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イスラーム主義

イスラーム主義

イスラーム主義とは、イスラームの理念をかかげ、最終的にはすべての面でイスラ―ムの教えにもとづく政治社会体制を樹立しようとする運動を意味する。イスラーム原理主義と表現されることも多い。現在まで続くイスラーム主義運動に大きな影響をあたえることになったのが、ワッハーブ運動である。その思想的指導者イブン・アブドゥル・ワッハーブは、タウヒード(神の唯一性)を強調し、聖者崇拝などの信仰のあり方を多神教的だと排撃した。その思想の主要な部分は、現在のサウジアラビアに継承されている。

イスラーム主義は1960年代から、民族主義や社会主義などの従来のイデオロギーによる社会変革に限界がみられたこと、社会矛盾の激化に不満ももつ人びとがあらたな政治・社会体制を求めたことなどを背景に、徐々にイスラーム教徒(ムスリム)のあいだで支持者を獲得するようになり、1970年代末以降に顕在化した。イラン・イスラーム革命メッカの聖モスク占領事件、ソ連のアフガニスタン侵攻に対するジハード、親米開放路線に踏み切ったエジプトのサダト大統領の暗殺などである。そしてイスラーム教に敵対する勢力に対してジハードを掲げ、武力行動に踏み切る急進派は、パレスチナや東南アジアにもあらわれた。

20世紀末から21世紀初めにかけての時期に中東で生じたあいつぐ戦争には、イスラーム主義の問題に加えて、自国に有利な国際秩序を求める欧米諸国の利害、中東の石油資源をめぐる利権など複雑な問題が絡み合っている。イラン・イラク戦争、湾岸戦争イラク戦争、アフガニスタンにおける武装宗教政治勢力としてのターリバーンの台頭など、中東地域の情勢は混迷をきわめ、さらに2001年9月11日のアメリカ合衆国で同時多発テロ事件が発生して以後、アメリカを中心とする西側諸国では、イスラーム主義がイスラーム教とムスリム全体を代表するものとみなし、それらをみずからと相容れない存在ととらえる考え方が力をもつようになった。一方、イスラーム主義者の側も、イスラーム教に敵対する不信仰者は殺害されるべきという主張を強くうちだすようになってきている。

20世紀とは何か

20世紀とはどのような特徴をもつ世紀と考えるか、歴史家の試みが少しずつはじまっている。その一つが「短い20世紀」と「長い20世紀」の二つの考え方である。「短い」とか「長い」というのは、20世紀を考えるうえで、暦上の100年間より短い期間内で20世紀の特徴を示すことができる場合を「短い20世紀」とし、暦上よりも長い期間にわたる場合を「長い20世紀」という。

「短い20世紀」の考え方というのは、第一次世界大戦中におこった1917年のロシア革命でソヴィエト政権という社会主義国家が誕生したことにより、社会主義対資本主義の両陣営が対立するという基本構図ができたとする。第二次世界大戦では全体主義諸国との戦争で両陣営は同盟関係を形成することになったが、基本的には両陣営の対立は続き、第二次世界大戦後の冷戦を経て1989年にブッシュ(父)アメリカ大統領とソ連共産党書記長ゴルバチョフが地中海のマルタ島で会談して冷戦の終結を宣言し、そしてその後の社会主義国家ソ連と東欧社会主義圏との消滅によって、20世紀は終了したとする。

しかし、この「短い20世紀」の考えはヨーロッパ中心の歴史観に裏づけされているとして、「長い20世紀」を主張する学者があらわれた。彼らは20世紀の特徴を、支配された地域に住む人びとの軍事的政治的・暴力的植民地支配から脱しようとする動きと考え、その始まりを19世紀の最終四半世紀や1870年代に求めた。そしてアフリカ分割、それに続く中国・東南アジア太平洋地域の分割など、ヨーロッパ諸国の帝国主義的侵略の暴力性について言及している。この動きは20世紀における二つの大戦を経て、アジア・アフリカの民族運動において、各地の指導者のもと独自な展開をみせて徐々に、しかし確実に脱植民地化・独立化を進めることになった。

そして21世紀になった現在でも、中国におけるチベット弾圧やウイグル人の独立運動が今なお続く新疆、ロシアによるチェチェン民族運動の弾圧。クリミア併合(291ページのコラム参照)など、抑圧された人びとの解放が模索され、この意味で「長い20世紀」が今日でも続いているとする。

クリミア半島の歴史

この地域では前8世紀頃から遊牧騎馬民族であるスキタイ人の活動が本格化し、彼らはヘロドトスの『歴史』にも登場している。ギリシア人ローマ人ゴート人・フン人などのさまざまな民族がその後興亡しつつ、この半島を支配し、13世紀にはモンゴルによる征服によりキプチャク・ハン国が成立した。15世紀にはそれが衰退し、いつくかの地方政権が誕生した。そのうちの一つがクリミア・ハン国であった。この国はイスラーム教を信奉し、同じイスラーム教国のオスマン帝国の保護下にはいり、その宗主権のもとにあった。

ここに進出してきたのがロシアであった。エカチェリーナ2世は1768年、クリミア半島の領有をねらって、オスマン帝国に宣戦し、勝利した。74年にキュチュク・カイナルジャ条約を結んでクリミア・ハン国の保護権を獲得し、83年には強制的にクリミア・ハン国を併合し、ロシア化をはかった。さらに87年からのロシアトルコ(露土)戦争の結果として結ばれたヤッシー条約(92年)でオスマン帝国にロシアのクリミア併合を認めさせた。19世紀にはいり、1853年からクリミア戦争が勃発すると、この戦争では、セヴァストーポリ要塞の攻防戦が主戦場となり、ロシアはイギリス・フランス・オスマン帝国などの諸国と戦ったが敗北し、パリ条約が結ばれてロシアの南下政策は挫折した。20世紀にはいると、第二次世界大戦後の世界の体制を方向づける連合国首脳会談(チャーチル、ローズヴェルト、スターリン、265頁参照)が保養地のヤルタで開催されている。

第二次世界大戦後の1954年、クリミア半島はロシアからソ連を構成する一共和国であるウクライナ共和国に移管された。しかし91年ソ連が解体してウクライナが独立すると、ロシア人が多いクリミア半島で翌年、独立運動がおこった。当時はチェチェンの独立運動をロシアが弾圧していたこともあってクリミアの独立支援をロシアはいったんは中止したが、2014年になってクリミアの帰属問題が再燃し、ロシアと親ロシア派が半島を掌握したあと、一方的な住民投票がおこなわれ、ロシアはクリミア併合を宣言した。国際社会の多数はこの併合を認めていない。

vFlat用の本を借り出しに図書館ジャンルは歴史と社会学になってる哲学は以前にOCR化していまます
トポロジーの凄さは基本空間を使ってることです単に近傍という定義だけじゃなく基本空間に投影して位相を合わせて範囲を拡張していく
いかなる空間であっても特異点を避けながら連続を保証した全体を作り上げる
数学は個と全体の関係を扱う個人と組織国家との関係も扱える逆に言うと数学を知らないと個人と国家との関係は不明のまま

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