未唯への手紙
未唯への手紙
『ケンブリッジ世界近現代史事典』
第一次世界大戦(1914~1918) WorldWarl
第一次世界大戦と知られるようになった大戦争は、1914年7月のバルカン半島危機で始まってヨーロッパ全土を巻き込む軍事紛争となり、1918年11月11日に連合国(イギリス、フランス、イタリア、アメリカ)と同盟国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー)との休戦が成立して終結した。この紛争は西ヨーロッパおよび中央ヨーロッパを徹底的に破壊し、オスマン帝国とロシア帝国とオーストリア帝国の崩壊に手を貸し、東ヨーロッパおよび中央ヨーロッパ、ドイツ、フランス、イギリスでの大量動員とインフレと政治変動によって社会と経済革命を生み出した。そのせいでイギリスは債権国から債務国となってイギリス帝国の崩壊が始まり、ロシア内戦(そして間接的にソ連)を作り出した。動員され計6500万人の兵のうち戦闘で850万人が命を落とし、2500万人が負傷または行方不明となり、アメリカが経済と文化の世界大国として表舞台に登場した。
戦後の和平交渉ではドイツ代表団は戦争を始めた責任を認めることを要求されたが、紛争の真の原因は1914年からずっと物議をかもしている。直接の原因は、サラエボでセルビア人民族主義者によってセルビアの皇位継承者フランツ・フェルディナンド大公とその妻が暗殺され、その後オーストリアがセルビアに最後通告し、ヨーロッパの同盟システムが発動したことだった。ロシアはセルビアを支持し、オーストリアとその同盟国のドイツに対する戦争準備を始め、これによってフランスは同盟国のロシア支援のために戦争準備にかかった。イギリスもフランスとロシアの同盟国であるため、イギリス政府が戦争に関与した1914年8月4日にヨーロッパは戦争へ邁進した。イタリアは同盟国のドイツとオーストリアに加わらず、1915年に忠誠先を切り替えて対オーストリア作戦を開始し、それを1918年まで続けた。同様にルーマニア、日本、ギリシア、1917年にアメリカが連合国に加わり、ブルガリアとオスマン帝国がドイツ率いる連合の支援にまわった。
1890年代終わりから顕著になってきたヨーロッパの同盟システムの致命的な不安定さは、戦争開始へと流れる他の理由と並行している。例えば、海軍の軍備増強におけるイギリスとドイツの対抗意識、いったん始まれば戦闘計画を撤回できない無能な国家、ドイツの皇帝の性格ドイツとロシアの経済的な対抗意識、オーストリア=ハンガリーの不安定性などを主な戦争開始の原因として歴史研究が行なわれてきた。ほかに、ドイツの卓越した戦争準備(近代史上ロシアを破った最初で最後の国)、近代的プロパガンダの効果、動員の技術と技巧がもたらす偽りの希望、どちらの側も西部戦線で決定的な勝利を収められなかったことなどの理由も考えられる。これらの説明だけでは歴史家は満足しなかった。だがドイツが近代技術を駆使した帝国建設と搾取の世界でより大きな役割を求めたこと、制度的社会的に不安定なドイツ帝国、ドイツ皇帝およびプロイセン人の幕僚たちの性格という理由はいうならばかなり筋道が通っていた。
大戦争は19世紀以降に発展してきた戦争に多数の流行をもたらした。塹壕、ライフル、機関銃、海上兵器、毒ガス、有刺鉄線、民間人への航空攻撃、戦車といった近代的方式の利用である。後半の4件は西部戦線での最初の軍事作戦の失敗に対して生じたものだった。例えば、フランスとドイツが戦略的および戦術的計画をいくつも用意して戦争に突入したことは広く知られているが、そうした努力が一貫して統一して行なわれていたとは思われていなかった。ドイツはベルギーを抜けてフランスへ迅速に部隊を展開し、パリを包囲する必要があったドイツに対し、フランスはドイツに攻撃をしかけることをもくろんでいた。ドイツはこれを予想し、フランス軍をアルザス=ロレーヌ地方へおびき出し、そこで叩きのめす計画を立てていた。それは現実とならず、その後ドイツ軍をモンスで食い止めるために北部戦線のフランス軍にイギリス軍が合流したことで列強間の「海へのレース」が発生して膠着状態となって終わり、イギリス海峡と大西洋沿岸をイギリスとフランスが支配し続けたことが戦争を長引かせた。連合国も同盟国も西部戦線で敵を圧倒することができないまま塹壕戦は北東フランスに広がった。長大につながる塹壕と入り組んだ地下トンネルに隠れて発砲し、ときには大規模な戦闘が行なわれた。そうした戦闘は普通は大量の死以外のものをもたらさなかった。ここから技術を基本として勝利する方法の考案に拍車がかかった。
西部戦線の状態は東部戦線の機動戦と対照的である。1914年、ドイツとオーストリアの部隊は、優位に見えていた敵軍のまずい組織編成と非効率な動きのおかげで大きな成功を収めた。タンネンベルクの戦いとマズーリ湖の戦いでの圧倒的な勝利は1917年のロシアの偶発的な敗北と1918年のブレスト=リトフスク条約による戦争終結の前兆だったかもしれない。この東部戦線の状況はおおむね忘れられてしまった。だがマルヌ、モンス、第1次と第2次のイーペルの戦い(1914~15)ヴェルダンの戦い(1916)、「ヨー「ロッパの自殺」と呼ばれイギリスだけで50万人の死傷者を出した1916年夏と秋の壊滅的なソンムの戦い、アラスとパシャンデールの戦(1917)、失敗に終わったガリポリ上陸作戦(1915)は当時の敵国の人々の記憶に残っている。
世界大戦と名がついており、多くの植民地部隊(インド軍が有名)が参戦したが、第一次世界大戦はおおむね西ユーラシア大陸だけで行なわれた。イギリスとドイツの大艦隊はユトランド沖海戦の1度を除いて互いを避け、ヨーロッパ以外での交戦はほとんどなかった。ドイツ軍は南西アフリカと西アフリカ、ベルギー領コンゴと太平洋の島で戦闘したが死傷者はわずかで、イギリスとフランスの植民地軍に簡単に抑えられた。
