未唯への手紙
未唯への手紙
多層空間を作る意味
多層空間
多層空間から出てくる答えは何か? 本当に答はあるのか。ベースが一緒であることを保証するためには、同じエレメントで表現できるかどうかまで確認しないといけない。
数学的なベースが本当にできるのか。結局、論理を飛躍させるためでしょう。たとえば、「クラウド」と「共有意識」をつなげることで、SFDCの役割が見えてくる。そうなると、フェースブックなどもどういう関係になるのか。
シェアすることの意味と新しい環境が関係してきます。そのイメージを作るために、多層化を行っている。つなぐことと気づくこと。
意思の力から存在の力への遷移
早く、この環境をまとめないと、もっと大きな変化に対応できない。例えば、歴史哲学についても、意思の力から存在の力へ移行すること、その流れをしめさなないといけない。
L2「存在の力」の中のL21「意思の力」の③支配から、この会社の状況を絡ませると、社長が何をするかが見えてくる。従業員は④依存に状態にある。存在の力でいかように変えていくのか。この結末がどうなるかも見えてくる。
人事異動の時期
職場の人事は気になりません。この会社の社長のあり方だけが気になります。全てはそこから。自分のところを守ろうという意識では、絶対に守れない。それを取り巻く連中のスタンディング・フォーマーション。それを信じている姿は滑稽ですね。
真理を求める旅
「社会の真理」「数学の真理」それらはジャンルの最後に出てきます。結局、真理を求める旅だったんです。
孤独感と無力感が気になる
ハレーすい星はどこかに飛んでいきました。孤独感と無力感を抱いたまま、どこへ行ったのか。業務日誌を見ていると、販売店に擦り寄るのではなく、単に事務処理を求められている。あれでは、全体を考え、先を見ていく能力が生きてこない。大きなジレンマの中に放り込まれます。
勝手に気をもむのは疲れます。
ウィットゲンシュタインからのパクリ
言葉を作り、言葉をイメージして、空間を作り上げる。
もっと、根源をめざそう
この跋扈跋扈した感覚。何かおかしい。何をさせたいのか。もっと根源に行かないと、やはり、よく分からない。テーマの論理篇を深堀しましょう。
数学の問題を解くのと似ています。解いたからとして、どうなるものではない。分かった気分になるだけです。誰も解いたことがない問題、問題にしていない問題を解くのが数学者です。だから、数学者の役割を果たすだけです。
今、一番の大きな問題は、人間の存在でしょう。なぜ、この時期に、こんな地球文明があるのか、それが何を意味するのか、意味そのものがあるのか。
ウィットゲンシュタインではないけど、考えている間にものごとは進行する。それで十分な気がするけど、何故、放り込まれたのか。放り込まれなければ、こんなこと自体も気になることは無い。存在しないのだから。
多層空間から出てくる答えは何か? 本当に答はあるのか。ベースが一緒であることを保証するためには、同じエレメントで表現できるかどうかまで確認しないといけない。
数学的なベースが本当にできるのか。結局、論理を飛躍させるためでしょう。たとえば、「クラウド」と「共有意識」をつなげることで、SFDCの役割が見えてくる。そうなると、フェースブックなどもどういう関係になるのか。
シェアすることの意味と新しい環境が関係してきます。そのイメージを作るために、多層化を行っている。つなぐことと気づくこと。
意思の力から存在の力への遷移
早く、この環境をまとめないと、もっと大きな変化に対応できない。例えば、歴史哲学についても、意思の力から存在の力へ移行すること、その流れをしめさなないといけない。
L2「存在の力」の中のL21「意思の力」の③支配から、この会社の状況を絡ませると、社長が何をするかが見えてくる。従業員は④依存に状態にある。存在の力でいかように変えていくのか。この結末がどうなるかも見えてくる。
人事異動の時期
職場の人事は気になりません。この会社の社長のあり方だけが気になります。全てはそこから。自分のところを守ろうという意識では、絶対に守れない。それを取り巻く連中のスタンディング・フォーマーション。それを信じている姿は滑稽ですね。
真理を求める旅
「社会の真理」「数学の真理」それらはジャンルの最後に出てきます。結局、真理を求める旅だったんです。
孤独感と無力感が気になる
ハレーすい星はどこかに飛んでいきました。孤独感と無力感を抱いたまま、どこへ行ったのか。業務日誌を見ていると、販売店に擦り寄るのではなく、単に事務処理を求められている。あれでは、全体を考え、先を見ていく能力が生きてこない。大きなジレンマの中に放り込まれます。
勝手に気をもむのは疲れます。
ウィットゲンシュタインからのパクリ
言葉を作り、言葉をイメージして、空間を作り上げる。
もっと、根源をめざそう
この跋扈跋扈した感覚。何かおかしい。何をさせたいのか。もっと根源に行かないと、やはり、よく分からない。テーマの論理篇を深堀しましょう。
数学の問題を解くのと似ています。解いたからとして、どうなるものではない。分かった気分になるだけです。誰も解いたことがない問題、問題にしていない問題を解くのが数学者です。だから、数学者の役割を果たすだけです。
今、一番の大きな問題は、人間の存在でしょう。なぜ、この時期に、こんな地球文明があるのか、それが何を意味するのか、意味そのものがあるのか。
ウィットゲンシュタインではないけど、考えている間にものごとは進行する。それで十分な気がするけど、何故、放り込まれたのか。放り込まれなければ、こんなこと自体も気になることは無い。存在しないのだから。
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今後の数学
空虚感
この空虚感は何から出ているのか。高々、コンタクトがなかったというだけじゃないか。あの星占いは当てにならない。今週はコンタクトがないでしょう。
多分、未唯空間に一切触らなかったことが一番の起因でしょう。その分、週末に得たものを大切にしましょう。全部、折り込みます。会社と踏ん切りを着けた、木曜日で止まっている感じです。だから、木曜日に戻します。
今後の数学
数学はフィールズ賞を見ても、今後の数学が見えてこない。狭く、難しくなっているだけです。
