『社会はどう壊れていて、いかに取り戻すのか』より 資本主義とフロンティア
ベーシックインカム論は、何を目的とするか、またどのような手段で行うかに関して、提唱者の間にも多くの異論があり、議論の蓄積も相当に厚いものである。ここではまず、一般的にイメージされているベーシックインカム(以下、BI)、すなわち、「貧困の防除を主たる目的とした、個人単位の現金無条件給付による基本所得」を対象に議論を進め、その後、斉藤拓が示した「首尾一貫したBI論」について論じる。
山森亮は、BI論の最大公約数的なものとしてアイルランド政府が2002年に作成した報告書を紹介している。それによれば、BIの魅力は次のように列挙できる。第1に、資力調査や社会保険記録の管理といった行政手続きの多くが不要になるという単純性、第2に、「貧困の罠」や「失業の罠」の除去、第3に、給付漏れや受給にあたってのスティグマの除去、第4に、家庭内労働従事者への独立した所得になる点、第5に、生活保護のような選別主義が除去し得なかった相対的貧困に効果的かもしれない点、第6に、公正で結束力のある社会の創造への効果、以上である。確かに、選別なき無条件給付であるから、生活保護受給者が感じてきたようなスティグマが除去されるというのは最大のメリットだろう。また、資力調査がなくなることで違法行政の余地もなくなる。極論すれば、行政手続きそのものがほとんど不要になるのだから、コストも大幅に抑えられると期待される。
すでにBI論に対しては、実現に向けての財源、労働意欲との関係等々、さまざまな観点から批判がなされてきているが、ここでは、その論争に足を踏み入れることはしない。1つだけ指摘するべきは、現金を給付することで貧困問題が解決すると考えるのは臆断だということである。生活保護バッシングの典型の1つに、受給者がギャンブル等に入り浸っていて怪しからん、というものがあるが、言うまでもなくギャンブル依存は「意志の問題」に還元できない。現金を給付して貧困問題が解決すると考えてしまう発想は、給付を受けても貧困状態に留まる人間は意志が弱く、「自立」に向けた内発的純粋性に欠けるのだと判断することと通底している。すると、BIによる貧困問題の解決という発想も、形を変えた〈名ばかりの自立〉の発想に他ならない。
確かに違法行政は問題である。しかし、だからといって貧困問題を行政から切り離そうというのは、短絡でしかない。また、ワーキング・プアの問題の顕在化と共に「下向きの平準化」が進行している現状において、生活保護が有しているはずのナショナルこ三一マム標示機能を忘れてはならない。総じて、は困の問題がかつてと変わってきたからと言って、一撃の改革を待望することは危険である。
斉藤拓は、徹底した市場主義と個人主義に立脚した整合的なBI論を提唱している。斉藤は、一般にイメージされるBIが、大半のBI論から乖離しているとし、むしろ、貧困防除を目的とするならばBIは妥当ではないという共通了解が、論者の間で形成されていると指摘する。斉藤は、自らの立場を「真正の市場原理主義」であると述べ、市場志向は何らかの目的のための手段ではなく、目的そのものであるべきだとする。そして、「完全競争の状態に接近していく」という「市場の一般的性質」を理由に、市場志向を擁護する(53)。その上で、個人主義道徳を貫徹し、各人の消極的自由を最大化することこそ目指すべき方向であるという価値観を提示し、BI論を擁護するのだ(54)。
斉藤自身が認めるように、この立場からすると、「選択肢は多いことにこしたことはない」ので、日雇い派遣は禁止されるべきではないと考えられるし、「派遣や請負で働いていてはスキルが身に付かないという物言いこそ、「スタンダード」な人生像」を想定するものとしてとして批判の対象になる(55)。確かに、論理的に首尾一貫した立場である。また、消極的自由を最大化し、画一的な人生像を設定しないという考え方は、多元性を肯定する古典的自由主義の理念に支えられており、本章の議論と親和的なものと言えなくもない。しかし、あくまで斉藤の関心は、首尾一貫したBI論がいかにして可能か、というところにあり、現実の社会において、特定の主義がさまざまな要因と結びついて変奏されるということは関心に入れていない。本論の関心は、むしろ後者の方にあった。その観点からすると、斉藤の首尾一貫したBI論で想定されている社会は、〈名ばかりの自立〉を付与された現代日本の個人をプレイヤーとして変奏されても成り立ってしまうように見える。つまり、個人主義道徳を貫徹せずとも、可能な社会像であるように思われるのだ。それゆえ、本論としては、このBI論とも価値を共有することができない。
ベーシックインカム論は、何を目的とするか、またどのような手段で行うかに関して、提唱者の間にも多くの異論があり、議論の蓄積も相当に厚いものである。ここではまず、一般的にイメージされているベーシックインカム(以下、BI)、すなわち、「貧困の防除を主たる目的とした、個人単位の現金無条件給付による基本所得」を対象に議論を進め、その後、斉藤拓が示した「首尾一貫したBI論」について論じる。
山森亮は、BI論の最大公約数的なものとしてアイルランド政府が2002年に作成した報告書を紹介している。それによれば、BIの魅力は次のように列挙できる。第1に、資力調査や社会保険記録の管理といった行政手続きの多くが不要になるという単純性、第2に、「貧困の罠」や「失業の罠」の除去、第3に、給付漏れや受給にあたってのスティグマの除去、第4に、家庭内労働従事者への独立した所得になる点、第5に、生活保護のような選別主義が除去し得なかった相対的貧困に効果的かもしれない点、第6に、公正で結束力のある社会の創造への効果、以上である。確かに、選別なき無条件給付であるから、生活保護受給者が感じてきたようなスティグマが除去されるというのは最大のメリットだろう。また、資力調査がなくなることで違法行政の余地もなくなる。極論すれば、行政手続きそのものがほとんど不要になるのだから、コストも大幅に抑えられると期待される。
すでにBI論に対しては、実現に向けての財源、労働意欲との関係等々、さまざまな観点から批判がなされてきているが、ここでは、その論争に足を踏み入れることはしない。1つだけ指摘するべきは、現金を給付することで貧困問題が解決すると考えるのは臆断だということである。生活保護バッシングの典型の1つに、受給者がギャンブル等に入り浸っていて怪しからん、というものがあるが、言うまでもなくギャンブル依存は「意志の問題」に還元できない。現金を給付して貧困問題が解決すると考えてしまう発想は、給付を受けても貧困状態に留まる人間は意志が弱く、「自立」に向けた内発的純粋性に欠けるのだと判断することと通底している。すると、BIによる貧困問題の解決という発想も、形を変えた〈名ばかりの自立〉の発想に他ならない。
確かに違法行政は問題である。しかし、だからといって貧困問題を行政から切り離そうというのは、短絡でしかない。また、ワーキング・プアの問題の顕在化と共に「下向きの平準化」が進行している現状において、生活保護が有しているはずのナショナルこ三一マム標示機能を忘れてはならない。総じて、は困の問題がかつてと変わってきたからと言って、一撃の改革を待望することは危険である。
斉藤拓は、徹底した市場主義と個人主義に立脚した整合的なBI論を提唱している。斉藤は、一般にイメージされるBIが、大半のBI論から乖離しているとし、むしろ、貧困防除を目的とするならばBIは妥当ではないという共通了解が、論者の間で形成されていると指摘する。斉藤は、自らの立場を「真正の市場原理主義」であると述べ、市場志向は何らかの目的のための手段ではなく、目的そのものであるべきだとする。そして、「完全競争の状態に接近していく」という「市場の一般的性質」を理由に、市場志向を擁護する(53)。その上で、個人主義道徳を貫徹し、各人の消極的自由を最大化することこそ目指すべき方向であるという価値観を提示し、BI論を擁護するのだ(54)。
斉藤自身が認めるように、この立場からすると、「選択肢は多いことにこしたことはない」ので、日雇い派遣は禁止されるべきではないと考えられるし、「派遣や請負で働いていてはスキルが身に付かないという物言いこそ、「スタンダード」な人生像」を想定するものとしてとして批判の対象になる(55)。確かに、論理的に首尾一貫した立場である。また、消極的自由を最大化し、画一的な人生像を設定しないという考え方は、多元性を肯定する古典的自由主義の理念に支えられており、本章の議論と親和的なものと言えなくもない。しかし、あくまで斉藤の関心は、首尾一貫したBI論がいかにして可能か、というところにあり、現実の社会において、特定の主義がさまざまな要因と結びついて変奏されるということは関心に入れていない。本論の関心は、むしろ後者の方にあった。その観点からすると、斉藤の首尾一貫したBI論で想定されている社会は、〈名ばかりの自立〉を付与された現代日本の個人をプレイヤーとして変奏されても成り立ってしまうように見える。つまり、個人主義道徳を貫徹せずとも、可能な社会像であるように思われるのだ。それゆえ、本論としては、このBI論とも価値を共有することができない。