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権威からの自由を求めた結果、自分を見失ってしまう

『西欧近代を問い直す』より 西欧進歩主義の壁

西欧個人主義の観念が成立するにあたって、プロテスタント的な絶対者としての神の観念が決定的な役割を果たしたことはすでに述べました。プロテスタンティズムのもとでは、神という絶対的存在が個人に内面化されるわけです。超越的で神聖なものが、世俗的な領域に内面化されていく。その意味では、世俗化それ自体が、超越的なもの、神聖なものの作用によって生み出されたともいえます。

そのような超越性の内面化は近代社会のひとつの特徴で、個人は神を内面化することによって自己をコントロールする。ここに一個の人格としての「個人」が生まれてくるわけですね。

ところが、自分の欲望をコントロールするということは、それを管理する主体としての自己と、欲望を抑圧される自己に分裂することを意味している。ここからフロイト的な超自我と自我、無意識のエスというモデルが浮かび上がる。超自我によって、無意識の欲望の無秩序な発露をうまくやりすごし、自分を制御できる個人こそが「近代的市民」となる。これができてはじめて、その人は社会的に一人前として承認され、場合によっては尊敬されるわけです。

この場合、神がまだ確かなものとして信じられていれば、超自我はそれなりに強い力をもって自我を動かし、無意識の欲望を制御できます。逆にいえば、信仰があまりに強すぎると、超自我が強くなり、なんでもかんでも欲望を無理に抑えつけて、神経症などを引き起こしてしまう。フロイトの弟子であったエーリッヒ・フロムは、さらに次のようにいいます。

プロテスタンティズム、特にルター派の強かった地域では、神に対する罪の意識から、禁欲生活を脅迫的なまでに実践する。その結果、そこに過度に強い超自我ができてしまう。すると、神が取り外されたのちに、超自我から解放されるかというとそうではなく、再び強い超自我を求めるわけです。そこで、超自我を与えてくれる具体的なモデルを探し、それを外部の権威に求めることになります。この権威を求めるという権威主義的なパーソナリティは、したがって、プロテスタンティズムの置き土産のようなものですね。そして、この具体的な権威、つまり超自我を、たとえばヒトラーのような個人崇拝によって代理さえしてしまうわけです。

それをフロムは、「自由からの逃走」と呼びました。一度、権威主義的なパーソナリティがつくり出されると、その権威がなくなることに人は耐えられないのです。こうして、外部にいっそう強い権威を求めようとします。しかし、フロムがそれを「自由からの逃走」と呼んだとき、ここには、ひとつのインプリケーション(含意)がありますね。それは、「自由」は本来、権威による抑圧からは解放されるものだという考えです。ほんとうは、超自我によって抑圧された欲望を解放することこそが自由だという発想です。これはいうまでもなく、先はどの「近代主義」のパラダイムにほかなりません。超自我とは一種の権力である。だから、権力からほんとうの自分をいかにして解放するか、というあの図式です。そしてここに、自我の観念をアポリアに陥れた、例の「ほんとうの自己」なる観念も出てくるのです。

それはともかくとして、いまここでいいたいことは、近代的自我とは、もともと神を内面化することによって生み出されたにもかかわらず、近代社会は、その神の権威を失墜させてしまったということで、ここに、人間のもはや自明な「確かさ」を失ってしまう。そこで、「確かさ」を自らのうちに求め、「ほんとうの自己」を探索しようとする。しかし、そうすれば、当然、超自我の権威は攻撃されます。ではそのとき、人間ははたして超自我をどのようにつくるのか。これは、まさに現代社会の大きな課題です。

要約すれば、次のようにいってよいでしょう。プロテスタンティズムのような神への強固な信仰があって、ようやく宗教的個人が成立します。そして、その「宗教的」な要素が衰弱するにつれて、むしろ、自己による自己管理という意昧での近代的個人主義の意識が生まれる。ところが、この場合、この「個人(インディヴィジュアル)」は、じつは、管理する自己と管理される自己への分裂をつねにはらんでいます。管理する自己、つまり主体としての自己はそれなりの権威を必要とするわけで、この権威は、神でないとすれば、共同体や家族のなかで「父なるもの」としてつくり出されるほかありません。

ところが、近代主義の基本的な価値である個人の自由や平等の意識は、共同体や家族における「父なるもの」の権威を認めません。こうして、近代社会においては、超自我形成、つまり、ここでいう主体としての自己の形成はきわめて難しくなってしまうわけです。その結果として、どうしても自由の名のもとに個人の欲望の無軌道な解放が過度に進んでゆくでしょう。社会的な規律や規範、それを内面化するメカニズムはうまく機能しません。そのときそのときの状況に合わせて、刹那的な快楽を享受する人々が出現するでしょう。こうして、自分で自己を規律化する倫理的個人という近代的な個人そのものが崩壊してしまうのです。

ここでは、権力からの自由という「近代主義」の基本的な問題設定はもはや意味を失ってしまいます。自由を解放すべき権威や権力がほとんど自壊してしまっているからです。もはや、超自我を形成することそのものが難しくなってしまう。そのなかで、超自我という権力から無意識の欲望を解き放つことが自由だ、などといってもしょうがないわけです。だから、自由という観念の再定義がじつは求められているのです。個人の自由を徹底して追求した結果、その個人という「確かなもの」が見失われてしまうわけですね。皮肉なことに、神を見失った近代人は、やがて自己をも見失ってしまう運命にあるのです。
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共同体意識

共同体意識

 共同体意識。クラウド、ムスリム同胞団、図書館は共同体です。旧日本軍のような運命共同体ではない。国を人質にとった、押し付けです。全て、下からやっていく共同体です。真ん中にムスリム同胞団のように戒律がないといけない。

 運命共同体を曲がりなりにも取り入れた日本は、「共同体意識」を先行することが可能かもしれない。それを回すために、行政の経費を持ってこられたらたまらないです。それは全然違います。共同体とは何か?

 色々なモノをシェアする会社。レイコップ、本・CD、クルマも同じレベルで。それが資本主義に合わないのであれば、資本主義を変えるという発想です。

色々なモノをシェアしよう

 スタバはコーヒーを売っているのか、シェアしているのか。その観点から見ると、サービスは変わります。クルマをシェアの世界から発想するしかないでしょう。店舗御活性化も含めて。「車」の経費は1/5になれば、許容量は最低でも3倍になります。

 共同体主義の世界はさほど、特殊なものではない。数学は先に行っているし、図書館も先行している。そして、カーシェアリング。ただ、運営が従来の考え方です。

 レイコップを見ても分かるように、単独のシェアではない。全体としてのシェアです。だから、共同体なんです。

 この途中に業種は増えるでしょう。ビデオ・CDの世界が変わってきたように、半分ぐらいはそうなってしまう。買いたい奴は買えばいい。

 本でも買わないとダメという世界とシェアで十分という世界とシェアでないと分化が維持できない部分と、本の内容からすれば、著者の目的では買うのが目的ではない。

寒くなります

 今日から、日本海側は急に寒くなります。身体を冷やさないように。重装備用のコートに替えます。風が吹いてくると、これでは寒いです。完全に中にくるまります。気分的にも。

内なる世界を持つ意味

 皆が内なる世界を持つことの意味は大きい。それがないと発信できないです。自分の世界と外の世界との関係。

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