だが戦争は様々な国で大きな変化をもたらした。例えば、男性が戦争に行き女性が工場や畑で働いたので社会における女性の地位は後戻りできないほど様変わりした。産業は国有化され、国家に従属した。インフレと家族の死によりイギリスとドイツでヨーロッパの貴族社会の根本が崩れた。ドイツやハンガリーやロシアや東ヨーロッパで古い帝国が崩壊し、共和国か革命会議が取って代わった。中東の国境線が書き換えられた。イギリスはアイルランドの大半を失い(アイルランド共和国の独立により)、世界を支配していた経済大国という地位をアメリカに明け渡した。1917年に参戦したアメリカは1919年のパリ講和会議で国際連盟や新しい経済秩序を始めとする自身の希望する解決案を押しつけようとした。その会議からヴェルサイユ条約も生まれた。戦争の後には答えのない疑問が数多く残った。そしてヨーロッパ人は政治形態として自由主義とファシズムと共産主義からどれを選ぶかという厳しい選択に迫られた。戦争が生み出した混乱と苦しみという遺産はその後21年間消えずに残り、第二次世界大戦が勃発した。
第一次世界大戦中のアラブ反乱Arabrevolt(WorldWarl)
いわゆるアラブ反乱はメッカのシャリーフであるフサイン・イブン・アリーとイギリス駐エジプト高等弁務官のサー・ヘンリー・マクマホンの交渉の成果であった。のちにフサイン=マクマホン書簡と呼ばれるこの交渉でシャリーフとイギリスの同盟関係の基礎が築かれ、「アラブ反乱」を条件にした第一次世界大戦後のアラブの独立支持が約束された。オスマン帝国の有力者でオスマン・トルコ語にも堪能な野心家のフサイン・イブン・アリーは、この交渉をイギリスから与えられたアラブ王国実現の可能性と見なした。一方のイギリスはフサインがカリフの名のもとにイスラム世界の指導権を主張するオスマン帝国を倒す鍵、ダーダネルス海峡攻撃作戦の失敗による行き詰まりの打開策、オスマン帝国支配に対する大衆の抵抗運動をアラブ諸州で呼び起こす希望、そしてイギリスが戦後にアラブ世界の「保護者」になるための手段と考えた。イギリスとフサインのあいだで交わされたこの約束と、イギリスがフランスと結んだサイクス=ピコ協定(1916)、シオニストに向けたバルフォア宣言(1917)の内容が明らかに矛盾するという議論は戦後の外交論争の原因となった。
イギリスの旗のもとに集まりエドモンド・アレンビーの指揮下で戦ったアラブ兵もいたが、その大半はフサインの息子ファイサルが率いる非正規軍として戦闘に加わった。非正規軍の訓練と反乱の戦略指揮にはイギリスとフランスの軍事顧問が協力した。なかでももっとも有名なのがT.E.ロレンスで、彼は1916年10月に反乱に加わった。戦闘を通してアラブ軍はオスマン帝国軍の護衛艦、前哨地、とくにヒジャーズ鉄道を集中的に攻撃した。戦況が大詰めを迎える頃にはオスマン帝国は統制力を失い、一方の反乱軍は軍勢を増やし、ますます果敢に標的を攻め、1917年にアカバを占領し、1918年にダマスカスへ入城した。しかしイギリスの戦争努力にもっとも貢献したのは、反乱軍がオスマン帝国の供給路を断ち、情報を提供し、オスマン軍の動きを封じたことだった。
伝承に反し、アラブ反乱はオスマン帝国に対するアラブ人の大衆蜂起ではなく、それどころかほとんどのアラブ人は帝国の敗戦が明白になるまで帝国に忠実だったようだ。アラブ反乱は大戦の結果や戦後の中東の構造を劇的に変えることはなかった。しかしその真の意義はいたるところに見受けられる。まず、フサイン一族(ハーシム家)とイギリスのあいだに同盟が結ばれ、これにより戦後のイラクとヨルダンはハーシム家の王国となった。(イラクは1958年まで。ヨルダンは現在に至る)。しかしもっとも意義深いのは、創成期のアラブ諸国にオスマン帝国支配に抵抗したという記憶を授け、民族主義の観点からアラブの歴史を書き替えることが重要なのだと証明したことだろう。
第二次世界大戦(1939~1945)WorldWarII
1939年9月に始まり1945年8月に終わった世界的紛争。主な参戦国は枢軸国のドイツ、イタリア、日本とその同盟国と、「連合国」のイギリス帝国、アメリカ、フランス、中国、ソ連(1941から)だった。戦場はヨーロッパからユーラシア、北アフリカ、太平洋の島々、東南アジア、南北大西洋におよんだ。戦争では組織的な激しい航空爆撃、ホロコースト、核兵器の使用、社会全体の戦時動員が見られた。この戦争で1919年のパリ講和会議でまとまった国際連盟と世界秩序は実質的に崩壊した。
戦争の種はドイツの国家社会主義政権の拡張政策と、ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーの戦略地政学に潜んでいた。ヴェルサイユ条約のくびきからドイツを解放する決心をして1933年に政権の座についたヒトラーの目的は、ドイツ語を話す人々全員を経済的に自立した帝国(ドイツの歴史では3つめ)でまとめ、ソ連に侵攻し分割して世界の共産主義を破壊すると同時に「生活圏」を獲得することだった。そのためには、イギリスとフランスその他の国で約束された第一次世界大戦後のヨーロッパの国境線を帳消しにしなければならない。1935年から1939年にかけてはイギリスとフランスの「宥和政策」とアメリカの無関心のおかげでヒトラーはこの計画を進めることができた。1939年からイギリスとフランスがヒトラーの思うようにはさせないと決断したことから世界戦争に発展し、少なくとも6千万人が死んだ(ソ連だけで2千万人、ホロコーストで600万人、他の戦域で3400万人)。戦争に向かうヒトラーとナチスと希望を共にするベニート・ムッソリーニ率いるイタリアのファシスト党が、1940年に対フランス作戦に勝利してドイツの仲間に加わった。だがスペインとポルトガルは参加しなかった。それとは別に、1941年に大日本帝国がアメリカ攻撃を決断したことと、その後日本を支援するドイツの動きが、大西洋沿岸諸国の自由民主主義の伝統と、既存のヨーロッパの帝国全体に対する世界的挑戦となった。
