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私が変わることで、現象が変わる

『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』より 無常を知るということ

私たちは「生の現実」に触れることができない

 「現象学とは何か」ということを乱暴にまとめるなら、「物事を正しく見るにはどうすればいいか」を考えつめた学問のことです。「物事の見方」が間違っていたら、あらゆる学問が成り立ちません。現象学はその部分をしっかりと基礎づけようとした。そういう意味で、現象学はあらゆる学問の基礎だとフッサールは言ったわけですね。

 ここで問題なのは、なぜ「現象」なのか、ということです。「現実」学でもなければ、「認識」学でもなく、なぜ「現象」学なのか。

 これは、僕ら人間が「生の現実には絶対に触れることができない」という洞察に基づいています。僕らが視覚、聴覚、触覚などで体験していると信じているモノは「生の現実」ではないということにフッサールは気づいた。(このあたりはどことなく、仏教の「空」や「無常」の考え方に通じるものを感じる人も多いでしょう。)

 「生の現実ではない」と言われても、ピンと来ない人が多いかもしれませんが、もう少し噛み砕いて言えば、僕らは自分たちが体験していることが本当かどうかを、自分では確認できない、ということに気づいたのです。

 例えば僕らは、夢の中で触れたものに、ものすごいリアリティを感じたりしますが、夢は決して「現実」ではありませんよね。その一方で、僕らは目の前で起きている(はずの)ことでさえ、見落としたり、誤って認識したりすることがよくあります。

 そうすると、いま目の前にある「現実らしきもの」も、夢の中で触れる「現実らしきもの」も、「現実であるという確証がない」という点では同じ、ということになってしまう。それらを区別する客観的で再現性のある方法はどうやら存在しない、というのがフッサールの気づきです。

 そこで、フッサールはそれが現実かどうかということはひとまず「括弧」に入れて、僕らが体験している「現実らしきもの」を「現象」と呼ぶことにして考察を進めましょうと提案しました。これが、現象学が生み出した画期的な物事の捉え方です。

一夜にしてさびれた商店街

 先にも少し触れましたが、現象学では「現象の変化」をもたらすものには、現実の変化と、(現象を映す)僕らの心の変化の二つがありうること、そして両者を僕らは自分では区別できない、ということを指摘しています。これは現象学という学問の出発点ですが、これ自体がけっこうアバンギャルドな指摘だと僕は思います。要するに現象学というのは、「本当に現実が変わった」ということと、「気のせいで変わったように感じる」ということの間には本質的な差がない、ということを言っているわけです。

 このことについては、僕は思い出す風景があります。幼いころから僕が育った地元の商店街は、とても活気があって、賑やかなところでした。ところがあるとき、駅の近くにダイエーができたんです。僕は母親に連れられてダイエーに行きました。今でも思い出しますが、ダイエーはものすごく明るかったことが印象に残っています。お店がたくさん入っていて、新鮮で安い野菜や魚が、明るい照明に照らされてピカピカ光っていました。

 そして、不思議だったのは次の日、いつものように商店街を歩いたときのことです。あれほど明るくて、活気があると思っていた商店街が、ずいぶん暗くて、ジメジメして、辛気臭い場所に感じた。このときの感覚はありありと思い出せるんですが、考えてみると不思議ですよね。

 お客さんをダイエーに取られて、商店街がさびれてしまったのはずいぶん後の話です。しかし僕はダイエーができた次の日に、商店街がさびれたと感じた。おそらくその変化はかなりの部分、僕の認識の変化によってもたらされたものだったのでしょう。

私が変わることで、現象が変わる

 ただ、ここで重要なのは、それが仮に僕の認識の変化だったとしても、僕にとっては「商店街に活気がなくなった」という現象は変えようがないぐらい、リアルなものだったということです。

 つまり、確かに現象というのは「僕らの認識次第」でいかようにも変わる性質を持っています。しかし、僕らが現象を受け取るときの「受け取り方」というのは、実は自分ではほとんどコントロールできないのです。

 すぐに子供の悪いところばかりに着目してしまうお母さんに、「子供のいいところに目を向けてくださいね」とアドバイスしても、そう簡単に見方を変えることはできません。そもそも、お母さんだって悪気があって子供の悪いところを見ているわけではありません。我が―-「行」は現象をコントロールする方法子が心配で心配でしょうがないから、ついつい悪いところに目がいってしまうのです。 少なくともそのお母さんにとって「子供の悪いところに着目してしまう」ということは必然だったし、その見方を変える、というのは時に、「現実を変える」よりも難しいのです。

 「現象」というのは、それを見る人の物の見方を変えることで変わります。しかし、「自分の物の見方」を自由にコントロールするというのは、そう簡単ではない。理論的には、現象は認識によってコントロールできるはずですが、それを実践するのは至難の業だということです。

 さて、現象学について字数を費やして来ましたが、ここにきて、ようやく話を仏教に戻すことができます。というのも、仏教の行というのは、まさにその「認識のコントロール」という領域に踏み込んだ方法論だからです。

 現象学というのは巨大な学問ですので、ここで紹介したのはそのほんの一端に過ぎません。ただ、少なくとも現象学が提示する「現象は認識によって左右される」という知見は、仏教心理学にも一脈通じるものを僕は感じます。というのも、仏教もまた、人間は「生の現実そのもの」に直接触れているわけではなく、一人ひとりの「心のありよう」に縛られた物の見方でしか現実に触れることができない、と考えるからです。

 では、仏教が現象学と異なるところは何か。それはやはり、「行」があることです。行というのは、現象学的な捉え方をすれば、「認識(計心)を変えることによって現象をコントロールする」ための方法論ということができます。例えば瞑想を続けている人は、自分の認識している世界が自分の心に映った「現象」に過ぎないということを、身体的実感をもって感じられるようになってきます。そう考えると、仏教というのは「現象学的な物の見方」を自分の手に受け止め、それを実践していくための方法論という捉え方ができると思うのです。

 現象学に限ったことではありませんが、僕らはいくら自分の物の見方を変えようとしても、そう簡単には自分がそれまで慣れ親しんだ固定観念を捨てることはできません。現象学は学問としては巨大で、精緻なものですが、それを学んだからといって精神の自由を得ることにはつながらない。

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