純粋数学よりも物理寄りになっている。もっと言語表現ではないけど、哲学的な思想を受けて、人間の存在に役立つものにしていかないといけない。なにしろ、存在のインフラです。その意味では、私の新しい数学は的をついている。ただし、理論化が難しい。
なにしろ、共有意識とか存在の力とかの概念になっています。ベクトルも完全に人の間に散らばっているし、宇宙そのものも一つのベクトルになっている。トポロジーのアイデアを持ってきて、数学を大きく変えることでしょう。それだけの力は私にはない。人に求めるしかない。
新しい数学は、LL=GGです。その空間がどんな位相になるのか。
24時間、考え続ける
とりあえず、24時間、考え続けられるものは作ったのだから、それを活かしましょう。言葉をイメージ化すること、ずっと、考えることだけが私に残されている。あとは、表現の仕方でしょう。
本のレベル超
この最近は、本のレベルを超えています。それをブログに書きます。これだけ知識のある連中がこんなレベルではダメでしょう。かといって、彼らを変えさせるつもりはない。変わる時は変わるし、変わらなければ、それまでのことです。
今週の予定
先週の成果は、金曜日に100件以上の書き起こしを家の環境で出来たことです。まあ、邪魔がなかったから。
明日からは、多層化に集中させます。多層化の必要なものを何を置いても、今日中に片付けます。
人についていく
付いて行こうとは思わないし、それに対抗して、この分野をやりましょうという気もない。前室長の時には、新しい分野を拓いて、彼を応援した。
研究開発部署の時は、広い世界を見せてもらったという感じです。その中で何をやってもいいんだ。いつでも、私が先にあったというのは確かです。部品表の時も、自分の数学を切り拓いていた。付いていく人がいない。だから、大学の「教育」も受けたいと思わない。違うんだから。
この感覚がある以上は、自分で開くしかない。そして、諦めるしかない。
本を読んでいるのも同じです。超えるものを探したり、反面教師にしたりしている。自分の思いを完全に言葉にしないといけない。
胸の痛み
胸の痛みが本格的になってきた。食べたり、歩いたりしなくても、痛みがあります。歩くことを止めて、車で来ました。
誰のために
誰のためにということがないのは、きついですね。仮想的に持つしかないでしょう。愛する人のために。奥さんは、私に対しては、全て、適当な返事だけするだけです。仮想的な相手にはなりえません。
意思の力の強さと弱さ
存在の力に対抗する意思の力の強さを確認できた。あくまでも、自分を守ることと、範囲を狭くすること。それを彼らはやっている。
そして、その取り巻きが多い。マークじゃないけど、それを破ろうとする人間も多い。図らずしも、パートナーにいった言葉「敵も多いけど、味方も多い」状態です。
それで自分はどうしていくのか。それも存在の力でやっていくしかない。彼らは意思の力で対抗するから。
意思の力での持続可能性は成り立たないことをどう説明するか。ブラックスワンではないけど、この会社が存続できないことを示せばいいのでしょう。ただし、存在の力に遷移するのは、混乱は必須です。反発は革命レベルです。
マルクス「資本論」
レーニンはマルクスから原理を導入した。当時のロシアはマルクスが想定した資本主義社会そのものであった。
当時のイギリスとかドイツは、資本主義の悪さを社会保障というカタチで、回避させていた。だから、このまま進めば、どうにかなるという感覚を多くの人に与えていた。だから、一気に燃えることは無かった。
そのガス抜きに対抗するために、全体主義が起った。全体の効率アップのために。それに負けてしまった。産業革命の勝ち組のイギリスはその優位を守ろうとして、立ち向かった。ドイツとイギリスの間に居たのが、フランスなんでしょう。
集合が点になる
集合が点になることは、集合の中の要素のベクトルが無視され、点としてのベクトルを採用する。これは画期的です。だから、多層空間ではそれを表現する。4つの要素を未唯空間の項目と関係づけるが、それの項目自体は別のモノとつなげる。
この空虚感は何から出ているのか。高々、コンタクトがなかったというだけじゃないか。あの星占いは当てにならない。今週はコンタクトがないでしょう。
多分、未唯空間に一切触らなかったことが一番の起因でしょう。その分、週末に得たものを大切にしましょう。全部、折り込みます。会社と踏ん切りを着けた、木曜日で止まっている感じです。だから、木曜日に戻します。
今後の数学
数学はフィールズ賞を見ても、今後の数学が見えてこない。狭く、難しくなっているだけです。
純粋数学よりも物理寄りになっている。もっと言語表現ではないけど、哲学的な思想を受けて、人間の存在に役立つものにしていかないといけない。なにしろ、存在のインフラです。その意味では、私の新しい数学は的をついている。ただし、理論化が難しい。
なにしろ、共有意識とか存在の力とかの概念になっています。ベクトルも完全に人の間に散らばっているし、宇宙そのものも一つのベクトルになっている。トポロジーのアイデアを持ってきて、数学を大きく変えることでしょう。それだけの力は私にはない。人に求めるしかない。
新しい数学は、LL=GGです。その空間がどんな位相になるのか。
24時間、考え続ける
とりあえず、24時間、考え続けられるものは作ったのだから、それを活かしましょう。言葉をイメージ化すること、ずっと、考えることだけが私に残されている。あとは、表現の仕方でしょう。
本のレベル超
この最近は、本のレベルを超えています。それをブログに書きます。これだけ知識のある連中がこんなレベルではダメでしょう。かといって、彼らを変えさせるつもりはない。変わる時は変わるし、変わらなければ、それまでのことです。
今週の予定
先週の成果は、金曜日に100件以上の書き起こしを家の環境で出来たことです。まあ、邪魔がなかったから。
明日からは、多層化に集中させます。多層化の必要なものを何を置いても、今日中に片付けます。
人についていく
付いて行こうとは思わないし、それに対抗して、この分野をやりましょうという気もない。前室長の時には、新しい分野を拓いて、彼を応援した。
研究開発部署の時は、広い世界を見せてもらったという感じです。その中で何をやってもいいんだ。いつでも、私が先にあったというのは確かです。部品表の時も、自分の数学を切り拓いていた。付いていく人がいない。だから、大学の「教育」も受けたいと思わない。違うんだから。
この感覚がある以上は、自分で開くしかない。そして、諦めるしかない。
本を読んでいるのも同じです。超えるものを探したり、反面教師にしたりしている。自分の思いを完全に言葉にしないといけない。
胸の痛み
胸の痛みが本格的になってきた。食べたり、歩いたりしなくても、痛みがあります。歩くことを止めて、車で来ました。
誰のために
誰のためにということがないのは、きついですね。仮想的に持つしかないでしょう。愛する人のために。奥さんは、私に対しては、全て、適当な返事だけするだけです。仮想的な相手にはなりえません。
意思の力の強さと弱さ
存在の力に対抗する意思の力の強さを確認できた。あくまでも、自分を守ることと、範囲を狭くすること。それを彼らはやっている。
そして、その取り巻きが多い。マークじゃないけど、それを破ろうとする人間も多い。図らずしも、パートナーにいった言葉「敵も多いけど、味方も多い」状態です。
それで自分はどうしていくのか。それも存在の力でやっていくしかない。彼らは意思の力で対抗するから。
意思の力での持続可能性は成り立たないことをどう説明するか。ブラックスワンではないけど、この会社が存続できないことを示せばいいのでしょう。ただし、存在の力に遷移するのは、混乱は必須です。反発は革命レベルです。
マルクス「資本論」
レーニンはマルクスから原理を導入した。当時のロシアはマルクスが想定した資本主義社会そのものであった。
当時のイギリスとかドイツは、資本主義の悪さを社会保障というカタチで、回避させていた。だから、このまま進めば、どうにかなるという感覚を多くの人に与えていた。だから、一気に燃えることは無かった。
そのガス抜きに対抗するために、全体主義が起った。全体の効率アップのために。それに負けてしまった。産業革命の勝ち組のイギリスはその優位を守ろうとして、立ち向かった。ドイツとイギリスの間に居たのが、フランスなんでしょう。
集合が点になる
集合が点になることは、集合の中の要素のベクトルが無視され、点としてのベクトルを採用する。これは画期的です。だから、多層空間ではそれを表現する。4つの要素を未唯空間の項目と関係づけるが、それの項目自体は別のモノとつなげる。
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「数学」とは何か? そしてこの先どこへ行くのか?
『数学史』より
ほとんどの数学科の学生が経験する失望の一つは、彼らが数学の講義を受けていないということである。彼らは解析学、代数学、トポロジー、その他の講義を受けているが、別々に教えられるために、それらが全体として一つであることを見え難くしている。実際に最も重要で自然な問題が、本筋と違う境界領域にあるとして抑制されてしまう。代数学者たちは代数学の基本定理を「それは解析学」として取り扱わず、解析学者たちはリ一マン面を「それはトポロジー」として取り上げない、などのように。したがって学生たちが卒業までに本当に数学を知りたいと思ったら、これらの各分野を統一する事が必要である。
したがって「きちんと学ばなければ分からない学科」の代表として「数学」が選ばれたことが分かる。元々は物の個数を数え、総計し、分配するといった日常生活の必要から生まれたが、文明が進むにっれて税金の計算や濯漑工事の材料調達や人員手配の予定作成などのように、計算は大型化し膨大になる。また暦の計算も次第に正確になり、精密になっていく。科学革命の時代になると、ガリレオのやったように、「実験」によって自然法則を見つけるようになり、実験結果の分析のために数学の計算は重要性を増す。こうなると科学と技術は社会生活に直結することになり、「数学」は縁の下の力持ちとして日常生活のあらゆる局面で力を発揮することになる。建物の強度計算、橋の設計、ブレーキの利き具合、テレビ電波の受信状況、天気予報などなど、私たちの快適な生活のすべては数学のかげの力によって成り立っているのである。それが余りにも全面的なので、かえって見えにくくなって、「学校を出てからおつりの計算にしか数学は使わないから、2次方程式の根の公式は不要だ」とか、「ピュタゴラスの定理は要らない」といった的はずれな議論が出てくるのであろう。
話がそれたが、生活の必要から生まれた「数学」は文化の進展と共に進化をして、新しい必要に応えられるようになる。特に科学革命の時代以降は、「知は力なり= scientia est potentia (F。ベーコン)」となって、数学の力に裏づけされた科学・技術を介して社会生活と直結するものとなった。さらに科学が大きく進歩したために、数学の理論もそれに対応できるように進化を続けている。それだけでなく、どんな学問もそれ自身の自律的な発展の力を持っていて、「数学」はその内的な力でも深化を続けている。確かに現在のように、数学が各分野に分かれて高度に発展すると、この節の冒頭に引用したように、「一つの数学」ではなく、数学の各分野を学ぶばかりで、「数学」そのものを学ぶという実感が持てないのが実情であろう。しかし歴史を見れば分かるとおり、数学は常に一つの統一体なのである。これから先も「数学」は「一つの数学」として豊かな歩みを続けていくことであろう。
それでは、「縁の下の力持ち」である「数学」がどうしてそんなに大きな力を発揮できるのだろうか? それは、「数学」が現実世界にあるものをモデルにして「抽象化」と「理想化」を行い、頭の中で理想化した対象に対して永遠に成り立つ法則を探求する学問だからである。その永遠性を獲得した理由には、もう一つ「証明の発見」がある。古代ギリシアで「証明」が必要とされて、数学は厳格な学問として歩み始めた。「抽象化」によってどんな場合にも使えるという「普遍性」を獲得し、「理想化」した対象を相手に証明つきで理論を組み立てることによって「永遠性」を獲得したのである。物理学などの自然科学は現実に起きる現象を分析する学問だから本質的に現実から逃れられないのに対して、数学は頭の中で作り上げた抽象概念を論理の働きで組立てるものなので、人間理性の活躍でどんどん自分の道を進むことが出来るのである。そして生活のあらゆる場面で裏方として役立っていながら、それが気付かれないほどの謙虚さも併せ持っているのが「数学」である。数学の「普遍性」と「永遠性」と共に、この「謙虚さ」も含めて、私は「数学」は素晴らしいと思う。