戦争の直接の原因は1938〜39年のチェコとポーランドの危機にあった。チェコスロバキアは第一次世界大戦後に安定した民主主義の国となり、国内にチェコ人、スロバキア人、ドイツ人、ユダヤ系その他の民族が共存していた。ヒトラーはオーストリアの併合に成功したのち、チェコのドイツ系が住む地域を合併しようともくろんだ。ミュヘン会談でイギリスとフランスとイタリアはチェコスロバキアの分割に同意した。抵抗勢力がドイツ軍で反ヒトラーのクーデターを起こすことも、ヒトラーが勝つとは限らない困難な冬の戦争になることも考慮された結果だった。この交渉に成功したヒトラー(と次の年にヒトラーと邪な同盟を結んだソ連)の民主主義に対する軽蔑は深まり、1939年には残りのチェコとポーランドの大半の併合にいたった。イギリスとフランスはそれを見過ごすことはできず、ポーランドの国境を守る決意を表明したが、同様にソ連がドイツと連携してポーランドの侵攻を決めていたため、守るためには戦争も辞さないと脅すしかなかった。ヒトラーはその脅しをはったりと解釈したが、それは1939年9月に表明されたものだった。
イギリスとフランスの側から見ればほとんど何も起きなかったように見える「偽りの戦争」は1940年まで続いた。実はポーランド侵攻作戦で、軍馬に引かせるドイツ軍部隊の弱点とスペイン内戦以降改良が重ねられてきた電撃戦と戦術的展開計画が未完成だったことが明らかになった。ポーランドでドイツ軍は4万9千人の死傷者を出し、ソ連は8千人を失ったが、100万人近いポーランド人が犠牲になった。ポーランドを吸収したのち、西部戦線の戦闘は1940年に本格化した。激戦が続き、フランスは5月に敗北した。空権をかけたバトル・オブ・ブリテンがあった。フランスの残党がヴィシーに臨時政府を設立した。同じ頃、イギリス軍とフランス軍は敗戦を喫したダンケルクから撤退し、首相になったばかりのウィンストン・チャーチルの弁舌の才のおかげでその作戦は「圧倒的な勝利」とされた。翌年はギリシアと北アフリカで軍事作戦が行なわれ、ブリッツと呼ばれるイギリスの都市空襲が続いた。ヒトラーがソ連に攻撃をしかけてほぼ勝利を収めたのもその年だっ12月には大日本帝国が太平洋上の真珠湾のアメリカ海軍基地を攻撃した。1941年はドイツでヨーロッパのユダヤ人とロマ、同性愛者と共産主義者を特殊な大量処理機構によって虐殺する計画が持ち上がった年でもあった。この計画は、ラインハルト・ハイドリヒ主導のヴァンゼー会議で「最終的解決」として改良され、ヒトラーの様々な部隊によって推し進められ、ホロコーストと呼ばれるようになった。
それまで優勢だった日本とドイツに1942年には逆風が吹きはじめた。スターリングラード攻防戦とエルアラメインの戦いでドイツ軍の前進は止まり、日本はその年前半にシンガポールで勝ちはしたがミッドウェー海戦で太平洋地域での衰退を決定づけられた。1942年から連合軍は兵力、テクノロジー、国内組織、経済力の優位が「連合国」の勢いをさらに後押しした。さらなる激戦が続いたのち1943年にイタリアが降伏した。1944年、連合軍はイタリアのアンツィオ上陸作戦ののち、ノルマンディー侵攻作戦いわゆるDデイを成功させた。ソ連の「バグラチオン」作戦でスターリンの部隊はベルリンに迫った。1945年ヒトラーは上級幕僚と一緒に自殺した。一方ソヴィエトの日本侵攻とアメリカ軍侵攻作戦で大勢の兵を失うことを恐れたアメリカは日本に原子爆弾2個を落とし、東アジアでの戦争は終結し
この戦争は矛盾した遺産を残した。アメリカとソ連はナチ指導部と戦争犯罪者のニュルンベルク裁判で協力関係にあったが、実際にはまもなく「植民地から独立」する人々にとって冷戦はすでに始まっていた。戦争はヨーロッバに残っていた植民地を持つ帝国に、また世界の大国としてのイギリスとフランスの権威に致命的な打撃となった。ドイツは東と西に45年間分断され、ヨーロッパと大西洋沿岸諸国の力関係に支配された。他方で、人類史上最悪の紛争は国連と世界人権宣言、ブレトンウッズ体制を生みだした。それらは第一次世界大戦後に設立された機関よりは長く続いている。
探検exploration
18世紀の探検は本質的には、1492年のコロンブスの新大陸発見、1519年のフェルディナンド・マゼランの世界周航に激発された16世紀と17世紀の探検の延長にあった。第一の目的は完全なる略奪であれ、不平等を常とする貿易であれ、富の追求である。それと密接に関連していたのは、新たに発見された土地が発見国の統治下に置かれて国力の証になるという想定であった。探検は20世紀まで帝国主義の重要な側面を維持した。第二は安住の地の探索であり、そのほとんどがアメリカ大陸に限られていた。オランダ人によって発見されたオーストラリアは、1786~87年にイギリスの流刑地に指定された。シベリアも近傍のロシア政府に同様の目的で利用された。第三はキリスト教信仰を広めたいという衝動で、これはヨーロッパの一方のスペインとポルトガルの場合であり、他方のロシアの場合、つまるところ以前は優勢を誇っていたイスラム教との闘いにほかならない。第四の、そして依然として強力な動機は、飽くなき好奇心である。16世紀前半にスペインがメキシコとペルーに侵入したことにより、ヨーロッパにとっては未知の文明の全貌が明らかになった。
