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 『分断と統合への試練 1950-2017』

プーチンの攻勢

ヨーロッパが移民の流入への対応に苦心すると同時に、テロ攻撃の脅威の高まりに直面しているとき、大陸の東方では、もう一つの別の危機が起きつつあった。二〇一四年三月一八日、ロシア大統領プーチンは、クリミア半島のロシアへの併合を発表した――三日後にはロシア連邦議会の下院(ドゥーマ)によって承認された。一九七四年のトルコ軍によるキプロス北部侵略と占領を除けば、第二次世界大戦の終結以降、ヨーロッパでは唯一の領土併合の例である。これは、ロシアとウクライナ間の緊迫した関係の深刻なエスカレートを示すだけではなかった。ロシアを欧米の北大西洋条約機構(NATO)諸国と直接対峙させることになったのである。ロシアはさらなる拡張を意図しているのではないか。そんな懸念がロシアの近隣諸国、とりわけバルト諸国に広がった。新たな冷戦という妖怪があるいはもっと悪い事態が-目を覚ました。恐怖がはっきり感じられたのは、またもや東欧及び中欧であった。

クリミア併合は、ウクライナで一段の不安定状況が表面化したことに続いて起きた。一九九一年以前は独立したことがなく、疑問の余地のない国民的意識を欠いた国での分裂と紛争は、二〇〇四年の「オレンジ革命」の結果によっても、解決されるにはほど遠かった。二〇一〇年にもなると、疑問を付された六年前の大統領選の勝者、ヴィトル・ユシチェンコは派閥争いと諸々の政治論争、そしてひどい汚職に対する批判の結果、事実上すべての支持を失っていた。だが、新大統領ヴィクトル・ヤヌコ―ヴィチの下で、ウクライナ特有の汚職と縁故主義はいっそう悪化した。ロシアと同様、多くの新興財閥が、たいていは贈収賄や脅迫または暴力で手に入れた不動産の窃取によって、莫大な財産を築いた。ヤヌコーヴィチの息子オレクサンドルも、たちまち莫大な財を成した者たちの一人だ。対外関係では、ヤヌコーヴィチはEUとロシアの間で微妙な舵取りをしようとした。ところがモスクワとしては、ヤヌコーヴィチがウクライナの公然の長期目標であるEU入りの抱負を公言するのが面白くない。ロシアの反対はあなどることができなかった。ウクライナはこの強力な隣国にガス供給を依存しているからだ。二〇一三年一一月、ヤヌコーヴィチは予定されていたEUとの連合協定を突然キャンセルし、代わりにロシア、ベラルーシ、カザフスタンとのユーラシア関税同盟を支持した。彼がロシアの圧力なしにその措置を取ったとは考えられない。それは致命的な策になった。キエフのマ–ダン(独立広場)を中心に、数十万人による巨大な抗議行動を誘発したのだ。その結果、暴力がエスカレーし、政府による抑圧が強まった。二〇一四年二月二欧米からの圧力でヤヌコーヴィチは退陣させられ、新たな臨時政府が発足。大統領選が前倒しされた。ヤヌコーチはヘリコプターでウクライナ東部へ、そこからさらにロシアへ逃げた。

プーチンがそんな屈辱に甘んじるわけはなかった。ロシアの力を誇示するには、クリミアは格好の標的だった。クリミアは一九五四年以来ウクライナの一部であり、混住する民族のなかでロシア人が多数派を形成している。それに、ロシア黒海艦隊の本拠だ――セバストーポリ港はウクライナから租借されていた。クリミアに介入すれば、ウクライナ指導部の反ロシア姿勢を罰するとともに、ロシア国内では、ナショナリストたちからプーチンに対する喝采を勝ち取ることになる。欧米がクリミアのために世界戦争の危険を冒すことは考えにくい。経済制裁は不可避だが、耐えられる代償だ。これがプーチンの計算だった。

ヤヌコーヴィチは、プーチンとの関係はいまや芳しくないものの、モスクワでは依然としてウクライナの正当な大統領と見なされていた。彼が追放されて数日後に、国章をつけていない武装集団がシンフェローポリにあるクリミアの州議会建物を占拠した。続いて、クリミアのロシア市民の保護を求めるモスクワ宛ての要請が滞りなく行われ、モスクワに受け容れられた。その後数日にわたり、ロシア軍がクリミアに入った。州議会はクリミアの独立を宣言し、ロシア連邦への加入希望を表明。これは三月一六日の国民投票で、有権者のほぼ九七パーセントが支持したとされた。翌日、議会からの正式のモスクワ宛て要請が行われ、これを受けて三月一八日、プーチンがクリミアのロシア連邦への統合を発表したのである。クリミア危機を政治的に解決しようとする欧米諸国首脳の外交努力は、予想どおり、まったく実を結ばなかった。ロシアは国連による非難にもためらわなかった。核戦争にまでエスカレートさせることは問題外である以上、明らかな国際法違反に対する報復として残った唯一の手は、制裁に訴えることだった。ロシアの外国口座が凍結され、渡航禁止が科されたが、EUはロシアからのガス・石炭輸入に依存しているため、行動を制約されていた。制裁はプーチンをそれほど困らせそうもなかった。そしてブーチンは、先進八カ国(G8)グループ参加国としての資格停止は我慢することができた。ロシアは孤立した。だが、クリミアが再びロシアから切り離される見込みはなかった。ロシア国内ではプーチンの人気は急上昇した。ロシアのメディアはクリミアの「回帰」を、偉大な国民的勝利としてはやし立てた。ミハイル・ゴルバチョフまでが、もし自分が同じ立場に置かれていたら、プーチンと違わない行動を取っただろうと述べた。かつての時代を思わせるプーチンのパワーポリティクスは、奏功したのであった。

