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池田晶子『人間自身考えることに終わりなく』

生死は平等である

私には、本質的にしかものが考えられないという、どうしようもない癖がある。いか なる現実であれ、その現象における本質、これを捉えないことには気がすま る。これはもう若い頃からの癖なので、今や完全に病膏盲に入る。
一方で、世間とは、言ってみれば現象そのものである。 ャーナリズム、ある 多数の人のものの感じ方、現象を現象のままに受け取り、そのまま次の現象へ流されて ゆくといったていのものである。 平たく言うと、ものを考えるということをしない。 「考える」とは、現象における本質を捉えるということ以外でないから、ほとんどの人 は本質の何であるか、おそらく一生涯知らないのである。
ところで、本質的にしか考えられない私が、現象そのもののような週刊誌上で連載 を始めて三年になる。 本質的なことしか書きたくないから、 本質的なことしか書いてな い。その間、現象との距離を、反応を見ながら測りつつ、気がついたことがある。
「世間」 すなわち人間社会の現象の本質は、煎じ詰めればひとつだが、あえていくつか に分けてみることはできる。 それが「言葉」「自分」 「生死」といったものである。 私 はこれらを、その都度の出来事の本質はこれだぞという形で、何度も扱った。
「言葉」、この話題は、すんなり通じるか、全く通じていないか、どちらかのような感 じがする。 言葉は大事なものだという感性のある人なら同意するだろうし、そうでない 人には、そんなことはどうでもいい。
「自分」、この話題は、たぶんほとんど通じていない。本質問題のうちでは、これの唐 突さはダントツなので、たぶん何を言っているのかさっぱりわからないのではなかろう か。
「生死」、そして、この話題が、どうも一番厄介だということに私は気がついた。これ が大事な問題だということは、たぶん誰にも通じている。だからこそ、通じていない。 そういう感じである。完全に抽象的に述べたものではなく、具体的な医療や闘病に言及 して述べた際、 明らかな抵抗や反発が返ってくることがある。
要するに、人が死ぬという大事な問題なのに何だというものである。 生死事大。大事 な問題は決まっている。だから私は繰返し、生死こそが人間の最も本質的な問題だ、だ からこれを考えろと言っている。そして、まさにここが通じていないのだ。
多くの人は、生死を現象でしか捉えていない。死に方のあれこれをもって死だと思い、 本意だ不本意だ、気の毒だ立派だと騒いでいる。しかしいかなる死に方であれ、 「死に 方」は死ではない。 現象は本質ではない。 本質とは、「死」そのもの、これの何である か。これを考えて知るのでなければ、まともに生きることすらできないではないか。
この当たり前が、とくにきょうびは通じない。 通じないのは、認め ないからであ る。生きるのは権利であり、死ぬのは何かの間違いだと思っている。自然を忘却したか らである。そんなところへ、「人が死ぬのは当たり前だ」。これが不真面目に聞こえる のは、断じて私のせいではない。
生死の本質など、幼い子でも、勘がよければ直観している。年齢も経験も現在の状況 も関係ない。生死することにおいて、 人は完全に平等である。すなわち、生きている者 は必ず死ぬ。
癌だから死ぬのではない。 生まれたから死ぬのである。癌も心不全も脳卒中も、死の 条件であっても、死の原因ではない。 すべての人間の死因は、生まれたことである。ど こか違いますかね。
「医者の口からは死んでも言えない」とは、医者をやっている友人の嘆きである。 物書きだから、「不真面目だ」ですむ。医者が言ったら訴訟ものだと。
最も大事なことについての、最も当たり前なことを、当たり前に言えない。イヤな時代だと思う。 「言葉」「自分」「生死」 と、 あえて三つに分けてみたが、もとはひとつで ある。ひとつの真理の違う側面である。自ら考え、納得する人生でなけりゃ、しょうが ないでしょうが。
(平成十八年九月七日号)

奇跡のほんとう

前回の続き。

生命は素晴らしい、生きていることは奇跡的だと礼讃するなら、死ぬことだって、 じく奇跡的なことのはずである。 どうして生きていることばかりを奇跡と言って、死ぬ ことの方を奇跡だとは言わないのか。

「生命の神秘」と、口では言うが、本当の神秘を感じているのではないからである。 そ ういう場合の生命礼讃の本意は、たんに、 生きていればいいことがある。 いろいろ楽し いことができるからといった類のものである。だから、楽しいことができなくなると、 「生きていてもしょうがない」 と、こう簡単に裏返る。 それでどうして生命の神秘なの だろうか。

以前、子供が事故か殺人かで亡くなった小学校の先生が、「生きていればいいことが あったのに」と、子供たちに話していた。こういう教育はよくない。生きていれば悪いこともあるじゃないかと反論されたら、どう答えるつもりだろう。

子供にいきなり生命は尊いと教えるのは無理である。 「なぜ」それが尊いのかを実感 していないからである。 尊いと実感できるのは、それが神秘なものだと気がつくことに よってでしかない。これは自分の力を超えている、自分にはこれは理解できない。こう 気づくことによって、人は初めてそれを敬うという気持になるのである。 畏怖の感覚と 神秘の感覚はきわめて近い。

大人が忘れているのだから仕方ない。 「生命」と言えば、生の側、そのあれこれのこ としか思わない。権利意識としての生命尊重である。 そうでなければ、科学主義が喧伝 する仕方での「生命の神秘」である。精子と卵子が結合する確率は何十億分の一である。 これは奇跡的な確率である。私の存在は奇跡的である。 あなたも私もかけがえのない存 在であるという、あのノリである。

しかし、いかに奇跡的な確率であれ、確率であるということは、可能であるというこ とだ。可能なことは、可能なのだから、奇跡的なことではない。確率は奇跡ではあり得 ないのだ。