南極と北極を除く大陸の全体像は、18世紀初頭までにヨーロッパ人に知れ渡った。ポルトガル人のバルトロメウディアスは、1492年のコロンブスによるアメリカ大陸の発見よりきぼうほうも早く、1488年に喜望峰を回って東アフリカの海岸に到達した。しかし得られた知識は主に沿岸地帯に限定されており、新しい国の潜在的可能性(現実に存在するにしろ想像にしろ)を活用するには探検が不可欠であった。ところが探検活動のバランスは変化していく。先駆であるスペインは探検を南アメリカの広大な土地に制限していたが、ほどなくのちのアメリカ合衆国の太平洋沿岸を包含した。一方ポルトガルは、1497年にヴァスコ・ダ・ガマ率いる艦隊がインド遠征に乗り出し、1557年に中国沿岸のマカオに居留地を確立したが、17世紀には東洋貿易の支配権争いでオランダに敗れた。
18世紀
今や北アメリカと太平洋沿岸の探検を主導しているのはイギリスとフランスであった。イギリス人のキャプテン・ジェームズ・クック(172879)は、ニュージーランドとオーストラリアに加えてカナダのニューファンドランド海岸を探検し、1773年には史上初めて南極圏の南を航海し、南極大陸を迂回しながら大浮氷群の端まで到達した。しかしカナダの北側に北西航路を見つける本格的な探検は、それ以来行なわれなかった。1611年の試みではヘンリー・ハドソンに死をもたらした。探検が危険であることは今も昔も変わらない。キャプテン・クック自身はハワイの敵対心を持った島民に殺された。海洋列強国が権力を保持するために探検を行なったのは理の当然である。中央ヨーロッパ、オーストリア、プロイセンは探検に参加せず、ロシアはまだ海を越えておらず、農民移住をカザフスタンからシベリアへと拡大していたにすぎない。それでもロシアの船員は18世紀にシベリアの北海岸の大半を探検した。動物的好奇心による動機も洗練と区別化の度合いを高め、何より科学的になりつつあった。キャプテン・クックはオーストラリアの入り江で興味深い植物を見つけたため、ボタニー湾と名づけた。
しかし18世紀は異文化現象の始まりを目の当たりにした時代でもあり、未知の国あるいはほとんど知られていなかった国が、ヨーロッパ人の趣味嗜好に少なからぬ影響を与えた。シノワズリが大流行して食器や家具さらには建築にまで用いられ、ケンブリッジシャーのゴッドマンチェスターにある中国式の橋や、ウィリアム・チェンバーズが1761年に設計したロンドン南西部のキューガーデンのパゴダなどは今も残存している。別の観点からは、コーヒーの物珍しさがロンドンの有名な18世紀のコーヒーハウスを生み、そこが知的生活の中心になる一方、フランスの〈カフェ〉はヨーロッパの共通言語であるかのように定着した。アステカ族の言語の〈ショコラトル〉に由来するチョコレートも、スペインの飲み物として定着した。さらに別の観点で見ると、探検航海の困難さは、遭難した水夫アンドリュー・セルカークの実話に基づいたダニエル・デフォーの小説『ロビンソン・クルーソー』(1719)によって大衆の想像力を刺激した。ロビンソンの従僕のフライデーは、おそらくヨーロッパ文学初の「高「貴な野蛮人」であろう。その後そうした文化的影響はますます増え、その意義も大きくなったが、当時は政治的影響によって影が薄くなっていた。前述のように事情や動機は何であれ、探検には遅かれ早かれ領土権の主張や、少なくとも排他的権利または特権の主張が続くのが常であった。要するに、1770年代までに植民地化と帝国間の競争がヨーロッパの政治の主力になっていたのである。フランスのカナダとインドおよびナポレオン戦争での敗北によってイギリスの優位が確立し、それは1860年代と1870年代まで疑問視されなかった。
19世紀
キャプテン・クックの史上初の南極圏突入に続いて、1820年には南極大陸が初めて目撃されたが、その功績は同じ年に別々の航海を行なった3人の男ロシア帝国海軍士官ファビアン・フォン・ベリングスハウゼン、イギリス海軍士官エドワード・ブランズフィールド、アメリカのアザラシ猟師ナタニエル・ブラウン・パーマーが分け合っている。フランス人のジュール・セバスティアン・セザール・デュモン・デュルヴィルは、1840年に初めて南極大陸に足を踏み入れた人物になった。しかし、総じて19世紀の探検のスタイルは植民地化を伴うものだったが、重要な発展がいくつかあった。好奇心はますます科学的になっていた。おそらくそのもっとも有名な例はイギ
リスの自然科学者チャールズ・ダーウィンであり、著書の『種の起源』(1859)は自然科学者として乗船したビーグル号の世界航海(1831~36)の後で出版された。科学的好奇心は考古学や文化史全般などの分野を受け入れるためにますます多様化していった。この多様化により、探検は海洋権力の保持というよりもヨーロッパの一大事業となった。この探検の新分野で名高いのはドイツの学者たちで、ハインリヒ・シュリーマン(1822~90)はいずれも伝説の都市だと思われていたミケーネとトロイアを発掘した。しかしながら最も有名な業績は、おそらくロゼッタストーンの発見を受けてフランスの古代エジプト学者ジャン=フランソワ・シャンポリオン(1790~1832)が始めたヒエログリフの解読であろう。これらの新しい形態の探検は地理的な焦点も広げた。イギリスのサー・オーレルスタイン(1862~1943)などの考古学者は、ゴビ砂漠周辺でヨーロッパと中国を結ぶシルクロードを探検しチベットに至った。この種の探検には領土的な含みはなかったが、やたらにたくさんの発見物がヨーロッパへ移送された。ロンドンの大英博物館、パリのルーブル美術館、ベルリンのペルガモン博物館、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館のコレクションを見れば事の次第は明々白々である。