とかくするうち、暴力は(ドンバスの工業地帯を中心に)東部及び南部ウクライナに広がっていた。炭鉱で働くために一九世紀末以降、モスクワ地方から大挙して移住していたロシア民族が人口の多数を占めている地域だ。権威ある国際的世論調査機関が実施した調査によれば、親ロシア感情は西部ウクライナに比べると間違いなく強いものの、分離主義を支持しているのは少数にすぎず、大多数は統一ウクライナ国家を望んでいた。ドンバスへのロシアの介入に対しては、東部及び南部ウクライナでさえ住民の大多数が――そしてロシア語話者の過半数が――反対の意見だった。だが、モスクワが東部ウクライナの分離主義勢力に軍事支援を与える用意があるとき、世論はほとんど問題にならなかった。それにドンバスの地域社会には、自分たちの地域をキエフから切り離し、ロシアに統合するために戦う用意のある活動家が実在することは間違いなかった。反抗勢力は単に、プーチンの振り付けに合わせて踊るだけの操り人形ではなかった。

親ロシア派の抗議デモは二〇一四年三月以降、ロシア軍及び民兵に一段と支援を受ける分離主義の反抗勢力と、ウクライナ政府の間の武力衝突に急速にエスカレートした。モスクワの支援がある限り、この暴力は止めようがなかった。分離主義勢力は行政庁舎を急襲、占拠した。

空港は砲撃を受けた。秋までにすでに数百人の死者を出していた戦闘に、重砲やロケット弾発射機、ヘリコプター、それに装甲車が投入された。背筋が凍るような関連の悲劇として七月一七日、マレーシア航空機がロシア製ミサイルで撃墜された。おそらくウクライナ軍用機と取り違えた反抗勢力による可能性が強く、乗っていた二九八人全員が死亡した。

米国とEU、全欧安全保障協力機構(OSCE)、それに独仏首脳と新たに選出されたウクライナ大統領ペーロ・ポロシェンコ――ウクライナの新興財閥の一人――も加えた紛争終結のための数々の国際的試みによっても、目ぼしい打開策は生まれなかった。二〇一四~一七年の間に計一一の個別の停戦合意があったが、どれも長続きしなかった。もっとも重要な試みである二〇一四年九月五日のミンスク議定書で、戦闘は一時的に下火になったものの、たちまち停戦違反が起き、停戦は数週間で死文化してしまった。ウクライナとロシアに独仏を加えた首脳による協議を受けた二〇一五年二月一一日の第二のミンスク停戦合意も、結果はたいして変わらなかった。一縷の希望が時折そうして兆したものの、プーチンは自国内でウクライナに対する姿勢への支持があることを確信して、おおむね不屈の態度を取り続け、ウクライナ全土を不安定化し、同国が欧米の軌道に引き込まれるのを阻止しようと狙っている様子だった。

ポロシェンコの目標は、その正反対の方向を向いていた。ウクライナのEU加盟という彼の希望が、予見できる将来において実現する可能性はまったくなさそうだった。ウクライナの汚職と経済・政治運営の失敗のひどさ、そして、ウライナがいささかでも加盟の展望を抱けるようになる前になすべき大改革の必要性が、あまりにも大きすぎて、EUとしてはその展望を抱けなかったのだ。しかし、二〇一四年九月一六日に合意されたウクライナとEUの間の新たな連合協定は(発行は二年後の予定だったが)、ウクライナをロシアに近づけようとするプーチンの戦略が不首尾に終わったことを示す一つのしるしだった。

ウクライナ国内では、紛争の各勢力がすみやかに足場を固めていた。双方とも折れなかった。二〇一四年九月、ウクライナ国会はナショナリストの反対に抗して現実に妥協し、ドンバスの事実上の自治を意味する諸権利を認めた。一〇月二六日にウクライナのほとんどの地域で実施された最高会議(国会)選挙では、親欧米姿勢の諸党が勝利したが、一一月二日に実施された分離選挙(ロシアのみが承認)では、驚くまでもなく、親ロシアの分離主義に対する圧倒的支持が示された。予見できる将来、ウクライナの領土分断を克服する明確な道はなかった。それでもプーチンは譲歩しようとしなかったし、おそらく出来なかったのだ。国内での立場を危険にさらすわけにはいかなかった。ロシア国内では当然ながら、メディアが東部ウクライナの分離派勢力に対する支持を、国家の威信問題として伝えているのだ。いずれにせよ、ロシアに支援された分離派による暴力のパンドラの箱は、いったん開かれてしまうとたとえプーチンが閉じようとしても閉じることができなくなった。EUが科した制裁は、ロシアがウクライナで非妥協的姿勢を示すたびに強化された。当初は目立った影響はなかったものの、口座凍結と渡航禁止に加え、金融、エネルギー装備にまで拡大された二〇一四年九月以降、ロシア経済の悪化に一役買い、効果を表わしはじめた。欧米に残された他の唯一の選択肢は、中欧及び東欧におけるNATOのプレゼンスの強化だ。ポーランドとバルト諸国の兵員数が増強され、二〇一六年にはポーランドで軍事演習が実施された。ロシアもまた――国境の内側でだが――軍事演習を行うに及んで、ロシアと欧米の関係は冷戦終結後のどの時期よりも緊張した。