日本でも世界でも、今も若い才能がすくすくと育っていて、「数学」をこれからも発展させてくれるであろう。また、「フェルマーの最終定理」の証明に続いて、21世紀初頭には「ポアンカレ予想」が解決し、私たちは歴史的な大問題がリアルタイムで解決する様子を見ることが出来た。さらに2012年8月終わりには日本の望月新一さんによって「abc予想」を解決したとする大論文が発表されて、私たちがとても実りの多い時期に生きていることを実感する。「ポアンカレ予想」の場合には三つの国際チームに分けて、3年がかりで検証して正しいことを確認したが、望月さんの総計500ページにも上る大論文の検証にはそれ以上の時間が必要かもしれない。10年単位の検証時間が必要だろうと見ている数学者もいるようだ。大変な作業ではあるが、正しいことが確認できて、日本人の大きな貢献となることを期待したいと思う。
もう一つ、数学史によって気付かされたことは、人間精神の素晴らしさであった。4000年近く前には2次方程式が解かれ、特定の3次方程式までも解かれていた。必ずしも必要に迫られて解決したのではなく、恐らく計算好きなバビロニアの書記たちの精神の飛翔の結果だったのだ。そう、人間の精神は現実の生活を離れて大きく自由に飛翔することが出来るのである。それは時代を問わない。19世紀の半ば、天才リーマンは「歪んだ空間」の理論を作り上げた。それから60年経って、別の天才アインシュタインはその理論を使って「一般相対性理論」を作り上げ、物理学を革命してしまったのである。数学は物理学から解決すべき問題をたくさん貰いその内容を豊かにしているが、人間の想像力の産物を使って新しい物理学を作り上げることも出来るのである。
私は数学の未来は明るいと信じている。『数学史』を終えるに当たり、かつてヒルペルトが力強く述べた言葉を引用したいと思う。
「我々は知らねばならない。我々は知るであろう。」
この言葉の通り、数学はいかなる限界をも乗り越えて発展を続けていくに違いない。その水源ははっきりしないが、水源が分からなくとも「数学」は大河のように、長い時を流れてきた。そしてこれからも人類文明の最も重要な要素の一つ、エッセンスとして、人間の想像力がある限り、豊かに流れ続けていくことであろう。
ほとんどの数学科の学生が経験する失望の一つは、彼らが数学の講義を受けていないということである。彼らは解析学、代数学、トポロジー、その他の講義を受けているが、別々に教えられるために、それらが全体として一つであることを見え難くしている。実際に最も重要で自然な問題が、本筋と違う境界領域にあるとして抑制されてしまう。代数学者たちは代数学の基本定理を「それは解析学」として取り扱わず、解析学者たちはリ一マン面を「それはトポロジー」として取り上げない、などのように。したがって学生たちが卒業までに本当に数学を知りたいと思ったら、これらの各分野を統一する事が必要である。
したがって「きちんと学ばなければ分からない学科」の代表として「数学」が選ばれたことが分かる。元々は物の個数を数え、総計し、分配するといった日常生活の必要から生まれたが、文明が進むにっれて税金の計算や濯漑工事の材料調達や人員手配の予定作成などのように、計算は大型化し膨大になる。また暦の計算も次第に正確になり、精密になっていく。科学革命の時代になると、ガリレオのやったように、「実験」によって自然法則を見つけるようになり、実験結果の分析のために数学の計算は重要性を増す。こうなると科学と技術は社会生活に直結することになり、「数学」は縁の下の力持ちとして日常生活のあらゆる局面で力を発揮することになる。建物の強度計算、橋の設計、ブレーキの利き具合、テレビ電波の受信状況、天気予報などなど、私たちの快適な生活のすべては数学のかげの力によって成り立っているのである。それが余りにも全面的なので、かえって見えにくくなって、「学校を出てからおつりの計算にしか数学は使わないから、2次方程式の根の公式は不要だ」とか、「ピュタゴラスの定理は要らない」といった的はずれな議論が出てくるのであろう。
話がそれたが、生活の必要から生まれた「数学」は文化の進展と共に進化をして、新しい必要に応えられるようになる。特に科学革命の時代以降は、「知は力なり= scientia est potentia (F。ベーコン)」となって、数学の力に裏づけされた科学・技術を介して社会生活と直結するものとなった。さらに科学が大きく進歩したために、数学の理論もそれに対応できるように進化を続けている。それだけでなく、どんな学問もそれ自身の自律的な発展の力を持っていて、「数学」はその内的な力でも深化を続けている。確かに現在のように、数学が各分野に分かれて高度に発展すると、この節の冒頭に引用したように、「一つの数学」ではなく、数学の各分野を学ぶばかりで、「数学」そのものを学ぶという実感が持てないのが実情であろう。しかし歴史を見れば分かるとおり、数学は常に一つの統一体なのである。これから先も「数学」は「一つの数学」として豊かな歩みを続けていくことであろう。
それでは、「縁の下の力持ち」である「数学」がどうしてそんなに大きな力を発揮できるのだろうか? それは、「数学」が現実世界にあるものをモデルにして「抽象化」と「理想化」を行い、頭の中で理想化した対象に対して永遠に成り立つ法則を探求する学問だからである。その永遠性を獲得した理由には、もう一つ「証明の発見」がある。古代ギリシアで「証明」が必要とされて、数学は厳格な学問として歩み始めた。「抽象化」によってどんな場合にも使えるという「普遍性」を獲得し、「理想化」した対象を相手に証明つきで理論を組み立てることによって「永遠性」を獲得したのである。物理学などの自然科学は現実に起きる現象を分析する学問だから本質的に現実から逃れられないのに対して、数学は頭の中で作り上げた抽象概念を論理の働きで組立てるものなので、人間理性の活躍でどんどん自分の道を進むことが出来るのである。そして生活のあらゆる場面で裏方として役立っていながら、それが気付かれないほどの謙虚さも併せ持っているのが「数学」である。数学の「普遍性」と「永遠性」と共に、この「謙虚さ」も含めて、私は「数学」は素晴らしいと思う。
