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池田晶子 不可能な「今年」

『考える日々 全編』より

年賀状というのは、小学校以来書いていません。

ものぐさが最大の理由ですが、こういう仕事なので、仕事上「書かなければならない」「出しておかないとまずい」という関係が少ない。そうでないような関係にとっては、したがって、とくに年賀状など出さなくてもいいようなものなので、それで出さなくなったようです。でも、そういう改まった関係でないような人たちからも、改まったかのような年賀状が届くと、やっぱり嬉しいのだから、勝手なものですね。

小学生の時に書いていた年賀状、クラスの仲良しに干支の動物の絵なんか画いて、楽しかったっけ。「今年はこれこれの年にしたい」とか、殊勝にも毎年書いていた気がしますが、あれって、何だったんだろう。「今年の目標」という不思議な観念について、ふと思いました。

大人になっても、そういう目標を立てる人はいます。「来年は飛躍の年にしたい」「今年こそは」と、人は言う。ちょうどこの暮れの頃からそれは始まって、年賀状でもそのように宣言し、正月三日間くらいは、自分でもそんなふうに唱えていたりする。「今年こそは飛躍の年にするぞ」

しかし、可笑しいじゃないですか。正月三日もすると、そんなの見事に忘れちゃうんですよ。松がとれて、会社が始まって、日常の暮らしが再開されると、いつものように何となく続いていっちゃうんですよ。今年の目標?そんなこと言ったっけ。三日坊主。そうじゃなかった人って、いますか。

人が、「今年の目標」を持ちこたえたためしがないのは、「目標」が立派すぎるためではなくて、「今年」というのが不可能だからだと私は考えます。「今年」という観念が、最初から我々には不可能なんですよ。

だって、考えてみて下さい。「今年」というのは、いったいどこに存在しますか。なるほどカレンダーや手帳の中には、「今年」は明らかに存在する。十二の月、もしくは三百六十五の日として、今年一年は存在していますよね。だけど、今存在しているどこに今年なんてものが存在しますかね。

「今年」もしくは「一年」というのは、明らかに観念だということがわかります。そんなものは、観念の中にしか存在しないものであって、存在しているのは、やっぱり今もしくはせいぜい今日だけなんですね。今もしくは今日という存在の現実性の前には、一年なんてのはいかにも虚弱な構築物で、だから人は今年の目標に向かって頑張るなんて非現実的な態度に耐えられないんですよ。

それでも人は、現実が現実のままズルズルと過ぎてゆくのにも耐えられない。それで、一年のうちの最初と最後の一週間以外は完全に忘れているような「今年」「来年」という観念を、性懲りもなく持ち出してくる。年が改まることにことよせて、自分も改まったような気分にやっぱりなりたくなるんですよね。そうして、暮れになれば「来年は」と盛り上がり、お正月には「今年こそ」と決意する。決意してみる。そしてまたすぐ忘れる。

そうやって繰り返して、数十回もやってみれば、人生はおしまいになります。人生は、一年ではなくて日々の繰り返しだったわけです。決して成就されることのなかった「今年の目標」の数々、なんか我々のやっていることって、すごくたわいないですよね。

めでたさも中くらいなりおらが春一茶

私は、一茶というのは凡庸な俳人だと思うのですが、この句は、ひょっとしたら、その辺の機微を的確に捉えているのかもしれません。しょうもない我々の、しょうもない日々、正月くらいはピカピカの気分になってみたくても、人生も中年期を過ぎてみれば、そうそういちいち盛り上がる気にもなれなくなる。こんな正月、あと何回か迎えたら、お迎えもやって来るという予想もつく。まあ、こんなもんかなあ。中ぐらい。

ですから私は、ありもしない「一年」、観念でしかない「今年」なんてものよりも、確実に正確に巡ってくる「暦」、季節のこの正しい循環の方にこそ、よほど実在性を感じます。

この季節、木々は葉を落とし、土は冷たく凍え、万物はそれぞれ自分の内に引きこもり、一切は動きを止めたかのようでいて、しかし冬至を極として、ものみな再びすこしずつ動き始めるのを感じることができます。冷たく内に引きこもるのは、内なる命を暖めているためだ。大気がキリキリと澄んだ元日の晴れた朝など、寒いは寒いですが、光は明らかに春を胎んでいる。お正月を「春」と言った古人の感性は正しいと思いますね。

むしろ、そういう陽の新しさ、新たに甦った陽光の喜ばしさをもって、「めでたい」と人は言ったのではないでしょうか。お正月は、農耕民族の再生儀礼であったからこそ、やっぱりそれは「めでたい」ものなんですよ。

現代の我々は、お正月も年中行事のひとつだくらいにしか思ってないから、そのおめでたさの淵源も見えなくなっている。逆に、世の中は毎日がお祭り騒ぎみたいなものだから、とくにお正月をお祭りとして寿ぐ理由もない。これは、我々が思っているよりも、かなり不幸なことではないかと私は思います。

我々の祖先としての農耕民族は、陽に従い、自然に従い、四季を正しく暮らしていたから、その意味で「今年の目標」なんて立てようがありませんよね。私が決められることなどなくて、すべては天が決めることだった。今日は耕し、明日は種まき、そして、水やり、草刈り、収穫まで、その日にするべきことはその日にするべきことときっちりと決まっていた。一年とは、その毎日の地道な繰り返し以外のものではなかったから、年に何度かしかやって来ないハレの日、お祭りの日が、どんなに待ち遠しく、めでたいことだったでしょうか。そういう彼らの晴れがましい気分を想像するに、昨今のお正月のめでたさは、なるほど中ぐらいだなあと感じるわけです。

とくにこのところの時のたつ早さといったら、「気がついたら」、お正月だったという感じだ。忙しさにかまけて、上の空だったんですね。こんなことではしようがないなあと、暮れになって反省している。今年の目標、「しっかり今に存在すること」、これはしかし死ぬまでの目標ではありますね。
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