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『シリア・レバノンを知るための64章』

『シリア・レバノンを知るための64章』

49 ワイン源流の地

  • レバノンワインを楽しもう★

レバノンを初めて訪れたのはアメリカで1年を過した帰り途、 1975年の6月だった。 この国が十七年戦争とも名づけた長 い内戦に突入する直前、すでに不穏な情勢であった。

しかしベイルート入りした3日後、私たちは幸いにも一気に 千メートルのベカー高原を昇り、聖書の時代からあこがれをもって眺められたという美しいレバノン山脈や葡萄畑を、反対側には荒寥とした赤土の谷間などに見とれながら1時間半、世界最古の町シリアのダマスクスに通じる道を走り、バアルベッ ンの町に到着した。

バアルベックの遺跡は不思議な複合神殿アクロポリスである。 そもそもはフェニキア人 (レバノン人の祖先)が自分たちの神バ アルを祀った地だったが、ギリシアの時代が来ると彼らはここを太陽の町(ヘリオポリス)と名付けた。 次に来たローマ人た ちはこの地に最大規模の複合神殿を建立した。

西暦60年ごろにまずジュピター神殿ができ、その150年後 にはバッカスとヴィーナスの二つの神殿が完成した。 葡萄とワインの神バッカスを祀る遺跡が現存するのはバアルベックが世界でただ一ヶ所という。

私のワインに対する好奇心は、実はその半年ほど前から始まったのだった。 カリフォルニア・ワインが禁酒法の不遇をようやく脱して、かなりの味わいを誇るブランドや名門ワイナリーがテレビで宣伝され始めた頃だったので、私は何冊かの本を買い込んでアメリカだけでないワイン世界とその歴史に興味を持つようになった。

ワイン発祥の地についても、グルジア、アナトリア、メソポタミアとある中にレバノンの山々という説があったのを記憶していたし、イエス・キリストが結婚の祝宴で水をワインに変えたあの奇蹟の起きた村、ガリラヤのカナがベカー高原に近い事実にも気がついた。

もしかして、レバノンこそワイン源流の地ではなかったのか?

その時は拡がる好奇心を満足させることもできずに帰国したのだが、やがて私は物書きとなり、フランス、イタリア、スペインなどワインの取材に出掛ける幸運に恵まれた。しかしレバー を再訪す るようになったのは、二十余年を経た90年代末からだった。

一方で「ワイン源流の地・レバノン 」説についての勉強は山形孝夫先生 (宮城学院女子 授)の著書『レバノンの白い山』のおかげで、私の中では確かなものになっていた。

レバノンは旧約聖書の中ではカナンの地として登場する地域に全土が入ってしまう国でもあり、古 代イスラエルの神が何としても自らの民のために獲得したいミルクと蜂蜜、そして美酒ワインに象徴される土地だった。

ことにワインはエジプト王朝全盛期から引っぱりだこの人気だったし、中世ヨーロッパでも贅沢で 高価なものとされたのがカナン産だった。しかしそれは当然であり、この地にはバッカス神殿ができる前に、先住の神として人々の厚い信仰を集めていたバアルクの主、バアル神が存在していたからだ。彼こそがワインと深い関係にある神だった。

――紀元前13世紀頃彫られたバアル神のレリーフは、現在はパリのルーブル美術館に収まっている が、発掘されたのは1928年、ベイルート北方の丘だった。神殿跡や楔形文字でびっしりと神話が 記された粘土板など、大量の出土品があったという。

その楔形文字はウガリット語といわれる言葉でそれまで未知のものだったが、学者たちの熱烈な研究のあげく3年で解読され、3000年以上も埋もれていたバアル神話が現代の光を浴びたのだった。バアル神は古代オリエント世界の農耕神であり、大地に雷鳴を轟かせて雨をもたらし、万物の生命を蘇らせる主だ。カナンの地は沙漠に生きるイスラエルの民の憧れであり、緑濃い作物の豊かに実る 肥沃な土地であった。 この地に暮らす人々は平和と子孫繁栄を願う農耕民族であり、バアル神も同じ くペアの神アナトと結婚し家族を守る優しい神だった。

しかし人間を生かす穀物は一年草の実であり、一年毎の儚い生命である。人間の関係もやがては滅 びるものだ。ところが血は子孫に伝えられて何年も生き続ける。その事実こそがキリストの言葉なら ずとも農耕文化の中でワインを造る人間存在の証ではないだろうか。ワインは農耕社会の絆とも要と も言えよう。

バアルにはモトという弟があり、彼は火の空を支配して大地を干上がらせてしまう神である。 彼は壮絶な戦いを繰り広げるが、やがてバアルの方が力尽きて屍を野にさらす。すると大地は旱魃し、野山は枯れ果ててしまう。

ペアの女神アナトはバアルを失った悲しみにくれて野山をさまよい歩き、ようやく彼の亡骸を見つ けると、さめざめと泣きくれる。するとアナトの涙は、何と、尽きることのない芳醇なワインであっ た。彼女は目から溢れ出る悲しみの水、ワインの中でバアルの復活を願い、モトへの復讐を誓った。アナトは大地母神であると同時に勝利の女神であり、豊穣と多産の象徴として乳房がたわわに実る葡萄でできていた。

モトは息の根を止められて、やがて干からびた大地に雨が降り注ぎバアルは復活する。穀物神バアルに連続した命を与えるのは、アナトの流す涙、ワインだったのである。

ワインをめぐるこのレバノン神話に魅せられた私はやがて十年足らずの間に4回もレバノンを旅することになった。私にはかつてベイルートで日本料理店「ミチコ」を経営していた姉がいた。不幸に して彼女は突然に亡くなり、その後だったが、友人たちが私のワ トリー訪問の世話をしてくれたの だった。