日本でも世界でも、今も若い才能がすくすくと育っていて、「数学」をこれからも発展させてくれるであろう。また、「フェルマーの最終定理」の証明に続いて、21世紀初頭には「ポアンカレ予想」が解決し、私たちは歴史的な大問題がリアルタイムで解決する様子を見ることが出来た。さらに2012年8月終わりには日本の望月新一さんによって「abc予想」を解決したとする大論文が発表されて、私たちがとても実りの多い時期に生きていることを実感する。「ポアンカレ予想」の場合には三つの国際チームに分けて、3年がかりで検証して正しいことを確認したが、望月さんの総計500ページにも上る大論文の検証にはそれ以上の時間が必要かもしれない。10年単位の検証時間が必要だろうと見ている数学者もいるようだ。大変な作業ではあるが、正しいことが確認できて、日本人の大きな貢献となることを期待したいと思う。
もう一つ、数学史によって気付かされたことは、人間精神の素晴らしさであった。4000年近く前には2次方程式が解かれ、特定の3次方程式までも解かれていた。必ずしも必要に迫られて解決したのではなく、恐らく計算好きなバビロニアの書記たちの精神の飛翔の結果だったのだ。そう、人間の精神は現実の生活を離れて大きく自由に飛翔することが出来るのである。それは時代を問わない。19世紀の半ば、天才リーマンは「歪んだ空間」の理論を作り上げた。それから60年経って、別の天才アインシュタインはその理論を使って「一般相対性理論」を作り上げ、物理学を革命してしまったのである。数学は物理学から解決すべき問題をたくさん貰いその内容を豊かにしているが、人間の想像力の産物を使って新しい物理学を作り上げることも出来るのである。
私は数学の未来は明るいと信じている。『数学史』を終えるに当たり、かつてヒルペルトが力強く述べた言葉を引用したいと思う。
「我々は知らねばならない。我々は知るであろう。」
この言葉の通り、数学はいかなる限界をも乗り越えて発展を続けていくに違いない。その水源ははっきりしないが、水源が分からなくとも「数学」は大河のように、長い時を流れてきた。そしてこれからも人類文明の最も重要な要素の一つ、エッセンスとして、人間の想像力がある限り、豊かに流れ続けていくことであろう。
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トルストイの歴史認識
トルストイ『戦争と平和』より
人間の理性には、運動の絶対的連続性というものは理解できない。どんな運動にもせよ、その法則が人間に理解されるのは、人間が勝手に取り上げたその運動の単位を観察するときだけにすぎない。しかし、それと同時に、連続的運動をそのように勝手に、小間切れの単位に分けることによって、人間の迷誤の大半が生じるのである。
アキレスはカメより十倍も速く進んでいるのに、前を行くカメに絶対に追いつけないという、古代人のいわゆる詭弁はよく知られている。アキレスが自分とカメをへだてている距離を進んだ瞬間に、カメは彼より前方に、その距離の十分の一だけ進む。アキレスがその十分の一を進むと、カメは百分の一進むといったわけで、無限に続くのだ。この問題は古代人には、解決できないもののように思えた。この解答の無意味さ(アキレスが絶対にカメに追いつかないということ)は、アキレスとカメの運動が切れ目なく行われているのに、その運動の小間切れの単位を勝手に仮定したからこそ、生じたのだ。
運動の単位をますます小さくして取り上げていっても、我々はただ問題の解決に近づくだけで、けっして解決に到達することはない。無限小の数と、そこから発して十分の一まで至る級数を考え、その等比級数の和を求めることによってはじめて、我々は問題の解決に到達する。新しい数学の分野は、無限小の数量を取り扱う方法を会得して、ほかのもっと複雑な運動の問題においても、かつては解決不可能に思えた問いに、今では答えを与えている。
この新しい、古代人の知らなかった数学の分野は、運動の問題を検討する際に、無限小の数量、つまり、運動の重要な条件(絶対的連続性)が復元されるような数量を認め、それによって、人間の理性が連続的な運動ではなくて、運動の個々の部分を追求する際に、必ずしてしまう必然的な誤りを正している。
歴史の運動法則を求める場合にも、まったく同じことが生じる。
人類の運動は無数の人間の気ままな意志から生じながら、切れ目なく行われている。この運動の法則を把握することが歴史の目的である。ところが、人間の気ままな意志の総和が連続的に運動していく際の法則を把握するために、人間の理性は勝手な、小間切れの単位を仮定する。歴史の第一の方法は、切れ目のない多くの事件の一区切りを勝手に取り上げ、それをほかのものから切り離して観察することにある。ところが実は、どんな事件にも始点はなく、あり得るはずもなく、必ず一つの事件は他の事件から切れ目なく生じているのである。第二の方法は、皇帝、司令官など、一人の人間の行為を、人々の気ままな意志の総和として観察することである。ところが実は、人間の気ままな意志の総和は、けっして一人の歴史的人物の行為にあらわれるものではない。
歴史学はその動きのなかで、たえず観察のために、次第次第に小さな単位を取り上げていって、その方法で真理に近づこうとする。しかし、歴史が取り上げる部分がどんなに小さくても、ほかのものから切り離された単位を仮定すること、何かの現象の発端を仮定すること、すべての人間の気ままな意志が、一人の歴史的人物の行動に表現されていると仮定することは、それ自体誤りだと、我々は感じる。
歴史の結論はどんなものにもせよ、批判する側がなんの努力をしなくても、塵芥のように、跡も残さず、くずれ去ってしまう。そのために批判する側はそれより大きいか小さい、小間切れの部分を観察の対象に選びさえすればいい。批判する側はその権利を常に持っている。なぜなら、歴史の取り上げた単位は常に自分勝手なものだからである。
観察のために無限小の単位-歴史の微分、つまり、人間たちの同質の欲求を認め、積分(この無限小の総和をとる)方法を会得したときにはじめて、我々は歴史の法則を把握する期待が持てるのだ。
