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『世界の歴史⑱』

209『世界の歴史⑱』

ラテンアメリカ文明の興亡

キューバ革命

バティスタと真正キューバ革命党

一九三三年の反革命でキューバ政界の黒幕となった統合参謀本部長バティスタは、卓越した日和見政治家であり、キューバの社会経済はほかの中米・カリブ諸国とはモノが違から、ウビコ、ソモサ、トルヒーヨらの反動一辺倒政治ではどうにもならないことを重々承知していた。一九三五年のゼネストを血の弾圧でおさえこみ秩序を回復すると、バティスタは軍隊の組織と人員を使って農村教育など社会奉仕計画を実施する一方で、一九四〇年に新憲法下の大統領選挙をもって黒幕政治を清算する政治日程を決めた。まず、グラウを亡命先から帰国させ、その支持母体である真正キューバ革命党を率いて出馬することを許した。そして自分は、キューバ共産党を合法化して、傘下に全国労組連合を組織するのをも許し、これと連合を組んで立候補した。共産党は一九三三年にはグラウ政府を微温的として不支持にまわったのだが、その後コミンテルンが人民戦線戦術に転じたためにすっかり穏健化していたのである。

一九四〇年憲法はきわめて進歩的なもので、普通選挙、国民投票制度、最低賃金、ストライキ権、年金制度、労災保障を定めた。選挙結果は八〇万対五八万でバティスタがグラウを破った。大統領バティスタは、軍部をおさえ、共産党員を入閣させた。経済面も、戦時下だから物不足ではあったが砂糖はよく売れ好景気に恵まれた。

続く一九四四年の大統領選挙ではグラウが圧倒的勝利をおさめ、真正キューバ革命党は二期八年間にわたり政権を担当した。外貨準備は積み上がり、砂糖景気は戦後もしばらくは続いた。この経済の好調を背景に真正キューバ革命党が推進したポピュリズム政策は、しかし戯画のような様相を呈した。バティスタ時代に六万人だった公務員の数は労働力人口の一割を超える一八万人に達し、人件費は国家予算の八割を占めた。労働者の賃金は一九四〇年代に、名目で四倍、実質で一六倍になった。いかに砂糖輸出が好調でもこれではたまらない。インフレは昂進し、稼得外貨は隠れて外国に持ち出され、国内総生産に対する粗投資率は一割を下回った(中南米の普通の国は通例一割五分から二割、日本は三割)。政治家の不正利得スキャンダルが続発し、真正キューバ革命党それ自体が二つに割れてしまった。

一九五二年三月、軍部はクーデターを起こしてバティスタを推戴した。バティスタはその第二期政権では第一期とはうってかわった強権抑圧政治を行った。ひとつにはポピュリズム政策の原資が使い果たされてしまっていたためにほかに打つ手がなかったのである。だがこの間の経済成長により、一九五〇年代前半のキューバの一人あたり国民所得は中南米諸国のうちで産油国ベネズエラに次ぐ第二位につけていた。社会指標でも、平均寿命が五十九歳、幼児死亡率が一〇〇〇人あたり八二人(五九年に三五人)と、どちらもアルゼンチン、ウルグアイに次ぐ第三位であった。中間層・労働者に対しても経済力の許す限りの給付をすでにあてがっていた。ヴァルガスやペロンは、全体としてこれよりずいぶん貧弱な実績をもとでに、政治的求心力を生み出しうるポピュリスト政治体制を構築したのである。ところがバティスタも真正キューバ革命党もそれを達成できず、給付を受けたキューバ人は受け取った分だけさらに欲求を募らせるばかりだった。

ひとつには、比較にならないほど豊かなアメリカ社会がすぐ海峡の向こうに見えている、という事情がある。だがそれよりも重要なのは、キューバの政治的経験の不足だった。ポピュリズム政策を介して、給付のやりとりに徐々に制度的性格を与え、参入自由の多元政治下における公秩序の運用に予測可能性を高めることで多元政治体制そのものを強化してゆく素地が、指導者の側にも市民の側にもできていなかったのである。この政治的未成熟のために、ポピュリズムの破綻により他の中南米諸国もやがて直面することになる左翼革命か長期軍政かの二者択一に、キューバは極端に早い時点で逢着したのだった。

「七月二十六日運動」の決断

もちろん強権抑圧政治はこの極端に意識の高いキューバという国では通用しない。バティスタ第二期政権に対する中間層・労働者の不満は次第に募ってきた。玉砕に終わったがその果敢さで内外の耳目を集めた一九五三年七月二十六日のモンカダ兵営襲撃を政治資産に、一九五六年から島の山がちな東部でゲリラ活動を始めたカストロは、最初のうち数十人の部隊を率いて警察治安部隊の駐屯地を襲撃しているばかりだった。だが、そうやって田舎警察相手の小競り合いを繰り返すだけで、一九五八年に入ると敵の政権基盤が自然に崩れだした。味方は数千に増えて島の西部へあふれ、一九五九年一月にバティスタは亡命した。ゲリラ組織「七月二十六日運動」は国軍を解体して島の唯一の暴力装置となり、カストロ、弟ラウル、ゲバラらその幹部の手中に国の全権力がころがりこんだ。すべて、船が三十歳内外の若者たちである。