シャトー・ケフラヤは内戦の真最中にフランスから醸造技術者などのスタッ が移住し、この国に フランス流のワイン造りを指導して、西欧で80年代の終わりから毎年さまざまな賞を獲得するようになったワイナリーだ。いわばレバノンにワイン・ルネッサンスをもたらした名門であるという。

私は日本から十数人のツアーと共にシャトー・ケフラヤを訪ね、レバノンの人々は料理との相性で白を好むことを知った。フランス流の赤もなかなかおいしく、当時は日本にも輸入されており、愛飲 していたのだが……このときは十九世紀半ば開設のシャトー・クサラも訪問した。 このワイナリーの造るワインは多岐 にわたり、フランス種はもちろんスペイン系のテンプラーニョも、アルザス流のゲヴェルツトラミ ナーもおいしい。さらに古代からの貯蔵庫かと思うような洞穴じみたカーヴへのツアーも楽しいもの だった。

2003年に夫と娘と訪ねた時は、98年開設のシャトー・マサヤへ案内された。 フランス人との共 同経営と聞いたが、若い当主ゴスン氏自らの案内でワイナリーの敷地にあるレストランで、 主に赤 (ムールヴェルドなど) を味わった。

新しいワイナリーの心意気をことさらに感じたのは、ワインそのものの故か、 ゴスン氏の印象だっ たのか、興味深い体験だった。

さて私がレバノン・ワインについて最も大切なことを学んだのは、2005年国際交流基金の機関 誌『遠近』の仕事で、すでに西欧の多くのワイン評論家が「世界におけるグレート・ワイン」と賞賛 するシャトー・ミュザールのオーナー、セルジュ・ホーシャル氏と対談するために彼の地を訪問した 時のことだ。

最初にワイナリーを見学に行った私を、葡萄畑から工場も貯蔵庫もテイスティングまで、すべて ホーシャル氏自信が案内して下さった。私は「レバノンの自然の味」という言葉を新たに耳に止めた。 翌日は日本大使館が氏のために晩餐会を催してくださったので、かなり長時間にわたってお話することができた。

さて、対談はそれまでに私が学んだワイン体験を全部合わせても学べなかったほどの、ワイン造りの哲学から古代の歴史、そしてレバノンの土壌や山々、太陽の光の特殊性から宗教にまで及び、私は 氏によって奥深いレバノンのワイン世界に入り込んでしまった。

「レバノンでは一度葡萄を搾ったら手をかけないワイン造り」であり、「この国には植物の病気がな かった」。さらに「レバノンは薬用植物の最大輸出国の一つであるほど生物学的多様性に恵まれてい ます」などの言葉が忘れられない。 さらに私が最も感動したのは次の言葉だった。

「この国は度重なる破壊を受けてきたが、もし私たちが復興しなければ、ここはただの難民の国に なってしまう。戦争によって民族の心は引き裂かれても、ワインは民族的感情を癒す大切なものだ。 ただの歓びを越えて今日と深く関わり、破壊の時に創造があることを、無政府状態のときに秩序があることを示してくれた。 そして死と再生はめぐり来るものだということも、そもそもはバアヘックで示されたように、今またワインが明らかにしつつあると思う」。

今日レバノンではワイン造りが活撥になってきている。 世界各地……日本でも盛んだ。

この現代においてこそ、ワインの源流はレバノンであることを思い起し、私たちはレバノンワイン に深く親しみたいと思う。

53 世界に広がるレバノン ・ シリア移民

★際立つ存在感と深刻な頭脳流出★

「兄はドイツで医者、母方従妹はアメリカの大学で研究して いて、父方の叔父はオーストラリアで貿易をやっている。曾祖 父から分かれた別の親戚は3代にわたってブラジルで商売、 はスーパーのチェーン店を経営している。」 シリアでもそうだ が特にレバノンで、こんな話を耳にすることが多い。かつて、 日本の商社マンが高度成長期に世界各地に出かけて事業を展開 したとき、あちこちで地元の手ごわい商業ネットワークと対峙 したのだが、そこで「レバ・シリ商人」はインド・パキスタン 系の「イン・パキ商人」や「ユダヤ人商人」「華僑」よりも商 売上手だと話題になったという。

レバノン・シリア移民とその子孫はさまざまな分野で非常 に目立っている。際立った人物を思いつくままに挙げてみよ う。ビジネス界では、まず世界長者番付第1位のカルロス・スリーム。(資産690億ドル=6兆9000億円で、東京都の一般会 計予算を超える!)1940年メキシコシティ生まれ、父親は南 バノン山間部の出身で1902年メキシコに移民、母方祖父 はベイルート近郊の出身でメキシコ初のアラビア語新聞社の創 業者。カルロス氏自身はメキシコの電信会社経営から事業を拡大した。今やニューヨーク・タイムズ紙の大株主でもある。日本でおなじみのカルロス・ゴーン(アラビア語名ゴスン) 日産CEOは、1954年ブラジル生まれのレバノン移民3世。 小・中学校を中心に1年間をレバノンで過ごし、1971年に高等教育を受けるためフランスに移った。 コピー印刷や 製本で世界的なチェーンを展開するフェデックス・キンコーズ創業者のポール・オルファリーは、カ リフォルニア生まれのレバノン移民2世。 アップル創業者の故スティーブ・ジョブズは、アメリカで 生後すぐに離別した実の父親がホムス出身の政治学者なので、シリア移民2世と言える。

政界では、アメリカ大統領選に二大政党以外からの候補として顔を出す消費者運動家のラルフ・ ネーダー(ナーデル)はレバノン移民2世 で、 1989年から10年間アルゼンチン大統領を務めたカ ルロス・メネム (マヌアム)は両親がダ マスクス近郊出身、2010年のトヨタ車リコール問題でその厳しい姿勢により有名になったアメリカ運輸長官レイ・ラフードはレバノン移民3世である。ブラ ジルには「レバノン系国会議員団」という40人ほどの組織がある。

文化・芸能・(医) 学界・ファッショ ン界など数え始めるときりがないが、こうした著名人を別にしても、世界各地のレバノン系・シリア系の人々は、概ね経済的に豊かな生活を確立しているように見える。中には失敗して表に出ない人々もいるだろう。しかしこの目立ち方は尋常ではない。もちろん傑出した人たちは、 その才覚・努力や育った環境が重要なのであって、人種的に優れているという話では毛頭ない。ただ、レバノンとシリアの国内人口それぞれ400万人、2300万人を考慮すれば、実に注目すべき現象 なのである。

もう一つ在外人口の動きを象徴する例を挙げよう。2006年7~8月 イスラエル軍は対レバノ ン戦争で真っ先にベイルート空港の滑走路を爆撃したため、外国人の避難が大問題になった。欧米諸国は艦船を送って自国民の救出に努めたのだが、そこでわかったのは、当時レバノンにはカナダ人が5万人、オーストラリア人とアメリカ人が各2万5000人、イギリス人とフランス人が各2万人余 りいたことである。大半はそれらの国のパスポートを所持して夏休みに帰省していたレバノン移民と その子孫だった。(なお、外国人労働者としてスリランカ人8万人、フィリピン人3万人がいた。)

それでは現在、世界のレバノン・シリア移民(とその子孫)の人口はどれほどなのか。 正確な統計 的データはどこにもなく、雲をつかむような話になるが、レバノンについてのある推計によれば、中南米に858万人(うちブラジル580万人)、北米に257万人(うち合衆国230万人)、西欧、オセアニアにそれぞれ4万人、湾岸アラブ諸国に35万人、西アフリカに7万人で、 全世界に1200万人 という数字が現れる。ブラジルでは、そこだけで1000万と言われていて、いかにも誇大な推計に 見える。一方で、レバノン国内人口がざっと400万人なので、世界全体でもせいぜいその程度だろうという推測もある。この推計のバラつき自体が政治性を帯びているのだが、これほど混乱する理由はいくつかある。これまでの移民の歴史をざっと眺めながら考えてみよう。

レバノン・シリアから本格的な移民が始まったのは19世紀末で、その後第一次世界大戦までが第一 波の時期で、東・南欧からアメリカ大陸への大量移民の時期と同じである。 移民の大半は、レバノン 中北部の山間部とシリア中部のキリスト教徒の農民で、南北アメリカを中心に、西アフリカ、オセ アニアからフィリピンまで、当初からグローバルな移住が進んだ。当時レバノンもシリアも国として は存在せずオスマン帝国領だったので、各地で「トルコ人」と記録された。 このためレバノン系移民 を語りながらシリア系移民も含めたり、その逆が起こったりする。

また移住先では名前が変わることがしばしばだった。「ユースフ・ファフリー」が「ジョセフ・ フェアリー」になると、名前からの追跡は難しくなる。 運よく移住先の移民管理局の記録が残ってい ても、ほとんど役に立たないのである。ギリシア正教の移民は移住先でロシア正教会に、マロン派は ローマ・カトリック教会に吸収されて独自の教会を持たないケースもあったので、教区資料もない。 さらに南北アメリカで顕著だが、他のエスニックグループとの結婚が進むと、世代を経るにつれて 「レバノン人」なり「シリア人」なりのアイデンティティは急速に薄らいでゆく。

この移民第一波の時期、大金を稼いで帰還する者もいたが、 は家族を呼び寄せて永住し、結果 的に一族もろとも移住して、出身村の人口が激減することが多かった。 長い船旅の末、移住先にたど り着いた農民は、ほとんどの場合、まず行商から身を起こし、徐々に資金を築いて (世代を経て)都 市中心部の商店街に卸や小売りの商店を持ち、各地で社会上昇を遂げた。

移民第二波は、レバノン、シリアとも独立して20年ほど経った1960年代で、主にオイルブームに沸く湾岸産油国に向かうものだった。 ムスリムの比重が高く、社会インフラが立ち後れた湾岸諸国 で、石油産業の管理運営や技術部門、教職や行政職、商業に従事した。出稼ぎの感が強く、距離的な 近さから頻繁に一時帰国する例も多かった。またイスラエル建国前後からユダヤ教徒の移住が続いて いたが、1967年の第3次中東戦争は決定的なプッシュ要因となった。この時期、宗教を問わず南 北アメリカへの移民も続いていた。

第三波は1975年から1990年までのレバノン内戦期、そしてそれ以降の政治的不安定期であ る。レバノンでは高水準のフランス語・英語教育が行われてきたため、若者が単身で、あるいは家族 と一緒に主に西欧・北米・オーストラリアに流出することとなった。ムスリム・キリスト教徒を問わ ず、おそらく人口の4割が、間断ない戦闘による閉鎖の合間を縫ってベイルートの空港から、あるい は陸路でシリアやヨルダン、海路でキプロスに向かい、そこの空港から、あるいはレバノン沿岸港か らの密航船で、続々と戦火を逃れた。 内戦後に戻る者も多かったが、欧米で活躍の場を見つけた者は そこで永住する方向だ。また内戦後も移民は依然ハイペースで続いており、おそらく50万人近くがレ バノンを離れたとの推定がある。シリアからも高等教育を受けた若者の留学と移民が相次ぎ、頭脳流 出は今日まで深刻な問題である。

そして2011年以来、動乱のシリアからトルコやヨルダン、レバノンに、そのレバノンからさら に欧米に向けて、新たな難民・移民の人口流出が始まっており、これが第四波となるであろう。

在外レバノン系・シリア系の人々は、 送金や投資などを通じてその経済的支援が本国で期待される だけでなく、レバ 人有権者の帰国投票行動(そのために湾岸諸国から莫大なカネが流れて無料航空券世界各地で配布される)やシリア反体制派の運動など、双方向的にさまざまな力が交錯する空間を作り 出している。

一方、長期的な観点からすると、移民はこの地域のキリスト教徒とユダヤ教徒の人口比率を著しく 低下させ、宗教的多様性が失われてゆく過程にある。同時に誰がレバノン・シリア人なのか、とい う問題が世界的に拡散しているのである。

16 スンナ派とシーア派

★国が変れば立場も変わる★

世界のイスラーム教徒の大多数を占めるスンナ派と、1から 2割を占めると言われるシーア派との間の教義の違いやそれぞ れの成立の歴史については、事典類の解説に譲り、本章では主 にシリア・レバノンにおける両宗派の位置と今日の問題につ いて扱う。ドルーズ派やアラウィー派、イスマーイール派など、 シーア派からの分派とされる宗派については、それぞれの章を ご覧いただきたい。

預言者ムハンマドの没後3年目の635年、初代正統カリフ のアブーバクルの時代にムスリム軍がダマスクスを占領し、そ れまでビザンツ帝国領だったこの地域のイスラーム化が始まっ た。 661年からダマスクスに都をおいたウマイヤ朝は、現在の国で言えば東はパキスタンから西はスペイン、ポルトガルと モロッコに至るまでの大帝国を築いた。 歴史地図帳を見ると、 圧倒的な軍事力による「大征服」で、この広大な領域の住民が 一気にイスラーム化したかのような印象を受けるかもしれない が、この時期、まだムスリムは少数派で、多数の異教徒を支配する形だった。一方、この段階ですでにウマイヤ家の支配の正 統性を否定する一派が、今日私たちが「シーア派」と呼ぶ宗派として出現していた。

ウマイヤ朝は、750年にアッバース朝に取って代わられるまでの約90年間、「歴史的シリア」の 中心都市ダマスクスを都として繁栄したのであるが、この歴史的事実はシリアの(特にスンナ派の) ム スリムたちにとって誇らしい、重要なよりどころとなる意識を植え付けたと言える。イスラームの共 同体は、アラビア半島という生態的に厳しい環境に生まれ、世界中に拡大することになったが、 最初 に 「歴史的シリア」という肥沃な農業地帯に多くの人口を擁する地域に政治的中心を移し、 一挙に版 図を広げたのである。

この当時からメッカへの巡礼路には、イラン・イラク方面からアラビア半島の沙漠を縦断するルー トや、エジプト方面から紅海を渡り沿岸を進むルートなどいろいろあったが、都のダマスクスから陸 路南下してメッカに向かうルートが一番主要なものだった。 これは時代が下ってオスマン帝国の時代 になっても変わらなかった。都のイスタンブルをはじめアナトリア方面からメッカ巡礼する際、ダマ スクスは陸上ルートの最後の拠点都市として位置づけられた。毎年巡礼月が近づくと、何千人もの巡 礼者が各地から集まり、町は1ヵ月以上にわたり祝祭的な雰囲気に包まれた。出発の日には華々しく 飾り立てられた千頭単位のラクダがキャラバンをなし、楽器が多数鳴らされるなか、ダマスクス総督 が先頭に立ち、護衛の軍勢を従えて、長い列をなす巡礼団が賑々しく南に向かった。メッカまで4日 弱の行程だった。

ダマスクスとアレッポという主要都市の中心の大モスクが、ウマイヤ朝期に建立された「ウマイヤ・モスク」であることは、以後今日に至るまで14世紀間にわたりイスラームが絶えることなく生活に根付いてきたことを、常に思い起こさせる。 ユダヤ教やキリスト教に比べれば新しい伝統ではあるものの、世界中のムスリム社会を眺望すると、シリア・レバノンのムスリム社会が最長の時間的伝統の上に成り立った地域の一つであることは明らかである。 そして今日のシリアとレバノンの地域を総 体で考えれば、ここで約8割の人口を占めているのがスンナ派であり、密度の差こそあれ、ほぼ全域 に分布している。 正統派の宗教として、地域全体に浸透・定着してきたことは疑いようがない。

ただし、この地域の地中海沿岸の山地に国境線を引いて、レバノンをシリアから切り離すと、そこではスンナ派がもはや多数派ではなく、 あまたの宗派の合間に入って急にマイノリティになる。レバノン国内の分布は、ベールートやトリポリ、シドンといった沿岸都市部とベカー高原の一部にほぼ限 定され、山間部の町村にはほとんどプレゼンスがない。このためスンナ派は、レバノンという国を 「レバノン山地」(アラビア語で「ジャバル・ルブナーン」)を基盤とする社会と認識する立場――マロン派とドルーズ派を中心とする――に対して明確に異を唱える傾向がある。全世界のスンナ派ムスリム の巨大な海の中にいつでも一体化できるのであり、より近くのアラブ地域のスンナ派とはそもそも自他を分かつ必要性はあまりなかったのである。これは独立前後の時期から、レバノンのスンナ派の多くをアラブ民族主義に向かわせる原動力となった。

シーア派も国境線が引かれることでその勢力図がガラリと変わる。現在のシリア・レバノンの地域 全体からすれば、あくまでも少数派である。 ざっくり言って、2700万人のうちの6パーセントく らいであろう。それがレバノンに限っては、400万人のうちの130万人、 この3割ほどで、個別の宗派としては最大勢力となる。

つまり(アラウィー派・イスマーイール派・ドルーズ派といった分派以外の十二イマーム派としての)シー ア派は、シリアにはほとんどプレゼンスがない、といってよい。ただし、ダマスクスのウマイヤ・モ スクの内部(東端の方)には、イラクのカルバラーでウマイヤ朝軍に殺されたフサイン(第4代カリフ、 アリーと預言者ムハンマドの娘ファーティマの間の息子)の首がここに運ばれて葬られたという廟があるし、 ダマスクスの東部郊外、グータの森の中にはフサインの妹ザイナブの墓廟がある。 いずれもイランや イラク、湾岸地域のシーア派の人々にとって、重要な参詣地となっている。

スンナ派国家たるオスマン帝国において、シーア派はしばしば弾圧の対象となることがあったが、 レバノン山間部のシーア派も例外ではなかった。さらに加えて、シーア派の領主層はドルーズ派やマ ロン派の領主層と対立しながら、峡谷に散在する農村部の支配をめぐり、勢力争いを繰り広げていた。 当初はレバノン山地の北部にも大きな縄張りを持っていたが、17世紀から18世紀を通じてだんだん押 し込まれて、現在シーア派の本拠地として知られる南部レバノンとベカー高原に落ち着くことになっ た。南部レバノン、とりわけシドンとティールの間で地中海に流れ込むリタニ川の東部上流域とそこ から南にかけての山地が 「ジャバル・アーミル(アーミル山地)」と呼ばれていたが、ここはシーア派 法学者を輩出したことで知られており、イランのサファヴィー朝(1世紀初めにシーア派を国教とした) にウラマーを多数送り出した。オスマン帝国とサファヴィー朝はしばしば戦火を交えたが、シーア派 同士の人的交流を維持していたのである。

南部レバノンはレバノン内戦 (1975~90年)の時期以来、度重なるイスラエル軍の侵略に苦しんだ。戦火を逃れて首都ベイ 下に移り住んだ人々も多く、ダーヒヤと呼ばれる南部郊外地区は多宗派混住の田園都市から、シーア派一色の稠密住宅地へと変貌した。

2003年のイラク戦争以来、中東全域を覆い始めたスンナ派・シーア派間の亀裂は、レバノンに も及んで国内政治の主要な対立軸をなすに至っている。西べイル -の中南部地区は両派の住民が近 接して居住しており、政治的緊張の高まりと共にしばしば衝突が伝えられるところである。しかしこ うした両派の明確な対立状況が、レバノンでは21世紀的現象であることも忘れてはならない。 (黒木英充)

32 曖昧なシリア・レバノン国境

★浸透性が国際的にも問題に★

レバノンは、シリア、イスラエル両国と計450キロの国境線を有しており、その内シリアとの国境線は370キロに及んでいる。フランス委任統治時代の1920年に、「歴史的シリ ア」地方(現在のシリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、パレス チナ自治区に相当)から切り離された領域をベースに、レバノン は1943年に主権国家としての独立を達したが、シリアとの 国境線には現在に至るまで画定されていない部分があり、帰属が不明確な地点が多数 (36か所以上) 存在している。

両国の国境線が曖昧な状態に置かれている背景には、シリア の歴代政権が基本的には同国の独立(1946年)以来、「二つの国家における一つの人民」という認識の下、レバノンの主権を尊重する姿勢を示してこなかったことがある。レバノン、シリア両国共に歴史的シリアに含まれる上に、首都ダマスクスから僅か20キロほど西に向かうだけで国境線に到達してしまう事実が、政権のこうした認識に影響を与えてきた。 他方で、レバ ノンにおいてもアラブ世界との結びつきを重視するムスリムを 中心に、シリアとの一体性に長らく重きを置いてきたことから、 国境線の画定が両国間の政治的なイシューとなることは殆どなかった。また、レバノン北部の都市トリポリはシリア中部の都市ホムスと、レバノン東部ベカー高原 一帯はホムスのみならずダマスクスと、とりわけ密な経済関係を有している。更に、レバノン北部や 東部の国境地帯においては、両国間に分かれて家族が居住していることが珍しくないことから、相互 の行き来は元より、買い物や学校、通院などに伴う越境が今もなお日常的に行われているのである。

このように、国境線が一部画定されていないことは、両国間での密輸が横行する原因になっており、 その特徴が顕著に表れたのがレバノン内戦期(1975~90年)であった。戦闘状況の激化に伴い、 レバノン中央政府による国内統制が緩む中、1980年代にはシリアの年間輸入量の七割ほどがレバ ノンからの密輸で占められる一方、シリアでは補助金を受けて低価格に抑えられているセメントやガ ソリン、砂糖などが数千トンも同国からレバノンへ密輸され、高価格で販売されているという事態が 報告されるに至った。また、ベイルート内外における戦闘によって首都の機能が低下する中、相対的 に平穏であったベカー地方の中心都市ザハレが、レバノン東部における商業活動の中心的地位を占め るようになるにつれて、多くのレバノン人やシリア人が同地を訪問するようになった。と同時に、日 用品のみならず麻薬をも扱う密輸ネットワークが両国間で築かれることになり、ベカー高原に駐留し ていたシリア軍兵士もこうした非合法な経済活動に携われるようになっていった。さらに、大麻栽培 や密輸業にはハーフィズ・アサド大統領の弟であるリファアト アサド副大統領や、同大統領の「側 近」であったムスタフー トゥラース国防大臣らを含む、国軍や治安機関に関係する多くのシリア 政府高官が当時関わっていたとされており、「清貧な」同大統領は彼らの非合法的な手段による蓄財 を内心快く思っていなかったものの、自らに対する忠誠心を維持するために基本的には黙認したと言われている。

シリア・レバノン国境における未画定領域は、1990年のレバノン内戦終了後もしばらくは、両 国のみならず国際的にも大きな問題としては取り上げられなかった。しかしながら、2000年5 月にイスラエル軍が南レバノンの大部分から撤退すると、未画定領域の問題がやにわに持ち上がっ た。と言うのも、イスラエル軍撤退をもたらした功労者であるシーア派組織「ヒズブッラー」のハサ ン・ナスルッラー書記長が撤退完了後直ぐに、「シャブア農場」を含む数箇所のレバノン領土が未だ にイスラエル占領下にある、と発言したからである。ゴラン高原の北端に位置し、256平方キロメートルの中に14の農場を有しているシャブア農場は、イスラエルが1967年の第三次中東戦争以来占領 しているシリア領ゴラン高原の一部であると、国際的には見なされている。だが、シリア・レバノン 両政府とヒズブッラーが、1951年に両国間で交わされたとされている「口頭合意」を根拠にし て、シャブア農場がレバノン領に属するとの見解を取っていることは、同国領内における占領地を解 放するために武装闘争を継続しなけれ らない、とするヒズブッラーの主張に正当性を与える根拠 になっている。また、シリアがヒズブッラーの武装闘争を引き続き、ゴラン高原解放に向けた対イス ラエル戦略の一部として利用することも可能にさせているのである。

イスラエルによるレバノン占領が国際的には終了したと認定されているにもかかわらず、ヒズブッ ラーがシャブア農場解放を名目として、その武装闘争の維持が可能になったことは、レバノンにおけるシリア覇権が終わりを告げた2005年以降にレバノン国内で問題視さ れるようになった。こうし た中で、ファード・ シニオーラ内閣 (同年7月樹立)は「反シリア」勢力 基盤にしていたことから、対シリア国境の画定作業がシャブア農場の帰属問題を解決するのみならず、同国とヒズブッラーの拠 点を結んでいる武器供給ルートの遮断や、引いてはその武装闘争の終焉につながると計算し、国際的 な助力を求めた。その結果、2006年にはドイツからの支援を得て、シリア・レバノン間の国境線 画定作業が着手されたが、シニオーラ内閣の反シリア姿勢などにより、シリアからの充分な協力を得 ることができず、 進捗しなかった。 こうした中で国連は2007年6月に、その国境査定チームの報 告書において、レバノン・シリア国境における武器密輸の取り締まりが不十分であると指摘した。そ の後2008年10月には、シリアが1946年に、レバノンが1943年にそれぞれフランスからの 独立を達成して以降、両国間には外交関係樹立されず、また相互に大使館も設置されない状態が続 いてきていた中で、国交樹立に関する共同宣言が調印されるに至ったことから、国境線の画定が進む との見通しが生じた。だが、レバノンにおいて「反シリア」の内閣が続いたこと(2009年1月にサ アド・ハリーリー内閣が樹立)や、シリアが対イスラエル戦略の観点から国境線画定に消極的であった ことにより、進展はやはり見られなかった。

2011年3月以降にシリアで反体制運動が勃発すると、対レバノン国境が確定されていないこと は、両国にさまざまな影響をもたらしている。シリアにおける戦闘が激化するに伴い、同国からの避 難民がレバノン北部や東部の国境地帯に逃れてきている他、武器搬入や戦闘員の出入り、あるいは負 傷者搬出のためのルートが、国境管理の曖昧さを衝く形で両国間に形成されてきている。シリア政府 は反体制運動の発生間もない2011年4月に、同国との国境に近いベカー地方選出のレバノンの国 会議員が、反政府勢力に武器や資金を提供しているとして非難したが、同国からシリアに向けた武器の需要は高まっており、ベイルートではカラシニコフ銃などの値段が倍増する現象が生じている。 の後2012年4月には、シリアの反体制派に向けた武器を密輸していたとされている貨物船が、 リポリに向けて航行中にレバノン国軍によって同国海域で拿捕されるという事件も発生した。

シリア国軍は他方で、同軍からの脱走兵が組織した「自由シリア軍」や、その他の反対勢力がレバ ノン領内に攻撃拠点を構えていることから、越境しての軍事作戦を頻繁に遂行している。このような 状況は、レバノン民間人や取材を行っていたジャーナリストらが、シリア国軍の発砲によって負傷す る事件を生じさせていることから、両国国境の現状は昨今、国際的な懸念や注目をより一層集めている。 (小副川 琢)



『戦略の世界史』

トルストイと歴史

ロシアの若き貴族トルストイは、クリミア戦争中に将校としてセバストポリに派遣された。このと きの従軍経験は、その人生にきわめて大きな影響をおよぼした。トルストイは豊かな生活に憧れる一 方で、宗教に傾倒していた。 作家として名が知られるようになったのは、戦地で執筆した従軍記によ ってである。作品は、紛争の恣意性に個人が巻き込まれていく様子に関する鋭い観察で満ちあふれて いた。トルストイは、敵軍の砲火になぎ倒されるロシア兵たち、そして軍の撤退時に放置されるそれ らの遺体を目の当たりにした。ロシア上流階級の無神経さと無能ぶりへの苛立ちを募らせていったト ルストイは、文学によって貴族だけでなく農民の生活や感覚を表現する方法を模索した。 そして一八 六三年から六年かけて、自身の最高傑作となる『戦争と平和』を執筆した。資料を読み込み、体験者 に話を聞き、一八一二年の戦闘について実地踏査を行うといった入念な調査に基づきながらも、トル ストイは歴史専門家とはまったく異なるアプローチで同書を書いた。しかも作品の構成自体、従来の 小説の枠をも打ち破るものであった。トルストイ自身の言葉によれば、「戦争と平和」は「著者が表 現したいと考え、 それが実際に表現されている形で、表現することのできたものにほかならない」。 のちの改訂で付加された箇所には、従来の歴史観、ひいてはクラウゼヴィッツの戦略観に異議を唱える短い随筆的な文章がちりばめられている。
クラウゼヴィッツは、トルストイが批判するものの多くを象徴する存在であり、 『戦争と平和』にも、 ほんの一場面にではあるが登場する。(トルストイの思想を投影しているとされる)アンドレイ・ボ ルコンスキー公爵が、二人のドイツ人の会話を小耳にはさむ場面である。一人はウォル ォーゲン副 参謀、もう一人がクラウゼヴィッツだった。 どちらかが「戦争を広い地域に移さねばならない」と言 うと、相手は「目的はとにかく敵の力を弱めることなのだから、個人の犠牲はもちろん問題にすべき ではない」と同意した。この会話にアンドレイは胸を痛める。その広い地域には、自分の父や息子、 妹が取り残されているからだ。そして、さげすむような言葉を吐き出す。プロイセンは「やつ[ナポ [レオン]に全ヨーロッパを引き渡しておいて、われわれを指導しに来た。 たいした先生方だ!」と。 プロイセン人の理屈は「卵の殻ほどの値打ちもない」ものだった。
トルストイは、自分たちが世の中を動かしていると思い込んでいる政治指導者や、その指導者たち を理解していると信じている歴史家に反感をいだいていた。 政界や軍部、 知識人のエリート層からほ とんど支持を得られなかったであろうトルストイの思想は、好意的な読者にとっても理解しがたいも のであったため、当時の実地での戦略にまったく影響をおよぼさなかったのも当然といえる。 それで も、より広い意味でトルストイがおよぼした政治的影響は、一九世紀の終わりにかけて広がり、 非暴 力的戦略を確立しようとする試みにも波及した。トルストイが発した批評全般は、二〇世紀に入って からも反響をもたらしつづけた。