二〇一七年三月までに一万人(四分の一は民間人)近くが殺され、数千人が負傷、一〇〇万人を超す人びとが戦闘のために住居を追われた。激しいプロパガンダ戦争では、真実が明らかな犠牲者だった。だが、ロシアが紛争の主要な扇動者だったことを疑う余地はほとんどない。そして、ロシアの支援がなければ--その規模を隠す見え透いた試みがなされたけれども分離派勢力は武力闘争を続けられなかっただろう。にもかかわらず、プ―チンにとってウクラ―ナ紛争は完全な成功にはほど遠かった。たしかにドンバスはほぼ自治地域になった。だがプーチンは、ウクライナの大部分を西欧から遠ざけるのではなく、西欧に近づけ、その過程でウクライナの国民感情を強めてしまった。ウクライナ抜きではプーチンの「ユーラシア経済連合」(ユーラシア関税同盟がそうだったように、EUに対応する組織が意図されていた)の構想はほとんど成果がなかった。とかくするうちに、ロシア経済は制裁(そして石油価格の下落)にひどく苦しむようになった。それに、プーチンはおそらく、ロシアと欧米の関係を取り返しがつかないほど傷つけてしまった。では、なぜクリミア併合に加えて、ウクライナで戦争を促したのだろうか?プーチンの戦略目標は何だったのか?

もっとも簡単な説明が、もっとも理にかなっている。本質的には、プーチンは大国としてのロシアの失われた威信と地位を回復しようとしたのだ。元KGB将校として、プーチンはソ連の崩壊を、二〇世紀最大の地政学的破局として語っていた。彼の目には(そして多くの同人の目には)、ソ連の崩壊は、世界における大国としてのロシアの地位と誇りを劇的に低下させてしまった。ロシアの指導者たちは旧ソ連共和国諸国をロシア独自の影響圏として眺め続けていた。だが、多くの人びとの目には、共産主義の崩壊は、かつて強力だった国に屈辱を加えた。米国が唯一生き残った超大国として世界を牛耳る一方で、ロシアはマフィア国家に堕してしまい、大方のロシア人が崩壊寸前の経済に苦しんでいるのに、クロイソスの富を享受する強力な新興財閥が支配している。ロシアは、NATOがかつてのロシアの影響圏へロシアのまさに戸口であるバルト諸国までも拡大するのを防ぐ力がなかった。欧米の目から見れば、NATOは敵意のない組織だが、ロシアはそれを危険と見ている。欧米では人道的行為として見られた一九九九年のNATOのコソヴォ介入は、モスクワでは憤激を引き起こした。同盟国を守る防衛組織としての、NATOの限定的役割を乱用するものと見られたのだ。だが、ロシアは介入を止めることができなかった。要するにロシアは、一九九〇年代を通じて深刻な国民的屈辱感に苦しむ旧大国だったのだ。

プーチンはたしかに、多くの国民的誇りと国内のまとまりを取り戻した。ことあるごとにナショナリズムを意識的に呼び覚ますことで、確かな国民的支持基盤済的不満の広がりに対する平衡力――を手にした。ウクライナとクリミアは一八世紀以来、ロシア帝国の一部で、大国としてのロシアの地位に欠かせなかったし、のちにはソ連の影響圏の重要な構成要素だった。プーチンは二〇一二年に、ソ連消滅後の空間を再統合する任務について語っていた。ところが、二〇一四年のヤヌコーヴィチの追放は、ウクライナの対ロシア依存を固めるという目標を害してしまった。それへの対応が、東部及び南部ウクライナと、究極的には同国全体を不安定化させるという広い目標の一環として、クリミアをロシアに「取り戻す」ことだったのだ。このより広い目標において、プーチンは計算を誤った。明確な出口ルートがないまま、自分がウクライナで解き放った勢力に自らを縛りつけてしまったのだ。後退することも前進することもできないまま、プーチンはロシアを東部ウクライナの泥沼に無期限に沈めてしまった。これはおそらくプーチンが幾晩か眠れない夜を過ごす原因になっただろう。彼が少なくとも満足できたのは、東部ウクライナがモスクワに支配されている限り、EUとNATOへの加盟を目指しかねない統一ウクライナ国家はあり得ないということだった。プーチンは国内では、欧米との対決において賞賛を勝ち得た。シリア内戦は、国際舞台におけるロシアの支配的役割を再び確立するさらなる好機を彼に与えた。二〇一五年のロシアによる軍事介入は、旧ソ連の国境の外側では共産主義の終焉以来初めてであり、恐ろしいシリア紛争の極めて重要な一局面だけでなく、プーチンが世界パワーとしてのロシアの復興を試みる新たな段階をしるすものだった。

クリミアとウクライナをめぐるロシアと欧米の対決は、暗い過去へ逆戻りする恐怖を中欧及び東欧じゅうに送った。これは世界大戦につながるのだろうか?ロシアは東欧の他の国々、そしてひょっとしてその先まで併合するのだろうか?とりわけソ連に併合された苦しみの記憶も生々しいバルト諸国では、その恐怖は理解できたけれども、おそらく誇張されていた。クリミアとウクライナでプーチンは手いっぱいだった。なぜ彼が、バルト諸国を併合し力で抑え込もうとして、問題を増やしたがるだろうか。バルト諸国の非常にはっきりした国民的帰属意識は(東部ウクライナの場合と違って)、かなりの程度、ロシアへの抵抗によって培われたのだ。プーチンが、すでに実行した以上の、ヨーロッパでのより広い拡張主義的計画をもっているという証拠も、まったくなかった。一方、シリアへの介入は、プーチンがロシアの伝統的同盟国シリアとイランを支援して、国際舞台でロシアの力と影響力を誇示するため、米国の政策の弱みにつけ込んだケースだった。しかし、ロシアがソ連のそれに比肩し得る世界的役割への野心を抱いたことを示す兆候はない。そのためには、ロシアの資源だけでは十分ではないだろう。それに、ロシアの国力回復というのでは、非ロシア系民族に訴えそうなイデオロギー的目標には、まずならなかった。

