未唯への手紙
未唯への手紙
イスラム法と現代社会
『教養としての宗教入門』より 戒律 イスラム教
六信、五行
ユダヤ教やキリスト教に比べると、後発のイスラム教の信仰内容はかなりコンパクトに整理されている。ユダヤ教徒ほどたくさんの戒律は背負い込まないし、キリスト教徒ほど観念的な神学を語ることもない。イスラム教徒として守ることになっているのは、六信と五行である。
六信はイスラム教徒が信じるべき六つのもの--神、天使、預言者、啓典、来世、定命--を指す。前述のとおり、預言者にはムハンマドのみならず、聖書の預言者やイエスも含まれる。啓典とは神が啓示した書ということだが、クルアーンのみならずユダヤ教やキリスト教の聖書を含む。来世とは終末後の世界で、人間は楽園か火獄に行く。定命とは一切をご存じの神の予定のことである。
五行はイスラム教徒が行なうべき五つのこと。信仰告白、サラート(礼拝)、ザカート(喜捨)、断食、ハッジ(巡礼)である。
信仰告白とは、「アッラー以外に神はなし」「ムハンマドはアッラーの使徒である」の二つの項目を証言すると誓うことだ。二人の男性イスラム教徒の前でこれをアラビア語で唱えれば、イスラム教に入信したことになる。サラートは二日五回メッカの方角に向かって行なう礼拝である。ザカートは宗教的な献金・税金のようなもので、貧困者などに分配される。五行の断食はイスラム暦のラマダーソ月に行なう一か月の断食だが、断食とはいえ日没後は食べる。イスラム暦は純粋な太陰暦(一年は三五四ないし三五五日)だから毎年どんどんずれていくので、断食が夏になることも冬になることもある。ハッジはメッカヘの巡礼だが、体力と財力かある者だけでよい。
と、こう並べると、けっこう信じるものも多く、やることも多いじゃないかと思われるかもしれないか、世界の宗教の多くか信者にたくさんの儀礼や信条を要求するのと比べれば、少ないと言える。それに内容か比較的具体的であり、頭をひねらなければならないような部分かないから、その意味でもシンプルだ。
イスラム法と現代社会
イスラム教はシンプルだとはいっても、イスラム教が歴史的に政治や法律の領域を広く覆ってきたことを忘れるわけにはいかない。このあたり、仏教やキリスト教とはかなり違っている。仏教は原則として修行者の宗教であり、在家に関しては、精神的指導を与えるという以上のものではない。キリスト教はローマ帝国の支配機構の只中に生まれたので、自らの持ち分を精神の王国に限り、政治と宗教との間に緊張関係を認める。しかし、イそフム教は、社会に唯一神の正義をゆきわたらせるという建前どおり、壮大なイスラム法(シャリーア)の体系を築き上げてきた。
それはクルアーン、ハディースなどを出発点として、かっちりと論理的に出来上がったシステムであり、礼拝の仕方のような宗教的なものから、結婚や離婚や遺産相続など民法にあたるもの、商法にあたるもの、刑法にあたるもの、さらには国際法にあたるものまで、人生の万般におよんでいる。やっていいことと悪いことの判断は、義務、推奨、許容、忌避、禁止の五段階評価でなされる。たとえば契約の履行は義務であり、貧者への施しは推奨され、盗みや姦通や飲酒や利子を取ることは禁止である(酒以外に渇きを癒すものかないときは許容扱いである)。
シャリーアをもっているというのは、六法全書と宗教の戒律をセ″卜でもっているようなもので、その重みはたいへん大きい。現代のイスラム諸国では国内法は西洋式の法律か運用されているが、信者の日常生活の規定としてはシャリーアが生き続けている。
現代におけるイそフム復興とかイスラム主義とか言われる思潮の中には、このイスラム法を国内法にしたいという要求かある。そうなってくると、近代西洋の政教分離の原理に抵触してしまうし、中世の昔の法の運用や刑の執行を、官僚機構や警察や軍隊をもった近代国家の権力でやっていいものやら、わからなくなる。また、男女間における扱いの差異も問題になる(たとえば家族の扶養義務は男性か負う、女性の遺産相続の権利は男性の半分である、など)。ほとんど執行されることはないとはいえ、姦通者への石打ちのような身体刑は、現代人の感性にも正義観にも合わない。イスラム教徒たちの間にも、意見の一致か見られなくなってきている。
イスラム教は、建前としては、近代国家の法制度のまるまる全体に匹敵する一個のシステムなのである。だからシステムとシステムとの摩擦やギャベフの問題かどうしても生じてしまう。これは個人としてのイスラム教徒か保守的か開明的かということとは別問題なのだ。信仰(心の中)ではなく、システム(社会の約束)に注目することで、イスラム問題のややこしさか日本人にとっても理解可能なものになるかもしれない。