しかし従来の形態の探検は基本的ににアフリカに焦点を当てており、イギリス人を先頭に、19世紀半ばからフランス人、ベルギー人、ポルトガル人、しんがりにドイツ人が続いた。これらの探検家のなかでもっとも有名なのはおそらくデイヴィッド・リヴィングストン(1813~73)で、ザンベジ川、ヴィクトリアの滝、ニアサ湖(マラウイ)を発見した。死亡したと思われていた彼は、1871年11月10日にウジジでサー・ヘンリー・スタンリーに発見され、そのときに有名な「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?」という言葉が発せられた。その後2人はタンガニーカ湖を探検した。このヨーロッパの探検家によるサハラ以南のアフリカへの進出に商人や入植者がすぐ続き、たちまち「アフリカ分割」と呼ばれる植民地獲得競争が引き起こされ、1884年の国際ベルリン会議においてある程度秩序らしきものがもたらされた。一番の受益者はイギリスで、1890年にはアンゴラとモザンビークを横断しようとするポルトガルの植民地計画を、フランスとドイツが承認していたにもかかわらず迷わず阻止した。
探検は同時に、16世紀にスペインが南北アメリカを征服してから後景に退いていた感覚も取り戻していた。鉱物資源―主として金とダイヤモンドだが、それだけでなく他の貴金属、そして急激に需要を増しつつある石油の探求である。ここでも主導者となったのはイギリスで、金やダイヤモンドを探す人たちが南アフリカのケープ植民地に押し寄せ、オランダ系入植者(ボーア人)とのあいだに軋轢が生じ、彼らを北へ追いやった。
18世紀と同じように探検と発見は、とりわけ文学の面で本国の文化に大きな影響を及ぼした。冒険物語が盛んに綴られ、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『宝島』(1883)やロバート・マイケル・バランタインの『サンゴ島』(1857)などの児童文学の名作を生み出した。フランスの小説家ジュール・ヴェルヌ(1828~1905)は想像力において他の作家と同等だとすればやや科学的な傾向があり、『地底旅行』(1864)や『海底二万里』(1872)などの作品を発表した。影響はスイスにもおよび、ヨハン・ダビット・ウィースの『スイスのロビンソン』が1812~13年にドイツ語で出版された。おそらくもっとも注目すべきはイギリスの作家サー・ヘンリー・ライダー・ハガード(1856~1925)尊敬すべき農業研究家、アフリカの行政官にして入植者であり探検家にしてやや神秘主義者でもあっで、もっとも有名な作品『ソロモン王の洞窟』(1885)は冒険小説の古典だが、『洞窟の女王』(1887)とその続編の『女王の復活』(190)ザンジバルからチベットや中央アジアの僧院や山奥への旅に誘う息を呑むようなファンタジーである。
しかし19世紀末から20世紀初頭の現実の探検は、ファンタジーとは反対にますます科学と技術が駆使され、地球上でもっとも近づきがたかった北極・南極を目指した。これにはスカンジナビア人が大きな役割を果たした。ノルウェーの探検家で科学者のフリチョフ・ナンセン(18611930)は1888年にグリーンランドの氷原を横断し、1893~96年の北極探検で極氷の動きを研究したが、彼の乗った〈フラム〉号はロシアの北の流氷群をほぼ3年間漂流した。スウェーデン人のアドルフ・エリク・ノルデンショルドは、1879年に〈ヴェガ〉号で北東航路の通航に初めて成功した。もうひとりのノルウェー人口アール・アムンセン(1872~1928)は、190305年に〈ヨーア〉号でカナダ沿岸を周って北西航路横断に初めて成功した。そこはヘンリー・ハドソンと、のちの1845年に軍艦〈エレバス〉と〈テラー>を指揮したサー・ジョン・フランクリンが、遠征に失敗して命を落とした場所であった。
20世紀
19世紀の終わりから20世紀の初めにかけては引き続き極地に焦点が当てられ、南極に対する関心が新たになった。1890年に国際的な調査計画が作成され、ノルウェーのカルステン・ボルクグレヴィンクは、1898~1900年に初めて南極で越冬し棚氷を旅した。フランス人のジョゼフ・デ・ジェルラシュ・デ・ゴメリは、1897年に南極の最初の写真を持ち帰った。1901~04年ロバート・ファルコン・スコット隊長(1868~1912)率いるイギリス遠征隊は棚氷を越え、南緯82度17分の最南端に達した。その遠征隊のメンバーであっ(サー)アーネスト・シャクルトン(1874~1922)は、1907~09年のイギリスの南極(ニムロド)遠征隊を指揮し、南極点の156キロメートル(97マイル)以内まで接近した。しかし名高いのはアムンセンの綿密に計画された遠征で、1911年には史上初の南極点到達を成し遂げた。さらには、アメリカの探検家リンカーン・エルズワースとイタリアの航空技術者ウンベルト・ノビレの協力を得て、1926年に飛行船で初めて北極点を通過した。ナンセンとスコット大佐--1912年にアムンセンのあとに南極点に到達した不運なイギリス遠征隊のリーダー――は2人とも探検家であると同時に科学者であった。スコット隊の遠征を後援した王立地理学会も「第一の目的は科学であり、探検や極地到達は二次的な目的になる」ことを明らかにしたほどだ。証明はできないものの、35ポンドもの重さの貴重な地質標本の負担がなかったら、彼の遠征隊は無事到達したかもしれないと推測されている。しかしスコットと彼の仲間の死に対する世論の反応は、探検が冒険ロマン、英雄的行為、犠牲、国の威信と離れがたく結びついている大衆の心を反映していた。国威の要素は無視