本当の奇跡は、自分というものは、確率によって存在したのではないというところに ある。なるほどある精子と卵子の結合により、ある生命体は誕生した。しかし、なぜその生命体がこの自分なのか。その生命体であるところのこの自分は、どのようにして存 在したのか。

これはどう考えても理解できない。なぜこんなものが存在しているのかわからない。 だから、奇跡なのだ。 なぜ存在するのかわからないものが存在するから奇跡なのだ。 な ぜ存在しているのかわかるのなら、どうしてそれが奇跡であり得よう。存在するという このこと自体は、人間の理解を超えている。

だからこそ、存在する生命は奇跡であり神秘であると、正当に言うことができるのだ。 生きることが奇跡なら、死ぬことだって奇跡である。 花が散るのが無常なら、花が咲く のも無常である。 無常だ、はかないという嘆きではない。 何が起こっているのかという 驚きである。なぜ存在するのかわからない宇宙が、なぜか自分として存在し、それが生 きたり死んだりしているのを見ているというのは、いったいどういうことなのか。 生き たり死んだりしているとは、(何が)何をしていることなのか。

とまあこんなふうに、「奇跡」 の意味を正確に追ってゆくと、とんでもないところに 出られる。 いやでも出てしまうのである。 人生というものを、生まれてから死ぬまでの 一定の期間と限定し、 しかもそれを自分の権利だと他者に主張するようなのが現代の人 である。これはあまりに貧しい。自分の人生だと思うから、不自由になる である。

しかし人生は自分のものではない。生きるも死ぬも、 これは全て他力によるものである。 さっき自分しか存在しないと言ったのと逆のように聞こえるかもしれないが、逆では ない。いや逆かもしれないが、どっちでもいい。 本当の神秘、本当の奇跡を感じている なら、理屈の前後はどっちだっていいのである。

(平成十八年九月十四日号)

ご苦労さまでした

先月、父親が亡くなった。

前立腺癌の再発で予後が悪く、長い闘病生活を送っていたのだが、結局最後は心不全 による脳梗塞で、意識がなくなってから三日で逝った。現代の三大死因を勲章に、見事 な闘士ぶりだった。

最初から、そんな見事な闘病の士だったわけではない。闘病、それも長い闘病生活と いうのは、人を芯から疲れさせる。 肉体が疲れるだけではない。 肉体が疲れるのと同じ ぶんだけ、心の方も疲れる。むしろそのことの方が疲れるのだ。まして、治癒の見込み がないことはわかっている。まるで闘病するために生きてるみたいじゃないか。 こんな 生活に何の意味がある。

そう思い始めるのは当然である。彼が闘病生活に入ったのは六十九という「妙齢」で もあった。日常の起居も次第に不自由になり、治療でこのままだらだらと生き延びたところで、それはもとの寿命が尽きるのと、おそらくは同じことである。私は直には聞か

なかったが、母には時々愚痴をこぼしていたらしい。

辛いなあ。 他人事ながら、そう思う。しかし治療すれば、その都度それなりの効果は あるのだから、これを拒否する積極的な理由もない。現世に執着するタイプの人ではな かったから、かえって死ぬにも死ねないという状況が九年近く続くことになった。 この 心的ジレンマをじりじりと生き延びてゆく時間というのは、たいそう辛いものではない か。

しかし、

「死ぬのがこんな大変なことだとは思わなかったよ」

何度目かの入院で、そう言って笑うのを見た時、ああ少しふっ切れ なと感じた。 お迎えを待つと言ったって、「待つ」というのは文字通り待つことなんだから、いつに なるのかわからない。死ぬのは自力を超えている。人はそれまでは待つしかないのであ る。なりゆきにまかせて生きるしかないのである。

そういう言わば「おまかせモード」に入ってしまうというのは、じつは一つの知恵である。諦観もしくは達観と言ってもいいが、その都度のあれこれに一喜一憂しない平常 心は、なげやりとは違う。死ぬのを待つということと、明るく生きるということは、矛盾しないのである。 進行する病状に合わせて治療も複雑化していったけれども、文句も 言わずに淡々とそれらをこなすようになっていった。闘病は人を疲れさせる一方、それ は人をつくるとも確かに言えるのである

趣味らしい趣味を持たなかった父は、私の仕事の追っかけに最後の生きがいを見出し ていたらしい。それが私には多少うっとうしくはあったが、生きがいなんだからしょうがない。病床で母に週刊誌を買って来い、新刊を買って来いと注文し、本を手にしては 悦に入っていたようだ。

それが、心不全の発作で倒れてからは、本を読む気力もなくなった。 お見舞に行くと、 いつも、眼鏡をかけたまままっすぐ天井を見つめている。 声をかけると、「おー来たか」 と喜ぶのだが、何を考えていたのだか。リハビリすればまだ歩ける段階なんだから、が んばってよ。と励ますのだが、「しかし歩けるようになってもなあ」。 看護に疲れてき た母を気遣っているのである。「お母さんを責めるなよ」。

ああ辛いなあ、お父さん。思わずそう言ったら、 あははと笑って頷いた。 私は彼の真 意が把めなくなった。ひょっとしたら、本人にも「真意」などなくなっていたのかもし れない。ほとんど老師の風格である。

このまま寝たきりになって、お迎えもずっと来なかったら、もっと辛いでしょ。

だからここはまずリハビリをして、私の仕事をもっと見ててよ。

「よし、そうするか」 じじつ彼は一週間後、歩行器で歩けるまで回復した。 が、 脳梗 塞で再び倒れた。 動く方の手を握ると、ぎゅっと握り返してくる。 お父さん、まだ治療 してみる? 尋ねると、その手は躊躇を示した。 わからないよね、こんな難しいこと。 わかってるよ、お父さん。

