goo

『残酷人生論』池田晶子

なぜ社会の存在を認めるのか

「社会」
と、人は言う。人間とは社会的存在であり、社会生活を営むことで人は生きているのであり、人はひとりでは決して生きてはゆけないものなのだ、と。
「生きる」というのが、「生存する」の意であるのなら、右の考えはまったくその通りである。いかな孤独癖の人、自分は淋しがり屋でないからひとりでも生きられるという人も、その衣食住の全般を独力で製造するのでない限り、 やはりひとりで 生きてゆけるものではない。個人の生存は、社会の存在に、確かに依存しているのである。
ところで、しかし、それはそれだけのことではないのか。生存が社会に依存するという、たったそれだけのことではないのか。
生存は社会に依存するかもしれないが、存在が社会に依存するわけではない。 この自分の存在は、社会の存在によらずとも、確実に存在するのである。人はこのことに気づかないでいるか、むしろ故意に気づかないでいる。
社会性はあるのだが、社会というのが完璧にないと評されたことがある。むろん、この欠落の自覚は、裏を返せば矜侍であって、 なぜなら私は、社会生活を営むために生きているのではなく、生きるために社会生活を営んでいるにすぎない。 このことをはっきりと自覚しているからである。ソク ラテスという人は、もっとはっきりこう言った。
「皆は食べるために生きているが、 僕は生きるために食べている」
生存するために生きているのではないのだから、生きているのは存在しているゆえ である。私は、社会の存在なんてものを、この自分の存在よりも確実なものだと認 めていない。認めていないのだから、社会の存在が私の存在を、どうこうできる道理もない。じつに自由である。人は、何をもって、不自由と不平を言っているのだ ろうか。
人が、不自由と不平を言っているのは、したがって、社会を認めているからである。社会の存在を自分の存在より確実なものだと、自分から認めているのだから、社会の存在に自分の存在をどうこうされるのは、道理なのである。
ところで、社会の存在といって、社会なんてものがいったいどこに存在するのだ ろうか。私はそんなものを見たことがない、触ったこともない。見たことがあるのは、私と同じように社会生活を営みつつ生きているひとりひとりの人間だけなのだが、それらとは別のどこかに、社会という何か得体の知れないものが存在しているのだろうか。そんな得体の知れないものを存在していると、なぜ人は認めているの だろうか。
人が、そんな得体の知れないものを社会としてその存在を認めているのは、決まっている。それによって不自由と不平を言うことができるからである。 何か悪いこと、自分に都合の悪いことや自分が悪いこと、社会が悪いことそれ自体さえ、社会のせいにできるからである。そのためにこそ、人は社会の存在を必要としていると言っていい。自分が生存するためだけではなく、自分が存在しないために、人には社会が必要なのだ。 生存も存在もすべてを社会に押しつけるために、人にはそれが必要なのだ。ところでしかし、いったい何のためのそのような人生なのか、私にはまったく理解しかねる。
存在もしない社会に、自分の存在を押しつけて、応えてくれないと不平を言っても無理である。なぜなら、相手は、存在しないのだからである。存在しているの は、ひとりひとりの人間だけ、しかも、このひとりひとりがまた、社会は応えてくれぬと不平を言っているのだから、なおのこと無理というものである。

必要な唯一絶対の革命

とはいえ、社会は存在しない、国家も存在しない、 そんなものは、そんなものが 存在するとする人間の「考え」なのだ、と言ったところで、そうそうすぐに納得さ れるものではない。国家が存在すると思わなければ戦争は起こらないのだ、と言っ たところで、何を当たり前なと思うか、この人はどこかおかしいと思うか、まあどちらかのはずである。

しかし、一朝一夕にできることではないということくらい、この私にだってわかっているのである。 人類が、有史以来そうと思い込んできて石のように固くなっている考え、そんなものが一朝一夕でひっくり返せるわけがない。だからこそ、それは「革命」の名に値することになるのだ。

社会革命なんてあんなもの、どこが革命なもんですか

社会は存在し、国家は存在し、自分が生存するためにはそれらのどこかをどうこう変えればどうこうなんて、そんなチャチなものが、なんで革命なんですか。

革命というのは、根こそぎ丸ごとひっくり返すから革命というのだ。社会は存在し、国家は存在し、自分は生存したいというこの考え自体をひっくり返すから革命 なのだ。何万人の敵を殺し、あるいは粛清したところで、どちらも同じこの考えをしているのだから、結局なんにも変わらないのは道理なのである。

思えば、この人間の歴史というのは、大勢の人間や人間の集団が地表を右往左往することで動いてきたように、たいていの人は漠然と表象しているようだけれども、ここはよく考えてみてください。 人間が動くのは、何によるのか。何によって、人間は意志し、行為し、 決断するのか。