できないシャクルトンが1908年にヴィクトリアランド高原をイギリス領として宣言したのはその典型で、イギリス領南極地域は南極大陸におけるもっとも古い領有宣言となった。南極大陸はかつてアフリカ、アジア、アメリカ大陸がそうであったように、その後影響力のある国に分割されることになった。イギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、ノルウェー、アルゼンチン、チリが揃って領土を主張した。住みにくい地形や気象条件の困難さのため開拓に二の足を踏んでいるうち、1959年に南極条約が締結された。
極地探検を実行可能にした技術の進歩は、新次元の海底探検でさらにその真価を発揮した。大がかりな海底調査が最初に実施されたのは1872~76年のイギリスの軍艦〈チャレンジャー〉による学際的な遠征だが、スイス生まれのベルギー人物理学者オーギュスト・ピカール(18841962)とその息子ジャック・ピカール(1922~2008)は、バチスカーフ型として知られる深海探査艇を共同で設計した。同じ名を持つ都市で建造された彼らのトリエステ号は、1953年に3150メートル(10330フィート)の深さまで潜水した。1960年1月、ジャック・ピカールはドン・ウォルシュ海軍中尉を伴い、アメリカ海軍に買い上げられた〈トリエステ〉号で太平洋マリアナ海溝の最深部1万912メートル(35800フィート)に到達し、潜航深度の世界記録を更新した。ジャック・ピカールはほかにも1960年代初頭に父親と共同で中深海探検用メソスカーフを設計した。観測用の舷窓を持つこの潜水艇は40人の観光客を乗せることができ、約80年前にジュール・ヴェルヌが空想科学小説『海底二万里』で創造した潜水艦〈ノーチラス>号を彷彿させる。
それに対し、陸地の探検はほぼ限界に達していた。おそらく最後のロマンティックな探検家フォーセット大佐は、失われた文明を求めて1930年代初頭にアマゾン奥地に姿を消した。一方、科学に関する考古学的探検では目覚ましい発見が相次いだ。もっとも有名なのは1922年にカーナヴォン卿の援助を受けたハワード・カーターが、上エジプトのルクソール近くの王家の谷でツタンカーメンの墓を発見したことである。それに勝るとも劣らないのは、1920年代後半から1930年代初頭にかみかけてサー・レオナード・ウーリーがイラク南部で行なった古代都市ウルの発掘であり、思いもよらぬ文明とその芸術的功績が明らかになった。同様の偉業としては、主にアメリカおよび自国の考古学者によって、ラテンアメリカの砂漠やジャングルで目覚ましい発見があった。しかし目覚ましい発見のためとはいえ、わざわざ辺鄙な地域を探検するには及ばない。1939年にイギリスのサフォーク州ウッドブリッジ近くのサットンフーでアングロサクソンの船葬墓が発掘されたことで、歴史家がそれまで「暗黒時代」として顧みなかった時代の認識を一転させた。
文化的影響
しかしながら、20世紀にヨーロッパの文化に大きな影響を与えたのは、現代のアフリカとオセアニアの探検であった。例えばベニン王国の高度な青銅器文化は1897年までヨーロッパ人に知られていなかった。さらにその影響は、冒険、文学、装飾の趣味だけではなく、おそらく初めて芸術の本流にまで及んだ。1907年にスペイン人パブロ・ピカソ(1891~1973)が描いた画期的な『アヴィニョンの娘たち』には、アフリカやオセアニアの仮面の影響がはっきり表われている。フランスの画家アンリ・マティス(1869~1954)の『マティス夫人の肖像』(1913)などの有名な絵画にも同じことが言える。イギリスの彫刻家へンリー・ムーア(1898~1986)の屋外展示用の巨大な石像は、太平洋のイースター島の石像の影響が明確に示されている。「プリミティブ」アートと「モダン」アートは手をつないだのである。先コロンブス期の中央アメリカの階段状建築までもが、20世紀の無線機器用の木製キャビネットに反映された。考古学、人類学、人の移動の研究、純粋な探検的冒険の要素を組み合わせて世界的な注目を集めた偉業は、ノルウェーのトール・ヘイエルダールとその仲間が1950年代に行なったコンティキ号探検であり、アンデス山脈の湖では今でも見かける古いタイプの帆のある筏を複製し、古代人が太平洋を横断できることを証明した。
20世紀半ばはまた極地探検の飛躍的な進歩が続き、1969年には(サー)ウォーリー・ハーバートが初めて北極海を横断した。アメリカの原子力潜水艦〈ノーチラス〉は、1958年に初めて潜航状態で北極点を通過した。南極点を経由した南極大陸の最初の横断は1957~58年の99日間に、ヴィヴィアン・フックス率いるイギリス連邦南極横断遠征隊によって達成された。その後1994年にノルウェーのリブ・アーネセンが女性初の南極点単独到達に成功した。これらは注目に値する偉業であったため、きわめて重要な政治的展開を伴ったことはほぼ間違いない。南極条約は1959年に南極大陸およびその周辺に科学者を派遣していた12カ国により採択され、1961年に効力を発した。その後1991年にそれら12カ国は他の34カ国とともに、環境保護に関する南極条約議定書に署名した。同条約は従来の領土権の主張の有効性については判断を保留し、南極大陸を「平和と科学に捧げられた自然保護区」と定義した。非科学的目的での天然資源の開発は、2048年まで全会一致で禁止された。遺憾ながら、議定書への署名は国家間の競争の終わりを意味しなかった。イギリスは南極大陸において自国の領土を50パーセント拡張する計画を国連に申請することを明らかにした。領有主張地から海底に延びる約38万6千平方マイルを