最後まで優しく明晰な人だった。現代版大往生のひとつの形だと思う。

(平成十八年十二月十四日号)

銀河も我も

八十八億光年向こうの宇宙で、銀河の大集団が続々と生まれていることが判明したと、 新聞に出ていた。もくもくと湧き立ち輝く銀河と星雲の写真も一緒に出ていた。なんで も、太陽と同じくらいの恒星は、もう何千個も確認できるということだ。

宇宙と宇宙論好きの私にとって、このようなニュースは、おっと目を引くものである。 しかし、この記事の周囲の記事はと言えば、言うまでもなく景気と談合である。銀河誕 生のニュースと、景気と談合のニュースとが、新聞紙面では「同一次元」に並んでしま うということに、今さらながら意表を衝かれる感じがする。

「変じゃないか」と感じる人は、どれくらいいるものだろうか。 銀河の誕生と景気の話 とは、情報として「同じ」情報だと、普通は思うのだろうか。

普通はそう思っているはずである。 百五十億年前のビッグバンにより宇宙は誕生し、 以来、膨張しながら進化を続け、それが 「我々の銀河を生み、次に「我々の」 太陽系を生み、やがて地球の誕生、生命、人類、そしてかく存在する「我々」と、そういう 我々中心の進化論的宇宙論を、現代人のほとんどは信じ込んでいるからである。宇宙は 「我々」に向かって進化してきた、人は無意識にそう思っている。

だから、宇宙の誕生と地上の景気とは、タイムスパンこそ違うものであれ、質的に違 うことではない。出来事としてそこに質的な断絶はないのである。ビッグバンで宇宙が 誕生したその結果が、この地上で我々があれこれのことをするということなのである。 しかし、それは本当にそうなのだろうか。百五十億年前のビッグバンにより存在した 宇宙が、我々を生み出したのだろうか。

ここで、あっと気がついてみたいのは、ビッグバンにより存在した宇宙が我々を生み 出したというのは、それ自体が「考え」であるということである。いやそれは考えでは なくて科学的物証であるという人もいるだろう。しかし、それらの科学的物証を、ひと つの考えとして考える以外、我々は考えようがないはずである。すべての事象は、「考 えられて」、存在する。ここに、「ビッグバンにより存在した宇宙が我々を生み出した と考える我々を、ビッグバンにより存在した宇宙は生み出した」という、科学的物証を 超越する認識の入れ子構造が出現する。 考える限り、誰も考えの外には出られないのだ から、「宇宙」と「我々」とは、じつは同じものだったと気づくのである。当然のこと、この「我々」は、物理的のものではない。時間的存在者ではないことになる。

時間的存在者としての「我々」と、時間的存在者ではない「我々」との間には、決定的な断絶が存在する。一方は死ぬし、一方は死なないからである。時間的存在者ではな い我々は、ビッグバ の果てに出現したものではない。こんなものがどうして存在して いるのかわからない。存在するということは謎であると、いつも私の言うところである。 ビッグ ンの果てに自分は出現したと思って人生を生きている人にとっては、景気や 談合のニュースと銀河誕生のニュースとは同じものである。どれも自分の人生に起こる あれこれのことだと思っているのである。しかし、「自分の人生」だなんて、あな その「自分の人生」が存在するところのこの宇宙が、かくもわけのわからないものであ るというのに、どうして景気と談合なんですかね。

私には、あれらの宇宙や宇宙論の記事は、この地上にボコッと開いた異次元への穴ぼ こみたいに見える。穴ぼこの向こうは、底が抜けている。記事を読んでいる私の目もま た、底が抜けているはずである。

「宇宙の側から見てみれば」、地上の出来事は小さく見える、というのではない。 物理 的宇宙に比べて物理的人間が小さいのではないのである。 地上的な苦しみは、当人にと っては宇宙大に大きい。だからそうではな して、すべて謎であると知ることはひとつの救いであり得るということである。 お正月明け、半分妄想みたいな宇宙論でした。

(平成十九年一月十八日号)

 数学と同様に 論理が自然に湧き上がるのを待ちましょう
 意図的ずる
 1.8.1 未唯宇宙:全てとは核から端まで知ること
心はどこにある という問いに対して 自分の中と宇宙の端にあると応えたことがある
やっと 全ての解釈でそれを回収できた
 1.8.2 無を知る:存在ゆえに無がある
無を知るために生まれてきた
存在ゆえの無に気づいた
無から存在を見ている
無しかないと知る
 はからずしも スターリン 毛沢東 マスードが読書家であったことの意味 読者は戦略を生む 戦術は生まない
 せーらはいなくなった スタバのリクエストネームはセーラのまま # 早川聖来
 組織から個に主体が移ることは無限から有限の世界に入り込む そういうから共有 資本主義は持ちこたえるか
 2.1.3 空間をつくる:点から空間を作るリーマン面
全体は点の揺らぎから作られる
点は不変から生まれる
不変は超から与えられる
不変とは社会の常識みたいなもの
 やはりいなくなった 去年とは異なり 写真集を残して見事にいなくなった #早川聖来
 2.2.1 トポロジー:点から近傍 そして全体
個から近傍、そして全体を規定
同じようなもので近傍は設定される
異質なものは特異点として別空間
位相を社会に展開する役割をもつ
・トポロジーは点ありき
・近傍に位相をつくり、空間に拡げていく
・エネルギーがあって全体を作り出す
・個々の点のエネルギーは膨大
・その点が集まった位相空間
・トポロジーを習っていて 正解です

 2.3.3 位相構造:位相で部分が全体へ伝播
基本空間を経由したつながり
部分からパスで全体をつくる
特異点は避けられた構成
基本空間で位相を保証
コンパクト性に境界は不要
・点から基本空間を経由して全体をカバーする
・全ての点が主役になることで境がなくなる
・位相は点から全体を作るものの総称
・組織の全体ありきとは逆の発想
・伝播は内部発火で行われる
・7世紀のイスラムの伝播速度
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『スターリンの図書室』