戦争 知ったのは 中学生時代のトルストイ「戦争と平和」物語と ソ連映画

 トルストイ

信条の倫理型の代表的な人物としてウェーバーが思い描いた者がいたとすれば、それはレフ・トル ストイ伯爵であった。トルストイはウェーバーとはまったく別の視点から、あらゆる問題を、自身を 悩ませる原因となった科学、官僚制、現代主義と結びつけて論じた。ウェーバーには、同時代の偉大 な理想主義者としてトルストイに関する本を執筆しようと考えた時期すらあった。トルストイは、ほ かのことはさておき、少なくとも戦争と革命の両方に反対していたという点で首尾一貫していたが、 そのために戦争だけでなく、世界や文化の恩恵とも相容れない立場に置かれた、とウェーバーはみて いた。ウェーバーがトルストイにこだわりをいだいていたのは、『職業としての学問』でトルストイ の反合理主義者的、反科学的見解を論点としたことからも明らかだった。『職業としての政治」では、 トルストイがとくに好んだ「山上の垂訓」を取り上げ、「悪しき者に暴力で抵抗してはならない」と 説く愛の倫理を揶揄した。
この倫理はトルストイの信条であった。 何度も精神的危機に直面するなかで、トルストイは正教会 の虚飾や権威を否定し、独自のキリスト教の姿を考えるようになった。その中核にあったのが、「山上の垂訓」と「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」という教理だった。 そこから、平和に暮ら す、憎まない、悪しき者に抵抗しない、どのような状況においても暴力を放棄する、情欲や悪態を避 けるといったことを中心とする一連のルールが生まれた。もしこうしたルールが普遍的に受け入れら れれば、戦争も軍隊も、 そして警察や裁判所すらも不要となる。 トルストイは教会であろうと、宗教 に無関係なものであろうと既存の権力に異を唱える一方で、 不道徳で無益だとして暴力革命にも反対 した。そして都会や裕福な世代を否定し、農村や自然との交わりを重視した。
本書では、トルストイが反戦略的思想家として果たした役割についてすでに論じた。どちらの面に おいても、根底にあるものは同じである。トルストイは、意図的な原因が特定の結果にたやすく結び つきうるという考え方にきわめて懐疑的で、そのような因果関係を専門家然として主張する者を見下 していた。そしてアイザイア・バーリンが論じるように、何よりも「専門家や、ほかの者たちに対す る特別な権限を主張する者」を嫌った。『戦争と平和』では、指揮系統を通じて命じられる偉大な将 軍の意志に基づく行為が、大勢の人間の行動に影響をおよぼし、ひいては歴史を変えることができる、 という厚かましい主張を揶揄している。 将官や革命派の知識人は自分たちが科学的な戦略に従ってい ると主張するだろうが、結局はその戦略に裏切られる。 それは、自分たちがその計画において頼みと する一般の人々からかけ離れた存在になっていて、彼らのことを理解できないからだ。 善くも悪くも、 変化は出来事に巻き込まれた個人の無数の決断が積み重なって起きる。あいにく一般の人々は無知で 教養がなく、おそらくは共通の感情や価値観でつながっているが、自分たちの窮状を十分に理解した り、新しい世界を作るために団結したりすることはできない。
トルストイは、真理を探究する姿勢や、 十分な覚悟をもって探求すればそれは見つかるという張り つめた激しい信念の面では、啓蒙主義者だったといえるかもしれない。だが一方で、近代化や科学に 対する過信に、また、自身が良き生活の基盤とみなしていたものを見失った政治改革の試みに恐れをなすなど、きわめて多くの重要な側面において反啓蒙主義者でもあった。 「同時代の、いや実際には あらゆる時代の大衆運動になじむこと」ができなかったトルストイを「何らかのグループに分類する のであれば、答えが出ていない、あるいは出そうにもない問いを投げかける反体制派とするよりほか ない」。W・B・ガリーは、トルストイは「どうしようもないほど実践面に弱く」、組織だった行動も 「得意とするもの」ではなかった、と控えめに論じた。 家族ですら、トルストイが説く新しい生き方 に納得しているとはいいがたかった。トルストイがもたらしたのは、前例や多くの本や記事の力であ り、これは当人にとって瑣末事ではなかった。
妥協を許さない平和主義や、帝政への抵抗、そして貧困層の苦しみを白日の下にさらす試みによっ て、トルストイがとくに訴えたかったメッセージは明瞭に伝わった。 独自の見解の伝道者としての能 力は、自身の生き方だけでなく、文学的才能によっても高められた。都市部の貧民街で繰り広げられ る生存競争や、軍隊生活で日常的に起きる残虐行為、貴族の自己欺瞞能力などの生々しい描写も、そ の論争術の特徴の一つだった。軍国主義の非道さや近視眼的な愛国心に関する分析には、冷笑的な機 知、そして時として予言的な洞察が織り交ぜられていた。トルストイは未来の戦争熱について、司祭 が「殺人のために祈禱」し、新聞編集者が「憎悪と殺人を喚起する仕事に取りかかる」と表現した。 また、何十万もの「素朴で優しい人々」が「平和な勤労から引き離されて」重い足取りで戦地へと向 かい、最終的にこれらの哀れな人々は、「理由もわからぬまま、それまで会ったこともなければ、自 分たちに何か害をもたらしたわけでも、もたらす可能性があるわけでもない何千もの人を殺すだろう」 と説いた。こうした点から、トルストイにとって戦争とは、はるかにもっと一般的な不安、そして人 間同士の不自然な分裂が極端な形で表れたものであり、そうした要素を反映し、さらに悪化させるも のであった。 人間がこのような事態が生じるがままにしておける理由については、人間は政府によってだけでなく、何よりも悲惨なことにお互いによって「催眠術をかけられてきた」という独自の虚偽意識の考え方を用いて説明した。この催眠術は、愛国心という神話を白日の下にさらすことによって のみ解ける。トルストイの反戦略的な洞察力の中核には、人間社会における分裂は不自然な状態であ り、それを正せば闘争や対立の必要性はなくなる、という信念があった。
一八八二年、トルストイはモスクワでの民勢調査に参加したあと、当時のロシア人がよく自らに投 げかけていたとみられる「何をなすべきか?」という問いを提示した論文を書いた。モスクワは急成 長の時期にあり、地方からの移住者の急増で、それにともなう人口過密、貧困、犯罪、疾病、搾取と いったあらゆる問題をかかえていた。トルストイは、民勢調査は「社会学上の調査」だと述べ、さら に社会学の目的は、学問としては異質ながら「人々の福祉」にある、と指摘した。 残念なことに、こうした目的にもかかわらず、たとえ情報収集によって「法則」がどれだけ解明されようとも、またそうした法則によってどのような長期的福利が生じようとも、調査で明らかになった貧しい人々の生活 にすぐさま利益がもたらされることはまずなかった。 悲惨な状況を切実に描写することは、行動を起 こすのに不可欠な第一歩となりうる。「貧困、堕落、無知といった社会のあらゆる傷がすっかりあらわになるだろう」。だが、それだけでは不十分だ。トルストイはこう訴えた。飢えてボロ布を身にま とった人に出会ったなら、「ありとあらゆる調査を行うよりもその人を助けることのほうが重要である」。 科学的観点から無関心を装い、 次から次へとあわただしく悲惨なケースを調査するよりも、貧窮者と 関係を築くことをトルストイは呼びかけた。
真の目的は、「人と人とのあいだに築かれた障壁」を打ち壊すことであるべきだ。これは、エリー ト層の罪悪感を和らげるだけで、かえって分裂を深刻化させる慈善を否定することを意味する。 社会 の傷をいやすために、みなが一致団結すべきである。トルストイはこうした呼びかけを地域社会や同 業者組織に向けて発し、志を同じくする人々が貧困者や抑圧された者たちに手を差しのべることを求 めた、そうすれば物質面、精神面双方でよい効果が表れるだろう。そうしなければ、階級闘争が起きるとトルストイは警告した。 「[階級闘争は] 存在する必要もなければ、存在すべきでもない。それは、 われわれの理性や良心にもとるものであり、われわれが生きている人間であるかぎり、存在しえない はずだからだ」。
 結局 組織は メンバーのためにあるということ
 奥さんへの買い物依頼
雑炊の素      118
豚小間         306
串揚げ         498
金のつぶ      88
牛乳プリン    178
はんぺん      98
まぐろタタキ  358
アルトバイエルン        298
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