人間が行動するのは、おしなべて「考え」による。「考え」によって、人は意志 し行為し決断する。人はこのことを、自分の思考において明確に表象できるようになるべきだ。決断に逡巡する英雄の胸中にあるもの、それは「考え」だ。 引き金を引く指も、前進する戦車も、あれらすべて 「考え」 だ。 可視的表象に騙されてはならない。 可視的なものを動かしているのはすべて、そのように考えている人間の「考え」なのだ。

「人間」の語で、人は多く、この可視的形姿を表象するようだから、私はあえて 「人間」ぬきの、「考え」の語のみで言いたい。「人間」が動いているのではない、「考え」が動いているのだ。歴史を動かしてきたものは、英雄でも戦争でもない、またその背後の誰か思想家でもない、不可視の「考え」だ。 表象における映像を警戒せよ。

貨幣でさえ、それ自体では動かない。あれが動くのは「考え」によると私は言っ た。 それなら、人間それ自体が動くのは「考え」によると気づくのはもっとたやす いはずと、私は思うのだが、これがあんがい難しいらしい。 それで、そこに見えて動いている人間を消してしまえば、事態は変わると思うのらしい。

変わるわけがない。「考え」を変えていないのだから、変わるわけがない。本当に変えたいと思うのなら、「考え」を変える以外は絶対にあり得ない。だから、「武 力革命」なんてのはあきれた矛盾で、革命というのは、本来、それぞれの精神の中にしか起こり得ないと私は言うのだ。

ところで、この「精神」というのも、それを自分とは別の何かみたいに思っているのでは、やはり同じなのである。他人の精神を革命しようとする前に、まず自分の精神を、きちんと革命したら、どうだろう。

というわけで、精神革命と御大層に言ったところで、要するに、自分でものを考えろという、ごく当たり前のことしか言ってないことになる。しかし、当たり前なことほど、難しいことはない。社会は存在し、国家は存在し、自分は生存したいというこの考え、これはいったいどういうことなのか、各人、自力で考えよ。 そして、可能な限り自覚的であるよう努めよ。人類と歴史は、必ず変わる。

死を信じるな

結局のところ、「死」こそが、人間にとっての最大の謎であり、したがって、また魅惑なのだ。

少なくとも私は、そうである。言葉と論理、すなわちすべての思考と感覚が、そこへと収斂し断絶し、再びそこから発出してくる力の契機としての「死」。この人生最大のイベント、これの前には、生きんがためのあれこれなど、いかに色褪せて見えることか。死を恐れて避けようとし、生きんがためのあれこれのために生きて いる人は、死を考えつつ生きるという人生最高の美味を逃していると言っていい。ところで、死を考えると言って、この世の誰が自分の死を考えられたことがあっ ただろうか。自分の死なんてものは、じつは、どこにもないのだった。あるのはただ累々たる他人の死ばかり、自分の死なんてものは、無いのだった。すると、無い死を考えつつ生きるというのは、どういうことだったのか。

人が通常、何らかの態度を取ることができるのは、それが存在している場合に限られるのであって、 そも存在していないものに対しては、恐怖どころか憧憬という態度もまた、じつは取れないのである。したがって、死に対して取られるべき最も正確な態度は、それを、無視する。文字通り、「無いもの」として振舞う。人生最大の魅惑的イベントであるはずの死が、最もどうでもいいものということになるの だから、やはり人生は、変である。まったくもって、困ったものである。

ところで、普通に人が何らかの宗教を信仰するに至る心の根底には、この「死へ の恐怖」が、大きな要因としてあるようだ。しかし、繰り返しくどくど言うように、死は、存在しないのである。存在しないものは怖がれないのである。なのに、死を恐れて宗教を信仰する人は、じつは、宗教を信じる前に、死を信じていると言 っていい。死が存在すると信じているから、その恐怖を失くする方法として、宗教を信仰するのだ。なぜなら、宗教は、こう信じさせてくれるからだ。「死は存在しない。生命は不死である」。

「死は存在しない」というこれは、私が述べているそれと同じことを述べているようだが、まったく逆である。私は、死は、考えられないから存在しないと言っているのであって、存在するから信じなさいと言っているのではない。 私は、思考の事実を述べているのであって、宗教は、感情の物語を述べているのだ。

なるほど、「不死」と言うなら、確かに不死と言っていい。しかし、これもあく までも事実としてそうなのであって、信仰としてそうなのではない。なぜなら、不死を信じるためには、まず死が信じられていなければならないからである。