『スターリンの図書室』

 一心同体のスターリン、レーニン、トロツキー

スターリンはレーニンを崇拝していた。 スターリンがレーニンに最初に会ったのは、一九〇五年一 二月、フィンランドのタンペレで開催された党大会の場である。当時のフィンランドは帝政ロシアの 自治領だった。スターリンは一九二四年一月、ソヴィエト国家の創設者であるレーニンを悼む集会で 演説し、「抗しがたい論理の力」に心を奪われたと回想している。スターリンによれば、レーニンは 政治活動で「敗北を嘆かず」 「勝利に奢らず」 「原則に忠実で」 「大衆を信頼した」。 さらに「洞察力が あり、迫りくる事態に隠れた真の意味を理解し予測する能力」があった。これらの資質がスターリン を魅了した。
スターリンはレーニンの著作を数百点も所蔵していた。このうち数十点にしるしや注釈がある。ス ターリンはレーニンの著作に最も重きを置いて読み込んだ。自らの著作においても、誰よりも多くレ ーニンに言及している。レーニンの言葉を引用する名人でもあった。原典を熟読するだけでなく、レ ーニンの著述を第三者が抜粋したり要約したりした文献も読んだ。特に「プロレタリアート独裁」な ど当時の喫緊の課題について、レーニンの考え方を論じた著作を好んだ。レーニンが主要な演説のために用意した覚書や要点を集めたものも、スターリンにとっては、レーニンの論理の組み立て方や伝 達の仕方を探るために有用だった。内戦でボリシェヴィキが勝利した理由について、スターリンはレ ーニンによる次のような文章を、そのまま著作に引用している。 ボリシェヴィキは国際的な労働者階級の団結によって勝利した。敵は分裂したが彼らは団結した。兵士たちはソヴィエト政府と戦うこと を拒否した。レーニンはウィンストン・チャーチルの見込み違いにも言及している。チャーチルは連合国がペトログラードを一九一九年九月までに、モスクワを一二月までに占領すると予想したが外れた。この部分をスターリンは二重線で強調している。
スターリンの政治思考を包括的に考究したエリック・ファン リーによれば、「レーニンの著作に 残る書き込みには批判の言葉が全くない。彼の先駆者が最も熱心に読んだ書籍類には、その兆しすらない」。マルクスにしても同様だった。「スターリンによる批判的な注釈は一つも発見できなかった」。 エンゲルスについては批判も見られるが、エンゲルスの著作に残る書き込みは、全てが慎重で敬意に 裏打ちされている。「エンゲルスが過去も現在も我々の教師であることを疑うのは愚か者だけである」。 スターリンは一九三四年八月、政治局にこう書き送っている。「だからと言って、エンゲルスの欠陥に目をつぶる必要もない」。ファン・リーはスターリンの蔵書に残る書き込みを調べ、スターリンが まさに最期の日々までマルクス、エンゲルス、レーニンを読み続けたことを突き止めた。
スターリンは一九三八年五月、高等教育を受けた労働者を招いた宴席であいさつをした。数あるレ ーニン礼賛演説の一つである。
科学の発展を顧みれば、古きを壊し新しきを築いた勇気ある人々は少なくない……ガリレオ、 ダーウィンの名を挙げよう…….これら傑出した人物の一人について語るべきだろう。彼は科学者 であるとともに近代で最も偉大な人物である。レーニンは我らの教師であり指導者である(拍手)。一九一七年を思い出してほしい。 社会発展の科学的分析と国際状況に鑑みて、レーニンは 状況を打開する唯一の道はロシアにおける社会主義の勝利であるという結論に至った。この結論 は多くの科学者を驚かせた。 ……あらゆる分野の科学者たちは、レーニンが科学を破壊しようと していると騒ぎ立てた。しかし、レーニンは潮の流れと惰性の力に逆らって進むことを恐れな かった。そしてレーニンは勝利したのだ(拍手)。
スターリンが一九二五年五月に蔵書の分類方法を考案したとき、トロツキーは最大の政敵に浮上し ており、レーニンの後継をめぐる一番の競争相手だった。スターリンは優れたマルクス主義者の著作を個別に整理するために一人一人順位を付けた。トロツキーは六番目だった。マルクス、エンゲルス、レーニンを除けば、カウツキー(ドイツ社会民主主義の指導的理論家)とプレハーノフ(ロシア・マ ルクス主義の父) しか、トロツキーの上位にはいない。トロツキーの次には、当時スターリンと同盟 を組んでいたブハーリン、カーメネフ、ジノーヴィエフが続く。
現存するスターリンの蔵書には、四〇冊を超えるトロツキーの著書や冊子を見いだせるだろう。中には相当の大作もある。スターリンが特に関心を寄せたのは、トロツキーの「党派」論である『新路線』(一九二三年)と『十月の教訓』(一九二四年)だった。スターリンはこれらの書籍と他の著作を深く読み込み、トロツキーとトロツキー主義を撃つ銃弾を探した。トロツキーの思想を打ち砕くがごとき攻撃は、論客としても党書記長としてもスターリンの名声を確立した。『新路線』には「革命的 行動の体系としてのレーニン主義は、思考と経験によって鍛えられた革命的本能である。それは社会の領域では、肉体労働における筋肉の躍動に等しい」という一節がある。スターリンは一九二六年一 一月の第一五回党大会で、 これを取り上げ、「レーニン主義が〝肉体労働における筋肉の躍動〟というのは、新しくて独創的で大そう深淵ではないか? いったい何が言いたいのか教えてくれないか? (笑い)」と揶揄した。
トロツキーの才気とマルクス主義者としての知性、弁舌の才を疑う者はいなかった。だがスターリ ンにとっては戦いやすい相手だった。トロツキーはかつてレーニンとボリシェヴィキを攻撃し、一九 一七年の夏になってようやく合流した過去がある。その経緯をトロツキーは糊塗しようとしたが、ス ターリンは執拗にトロツキーの過去の誤りを党員に訴え続けた。
レーニンの見解によれば、プロレタリアート革命と社会主義は一国で達成でき、文化的、経済的に 遅れた農業国ロシアでも、それは可能である。この見方をトロツキーは一九一五年に攻撃した。その 際にトロツキーが用いた言葉を、スターリンは好んで持ち出した。ソヴィエト・ロシアにおいて社会 主義の建設が可能であるかどうかというのが論点である。トロツキーによれば、ロシアで革命を達成 するためには、まずは、より進んだ国々を舞台に帝国主義や資本主義におしつぶされずに革命を成功させねばならない。世界革命が達成されなければ、ロシアの革命は「最終的な」 勝利とはならない。このようなトロツキーの見方をスターリンは受け入れつつも、ソヴィエトの社会主義はそれ自体が生き残り、前進しなければならないと強調した。ボリシェヴィキ党の大多数はスターリンに同調した。世界革命を究極の目標とするトロツキーの主張ではなく、スターリンの一国社会主義を優先した。ボリシェヴィキの指導者は誰でも、自分の主張に沿ってレーニンの言葉を選択的に引用した。スターリンも例外ではない。レーニンは一九一五年、先進国では他国の革命の影響を受けなくても社会主 義を受容する可能性があるとの見解を示した。だが一九一七年にボリシェヴィキが実権を握ったあと、 「後進国」ロシアにおける革命の現状を踏まえ、レーニンは見解を修正する。スターリンと彼の支持者にとっては、ロシアで革命を成就させた事実こそが最も重要だった。トロツキーは『東方における課題』(一九二四年)で、ヨーロッパで革命が起きない状況下で世界革命の中心はアジアに移る可能性を指摘した。スターリンらは耳を傾けようとはしなかった。スターリンはトロツキーの著書の余白 に「愚か!」と書いた。「ソヴィエト連邦がある限り、中心は東方に移るわけがない」
トロツキー『十月の教訓』もスターリンの格好の餌食となった。トロツキーはこの著作で、カーメネフ、ジノーヴィエフが一九一七年にレーニンと対立したことを取り上げた。党は一九一七年に分裂した。革命のあと、当事者であった最右翼の古参ボリシェヴィキたちは、この事実を隠している。権力奪取の謀反をレーニンが粘り強く抑えたからこそ、窮地を脱することができたのだ。トロツキーは、このように論じた。
カーメネフとジノーヴィエフはスターリンの旧友であり同志である。トロツキーとの闘争では同盟者でもあった。スターリン自身は『十月の教訓』で指弾されたわけではないが、カーメネフらの擁護に乗り出した。スターリンは一九二四年の演説 「トロツキー主義かレーニン主義か」で、一九一七年 に党内には意見の対立があったと認めつつ、レーニンがボリシェヴィキを率い暫定政府と対決する方 針を貫徹し、ついに転覆させたことを強調した。党が分裂した事実はないと否定した。 中央委員会は レーニンによる蜂起の提案を承認した際、政治監視グループを組織した。カーメネフとジノーヴィエフはレーニンの蜂起案に反対票を投じた! かかわらず、この委員会に名を連ねたと指摘した。トロツキーが一九一七年に特別な役割を果たしたというのは、スターリンによれば「伝説」にすぎなかった。
蜂起の際にトロツキーが疑いなく重要な役割を果たしたことを、私は決して否定しない。だがトロツキーは特別な役割を担ったわけではないと言わざるを得ない。 一〇月にトロツキーは 確かによく戦った。だが、よく戦ったのは彼だけではない。敵が孤立し蜂起が拡大しているとき に、それは難しい行動ではない。そのような状況のもとでは、弱気な人間でも英雄になれるのだ。

トロツキーがロシア革命の歴史について書いたのは、『十月の教訓』が最初ではない。ブレスト・リトフスク条約の交渉が継続していた一九一八年、小著『十月革命』の執筆に取り組んだ。この年の 後半に出版し、多くの外国語に翻訳された。英語版 『ブレスト・リトフスクに至るロシア革命の歴史』も出た。 ボリシェヴィキのためのプロパガンダだったので、党内に存在した異論については控えめに書いた。このような革命の記述が、まさにスターリンの好みだった。彼は細かく書き込みを入れ た。内容に明らかに満足した様子がとれる。ボリシェヴィキが時期尚早の蜂起を思いとどまった「七月の日々」の記述には、特に強い関心を示した。 勝機が熟する時を待つために、そして生き残 るためには、政治的後退も時には必要であるという重い教訓を党に残したからだ。前述したようにスターリンは、一九一八年の『プラウダ』紙が革命一周年に際して掲載した論評で、蜂起を組織する際に果たしたトロツキーの役割を全面的に称賛した。

M・スモレンスキーが一九二一年にベルリンで出版したトロツキーに関する冊子は、世界の労働者にボリシェヴィキの考え方を説明する試みの一環である。スモレンスキーによれば、「トロツキーは ボリシェヴィキ指導部において、おそらく最も才気あふれる、そして最も矛盾した存在である」。 この一節にスターリンは何も書いていない。だがマルクス主義の聖典について、レーニンは社会主義の 聖書学者として読み込んだが、トロツキーは分析の方法とみなしたという部分にしるしを付けた。スモレンスキーが 「レーニンのマルクス主義は教条的で正統的だが、トロツキーのそれは方法論的であ る」と述べたくだりである。以下にはトロッキーの見解が幾つか続いて引用され、スターリンは軽い 筆致でチェックを付けている。同感、という意味だろい。トロツキーによれば、第二(社会主義) インターナショナルと第三(共産主義)インターナショナルという二つの社会主義イデオロギーが相 争っている。この意見の余白にもスターリンは線を引いた。