十九世紀の最初の十五年に、ヨーロッパで無数の人間の異常な動きが現れる。人々は自分のいつもの仕事を捨て、ヨーロッパの片側から別の側をめざして進み、略奪し、殺し合い、勝ち誇り、絶望し、そして、生活の流れ全体が数年にわたって変わり、緊張した動きを呈し、それが初めは高まり、やがて弱まりながら、進んで行く。この動きの原因は何か、あるいは、どんな法則によってそれは生じたのかと、人間の理性は問う。
歴史家はその問いに答えようとして、パリ市内の一つの建物に集まった数十人の者たちの行動やことばを我々に述べ、その行動やことばを革命という語で呼ぶ。それからナポレオンと彼に好意や敵意を持っていた幾人かの人物の伝記をこまかく示し、その人物たちの一部の者がほかの者に与えた影響について語り、そして、こういうことの結果、あの動きが生じたのだ、これがその法則だ、と言う。
しかし、人間の理性はこの説明を信じるのを拒否するばかりではない。この説明の方法は正しくない、なぜなら、この説明では、弱い方の現象が、強い方の原因とされているからだと、人間の理性ははっきり言うのである。人間の気ままな意志の総和が革命も、ナポレオンも作り出したのであり、革命やナポレオンを甘受したり、破滅させたのも、この気ままな意志の総和にほかならなかった。
「しかし、侵略があるたびごとに、侵略者がいた。クーデタがあるたびに、偉大な人物がいた」と歴史は言う。たしかに、侵略者が現れるたびごとに、戦争もあった、と人間の理性は答える。しかし、これは侵略者が戦争の原因で、戦争の法則を∵人の人間の個人的行為のなかに発見することができる、という証拠にはならない。私が時計をながめて、針が十に近づいたのを見るたびに、隣の教会で礼拝を知らせる鐘の音が聞こえはじめる。しかし、針が十時のところに来るたびごとに、礼拝を知らせる鐘が鳴りはじめるからといって、針の位置が鐘の動く原因だ、と結論する根拠を、私は持たない。
私は蒸気機関車が動くのを見るたびに、汽笛の音を聞き、バルブが開き、車輪が動くのを見る。しかし、だからといって、汽笛と車輪の動きが機関車を動かす原因だ、と結論する根拠を、私は持たない。
農民たちは、晩春に冷たい風が吹くのは、ナラの芽がふくらむからだと言う。たしかに、春にはいつも、ナラが芽吹くころに、冷たい風が吹く。しかし、ナラの芽吹くころに吹く冷たい風の原因は、私にはわからないけれども、風の力は芽の影響の外にあるというだけの理由をもってしても、冷たい風の原因がナラの芽のふくらむことだと言う農民たちに、私は賛成できない。私はただあらゆる生活現象のなかにある、さまざまな条件が一致していることだけは見てわかっており、どれほど、どんなに細かく時計の針や、蒸気機関車のバルブと車輪や、ナラの芽を観察しても、礼拝の鐘、蒸気機関車の動き、春風の原因は知り得ない、ということはわかっている。原因を知るためには、私は自分の観察の視点をまったく変えて、蒸気、鐘、風の動きを観察しなければならない。それと同じことを歴史もしなければならないのだ。そして、その試みはすでになされている。
人間の理性には、運動の絶対的連続性というものは理解できない。どんな運動にもせよ、その法則が人間に理解されるのは、人間が勝手に取り上げたその運動の単位を観察するときだけにすぎない。しかし、それと同時に、連続的運動をそのように勝手に、小間切れの単位に分けることによって、人間の迷誤の大半が生じるのである。
アキレスはカメより十倍も速く進んでいるのに、前を行くカメに絶対に追いつけないという、古代人のいわゆる詭弁はよく知られている。アキレスが自分とカメをへだてている距離を進んだ瞬間に、カメは彼より前方に、その距離の十分の一だけ進む。アキレスがその十分の一を進むと、カメは百分の一進むといったわけで、無限に続くのだ。この問題は古代人には、解決できないもののように思えた。この解答の無意味さ(アキレスが絶対にカメに追いつかないということ)は、アキレスとカメの運動が切れ目なく行われているのに、その運動の小間切れの単位を勝手に仮定したからこそ、生じたのだ。
運動の単位をますます小さくして取り上げていっても、我々はただ問題の解決に近づくだけで、けっして解決に到達することはない。無限小の数と、そこから発して十分の一まで至る級数を考え、その等比級数の和を求めることによってはじめて、我々は問題の解決に到達する。新しい数学の分野は、無限小の数量を取り扱う方法を会得して、ほかのもっと複雑な運動の問題においても、かつては解決不可能に思えた問いに、今では答えを与えている。
この新しい、古代人の知らなかった数学の分野は、運動の問題を検討する際に、無限小の数量、つまり、運動の重要な条件(絶対的連続性)が復元されるような数量を認め、それによって、人間の理性が連続的な運動ではなくて、運動の個々の部分を追求する際に、必ずしてしまう必然的な誤りを正している。
歴史の運動法則を求める場合にも、まったく同じことが生じる。
人類の運動は無数の人間の気ままな意志から生じながら、切れ目なく行われている。この運動の法則を把握することが歴史の目的である。ところが、人間の気ままな意志の総和が連続的に運動していく際の法則を把握するために、人間の理性は勝手な、小間切れの単位を仮定する。歴史の第一の方法は、切れ目のない多くの事件の一区切りを勝手に取り上げ、それをほかのものから切り離して観察することにある。ところが実は、どんな事件にも始点はなく、あり得るはずもなく、必ず一つの事件は他の事件から切れ目なく生じているのである。第二の方法は、皇帝、司令官など、一人の人間の行為を、人々の気ままな意志の総和として観察することである。ところが実は、人間の気ままな意志の総和は、けっして一人の歴史的人物の行為にあらわれるものではない。
歴史学はその動きのなかで、たえず観察のために、次第次第に小さな単位を取り上げていって、その方法で真理に近づこうとする。しかし、歴史が取り上げる部分がどんなに小さくても、ほかのものから切り離された単位を仮定すること、何かの現象の発端を仮定すること、すべての人間の気ままな意志が、一人の歴史的人物の行動に表現されていると仮定することは、それ自体誤りだと、我々は感じる。
歴史の結論はどんなものにもせよ、批判する側がなんの努力をしなくても、塵芥のように、跡も残さず、くずれ去ってしまう。そのために批判する側はそれより大きいか小さい、小間切れの部分を観察の対象に選びさえすればいい。批判する側はその権利を常に持っている。なぜなら、歴史の取り上げた単位は常に自分勝手なものだからである。