加えるというのである。アルゼンチンとチリは反訴する構えを明らかにした。あらゆる申し立てを提出する期限は2009年であった。こうした主張の背後には国家の威信ばかりでなく、地球温暖化が石油やその他の鉱物の探査およびその利用を可能にするという目論見もあった。
それでも、20世紀から21世紀にかけての探検の中心は地球ではなかった。それは高層大気であり、宇宙であった。ここでもオーギュスト・ピカールが先鞭をつけた。一種の気密式与圧キャビンその後すべての高空飛行機の標準になった――を備えた新型の気球を設計し、ベルギーで資金を調達すると、1931年5月27日にポール・キプファーを伴って高度1万5781メートル(51762フィート)まで上昇した。1932年にもキャビンを改良した気球で1万6940メートル(55563フィート)まで達し、高度記録を更新した。翌年ソヴィエトおよびアメリカの気球操縦士が1万8500メートル(60700フィート)と1万8665メートル(61221フィート)まで上昇し、さらに記録を更新した。しかし、これは来るべき劇的な変化の予兆に過ぎなかった。1961年4月12日ロシアのユーリイ・ガガーリン(193468)は人類初の宇宙飛行士として〈ボストーク1>号に乗り込み、毎時27万4千キロ(毎時17万マイル)の速さで90分かけて地球を一周し、最高高度327キロメートルに達した。ソ連はそれまでにもすでに地球を周回する世界初の人工衛星〈スプートニク1>号を1957年に打ち上げており、同年に〈ルナ2号を月面に衝突させていた。50年後にロンドンに建立されたガガーリンの記念像は、キャプテン・クックの像と微笑ましく向かいあっている。宇宙飛行に対する反応は、探検における国家主義および政治的特質を強調した。そこには人類の偉大な功績―大勢が夢見たが実際に目撃するとは予想だにしなかったことに対するありふれた喜びに加えて、宇宙工学におけるソ連の大きな勝利であるという認識があった。ソ連はそのプロパガンダ価値を百も承知しており、ソ連以外の国ワルシャワ条約機構同盟国が望ましいがそれに限定されない今後から宇宙飛行士を招いて、の宇宙開発計画に参加させようとした。一方アメリカは、冷戦時代の敵が最大の宣伝価値だけでなく、莫大な軍事的可能性のある技術を習得していたことに危機感を抱いた。ケネディ大統領は「60年代の終わりまでに」アメリカの有人宇宙船を月に着陸させるため、予算を節約するなと要求した。このプロパガンダによって、アメリカのニール・アームストロング(1930~2012)は1969年7月21日に人類で初めて月面に降り立った男になった。世間にあまり知られていない宇宙開発の先駆けは、第二次世界大戦後期にV1およびV2兵器に取り組んだドイツのロケット科学者たちであり、終戦直前にソ連やアメリカに連れて行かれた。アメリカに亡命したヴェルナー・フォン・ブラウンなどはその代表例と言える。
かなり意外なことに、アメリカとソ連の宇宙船事故があったにもかかわらず、宇宙探検は黎明期の探検よりも安全なようである。ガガーリンの〈ボストーク1>号での先駆的な宇宙飛行に続いて、1962年と1963年にも一連の宇宙飛行が行なわれ、後者には世界初の女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワも含まれる。ソ連は前進を続け、1964年10月に〈ボスホート1>号で3人飛行を成功させ、1965年3月の2人飛行ではアレクセイ・レオーノフが世界で初めて宇宙遊泳を行なった。1971年から82年のあいだに打ち上げられた〈サリュート>シリーズの宇宙ステーションは、搭乗員が長期間居住作業することが可能なため滞在日数211日の記録に達した。こうした長期にわたる滞在は、1978年の東ドイツのジークムント・イェーンをはじめとするワルシャワ条約機構同盟国の飛行士ばかりでなく、フランスとインドの飛行士とのランデブーも可能にした。ヘレン・シャーマンはこうしてイギリス人初の宇宙飛行士になった。ソ連は1986年についに、貨物輸送船用と有人宇宙船の訪問用の6つのドッキングポートと、最大6人のクルーを収容できる膨張式モジュールを備〈ミール〉宇宙ステーションを打ち上げた。米ソが唯一共同で行なった有人宇宙プロジェクトは1975年の〈アポロ・ソユーズ〉テスト計画で、アメリカの3人乗りの〈アポロ>とソ連の2人乗りの〈ソユーズ19>号が2日間軌道上でドッキングした。
こうした有人宇宙探査は当然アメリカも同様のことを行なっていたが無人飛行によって補完されており、アメリカとソ連(ロシア)は最初は月面を、次いで惑星間空間を探ろうとする宇宙開発計画を次々と実施した。アメリカの計画にはイギリスや西ドイツなどの西ヨーロッパ諸国との限定的な共同プロジェクトも含まれていた。ソ連の〈ルナ〉シリーズは1959年に〈ルナ3号で月の裏側を撮影することに成功し、1970年には〈ルナ16>号で月の土壌サンプルを地球に送り返した。ソ連が最初に成功した惑星間打ち上げは1967年のくべネラ4>号で、金星の大気層に探査用カプセルを送り込んだ。1975年の〈ベネラ9〉号と〈ベネラ10>号は、別の惑星の表面の画像を初めて提供した。1971年に火星に打ち上げられた探査機は限られた科学データしか提供できなかった。ロシアはまだソ連時代の宇宙調査における隆盛を取り戻すのが難しいと感じていた。