トロツキーの『テロリズムと共産主義』(一九二〇年)は、カール・カウツキーの同名の著作への 応答である。 ボリシェヴィキはかつてカウツキーを称賛した。 より穏健で改革的な社会主義運動を唱 えたエドゥアルト・ベルンシュタインの「修正主義」 に対して、カウツキーが革命的マルクス主義の 立場を堅固に守ったからである。だがボリシェヴィキはやがてカウツキーに「背教者」の汚名を着せ た。 ボリシェヴィキは実権を握り維持するために暴力と独裁的な手法に依拠した。特に内戦期は徹底した。 カウツキーが、そのような路線を批判したからだ。トロツキーはカウツキーに反論して、暴力 によるボリシェヴィキの権力奪取、それに続くロシア立憲民主主義の弾圧、内戦期の「赤いテロル」を、明確に正当化した。 スターリンが現実政治の教訓を得るためには、トロツキーの著作を手に取る だけで十分だった。マキャヴェッリも、あるいはレーニンさえも必要なかった。

スターリンはトロツキーが著作を出版すると間を置かずに読んだ。そう考えて、まず間違いがない だろう。カウツキーの批判は、国際的な社会主義運動におけるボリシェヴィキの地位を損なった。こ のためボリシェヴィキはレーニンを筆頭にカウツキーを激しく批判した。

スターリンはトロツキーの『テロリズムと共産主義』に共感の言葉を多く記した。随所にNB、「ターク」(そうだ)と書いた。トロツキーは「内戦を短期間で終わらせることが肝要である。断固た る行動だけが、それを達成する。それはカウツキーの著作の全編を貫く革命的意思とは全く異なる」 と論じた。スターリンは余白にNBと記した。「プロレタリア独裁」に関する第二章の冒頭にも同じ書き込みをした。トロツキーは第一段落で「プロレタリアートの政治的独裁こそが、国家の制御を実 現する〝唯一の形態〟である」と述べている。スターリンはこの一節をそのまま抜き書きした。トロ ツキーは同じ章で、こうも述べている。 「テロリズムを原則として否定する者、つまり、確信的な武 装反革命勢力を抑え込んだり威嚇したりする行為を否定する者は、労働者階級の政治的な優越性と革 命的独裁という思想を全て拒絶することになる。プロレタリアート独裁を否定する者は社会主義革命 を否定し、社会主義の墓を掘ることになる」。スターリンはこの一節に下線や二重線を引いたり、N Bと書き込んだりした。

トロッキーは社会主義革命の利益が民主主義のプロセスに優るという理論を長々と展開した。民主主義は建前であり、背後にはブルジョアの権力が隠れているからだという。スターリンは全面的に同意した。議会制民主主義など、しょせんは民衆の自治政府という幻影にすぎないというポール・ラファルグの言葉をトロツキーは引用した。これにはスターリンも特に感心した。「ヨーロッパとアメリカのプロレタリアートが国家を掌握すれば、必然的に革命的政府が組織され、独裁政権として社会 を統治する。そののちにブルジョア階級は消滅する」というラファルグの意見に、スターリンの引い た下線が残る。

ボリシェヴィキは一九一八年一月に憲法制定会議を解散した。トロツキーによれば、ボリシェヴィキは憲法制定会議の選挙を布告する政令に署名し、会議が自ら解散を宣言することで、より人民を代 表する諸ソヴィエトを実現させなければならなかった。しかし、「憲法制定会議は革命運動の道を 遮ったので排除された」というのだ。 この部分にスターリンは下線を引いた。

スターリンは著者が示す論点に番号を振るのが好きだった。トロツキーが暴力、テロル、内戦を経 験した三つの革命を列挙したので番号を付けた。カトリック教会を分裂させた一六世紀の宗教改革、一 七世紀のイギリス革命、一八世紀のフランス革命である。トロツキーは歴史を分析した結果として「苛 烈さの程度は、一連の国内的、国際的状況に依拠する。 排除される階級の敵が猛烈かつ残虐に抵抗す ればするほど、鎮圧する側は組織的なテロルに頼るようになる」と述べた。下線はスターリンが引いた。 以下はスターリンが下線を引いた数行である。NBと「ターク」の二語で共感を示している。

赤色テロルは武装蜂起の必然の帰結として不可分である。 革命階級による国家テロルを批判で きるのは、原則としてあらゆる暴力、つまり、いかなる戦争もどのような反乱も (口先で)拒絶する人物のみである。このような人物は単に偽善的なクエーカー教徒にすぎない。

トロツキーは「カウツキーは革命がどのようなもの しも分かっていない。理屈の上での和解と 実際の達成を同じだと考えている」と記した。この二つの文にスターリンは下線を引き、余白に「メ トコ」(的確だ)と書き入れた。 共感を示す時には、この言葉も好んで使った。

トロツキーによれば、カウツキーはロシア労働者階級の権力掌握を時期尚早と考えていた。トロツ キーは「プロレタリアートに選択する余地はなかった………すぐに権力を奪取するか、時機を待つか。 特定の状況下にあっては、労働者階級は永久に政治の舞台から消え去る恐れがあったので、権力奪取に動くしかなかったのだ」と論じた。スターリンはこの部分に下線を引き、「ターク!」と書いた。 トロツキーはボリシェヴィキ独裁を断固として主張した。 スターリンは以下の記述に下線を引き、 かぎカッコを付け、段落全体に斜線を交錯させた。