観察のために無限小の単位-歴史の微分、つまり、人間たちの同質の欲求を認め、積分(この無限小の総和をとる)方法を会得したときにはじめて、我々は歴史の法則を把握する期待が持てるのだ。
十九世紀の最初の十五年に、ヨーロッパで無数の人間の異常な動きが現れる。人々は自分のいつもの仕事を捨て、ヨーロッパの片側から別の側をめざして進み、略奪し、殺し合い、勝ち誇り、絶望し、そして、生活の流れ全体が数年にわたって変わり、緊張した動きを呈し、それが初めは高まり、やがて弱まりながら、進んで行く。この動きの原因は何か、あるいは、どんな法則によってそれは生じたのかと、人間の理性は問う。
歴史家はその問いに答えようとして、パリ市内の一つの建物に集まった数十人の者たちの行動やことばを我々に述べ、その行動やことばを革命という語で呼ぶ。それからナポレオンと彼に好意や敵意を持っていた幾人かの人物の伝記をこまかく示し、その人物たちの一部の者がほかの者に与えた影響について語り、そして、こういうことの結果、あの動きが生じたのだ、これがその法則だ、と言う。
しかし、人間の理性はこの説明を信じるのを拒否するばかりではない。この説明の方法は正しくない、なぜなら、この説明では、弱い方の現象が、強い方の原因とされているからだと、人間の理性ははっきり言うのである。人間の気ままな意志の総和が革命も、ナポレオンも作り出したのであり、革命やナポレオンを甘受したり、破滅させたのも、この気ままな意志の総和にほかならなかった。
「しかし、侵略があるたびごとに、侵略者がいた。クーデタがあるたびに、偉大な人物がいた」と歴史は言う。たしかに、侵略者が現れるたびごとに、戦争もあった、と人間の理性は答える。しかし、これは侵略者が戦争の原因で、戦争の法則を∵人の人間の個人的行為のなかに発見することができる、という証拠にはならない。私が時計をながめて、針が十に近づいたのを見るたびに、隣の教会で礼拝を知らせる鐘の音が聞こえはじめる。しかし、針が十時のところに来るたびごとに、礼拝を知らせる鐘が鳴りはじめるからといって、針の位置が鐘の動く原因だ、と結論する根拠を、私は持たない。
私は蒸気機関車が動くのを見るたびに、汽笛の音を聞き、バルブが開き、車輪が動くのを見る。しかし、だからといって、汽笛と車輪の動きが機関車を動かす原因だ、と結論する根拠を、私は持たない。
農民たちは、晩春に冷たい風が吹くのは、ナラの芽がふくらむからだと言う。たしかに、春にはいつも、ナラが芽吹くころに、冷たい風が吹く。しかし、ナラの芽吹くころに吹く冷たい風の原因は、私にはわからないけれども、風の力は芽の影響の外にあるというだけの理由をもってしても、冷たい風の原因がナラの芽のふくらむことだと言う農民たちに、私は賛成できない。私はただあらゆる生活現象のなかにある、さまざまな条件が一致していることだけは見てわかっており、どれほど、どんなに細かく時計の針や、蒸気機関車のバルブと車輪や、ナラの芽を観察しても、礼拝の鐘、蒸気機関車の動き、春風の原因は知り得ない、ということはわかっている。原因を知るためには、私は自分の観察の視点をまったく変えて、蒸気、鐘、風の動きを観察しなければならない。それと同じことを歴史もしなければならないのだ。そして、その試みはすでになされている。
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内なる旅--真の生きる目的
『怒りのエネルギーを幸せに変える』より 内なる旅 究極の生きる目的
私たち、いやすべての宇宙の存在は、創造の源の存在によって生かされています。体を超えた何か神秘の力によって、体は生かされています。また心も創造の源からエネルギーをいただいて、生かされています。すべてを養っている生命エネルギーなのです。
それはすべてを創り出す源の存在から、さらには生命エネルギーの源の存在から生まれてきます。それを魂と呼びます。それこそが本当の自分です。永遠の存在です。
魂は、すべてを生み出す創造の源の存在、至高なる存在から分かれた存在です。それは神といわれる存在であり、魂は神の分身なのです。
これは頭でわかっても本当にわかったことにはなりません。それを実際に体験するためには、心を浄化し体を浄化して、内側深くに入っていかなければなりません。意識を進化させていかなければ、そこに到達していくことができません。真理といわれる存在に出会っていく、つまり本当の自分に出会っていく内なる旅をするのです。
それがサマディヘの道です。人は源の存在から分かれて魂になり、そしてこの世界に現れてきました。人は元いたところに還りたいという気持ちがあるのです。それが真の生きる目的なのです。本当の自分に出会っていくのです。そこに還らなければ、いつも虚しさがあるわけです。
それが本当の自分に出会っていく旅です。それに出会い、それを知っていくことで、心の苦しみから解放されます。心について体について知っていく’』とができ、それと上手に付き合っていくことができます。
自分がどこからやってきたのかを知り、源へ向かっているのであれば、すべてを学びとすることができます。すべての出会いはありかたいものであると理解できるのです。
人生の生きる目的は悟りに向かうこと、サマディヘの道を歩むこ』とです。それは悟っていくこと。そのために生まれてきたのです。エゴによる欲望を手放し、もっとみんなを助ける慈愛の道、神への道を進めていくのです。
本当の自分に出会っていくこととは、創造の源、永遠の存在との出会いです。すべてを生かしめている真理に出会っていくことです。さらに出会うばかりでなく、浄め尽くして真理になることが、本当の自分になるということです。
繰り返しますが、私たちはこの地上に何のために生きているのでしょうか。私たちはいったい誰であるのか。どこから来たのか。そうしたことを知り真理を知っていくことが、人生の真の目的です。
宇宙のすべての創造物は、進化しています。誕生し、成長を続け、その成長が終わると、やがて役割を終えて死んでいきます。その存在は使い果たして枯れて土に還ります。さらにそれは命をつないで種となり、新しい命の存在が大きくなって生き続けるというつながりがあります。