1990年以来初めて2011年11月に火星探査機〈フォボスグルント〉を搭載したロケットを打ち上げたが、土壌サンプルを地球に持ち帰る計画は機器の故障により失敗した。将来の宇宙探査は想像を絶するほどの距離と時間を伴うため、無人探査になることは数十年前から明らかになっていた。無人探査機はすでに火星と金星に関する情報を提供していたが、アメリカの〈ボイジャー〉計画は太陽系の外惑星を調査していた。2015年7月、2006年に打ち上げられたNASAのニュー・ホライズンズは冥王星を接近通過し、海王星軌道の外側にあるカイパーベルトへ向かった。衛星軌道上にある宇宙実験室は、探査というより研究と見なされるかもしれない。距離と時間の問題は、最初はアメリカが発見し、1946~47年にイングランドはチェシャー州のジョドレルバンク天文台で(サー)バーナード・ラヴェルらヨーロッパ勢が開拓した電波天文学が、今後も重要なツールであることを示唆している。電波天文学のおかげで、放射された電波が地球に到達するまでに数千万年かかるような遠い天体を観測することが可能になると同時に、おそらくは宇宙の始まりを探索することも可能になるであろう。
回想
そういったしだいで従来の探検家——冒険家、科学者、国民的英雄など――は、おそらく歴史となりつつある。登山は厳密には探検とは呼べなかったが、1923年に何故危険を冒してまでエベレストに登るのかと問われたジョージ・リー・マロリーの「そこに山がある「から」という簡潔な答えは、探検の精神の要点を押さえたものでもある。現在、地球の表面は探検するには知りつくされている。しかし科学の進歩は人類学および考古学的な探検を促しており、人類の進化と文明の出現についての物語を解き明かす様々な発見が期待されている。考古学的探検は18世紀後半に「ジェントルマン・アマチュア」から始まって徐々に職業化されていったが、金属探知機の開発によりその歴史は繰り返された。金属探知機を備えた週末のアマチュア探検家はイギリスで何度も「貴重な宝」を発掘しており、なかでも2009年にスタッフォードシャーで発見された金銀の財宝はおおいに注目を集めた。しかしながら、従来の探検形態の大半はつねに強力な戦略的側面があり、北極圏にふたたび注目が戻ることになった。ハドソンやフランクリンなどの探検家の死を引き起こした地域は、地球温暖化によって商業、戦略、輸送の機会を持つ地域に変わりつつある。さらに戦略的機会は、軍事的優位と同じくらい資源開発にも関連がある。例えば推定によれば、北極海の底には世界の埋蔵量の4分の1に当たる3750億バレルの石油と、3分の1に当たるガスが埋蔵されている。根拠は定かではないものの、北極の地球温暖化は世界のその他の地域の2倍の速さで進行しているようである。現在の速さで気温が上昇した場合、北極の氷は2070~80年の夏または一部の科学者の見解では2040年までに融けてしまうという。ロシアの調査船〈アカデミク・フョードロフ〉は2005年に砕氷船の先導なしで北極に到達した最初の船となり、2009年にはドイツ船籍の2隻のコンテナ船が開放水面を通って北東航路を通航した。北極に接する8カ国はそれぞれ大陸棚に独自の主張と反対要求を持っている。デンマークは北極がグリーンランドの大陸棚上にあるとして領有権を主張しているが、ロシアは2007年8月2日に正式に北極の領有権を主張した。2009年に採択されたロシアの新しい国家安全保障戦略は、10年以内の軍事的衝突の潜在的可能性として、国境周辺の未開発の石油およびガス埋蔵量の所有権をめぐる激しい戦いを特定している。しかしその後のロシアの外交的動きは、まさに冷戦という名がふさわしい新たな紛争のリスクを軽視したものだった。
豊田市図書館の6冊
209.5クツ『ケンブリッジ世界近現代史事典 下』
311.8アレ『全体主義の起源 1』反ユダヤ主義
311.8アレ『全体主義の起源 3』全体主義
209マク『世界史(下)』
311.8『悪と全体主義』
104イケ『リマーク1997-2007』
ブログのワード化完了 #早川聖来
10時の開店待ちも含めてスタバは満席です #スタバ風景
出会いを求めて 図書館へ 女性ではなく本ですけど
vFlatは 心強い 軽く10冊ぐらいは処理できます
過去に遡って コンテンツを探してきましよう
6.3 個の覚醒:本はきっかけにすぎない 覚醒は存在を意識し、考えることから始まる
・数学は本質に迫る手段
・個の存在に気づいているはず
・内に答えを求めることが覚醒につながる
・他者の世界が自分のためにあることを知る
知のきっかけ:存在のなぞを求めるためのプロセス
考える:権威は不要 自分の内だけ答えを求める
社会を知る:知るためには一万冊の本が必要
存在している:存在の意味から答えのない問いを発する
図書館があってよかった 図書館に出会えてよかった マルクスは図書館のために ロンドンを離れるとできなかった #図書館
電子書籍化の時になぜハイブリッドを選ばなかったのか その時点でのリテラシー
モーゼがエジプトを出た時に右に行かずに左に行ったのか アラブとの確執と石油の恩恵ではあまりも 差が大きい
図書館の存在意味は国自体をサービス主体に変えていくための前衛
革新とか保守との政治理念は必要ない 国民にサービスするかどうかです 役割を明確にすることだけ
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311.8『全体主義の起源 3』全体主義
209『世界史(下)
311.8『悪と全体主義』
104『リマーク1997-2007』
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