までは押し下げません。ある財への支出が減った分はほかの財(たとえば贅沢品)の購入へと代替されるはずだからです。

 もしそれがなく、物価そのものまでが下がっているとすれば、それは支出全体が落ち込んでいるということにほかならず、要するに経済のパフォーマンスそのものが低下していることを意味します。したがって、しばしば言われる「よいデフレ」などというものはあリ得ません。

 度が過ぎたハイパーインフレは論外ですが、マイルドなインフレ(2~3%程度)であれば好況の付随現象とみなされます(モノが売れるから物価が上がる)から、決して悪いものではありません。これに対して、デフレはほぽいかなる場合にも悪い現象です。日本のようにデフレが15年間も続くなどということは、決してあってはならないのです。ぜひとも早く克服しなくてはなりません。

テーマの概要

2014年12月12日 | 1.私
M3未唯空間

 M3未唯空間。全てを知りたいという欲望があってけど、多くの情報が氾濫している。全てを知るということは自分を知るということです。そのための範囲を規定するために、未唯空間を作り上げた。

 その中で考え抜いて、第9章・第10章にあるように、未来をしることがターゲットになった。なぜ、全てを知りたいのかは、ここでは述べていない。では、どこで述べているのか。やはり、放り込まれた存在としては、存在の力を活かすためには、全てを知ることです。

M4システム設計

 仕事では、さまざまな部署でシステム設計をやってきたことをまとめるだけではない。パートナーの仕事にしていきたい。そのために、どこから取り組めばいいのか。

 2010年の販売店のヒアリングは新しいスタートに当たって、メーカーとしてやるべきことを自分たちで決める前に、販売店自体が何を考えているのか、将来をどう考えているのか。メーカーとの関係、社会との関係、それを地域で出宇していきたいのかを聞きまくった。当然、相手は経営者層です。

 ある意味では、その範囲が狭くて、唐突であったので、範囲を拡大していった。未唯空間上で大きくなったので、そこから収束して、システム設計のポイントをまとめてきた。元々、夢をカタチにするという夢という要望、自分の要望を叶えるというよりも、他の人の要望にアプローチしてきた。

 システム構成もどんどん変わってきた。私が存在しているためか分からないけど、形態が変わり、ディバイスが多様になり、データの扱いが変わり、スタティックからフローに広がり、さらにコラボレーション的なものも取り込んできた。それに個人の意識の問題も出てきたので新しいシステム設計をやっていかないといけない。

 今はシステム開発が主になって、全体を考えて、先を見ることができていない。その才能を持つ、パートナーにシステム設計を渡していく。と言っても、なかなか、聞き入れないから、未唯空間上にまとめておいていくのが狙いです。パートナー的な要素を持っている人間には、これが分かるようにしておきます。

M5コミュニティに知識と意識

 個人が参加し、発信する場所が地域の中核になります。下の個人、上の行政、横のコミュニティにとっては、これは中核です。

M6政治形態

 ここまで入り込む必要があるかどうか分からない。

 国民国家ができたのは、自由を保証するためです。だけど、その国民国家から、全体主義が生まれ、共産主義が生まれた。両方とも極端だけど、個人と全体との関係を明確にしています。共産主義は歪な形になった。中央集権の力が強くなり、そうでないと維持できないというジレンマが強くなり、さらに歪になり、が滅を招いた。

 そして、今は、民主主義という中途半端なカタチになっている。国家は何をしてくれるのか、国家になりをするのかが分からなくなっている。そこに、グローバル化と多様化が来て、形態を大きく変えないと維持できない。エネルギー一つも解決できない。そして、環境社会という次の形態が見えてきた。そこで国家が中心となって、排他的に動くわけには行けない。

 そこから、次へ移るために一番重要なのは「合意形成」です。皆とどうつなげていくのか、個を全体に対して、どうつなげるのか、どう結論を出していくのから始めていく。民主主義の原則になっている、選挙というやり方も含めて、見直さないといけない。あまりにも、個人が動けない状態です。個人が存在の力で動くためには、合意形成というカタチの次への手段が必要です。