そうこうするうち、ウクライナの危機は不安な膠着状態に落ち着き、世界平和やヨーロッパのより広い安定に重大な脅威を与えることはなかった。しかし、ヨーロッパ大陸の全般的危機のもう一つの要素の帰結として、非常に長きにわたって、まさにその安定の重要な支柱であったEUそのものが維持できるのかどうかが、直接的に問われることになった。すなわち「ブレグジット」、英国のEU離脱決定である。

 209『世界の歴史⑨』

大モンゴルの時代

蒼き狼たちの伝説

モンゴル時代の幕あき

草原と森林のはざま

海を遠くはなれ、アジアの内陸へとむかう。海からの風と湿り気はしだいにうすらいで、乾燥した大気が、ゆるやかな風となって夏の草原をすずやかに渡ってゆく。

アジアの大陸のうちぶところに、巨大な高原がひろがる。チベット高原のように、はげしく高すぎるわけではない。北からはシベリアの大森林が迫り、山と渓谷に緑をしきつめて、南側の草原と交錯する。草原と森林が織りなす世界である。

いま、そこをモンゴル高原という。はじめからそう呼ばれていたわけではない。十三世紀のはじめ、モンゴルというささやかな集団が、この高原に割拠するトルコ・モンゴル系のさまざまな遊牧民をとりまとめて、ひとつの政治勢力として浮上した。その名を「イェモンゴルウルス」といった、大モンゴル国である。

.モンゴルという名でくくられることになった雑多な牧民たちは、テムジンあらため「チンギス・カン」と称した男にひきいられ、はるかなる山河をこえて外征の旅に出た。それは、驚異の成功と拡大を、この新興の遊牧国家にもたらすこととなった。

それが、すべての始まりであった。モンゴルという嵐は、ユーラシアの東西を席捲した。そして、ついに人類史上で最大の帝国を形成する。モンゴルが世界と時代の導き手となる道が、ひらかれることになる。―――大モンゴルの時代は、かくて幕をあけた。

蒼き狼のイメージ

人類の歴史に一大画期をもたらした、モンゴルというもともとはまことにささやかな集団の起源については、モンゴル自身も、世界の支配者となってから、ペルシア語や漢文、もしくはみずからのことばであるモンゴル語などで、それなりのはなしを語り綴った。しかし、それらは、当然のこととして、伝説の色彩にいろどられている。

政治権力をにぎり、王者ともなれば、自分たちの出自について美しいはなしをつくるのは、むかしも今も、そう大きくは変わらない。とくにチンギス・カンは、モンゴル時代いご、神聖なる存在とされまさに神になった。

モンゴルの族祖伝承として名高いのは、蒼き狼と惨白き鹿のめぐりあいである。これは、漢語のタイトルは「元朝秘史」、ほんらいのモンゴル語の名では「モンゴルの秘密の歴史」(モンゴルン・ニウチャ・トブチアン)の冒頭にしるされる。

しばしば頭韻の四行、ないし二~五行(もっと長いものもある)詩、つまりあたまにおなじ母音がそろう詩句もまじえたかたちで綴られる『元朝秘史』については、いまわたくしたちは、書かれたものとして知っている。明代のはじめ、洪武年間に、モンゴルの故都の「大都」あらため北平で、モンゴル政権下での漢訳のやり方のまま、漢字音によるモンゴル語原文と、その直訳体による口語ふうの漢文訳(語順はモンゴル語そのままで、訳語は伝統漢文ではない日常会話の白話で使われることば)との完全バイリンガルで構成されたものとして、知っている。

おそらくは、そのもととなるなにかが、「大都」にのこっていたのだろう。その原文が、クビライ時代の至元六年(一二六九)にチベット文字をもとにつくられたパスパ文字で綴られていたか、それとも、チンギス時代に導入したとされるウイグル文字でしるされていたかについては、世界の学者のあいだで意見がわかれる。

頭四行、ないし二五行の詩ということが示すように、そもそもは、まず語り謳われるものとしてつくられた(なお、こうした詩の伝統は、トルコ・モンゴル系の遊牧民に古くからあったものだろう。小川環樹が、トルコ族の民歌だとした「勅勤の歌」も、まさにそうである。さらに四行詩という点にこだわれば、イランにおける脚韻四行詩のルバイヤートとも、おそらくは無縁でないとされる)。それが、モンゴル時代のいつかの段階で、文字化されたのである。そのモンゴル時代、いまやすっかり王族や貴族となって、世界の各地に散っていたモンゴルたちは、専門家の語り部が独特の声音で弾き語る先祖たちの英雄物語に、心おどらせて聴きいったことだろう。自分たちの家祖とされる人物が、国家草創の英主チンギス・カンと、いったいどんな経緯でめぐりあい、その創業にどのように参画したのか。

ふむ、そうか。われらが先祖は、こうしたことで、チンギスの覇業に貢献したのか。さればこそ、現在の自分たちの富貴も、このようにあるのか。

おそらくは、モンゴル遊牧民連合体の絆を確かめるものとして、チンギスカン物語といってもいい『元朝秘史』は、まずあった。

その劈頭に登場する蒼き狼のイメージは、モンゴルたちの心に、はるかなる国家のみなもとを飾るシンボルとして、雄々しく美しく映ったことだろう。

噴仙洞とエルグネ・クン

もちろん、狼を先祖とする考えは、トルコ・モンゴル系の遊牧民たちだけにとどまらず、ひろく中央ユーラシアに暮らす人びとにみとめられる。『周書』の突厥伝は、六世紀に出現するテュルク帝国の先祖たちについて、ひとつの伝承として狼に育てられたはなしを書きとめる。また、現在のハンガリー国民の主体をなすマジャールたちは、東方からの征服者として、九世紀、ハンガリー平原にあらわれるが、かれらも狼祖伝説をもっていたことは、よくしられている。

こうした狼にかかわるイメージは、モンゴルが、もともと純粋な草原の民ではなく、多分に森林の狩猟民の面影をのこす「遊牧狩猟民」だったからだという考え方がある。鹿を追う狼というイメージは、森に暮らす狩猟民の観念を反映するのだという。これは、おそらくそうだろう。

そうしたことにつらなる別の族祖伝承として、『集史』が語る「エルグネ・クン伝説」が想いおこされる。はなしのあらましは、こうである。

いまを去ることおよそ二〇〇〇年、モンゴルと呼ばれていた部族は、別のトルコ諸部族との戦いに敗れ大虐殺された。わずかに生きのこった二組の男女は、敵から逃れ、四方が険しい山と森にかこまれた地にたどりついた。難渋のあげくにやっと通れるほどのかすかな隘路がただひとつあるだけであった。ところが、そこには、牧草が豊かに茂る素晴らしい草原がひろがっていた。その地の名は、エルグネ・クンといった。エルグネとは険しいこと、クンとは岩壁のことである。

ふたりの男は、ノヤズとキヤンといった。ながい間、かれらとその子孫たちは、その地に暮らした。婚姻をかさねて人口がふえ、その草原だけでは生活しにくくなった。かれらは相談して脱出路をさがし、鉄鉱のでる山に決めた。いつも、そこから鉄を溶かしていたからである。森から薪と炭をあつめ、七〇頭の牛と馬を殺して、鍛冶のためのふいごをつくった。そして、いっきょに火を吹きたてて鉄の岩壁を溶解させると、一すじの道が開けた。かれらは、一団となって外の広大な草原世界にでていった。

はなしのなかのキヤンこそ、モンゴル王族のキヤン氏である。また、そもそもテムジンという名は、鉄をつくる人とか、鍛冶屋を意味することも想いおこされる。じつは、このはなしは、『周書』突厥伝が語る突厥の始祖伝説ととてもよく似ている。

いわく――、突厥の中核部族をなす阿史那氏は、むかし隣国に敗れて、いったん全滅した。ただ十歳になるかならないかの男の子だけが、足を切りおとされて生きのこった。それを牝狼が育て、成長後、交わって懐妊した。ところが、まだひとり生きのこっていることを聞いた隣国の王は、人をやって男子を殺させた。牝狼だけは逃れて、高昌国の北の山中に入った。山には洞穴があって、そのなかは牧草が茂る草原であった。周囲は数百里で、山に囲まれていた。狼は、そこで一〇人の男の子を生み、それぞれの子は外から妻をつれてきて子孫がふえた。やがて、みなともに穴を出て、外の世界におもむき、金山(アルタイ山のこと)の南で柔然の鉄工となった。

ほとんど同工異曲といっていい。モンゴルのほうは、狼祖伝説と別ものになっているだけである。モンゴルという集団が、ひろい意味でのトルコ系の人びとという「大海」のなかにいたことも、よくうかがわせる。

この連動現象には、さらにもうひとつがくわわるかもしれない。それは、北魏太武帝の祭文を洞壁に刻してあることから、鮮卑族の北魏王朝の発祥にまつわる地とされ、近年とみに知られるようになった嘎仙洞(ガ・シェン・ドン)である。興安嶺の北部にあるこの洞穴は、アムール(黒龍江)の上流のアルグン河、すなわちモンゴル語ではエルグネ河畔から森林のなかをわけ入る。ようするに、エルグネ地方なのである。嗅仙洞の位置、洞穴のあり方、そして北魏王室の拓跋氏の先祖がそこにいたという『魏書』の記述は、意外なほど時をこえてエルグネ・クンのはなしと似かよう。

「エルグネ・クン」と嘆仙洞、そして鮮卑・突厥・モンゴルの連動――。これは、はたしてなにを物語るのか。

謎のチンギス・カン

さて、チンギスカンである。この男は、本当によくわからない。

顔も容姿も、確実なことは、ほとんどわからない。「中国歴代帝后像」におさめられた有名な肖像画がしられているが、もとより中国ふうに描かれた想像画にすぎず、どこまで真実にちかいのかは、わからない。

中央アジア遠征中のチンギスカンを見た伝聞記録として、ある史書には、髪の毛のうすい大男だったと述べている。当時チンギスは、すくなくとも六十歳ちかくには達していたはずである。当時の六十歳は、重い。チンギスは王者となったとき、もはや老人であった。なお、大男というのは、なににつけ目立つことがもとめられる遊牧民のリーダーとしては欠かせぬ要件であり、おそらくは大柄だったということを、否定することはできない。チンギスは、年齢さえさだかでない。他界したのは、「集史」によれば一二二七年の陰暦八月十五日と、これは確実だから、ようするに生年がわからないのである。「集史」は、一一五五年の誕生とする。そうだとすると、満七十二歳で没したことになる。ただし、これは少し作為が目につく。トルコ・モンゴル系の人びとは、十二支とおなじ一二獣暦を用いており、チンギスは、ブタの年(亥の年のこと)に生まれ、ブタの年に没したという。一二年のまわりを六回分かさねて、生涯を終えたといいたいのである。「六」には、聖なるニュアンスがある。

ところが『集史』は、そういいながら、「チンギス紀」において、チンギスが誕生してから最初の一二年についてはなにも伝えられるところがない、といい切って平然としている。みずから、一一五五年の誕生が根拠に乏しいことを吐露している。根拠のあるなしにかかわりなく、『集史』は、一一五五年の誕生にしたいのである。

チンギスがプタ年の生まれだとすると、たしかになにかと都合がいい。生年と没年が、おなじブタ年になるだけでない。まだテムジンといったかれが、高原の覇者へと大きく浮上するのは、一二〇三年の秋、主筋にあたるケレイトのオン・カン(もしくはワン・カン)を一瞬の隙をついて奇襲で嬉し、高原の東半分をおさえてからである。『集史』はそれを、「天佑」にめぐまれたと表現する。ようするに、ラッキーだったというのである。

じつは、このときから、チンギスについて、東西の史料がほぼ足並みをそろえておなじことを述べはじめる。つまり、テムジンが確実な権力者として、周囲からその存在を認知され、警戒されだしたときであった。いわば、このときから、テムジンという男の人生は実像化する。その重大な年が、ブタの年なのである。

さらに、一二〇三年から、ひとまわりした一二一五年、つまり、一二二七年に他界するまでのちょうど中間にあたる年、女真族王朝の金帝国にたいする足かけ五年の戦争を、全面勝利で終えた。金の首都の中都(現在の北京市街の西南地区にあった)は開城し、金朝は黄河の南に逃れて、アジア東方の最強国から河南と陝西を保つだけの二流国に転落した。反対に、誕生後まもない新興の「モンゴル・ウルス」は、いっきょにアジア屈指の強国にのしあがる。

一二〇六年に結成されたばかりのモンゴル遊牧国家にとって、一二一一年から開始された「モンゴル–金戦争」は、存亡をかけた大戦争であった。チンギスは麾下のモンゴル軍を、ほとんどこそげるように引き具して、乾坤一擲といってもいい大勝負に出た。そして、五年のあいだずっと、ゴビの北の本拠地にかえることなく、金帝国の北境にあたる内蒙草原にはりついたまま集団生活を送り、ただひたすら金帝国を攻撃しつづけた。

この大勝利により、新生モンゴル国の将来は開けた。前後五年の国家ぐるみの集団生活は、雑多な牧民たちの寄せあつめにすぎなかった「モンゴル・ウルス」を、文字どおり一枚岩にした。勝利にともなう多くの収穫物も、チンギス麾下の牧民騎士たちに、この指導者、このウルスであればともに生きてゆきたい、とおもわせるに十分な効果があったことだろう。そうした重要な節目の年が、またしてもブタの年であった。

かたや、東方の中国正史としての『元史』は、六十六歳で没したとする。一一六一年の誕生というわけである。この場合でも、聖数といっていい「六」のくりかえしである。ようするに、チンギスの誕生から幼年期少年期・青年期については、すべて伝説のかなたにあるといっていい。

「ウルス」という国家意識

チンギスという個人も、かれが出身したモンゴル部という小集団も、確たる政治権力に浮上するまでの素性や来歴については、どちらも闇のなかにある。それを真剣にあれこれ論じても、しょせんは小説と大きくは変わらない。

歴史として意味があるのは、「モンゴル・ウルス」という遊牧民の連合体をつくってからである。それこそが、モンゴル世界帝国の原点だからである。では、「ウルス」とはなにか。

「ウルス」ということばそのものは、モンゴル語である。じつは、外蒙を国域とする現在のモンゴル国も、「モンゴル・ウルス」というのが本当の名である。「ウルス」は、トルコ語の「イル」もしくは「エル」に相当する。六世紀から八世紀に、モンゴル高原を中心として、中央ユーラシアの天地に雄飛したいわゆる突厥、すなわちテュルク帝国も、その本質は牧民連合体であり、それを「イル」もしくは「エル」といった。

ようするに、モンゴル語の「ウルス」は、その流れをくみ、ユーラシアの内側の世界に生きる遊牧民たちに独特の集団概念といっていい。辞書・事典ふうに語釈をすれば、「ウルス」も「イル」「エル」も、「人間の集団」を原義とする。そこから、部衆、国民、さらには国そのものも意味することになる。現在のモンゴル国の「国」は、まさにその意味で使っているわけである。

『集史』には、アラビア文字によるペルシア語の表記のため長音化したかたちになってはいるが、「ウールース」と、モンゴル語そのままの語形でしきりにあらわれる。これにかぎらず、「集史」には膨大なトルコ語・モンゴル語の語彙が使われ、とくに遊牧国家システムにかかわるテクニカル・タームは、ほとんど原語のままで出てくる。おそらくは、ペルシア語-アラビア語に訳しようがなかったことと、そもそもトルコ語–モンゴル語をはなす遊牧民たちばかりでなく、モンゴル帝国の全域で登用されたペルシア語をはなすイラン系ムスリムたちもまた、そうしたモンゴル本来の概念語については、そのまま使っていたことを反映するのだろう。

そうした『集史』に見られるウルスの用法をしらべると、やはり「国」にちかい意味で使われている。ただし、農耕地域における国家や、西欧型をモデルとする近現代の国家とはちがい、土地や領域の側面での意味合いは限りなく希薄で、あくまで人間集団にウェイトがおかれている。つまり、固定された国家ではなく、人間のかたまりが移動すれば、「国」も移動してしまう類の国家としてである。その意味では、はなはだ可動性にとむ、融通無礙な国家であった。

超広域の巨大帝国に発展するもとの「モンゴル・ウルス」とは、そういう集団概念なのであった。人のかたまりをもとに、可変性と移動性を本質とする「ウルス」という国家意識――。これこそ、モンゴルの驚異の拡大の鍵である。

周到な戦略構想

それにしても、モンゴルウルスは、またく出来合いの国家であった。にもかかわらず、誕生まもないときから、まことに内政・外交ともに、周到きわまりない手配りで、わずかな乱れをみせることもなく、すべてが整然と、おしすすめられている。

多言語でしるされる数多くの原典史料をつきあわせ、そこから割りだされる確実な国家政権としての行動を考えると、おそるべき用意周到さが目につく。計算ずくの布石・展開に、おもわずうならざるをえないことも、しばしばである。国家として、子供時代がないのである。はじめから、大人になってしまっている。それは、いったいどうしてか。

いくつかの原因と要素があるだろう。まず、モンゴル・ウルスそのものは、たしかに出来合いだったが、それよりまえ、すでに長い遊牧国家の伝統が脈々とあったことは、無視できない。

ふるく瀕れば、匈奴帝国がモンゴル高原を中核地域にして、強大な遊牧国家を三〇〇年いじょうの長期間にわたって保持した。匈奴と南北に対峙した漢王朝が、そのごの中華帝国の基本型をつくったように、匈奴帝国で確立したパターンが、いごの遊牧国家の枠組みを決定した。

国家全体が、東西に左翼(東方)・中央・右翼(西方)の三大部分にわかれること、社会組織としては、十人隊百人隊・千人隊・万人隊という十進法体系の軍事組織に編成されたこと、そして君主は、その縦と横の中心にいて、政権中核となる自分の遊牧宮廷に、国家の各部分の長たちの子弟をあつめ、人間組織の面でも国家全体のつなぎ手となること、などである。こうしたシステムは、柔然、突厥、遊牧ウイグル、キタイ(本書では「キタン」ではなく、「キタイ」の表記を採りたい。筆者は、一時期、「キタン」を使用した。それは漢語表記「契丹」とのかねあいから、古くは「キタン」と発音されたのだろうと考えたこと、それに「キタイ」の語尾の「イ」は、ペルシア語の影響もありうることなどからであった。しかし、八世紀の突厥碑文で「キタニュ」としるされているものが、十世紀以降のウイグル文書では「キタイ」と語尾変化していることが示すように、キタイ帝国期からモンゴル時代においては、やはり「キタイ」と発音されたことは明白であり、あえて「キタン」と表記する必要はないと考え直した。ここにおわびして訂正したい)などでも踏襲された。チンギスのモンゴル・ウルスもまた、まぎれもなくその後継者であった。一二〇六年のウルス結成ののち、対金戦争に旅立つまでの五年ほどは、まさにそうしたマニュアルどおりの国家システムづくりと内政整備にあてられたのであった。

しかし、なんといっても直接には、キタイ帝国の知恵と経験が、それをささえたキタイ族の武将・行政官の子孫たちとともに、そっくり新興モンゴルに投入されていたことが大きかった。

中華風には「大遼」とも名のることのあったキタイ帝国は、十世紀から十二世紀はじめまで、中華本土の北宋王朝を圧して、アジア東方の覇者であった。遊牧国家でありながら、旧渤海国のマンチュリア、中華本土の北辺のいわゆる「燕雲十六州」(燕は現在の北京地区、雲は大同地区)をも領有して、遊牧と農耕の両世界を支配するすべを身につけた。それまでにないかたちであり、歴史上におけるキタイ帝国の意味は大きい。

十二世紀のはじめ、キタイ帝国は、マンチュリアに出現した女真族の金王朝に喰いこまれて国家が瓦解したが、それはキタイ連合体の内紛のためであり、キタイ族の多くは、表面上の主人になり代わった女真王朝の金帝国のもとで、そのまま横すべりして生きつづけた。さらに、キタイ国家瓦解のさい、王族のひとり耶律大石は、モンゴル高原を経由して、その地の遊牧民をひきいつつ、中央アジアにおもむき、そこで第二次キタイ帝国を樹立した。

つまり、モンゴル出現のころ、高原をはさんで、東の金帝国のもとにいる東方系キタイ集団と、西には、中華風に「西遼」とも呼ばれた中央アジア版の第二次キタイ国家そのものと、ふたつのキタイ族の群れがならびあうように存在していたのであった。そのうち、東のキタイ集団のリーダー格の耶律阿海・禿花の兄弟をはじめ、金朝治下でも屈指の立場にあったキタイ伝統貴族の流れをくむ人びとが、金帝国を見限って、高原の覇者となるまえの段階からテムジンのもとに投じていた。これらキタイ族の「ブレーン」たちこそ、チンギスとモンゴルを導くプランナーであり参謀であった。