我々はソヴィエト独裁を我が党の独裁で代替したという批判を一度ならず受けた。だがソヴィ エト独裁は党の独裁によってのみ可能であると述べても過言ではない。理論的展望と強固な革命 組織を党がソヴィエトに提供することによって、ソヴィエトは労働者の曖昧な議会から労働者が 支配する組織へと変容する可能性を持つことができる。党の力を以て労働者階級の力に代え るのは、決して変則的な方法ではなく、代替とさえ言えないのである。共産党員は労働者階級 の根本的利益を代表している。

トロツキーの言い回しにスターリンが納得したわけではない。 スターリンは余白に「党の独裁—正 確ではない」と書いた。プロレタリアートは党を通じて支配を実現するというのがスターリンの立場 だった。社会主義のもとでは、生産手段の社会主義化は必然的に強制的労働を伴うとトロツキーは考 えた。スターリンはこの見解にも疑問を呈し、幾度も 「ふむ、そうかな」と書き込んだ。一九二一年 三月の党大会を迎える頃になると、スターリンはトロツキーの見解にいっそう疑問を深め、労働者の 武装化というトロツキーの提案に真っ向から反対した。

カウツキーによる原著のロシア語版はスターリンも所持していた。そしてトロツキー『テロリズム と共産主義』と同様に熟読した。カウツキーの著書の余白では「ハハ」「ヘッヘッ」と嘲笑したり、「スヴォーロチ」(畜生)、「ルジェツ」(ほら吹き)と罵倒したりしている。カウツキーによれば、ボ リシェヴィキが非妥協的であるのは、真実を独占しようとするからだ。スターリンはカウツキーにつ いて、全ての知識は一時的で限定的なものであることを知らない 「ドゥラーク」(ばか)だと断じた。 スターリンによる悪口雑言の書き込みはカウツキーの他の著作にもみられる。「プロレタリアートの 独裁と徒党の独裁を混同できるのは彼しかいない」。スターリンはカウツキー『プロレタリア革命と そのプログラム』の一九二二年版に、こう書いた。カウツキーは、一九世紀オーストリア=ハンガリ で、新たに革命危機が訪れていたら、チェコ人はドイツ化の憂き目をみたであろうと述べた。スタ ―リンは「くだらない」「ばかげている」と書き入れた。カウツキー「テロリズムと共産主義」には、 言葉ではなく単にしるしだけを付けた箇所も多くある。 NBは数か所、「ふむ、そうかな」は一か所ないし二か所である。カウツキーは本来、経済や農業が専門のマルクス主義者である。彼がこれらの分野で残した『農業問題』などの著作の実質的な細部に、スターリンは肯定的な評価を示すしるしをより多く付けている。スターリンは有益な情報や論拠を追い求め、宿敵とも言うべき人物の著作から 学ぶこともいとわなかった。

スターリンは一九二六年七月の中央委員会総会で、従来はトロツキーに対して 「穏健に応じ、あか らさまな敵意も示してこなかった」「彼には穏やかな立場をとってきた」と述べた。トロツキーが技 術や経済について一九二〇年代半ばに書いた『目指すは社会主義か資本主義か?』(一九二五年)、 『八年間の総括と展望』(一九二六年)、『我らの新たな課題』(一九二六年)を、スターリンが熟読し た事実を踏まえれば、中央委総会における彼の発言は偽りではないだろう。トロツキーは一九二五年 一月に軍事人民委員を解任され、ソヴィエトの産業を統括する国民経済最高評議会の一員であった。 この時期に執筆した一連の著作をスターリンは克明に読んだ。

トロツキーは新経済政策 (NEP)について、社会主義を目指す戦略にそぐわないという懐疑論を 抱いていた。だがボリシェヴィキ党最左派に比べれば、まだ穏やかな批判にとどまっていた。トロッ キーの考えでは、NEPにより農業分野に市場原理を復活させたことで、クラークと呼ばれる富農が 力を盛り返してしまった。さらに経済全般においても資本家が復権し、社会主義による工業化が阻害 される危険があった。トロツキーの著作に残る多くの書き込みを見ると、スターリンもある程度まで 同じ危惧を抱いていたことが分かる。 しかし産業の社会主義化を阻害するNEPの影響力については、 トロッキーより軽視していた。党とプロレタリアートは農民を支配し続けられるとスターリンは確信していた。 数は農民のほうがはるかに多いが、主導権は持てないと考えていた。だが一九二〇年代末 に農民が都市への食糧供給を滞らせると、スターリンはNEPの放棄をためらわなかった。多大な人 命を奪ってでも、工業化とソヴィエト農業の集団化を強引に加速化させた。トロツキー支持者の多くは、スターリンの「左旋回」を歓迎し、「右翼反対派」と対立したスターリンを支持した。 「右翼反対 派」はニコライ・ブハーリンを筆頭にNEP放棄に反対だった。トロツキーによれば、スターリンは あまりに遠くまで、あまりに速く行き過ぎた。 NEPの土台を成す 「市場社会主義」にも、 やはり一 定の効能があるとさえトロツキーは考え始めた。

スターリンとトロツキーの最大の相違は「一国社会主義」をめぐる見解にあった。革命の国外波及 より国内の社会主義建設を優先するか否かという問題である。トロツキーもスターリンと同じように、ソヴィエト連邦における社会主義建設を重視はしたが世界革命論を放棄しなかった。 スターリンは世 界より国内を明確に優先した。 戦略的見地からは大きな相違であったが、イデオロギーの溝に橋を架 けることはできる程度の問題だった。それでも、些細な違いをめぐる党派間の闘争は、ボリシェヴィ キ党の根本を争う生存競争と化した。