朝のIさんの言葉

 (皆、黒服ですね)「黒は嫌なんですよ。顏映りが悪くなるから」「ちょっと、明るくしておかないと」「今日は、ラテですもんね」

 「昨日は本当にありがとうございます」「気持ちだけでうれしくて」「他のものは売れたんですけど、ポットは一つも売れなくて」「開けちゃおうかな、と思っているけど」「磁器は手に取ってみないとわからないから」

 「今日は2時まで居るんだけど」「来週はさっぱり、覚えていないですね」「また、見ておきますね」

昼のIさん

 「お帰りなさい」(よけいに小さく見える)「多分、ここが高いからじゃないですか」「対象物によって、小さく見える」

 一番右のカウンターのテーブルは高いから、だから、小さく見える。リニューアルで視覚的なものを取り込めばいいのに。

 「私、シフトを見ていないので、見てきます」

 (豐田でブルマン出るって聞いたけど)「ブルマン出るんですか」「ブルマンの豆自体が取れてないと読んだけど」

 「私は木曜日と火曜日がシフトでした」(赤色はないんだ)「うっかり、持っていたら、着ておきます」

 「来週、レッスンに行くんですよ」「水曜日に」「発表会は1月2日」「津市でオープンステージで」

豊田市図書館の29冊

2014年12月12日 | 6.本
332.06『グローバル経済入門』

366.29『ぼくらは働く、未来をつくる。』彼らが考える仕事の理とは? 12人のトップランナー

304『内田樹の大市民講座』

160『教養としての宗教入門』基礎から学べる信仰と文化

140.4『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』晴れやかな日々を送るための仏教心理学講義

726.1『「進撃の巨人」と解剖学』

331『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』巨人たちは経済政策の混迷を解くカギはすでに知っていた

312.1『ディープな政治・経済』日本の大問題が見えてくる

319.53『エヴァンジェリカルズ』アメリカ外交を動かすキリスト教福音主義

159.6『イタい女になる人ならない人』断捨離で素直な自分を取り戻す!

318.95『縮小都市の挑戦』

221.07『そうだったのか! 朝鮮半島』

302.27『ジャスミンの残り香』--「アラブの春」が変えたもの--

304『丸山眞男座談セレクション(上)』

019.04『独学でよかった』読書と私の人生

943.6『サハラ砂漠からメッカへ』カール・マイ冒険物語1 オスマン帝国を行く

331.2『経済学の歴史』

681.3『要約 交通事故判例140』「赤い本」「青本」編集30年の著者が説く実務家のための判例ガイド!!

013『こんなときどうするの?』みんなで考える 図書館における危機安全管理マニュアル作成の手引き

498.58『ココナッツオイル使いこなし事典』毎日の定番料理から美容まで 生活のレシピ72

762.1『ヴァイオリニスト 20の哲学』

007.3『ビッグデータの罠』

480.76『水族館日記』いつでも明日に夢があった

687.9『世界で一番美しい空港』

596『日本のごちそう すき焼き』

498『友だちの数で寿命はきまる』人との「つながり」が最高の健康法 科学が証明する「つながり」の驚くべき健康力

304『日本は衰退するのか』

914.6『響き合う対話』文学と宗教、そして生きること 人生はわからない、だから書き続けていく。

916『100歳じいちゃんとハナ』

スタバで販売を断られた 感激です

2014年12月11日 | 7.生活
アテネの母としての妹

 アテネの姪はやっと、尿管が取れたところです。記憶は相変わらず、曖昧です。アテネに行った妹は、ギリシャから日本に取り戻すために、意識づけしているのでしょうね。

 姪には、本当はギリシャを変えてほしいだけど。ギリシャのジャンヌならん。母親の強さには、負けますね。父親とか旦那というのは、その前では無力です。

朝のIさんと9分の会話

 (陳列を見ていた)「世の中はボーナスが出たらしいので、今日からちょっと頑張らないと」「皆、早いんですね」「世間一般のことはよく分からないんです」「12月になって、違う色目のモノが入ってきたので」