キタイ三〇〇年の知恵が、モンゴルというパワーにリンクしたとき、かつてない統制された国家と軍事力が出現した。もちろん、すでに老成しきったチンギスカンという求心力の存在こそ、それらを束ねるかなめではあったが。

「時」がモンゴルをもとめた

そして、もうひとつ。モンゴルをとりまく周囲の国際情勢が、まことにモンゴルに有利に働いた。というよりも、まるで時代がモンゴルの出現を待っているかのようであった。十二世紀後半から十三世紀のはじめ、ユーラシア大陸をぐるりと見まわして、不思議なことに、これといって強力な国家や政権は、見当たらなかった。

東方の最強国、金帝国は、モンゴル出現のころ、表面上は文化の華がさく全盛期のように見えたが、そのじつ内外うちつづくダメージでひどく痛んでいた。総人口は、当時の正式な登録人口だけで四八五〇万をかぞえるほどの大国金の人口については、五三五三万という数字もあるが、文献上で少し問題があり、ここではあえて採用しない。なお、後述する南宋国の最大人口もあわせ、これに関連する事情については、拙著『耶律楚材とその時代』白帝社、一九九六年、一二~一二二ページにおいてやや詳しく述べている)であったものの、キタイ族の大反乱と黄河の大氾濫、それにともなう大飢饉によって、国内は沈論した。それを見すかすように、江南の南宋国が、八〇年ほどの和平を破っていっせいに軍を北上させた。金朝は余力をふりしぼって迎撃し、南宋軍をおしかえして、逆に国境線の淮水ラインをこえて長江ラインまで迫るいきおいを示した。予想と反対のなりゆきにすっかりあわてふためいた南宋政府は、事実上の独裁者であった韓佐冑を、文字どおり誠にし、そのかわりに平あやまりにあやまった。

このまことに愚かしくあさましい「金-南宋戦争」は、一二〇六年に始まり一二〇八年に尻すぼみで終わった。一二〇六年といえば、まさにモンゴル・ウルスが誕生した年であった。大義名分論・君臣論・正閏論、そして華夷思想が大好きな南宋国が仕掛けた愚挙は、生まれたばかりのモンゴル遊牧連合体に、順調に育成する国際環境と時間のゆとりをあたえたのであった。

南宋が演出してくれた「ひま」がなければ、はたしてチンギスのモンゴル国がどうなったか、知れたものではなかった。高原の牧民たちが、ウイグル遊牧帝国の瓦解いご、三百数十年ぶりに、ついにひとつとなったことの意味を、周辺の諸国は恐怖とともによく知っていた。とくに金朝は、かねてより、高原に少しでも有力な勢力があらわれると、すぐに介入して強力な統一権力の出現を阻止するのを国是としてきた。もし、南宋の破約と開戦がなければ、弱っていたとはいえ、金朝は、すぐさま生まれたてのモンゴル・ウルスへ必死の攻撃を仕掛けたことだろう。じつは、金帝国のほうから、モンゴル・ウルスをたたけるチャンスは、このときしかなかっただろう。それがわかっていながら、南宋軍を迎えうつために、南のかた華中へ兵を繰りださなければならなかった金朝の武将たちは、内心歯ぎしりする想いだったことだろう。

その南宋国は、みずから「半璧の天下」などと、もったいぶった格好をよろこんだように、どこか自虐めいた自尊・虚勢が目についた。そのじつ、公式に登録された人口数でいえば、なおまだ最高値で二八〇〇万ていどにとどまり(南宋時代でも、中華本土全体からみれば、江南はまだあくまでも「田舎」であり、金朝のおさえる「中原」にはおよばなかった。しろ、江南は、モンゴル時代に北からの資金や人間が入って、開発に加速度がつく。なお、宋代中国史の研究者が、北宋の人口を一億いじょう、南宋の人口を六〇〇〇万とする根拠はどこにあるのだろうか)、社会の産業力・生産力は頭抜けてはいたものの、国家としては二流国で、せいぜいのところ華北情勢の様子をうかがって小股すくいをねらうほどの力しかなかった。甘粛地方の西夏国は、モンゴルの脅威をもっとも身近に感じていた。モンゴルの本拠、ルコン、トーラ、ケルレン三河の上流部の平原にほどちかい最前線のエチナにおいて、西夏の防衛兵士たちが決死の覚悟を固めていたことを伝える記録が、今世紀のカラ・ホト遺跡の調査でみつかっている。西夏には、みずからモンゴル・ウルスをたたけるだけの国力は、もともとなかった。

いっぽう、東西トルキスタンをおさえたはずの第二次キタイ帝国は、だいぶまえから求心力を失い、急速に威信を低下させつつあった。やはり、せいぜいが高原の覇権争いに敗れた遊牧首長をかくまってやり、折を見てふたたび送りだしてやるくらいのことしかできなくなっていた。

さらに、一五〇年ほどまえ、西アジアに覇を唱えたトルコ族のイスラーム軍事政権、ルジューク朝は、もともとの分裂体質から数個の権力体にわかれゆき、もうこのころは、すっかり昔日の面影はなかった。ゆいいつ、アム河の下流部に出現したトルコ系のイスラ―ム王朝、ホラズム・シャー王国だけが勢いがあり、ちょうど東のモンゴルとおなじようにいまや浮上しようとしていた。


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 マクニールの『世界史』に原因に遡ろうとする記述をやっと見つけた
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