トロツキーは一九二〇年代末に党籍はく奪の上で国外へ追放された。ある意味では不運を自ら招い たとも言える。革命で誰が何を為したかをめぐり 「歴史戦争」を仕掛けたのは彼だった。レーニンが 幾度も脳梗塞に倒れた後に成立していた政治局の集団指導体制を一九二三年に分裂させたのもトロッ キーだった。国営産業委員会の議長として産業の社会主義化を加速させることを提案した。 NEP戦 略に基づく農民資本主義と小規模な私的生産による段階的な経済成長の路線修正を主張した。 指導部の同僚に対して圧力を強め、スターリン、ジノーヴィエフ、カーメネフの三人組が主導する政治局多 数派が「党派独裁」を形成していると攻撃するキャンペーンを党内で展開した。 このキャンペーンの 産物として一九二三年一二月、『プラウダ』紙に彼の論評「新路線」が掲載された。 党内抗争は一九二四年一月の第一三回党大会で、三人組の大勝利に終わった。

トロツキーはカーメネフ、ジノーヴィエフと手を組んだ。 日和見主義であり、軽率でもあった。 カ ―メネフ、ジノーヴィエフは一九一七年当時より、さらに左に位置するようになり、NEPや一国社 会主義をめぐりスターリンと対立、党を武闘路線へと傾斜させようとしていた。一九二三年にトロッ キーが形成した左翼反対派、カーメネフの合同反対派のように、トロツキーとジノーヴィエフは党内 で支持の拡大を図った。だがブハーリンと組んだスターリンの権力と人気に圧倒された。ブハーリン は左翼共産主義者だったが右寄りに足場を移し、NEPの理論的な指導者として台頭、社会主義を目 指す政治経済戦略で漸進主義を唱えた。

トロツキーは一九二六年一〇月、政治局から排除された。一年後にはカーメネフ、ジノーヴィエフ とともに中央委員会でも籍を失った。トロツキーとジノーヴィエフは一九二七年一一月、党を追放さ れ、一二月の第一五回党大会ではカーメネフを含む七五人の反対派が党籍をはく奪された。これに伴 合同反対派を支持する草の根活動家の排斥も進んだ。

カーメネフとジノーヴィエフは、支持者の多くとともに、すぐに反対派の立場を放棄し多数派に同 調した。このため間もなく復党を果たした。トロツキーは自説を曲げず、一七九四年のフランス革命 のように反革命的な「テルミドール勢力」が党を乗っ取ったと主張した。トロツキーは一九二八年一月、カザフスタンのアルマタへ流刑となった。

イガル・ハルフィンによれば、スターリンが率いる多数派は哲学的、政治的な論理を用いて反対派 を「悪魔化」した。 ボリシェヴィキは真実を独占したがると喝破したカウツキーは正しかった。ボリ シェヴィキは自らの運動が社会と歴史の科学的理論に裏打ちされており、自分たちのみが絶対的真実 に到達しうると信じた。党とその指導者たちは革命と内戦の試練に耐えて力量を示し、 今や世界で最 初の社会主義者の国を建設している。 それは全人類を階級や抑圧のない理想郷に導く試みであると考 えた。このような世界観に照らせば、党内多数派に抗する反対派の存在は、階級の敵による狡猾な陰 謀が招いた偏向の表出に他ならなかった。

トロツキーは一九二四年五月の第一三回党大会で以下のように述べていた。

同志諸君、党に反対する者は誰一人として、正義を願い正義を唱える資格はない。最後には党 がいつも正しい。なぜなら党は労働者階級が手にした歴史的な手段であるからだ。 ・・・イギリス には〝善かれあしかれ祖国は祖国〟ということわざがある。はるかに確かな正当性を以て我々は、 こう言おう。〝善かれあしかれ党は党である、と。

党内反対派の「悪魔化」 は数年を費やして段階的に進んだ。最初は「小ブルジョア的偏向」と決め つけた。意図はどうあれ客観的には反革命の輩を意味した。 次の段階では、反党かつ明らかな反革命 の勢力であると位置づけた。

一九二〇年代半ばのトロツキー批判では、セミョーン・カナッチコフ 『ある偏向の歴史』が広く読 まれた。同書はトロツキーを、党の規律に反して孤立し、ヒステリックなパニックに陥りやすい“取 り巻き”を従えた人物として描いた。 スターリンがこの本を読んだかどうかは分からないが、 カナッチコフの他の著作とともに蔵書に含まれていたことは確かであろう

トロツキーは一九二八年に「反革命活動」を理由にアルマアタ流刑となったが、郵便で仲間と連絡 することは許されていた。一九二九年には「反ソヴィエト活動」に関わった罪でトルコに追放、一九 三二年にソヴィエト国籍もはく奪された。

トロツキーはソヴィエトを追放されたあと、『ロシア革命史』(一九三〇年)、『わが生涯』(一九三 〇年)、『永続革命論』(一九三一年)、「裏切られた革命」(一九三六年)、『スターリンの捏造一派』 (一九三七年)など有名な著作を多く残した。 海外追放後のトロツキーの著作で、スターリンの蔵書 に現存を確認できるのは、 ファシズムに関して一九三一年にドイツ語で出版された書籍のみである。 ドミートリー・ウォルコゴーノフによれば、「スターリンは『裏切られた革命』の翻訳を一晩で読み、 はらわたが煮えくり返る思いだった」というのだが、いつもの通り根拠となる出典を明示していない。 スティーヴン・コトキンは「全能の独裁者は・・・・・・トロツキーの著作や彼に関する文献は全て“近い別 の書斎にある特別な本棚に保管していた」と記しているが、彼もまた根拠は示していない。 トロ ツキーの海外での動向について、スターリンが詳しく把握していたことは確かである。トロツキーが ソヴィエトに残る反対派と連絡を取り続けようとしていたことも知っていたに違いない。国内の「ト ロッキスト プ」に対する弾圧について、治安機関から常に報告を受けていた。
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