 「リニューアル前に、あれを売らないと」「ツリーのやつは、ポットになるということが分からない」「困ったなと思い書いてもらった」「どこまで手書きで書いていいのか」「統一感を出さないといけないから、あまり手書きのモノは書かないように」

 (いくらするの)「2300円ぐらい」「あれ、八個あるんですよ」

 「今日は3時半までいるんですよ」

 「あまりいい時代を知らないから、あるだけでやっていこうと」

 (この最近、ピークがあるね)「寒くなると、皆さん、来てもらえるので」「今日は落ち着いてて、ゆっくり、話ができる」

 (「私の世界」を見せつつ)「この間、見ましたけど、話、聞いていないけど」「そうなんですね」「深い意味があるんですよね」「ふ~ん」「へー」「まとまる頃に」「いい言葉をありがとうございます」

 Iさんに「私の世界」のことを話しました。そこで感じたのは、全てを知りたいということを範囲を限定したのではなく、作り上げたということです。その先はまだまだ、ロジックは続きます。とりあえずは、そこまでです。

 紹介された、あの磁器のポットは買うでしょう。一つを隣の女性に渡しましょう。買って、Iさんに貸し出しましょうか。箱から出して、並べないと、皆には何なのかが分からない。売りモノを勝手に開けるわけにはいかないから。その後から、引き取ればいい。今、特に使う理由はありません。

 スタバは手書きポップは制限している。直営になると、制限が増えるでしょう。品位を落とさない。バリスタのアイデアに限界をつけない方がいいと思うけど。12月後半に出る、ブルマンは一杯千円以上するはずです。戦略をかなり変えてくるかもしれない。日本としての良さの実験場にしていかないと、高度サービスにはつながりません。

無言の検討会

 検証検討会はほとんど、無言状態です。SFDCの無責任さには呆れる。

昼のIさん 販売を断られた

 「磁器の字は合っています」(買いたいんだけど)「本当ですか」「私も思います。箱から出して、並べた方がいい」「お借りすることはスタバックスとして、ダメだと思います」「おうちに持って帰っていただけます」「それで良ければ、お売りいたしますが」

 「3500円もしました」「販売とか全然、気にする必要はありません」「心苦しいので」「苦手ですもん、こういうの」「無理には薦めたくないですもん」「明日まで考えますか」「分かりました」「これで買ってもらっても悪いですもん」「なので、これ戻しておきます」

 (アテネに行っている妹は強い)「お母さんになると強いと言いますよね」

 「明日も長く居るんですよ。朝から2時まで」「頑張って、これから売ります」「一回、その案を提案します」

 「持ち歩くのであれば、カップを二枚重ねにしておきましょうか」「コーヒーはやはり、温かくなくては」「来週はマグを持って来て下さいね」

 この応対のあまりにも嬉しさで、食堂にいた、隣の女性に報告した。話したくてしょうがない。

ウィットゲンシュタインの世界

2014年12月11日 | 1.私
ブックとデジタル 売ると使う

 図書館から本を借出す人が減っている。そしたら、どうするのか。市民誘因のイベントをするのか。市民は情報収集がスマホに流れている。スマホも含めた、「読書」環境を志向する。それがデジタル・ライブラリの本来の役割です。重要なのは、「売れる」ことではなく、図書館の持っているシェアを活かして、「使う」ことです。

 単に読んでもらうのが目的ではなく、読んで、自分たちの世界を作ってもらって、仲間を集めて、行動できることが重要なんです。本が持つ、情報だけではなく、感情に関すること、意図に関する部分にしても同じです。そのためには、連携が必要になります。

 物理的なブックと電子書籍(デジタルの関係を表わすとしたら、商品を売ることがブックであり、使うことがデジタルです。それでシェア社会を作り出す。それを先回りしているのが公共図書館の役割です。ブックとデジタルがハイブリッドになっていくことは、その分野でハイブリッドにすることになる。

存在を認めてもらう

 パートナーからのメール一つで、これだけ気分が変わる。その点では、私もおっちょこちょいでしょう。

 存在をパートナーが認めてくれただけです。内容は関係ない。私が言いたいことはもっとありますけど。それらはパートナーには伝わっていると思います。それを信じましょう。その点からも、この間に送付した「ウィットゲンシュタインの言葉」は是非とも、心のどこかに引っ掛けてほしい。

ウィットゲンシュタインの世界

 ウィットゲンシュタインは、これがすべてというものを「論考」で作り、世の中から去っていった。だけど、世の中は動かなかった。現実の世界で、小学校の先生などを行った。やはり、世の中とはアンマッチを起こした。そして、精神を病んだ。救いを数学に求めた。

 さらに難しいものを作り出した。彼が言いたかったのはもっと単純なことでした。人間というものと言葉というもの、そして、自分の範囲。それぞれの世界を自分で持つことで、それによって、世の中が変わるということ。

 それらは誰かに与えられるものではなく、自分が考え抜くことで達成できる世界。それが世の中に受け入られるとは限らない。それなら、自分の世界で自分が変わればいいでしょう。

しょうもない

 名古屋はなぜ、こうもしょうもない連中が集まってくるのか。その答えは分かっています。上がしょうもないからでしょう。では、どうするのか。上を変えればいいでしょう。与えられたものではなく。下から積み上げるしかない。飾り物で社会が動くのがおかしい。

 政治の世界も同じになっている。だから、何も決まらない。国という単位での選挙制度。直接民主制ではないから、代理人では、何も思いが伝わらない。そんなしょうもない世界が大きな世界であるから、会社も組織もしょうもなくなる。

 そういう連中は、戦争を望みます。非日常になることで、組織は活性化する。太平洋層勃発時に、それまで、覆っていたものからの解放感が報告されていた。それが国民国家における戦争と平和の時代を作り出す。

サファイア革命からの連想

 テーマとジャンルの関係をやっていて気になる言葉があった。宙ぶらりんの言葉です。それはサファイア革命です。日本的循環を変えるところとどう結び付けるのか。

 元々、サファイアは持続可能にするために、循環を作ることを考えた。Think GloballyからThink Globallyへの流れを作ることが目的です。サファイア革命は、その循環ができた後に、グローバルからローカルへの流れているものを、ローカルを出発点にしていくこと。それによって、グローバルをカバーリングしていく。

 ローカルの動きでグローバルを包み込むこと。循環を支配するモノから、共有するモノに変えていくのが革命です。

 ロシア革命は、ペテルスブルグを中心にして、流れを変えずに、主人公を変えただけだった。それ故に、ウクライナの悲劇をもたらした。ウクライナはウクライナとしての循環があった筈です。その循環とペテルスブルグの循環をつなげていけばよかったのに。

 トロッキーは全体を考えて、ウクライナからの資源を対外的な武器にすることをした。ウクライナの循環を無視して、ペテルスブルグの循環だけになってしまった。それは、マルクスにはない世界であった、それは「革命」の成果を維持するためには、現実的な方法だったかもしれない。そして、スターリンはそれを乗っ取った。全ての力を「ソヴィエト」に。

 スターリンの絶頂期は大祖国戦争そのものです。ドイツの第六軍という、全体が動き出すものに対して、スターリンはローカルを使い始めた。パルチザンを含めて行動する。その戦略は、対フィンランド戦の反省から生まれてきた。従来の命令系統は粛軍で崩壊していた。それも歴史のステージです。私が生まれてくる前に、偶然は色々なモノを動かしていた。