宇宙の生成と消滅の繰り返し--そうした宇宙の仕組みを知るにはどうしたらいいのでしようか。
世界にはいろいろな民族がいて、さまざまな国があります。外側への旅で探究しても、一つの対象について研究するだけで膨大な時間と労力を必要とします。また宇宙に何があるのか、さまざまなことを研究しても一人の人間ができることには限りがあります。
人の知りたいという欲求がいろいろな学問を生み、調査も進んできました。その知識を利用して、さまざまな便利なものをつくり出し活用してきました。しかし、人は見えないとf』ろの神秘の力について知りません。自分かいったいどこから送られてきたのかを知らないのです。
そうした私たちはいったい誰であるのかを知ることが、私たちの人生の目的です。それは、悟りを得ることです。
今、多くの人がただ自分の欲望を満足させ、目に映るもの、耳に聞こえるものという外側の美しいものを自分のものにして満足しようとしています。それは本当の人生の目的ではありません。私たちは創造の源の存在からの分身であり、本当の自分に還ること、それを実際に体験することが最高の人生の目的です。
その道を歩むことですべてが浄化されていきます。すべてが最高の機能を発揮し、美しい調和がとれるのです。そうした変容をさせ、正しい欲望を満足させ、それを超えていくのです。
また次の段階に進化するために、順次意識を高めて内側への旅を行っていきます。体の源、心の源、さらにそれらを超えていきます。そして最終的にはすべてを創り出す源の存在と一体になります。
それは意識を進化させ続ける結果を生み出します。
悟っていくことこそが本当の進化の道であり、人生の目的なのです。自分自身を最高に磨いていく、内側からの輝きを得ていく生き方です。
私たち、いやすべての宇宙の存在は、創造の源の存在によって生かされています。体を超えた何か神秘の力によって、体は生かされています。また心も創造の源からエネルギーをいただいて、生かされています。すべてを養っている生命エネルギーなのです。
それはすべてを創り出す源の存在から、さらには生命エネルギーの源の存在から生まれてきます。それを魂と呼びます。それこそが本当の自分です。永遠の存在です。
魂は、すべてを生み出す創造の源の存在、至高なる存在から分かれた存在です。それは神といわれる存在であり、魂は神の分身なのです。
これは頭でわかっても本当にわかったことにはなりません。それを実際に体験するためには、心を浄化し体を浄化して、内側深くに入っていかなければなりません。意識を進化させていかなければ、そこに到達していくことができません。真理といわれる存在に出会っていく、つまり本当の自分に出会っていく内なる旅をするのです。
それがサマディヘの道です。人は源の存在から分かれて魂になり、そしてこの世界に現れてきました。人は元いたところに還りたいという気持ちがあるのです。それが真の生きる目的なのです。本当の自分に出会っていくのです。そこに還らなければ、いつも虚しさがあるわけです。
それが本当の自分に出会っていく旅です。それに出会い、それを知っていくことで、心の苦しみから解放されます。心について体について知っていく’』とができ、それと上手に付き合っていくことができます。
自分がどこからやってきたのかを知り、源へ向かっているのであれば、すべてを学びとすることができます。すべての出会いはありかたいものであると理解できるのです。
人生の生きる目的は悟りに向かうこと、サマディヘの道を歩むこ』とです。それは悟っていくこと。そのために生まれてきたのです。エゴによる欲望を手放し、もっとみんなを助ける慈愛の道、神への道を進めていくのです。
本当の自分に出会っていくこととは、創造の源、永遠の存在との出会いです。すべてを生かしめている真理に出会っていくことです。さらに出会うばかりでなく、浄め尽くして真理になることが、本当の自分になるということです。
繰り返しますが、私たちはこの地上に何のために生きているのでしょうか。私たちはいったい誰であるのか。どこから来たのか。そうしたことを知り真理を知っていくことが、人生の真の目的です。
宇宙のすべての創造物は、進化しています。誕生し、成長を続け、その成長が終わると、やがて役割を終えて死んでいきます。その存在は使い果たして枯れて土に還ります。さらにそれは命をつないで種となり、新しい命の存在が大きくなって生き続けるというつながりがあります。
宇宙の生成と消滅の繰り返し--そうした宇宙の仕組みを知るにはどうしたらいいのでしようか。
世界にはいろいろな民族がいて、さまざまな国があります。外側への旅で探究しても、一つの対象について研究するだけで膨大な時間と労力を必要とします。また宇宙に何があるのか、さまざまなことを研究しても一人の人間ができることには限りがあります。
人の知りたいという欲求がいろいろな学問を生み、調査も進んできました。その知識を利用して、さまざまな便利なものをつくり出し活用してきました。しかし、人は見えないとf』ろの神秘の力について知りません。自分かいったいどこから送られてきたのかを知らないのです。
そうした私たちはいったい誰であるのかを知ることが、私たちの人生の目的です。それは、悟りを得ることです。
今、多くの人がただ自分の欲望を満足させ、目に映るもの、耳に聞こえるものという外側の美しいものを自分のものにして満足しようとしています。それは本当の人生の目的ではありません。私たちは創造の源の存在からの分身であり、本当の自分に還ること、それを実際に体験することが最高の人生の目的です。
その道を歩むことですべてが浄化されていきます。すべてが最高の機能を発揮し、美しい調和がとれるのです。そうした変容をさせ、正しい欲望を満足させ、それを超えていくのです。
また次の段階に進化するために、順次意識を高めて内側への旅を行っていきます。体の源、心の源、さらにそれらを超えていきます。そして最終的にはすべてを創り出す源の存在と一体になります。
それは意識を進化させ続ける結果を生み出します。
悟っていくことこそが本当の進化の道であり、人生の目的なのです。自分自身を最高に磨いていく、内側からの輝きを得ていく生き方です。
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