かれらは、はからずも手に入った絶対権力を保持したまま、キューバの社会経済の根本的変革を実現したかった。アメリカが唱えるように民主政治を通じてそれを実現することは、民主体制構築のためのポピュリスト政策の原資がもう砂糖経済から引き出せない以上、極度に困難である。仮にそれが可能であっても、「七月二十六日運動」に広範な基盤を与えて選挙に勝てる政党に変えたなら、この国の政治の過去の実績からして、真正キューバ革命党がそうなったと同じ腐敗堕落が待っているのではないか。いや、そもそも経済の基幹をなす砂糖生産の四割がアメリカ系資本の手中にあるのだから、根本的変革をめざす以上アメリカとの対決は避けられない。乾坤一擲、かれらは東側と手を結ぶ覚悟を決めた。

一九五九年五月に農地改革法が公布され、アメリカ企業所有の砂糖プランテーションの接収が始まり、六月に政府から穏健派が排除され始めると、早くも対米関係は緊張した。秋からキューバは民兵制度を整備する一方でソ連に関係強化の意向を伝え、六〇年二月にソ連副首相ミコヤンをむかえて二国間貿易援助協定を締結した。その年のうちにキューバはアメリカ人所有の全資産時価一○億ドル相当を接収し、アメリカはキューバ糖の輸入割り当てをゼロとした。六一年四月、CIAの支援のもとグアテマラとニカラグアで編成された亡命キューバ人一個旅団が、七年前のアルベンス潰しの再現をねらって祖国に上陸したが、キューバ正規軍と民兵の反撃を受けて二日後に撃退された(ピッグズ湾事件)。

東西冷戦の渦中で

一九六一年十二月、カストロがみずからマルクス・レーニン主義の信奉者であると宣言すると、六二年一月、米州機構はアメリカの提案を受けてキューバを除名し、二月、アメリカは若干の食糧・医薬品をのぞきキューバ相手のすべての貿易を国民に禁じた。七月に国防相ラウル・カストロがソ連を訪問し、おそらくこの時のとりきめにもとづき、ソ連はキューバに核運搬能力をもつ準中距離弾道ミサイル四二基を配備した。これを察知したアメリカ政府は、十月二十二日、海軍艦艇と軍用機で島を海上封鎖し、ミサイルの撤去と、将来にわたり戦略兵器をキューバに配備しない旨の約束を要求した。六日間の緊張のすえ、ソ連が譲歩してミサイルを撤去し、ひきかえに、キューバに侵攻しない旨の暗黙の約束をアメリカからとりつけた(いわゆる「キューバ危機」)。これはキューバにとって頭越しの合意だったから、対ソ関係は冷えこんだが、革命キューバが核戦略上の意義を失ったこの時

を境に、対米関係は敵対的共存のかたちで安定化したのである。

他方で国内政治体制の構築が着々と進んでいた。ラウル・カストロが国防相に就任したのは一九五九年十月であった。かれは国内統制のための民兵の編成から始めて、以後三〇年間にキューバ軍を世界的水準の戦闘集団に育て上げた(現在兵員数二七万で日本の自衛隊とほぼ同規模、ほかに一〇〇万余の民兵を動員できる)。五九年のうちにカストロは、「七月二十六日運動」内から旧共産党との提携に反対する勢力を排除し、全国学生組織と全国労組連合の執行部を自派で固めた。六〇年にはキューバ女性連盟(FMC)、革命青年協会(AJR)、近隣統制組織である革命防衛委員会(CDR)を、六一年には全国小農協会(ANAP)を傘下に編成した。

 肯定が否定より難しく感じられるのは
肯定した時
「何を」
肯定したことになるのかが不明だからである
否定の作用は、それ自体が認識だからである

 地球人類は失敗した
それだけのことなのでもある
ほかの星紀におけるほかの人類のやり方があるのだし
べつにこの人類でなくてもいいのだし
あるいは、この人類の失敗の仕方も、ひとつの
存在のやり方である
という言い方もできる
それはそれでいいのでもある
しかし
どうならばどうだと言えるのか

 普通に人が、地球人類が全てだと思っているのは、
身体が自分だと思っているからである
見えているものが見えているものだと思っている、これは驚くべきことである
しかし、
地球外生命
ということではない
生命とか人類とかの形状が問題なのではない
在る
ということが、そのことなのである
内的宇宙は外的宇宙である
主観は客観である
というこの一点を理解しない限り、 人は地上の思想しか考えられない
人類が問題なのではなく存在が問題なのだ
 とりあえずリマーク的な日記をつけること で新しい本の形式で
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