コミュニティ・クラウドの役割

2014年12月11日 | 5.その他
「私の世界」だけ持って

 起きたら、6時12分です。昨日のエクセル作業で疲れていたみたいです。しかし、いつものバスには間に合いました。持っているのは、「私の世界」だけです。

 他の人は何を背負っているのか。カバンの中に一杯入れている。60年の歴史の中でも、これだけコンパクトにしたのは、はじめてです。これ以上のものはない。

胸が痛い

 慌てた為か、胸が痛いです。やはり、心臓なのか。

SFDCはどうにかしないと

 SFDCはどうにかしないとダメですね。やはり、あれではムリです。その代りに、TMを巻き込みます。そして、SFDCの存在理由をハッキリさせます。それが次の本当のクラウドのための準備になります。

 どこまで、皆のことを考えられるか。グーグルではないけど、儲けるだけではしょうがない。意味がない。市民のための本当のクラウド。マークなら本当にできるはずです。この間の対談で少しは感じるけど、この会社を動かすことはできなかった。

 会社に居ることで出来ることと、野に放された後にできることは異なります。どうなっているかをハッキリさせることができる。今もバックがないけど、次は失うものがないから堂々と行える。全体を考えて、先を見るという思いだけです。

 クラウドは共有意識の元に巻き込んでいかないといけない。これだけのスマホという武器が市民の間に巻かれている。そのバックにデータベースがあり、それはシェアであり、共有できる。各自が「私の世界」を作るためのハードルを下げることがクラウドが行う。

 SFDCがコミュニティ・クラウドという限りは、その役割を果たさせます。コミュニティ・クラウドという概念は、どこから出てきたのは。やはり、市民の動きを見て、商売になると思ったのでしょう。そのために、どんな設計があるのか。システム設計の内容。

コミュニティ・クラウドの役割

 クラウドをテーマにするとしたら、M5コミュニティでしょう。

 「私の世界」で作られたものを、そこで分化させるために、コミュニティに持ってくる。それで集合知と合意形成の集合和を作り出す。その場がコミュニティであり、その時のツールがコミュニティ・クラウド。その中には、図書館クラウドが入ってくる。ということは、生涯学習もその中に入ります。

 世の中のすべての知識がネットの裏側にあるというならば、それとつなげることが可能です。裏側にあっても、表に出せません。シェアするために状態ではない。

 今、やっている未唯空間の世界とつなげていく。分かり易くする。言葉を作り出して、イメージにしていく。データベースだけあってもナレッジになりえない。ナレッジがあっても使えるものにはならない。使えるものを使えるディバイスに渡していく。

「私の世界」とつなげる

 重要なのは、それぞれの自分の世界。それを提供させることです。その前に自分でまとめないといけないけど。やはり、私の世界だけで十分です。展開できます。言葉にできます。そして、イメージできます。

システム設計の基本

 システム設計の基本は、出来上がったイメージをいかにビジュアルに頭に中に描くかです。それによって、どんな質問にも応えられます。作り出すのは、システム開発者が作り出せばいいけど、それが合っているかどうか、それをどう拡大すればいいのかをするのが、システム設計です。パートナーにはそれを学んでほしい。販売店がどういう姿を描いているか。

 それは経営者の世界です。その世界を作り出していく。マスが大きくなれば、なるほど、イメージが掴めるはずです。そのイメージを言葉にして、新しいイメージとして、渡していくことです。

パートナーの情報共有ツール

 パートナーの地域展開に当っては、情報共有のツールを使ってほしい。そうしないと、行くだけでも大変です。それぞれの思惑だけでなく、思惑同士をお互いに語らせることです。

 映像ライブラリにしても、ライブラリという以上は、役割を果たしてもらいたい。単なるツールではない。新しい図書館の役割は合意形成です。そのために知の体系化をするのが目的です。

 今のライブラリはあまりにも料簡が狭い。図書館というものはそういうものではない。問題は、社会の集合知と集合和が重なるところです。

 パートナーは販売店が「次の時代を担う」としたらという条件のモノで、どう変えていくのか、どうしたのかの思いを集めてほしい。ほとんどの販売店は「次の時代を担う」つもりはないでしょう。商品に対して、それだけの思いを込められないでしょう。想像力がなければ。