六信、五行
ユダヤ教やキリスト教に比べると、後発のイスラム教の信仰内容はかなりコンパクトに整理されている。ユダヤ教徒ほどたくさんの戒律は背負い込まないし、キリスト教徒ほど観念的な神学を語ることもない。イスラム教徒として守ることになっているのは、六信と五行である。
六信はイスラム教徒が信じるべき六つのもの--神、天使、預言者、啓典、来世、定命--を指す。前述のとおり、預言者にはムハンマドのみならず、聖書の預言者やイエスも含まれる。啓典とは神が啓示した書ということだが、クルアーンのみならずユダヤ教やキリスト教の聖書を含む。来世とは終末後の世界で、人間は楽園か火獄に行く。定命とは一切をご存じの神の予定のことである。
五行はイスラム教徒が行なうべき五つのこと。信仰告白、サラート(礼拝)、ザカート(喜捨)、断食、ハッジ(巡礼)である。
信仰告白とは、「アッラー以外に神はなし」「ムハンマドはアッラーの使徒である」の二つの項目を証言すると誓うことだ。二人の男性イスラム教徒の前でこれをアラビア語で唱えれば、イスラム教に入信したことになる。サラートは二日五回メッカの方角に向かって行なう礼拝である。ザカートは宗教的な献金・税金のようなもので、貧困者などに分配される。五行の断食はイスラム暦のラマダーソ月に行なう一か月の断食だが、断食とはいえ日没後は食べる。イスラム暦は純粋な太陰暦(一年は三五四ないし三五五日)だから毎年どんどんずれていくので、断食が夏になることも冬になることもある。ハッジはメッカヘの巡礼だが、体力と財力かある者だけでよい。
と、こう並べると、けっこう信じるものも多く、やることも多いじゃないかと思われるかもしれないか、世界の宗教の多くか信者にたくさんの儀礼や信条を要求するのと比べれば、少ないと言える。それに内容か比較的具体的であり、頭をひねらなければならないような部分かないから、その意味でもシンプルだ。
イスラム法と現代社会
イスラム教はシンプルだとはいっても、イスラム教が歴史的に政治や法律の領域を広く覆ってきたことを忘れるわけにはいかない。このあたり、仏教やキリスト教とはかなり違っている。仏教は原則として修行者の宗教であり、在家に関しては、精神的指導を与えるという以上のものではない。キリスト教はローマ帝国の支配機構の只中に生まれたので、自らの持ち分を精神の王国に限り、政治と宗教との間に緊張関係を認める。しかし、イそフム教は、社会に唯一神の正義をゆきわたらせるという建前どおり、壮大なイスラム法(シャリーア)の体系を築き上げてきた。
それはクルアーン、ハディースなどを出発点として、かっちりと論理的に出来上がったシステムであり、礼拝の仕方のような宗教的なものから、結婚や離婚や遺産相続など民法にあたるもの、商法にあたるもの、刑法にあたるもの、さらには国際法にあたるものまで、人生の万般におよんでいる。やっていいことと悪いことの判断は、義務、推奨、許容、忌避、禁止の五段階評価でなされる。たとえば契約の履行は義務であり、貧者への施しは推奨され、盗みや姦通や飲酒や利子を取ることは禁止である(酒以外に渇きを癒すものかないときは許容扱いである)。
シャリーアをもっているというのは、六法全書と宗教の戒律をセ″卜でもっているようなもので、その重みはたいへん大きい。現代のイスラム諸国では国内法は西洋式の法律か運用されているが、信者の日常生活の規定としてはシャリーアが生き続けている。
現代におけるイそフム復興とかイスラム主義とか言われる思潮の中には、このイスラム法を国内法にしたいという要求かある。そうなってくると、近代西洋の政教分離の原理に抵触してしまうし、中世の昔の法の運用や刑の執行を、官僚機構や警察や軍隊をもった近代国家の権力でやっていいものやら、わからなくなる。また、男女間における扱いの差異も問題になる(たとえば家族の扶養義務は男性か負う、女性の遺産相続の権利は男性の半分である、など)。ほとんど執行されることはないとはいえ、姦通者への石打ちのような身体刑は、現代人の感性にも正義観にも合わない。イスラム教徒たちの間にも、意見の一致か見られなくなってきている。
イスラム教は、建前としては、近代国家の法制度のまるまる全体に匹敵する一個のシステムなのである。だからシステムとシステムとの摩擦やギャベフの問題かどうしても生じてしまう。これは個人としてのイスラム教徒か保守的か開明的かということとは別問題なのだ。信仰(心の中)ではなく、システム(社会の約束)に注目することで、イスラム問題のややこしさか日本人にとっても理解可能なものになるかもしれない。
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