信仰としての不死とは、じつは相当心もとないのでなかろうか。ひょっとして違うかも、ちらと疑ったりとか。

物語を信仰しようとするから、その手の迷いも生じるのだ。思考の事実にのみ即して考えれば、いかなる疑いもあり得ない。

たとえば、「死後の生」という言い方、あれは何か。生ではないもののことを死 と呼ぶということに、 我々は決めているのだから、「死後の生」という言い方は、ないのである。そういうものが「何もない」と言っているのではない。なぜなら、無は無いからである。存在のみが、在るからである。無くなることなく常に在るか ら、それは「存在」と呼ばれるのだが、生前死後にかかわらずに存在であるその存在、それと、この「私」との結託関係、これこそが究極の謎なのだ。したがって、また魅惑なのだ。これこそが、じっくりと考え抜かれ、味わわれるべき人生最高の美味なのであって、そんじょそこらの宗教にくれてやるなんて、そんな、もったいないこと。

宇宙を絶対受容する

ところで、人生は今回限りではないと言ったところで、「論理的に考えれば」、そ んなこと、考えられるわけがない。

死が存在しないのだから、 「死後」もまた存在しない。存在するのは常に「現在」だけである。「現在」がすべてである。

けれども、存在しているのは常に「現在」だけ、「現在」がすべてであるという その同じ理由によって、じつは「死後」もまた存在していることになる。なぜな ら、「すべて」ということは、文字通り「すべて」、宇宙が存在する、存在が存在する、そのことを指して「すべて」と言うからである。 そして、「すべて」ということは、言うところの「なんでもアリ」ということだからである。

論理的思考の領域の外は、「なんでもアリ」、「死後」なんてものは、あろうがな かろうが、どっちでもいいのである。「魂」が残ろうが消えようが、やはりどうでもいいのである。

このように感じているこの状態こそ、おそらく「最終的な」幸福と呼ばれる状態であろうと、私には予想される。苦しみも喜びもまた努力も、そのように認められ ているというそのことにおいて、じつはいまだに不自由なのである。「なんでもアリ」ということは、なんでもあり、何がどうであろうと構いやしない絶対自由なのだから、苦しみは別に喜びではなく、喜びがとくに喜びというわけでもない。善く なるための努力とて、とりたてて努力というほどのことでもないであろう。 幸福とは、要するに、なんでもいいのである

あれ、振り出しへ戻ってしまった

けれども、振り出しへ戻っても、これだけは違うのは、「なんでもいい」と思っているというまさにこのことであって、絶対自由とは、別名、絶対受容ということになる。何がどうであろうと宇宙がそのようであるということを受容しているその状態の幸福は、宗教的には、「至福」というふうに呼ばれているようである。禅仏教のクソ坊主は、「大悟」などとヌカして舌を出している。

したがって、大悟して振り出しへ戻ったそのような人は、とくに何をも為さないだろう。才能の人は才能を為し、凡庸の人は凡庸を為し、各々自分の職分と持ち分において為すべきことを為し、とくに何を為すというわけではないだろう。

私とて、なんでこんなことをしているのか、ほんとのところはよくわかっていないのである。いつも偉そうなことを言ってはいるが、ほんとは、なんにも、したく ない。じいっと宇宙を感じたままで、指一本動かしたくなかったりするのである。しかし、まったくなんにもしないというのも、それはそれでけっこう難しいもので、とりあえずはまあ何かをする。何かをするにしても、得手不得手というのは自 ずからあり、私はこれしかする気もないしで、 それでなんだかこんなことをしているというのが正直なところだったりするのである。表向きはいちおう「世のため」ということにしてはいるが、またじじつ必ず世のためにはなるのだが、「宇宙のほ んと」がよくわからない限り、ほんとは「何の」ためなのか、やはりよくわからないというのが正確なところなのである。

けれども、それでも、まあいいか

そんなふうに私は感じる。どう頑張っても、我々の認識は、宇宙を全的に「理解」するには絶対に至らないのである。 いかなる理由があるにせよ」、 自分がこの人間であり、為すべきことを為している。このことは、それだけで、十分なんらか幸福 なことではあるまいか。 そんなふうに感じつつある昨今である。

どうやら、「幸福」について語ることほど、人が己れを晒してしまうことはなか ったようである。 また、人が「幸福」について語るのを聞くより、自分が幸福にな るほうが幸福のはずでもある。

こればかりは、お役に立てませんようで、 ごめんあそばせ。

 奥さんへの買い物依頼
ほっけ開き  280
コーヒー牛乳       128
バスクチーズケーキ 98
冷凍お好み焼き     178
シーチキン  299
食パン8枚  129
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )