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『世界の歴史㉖』

 209『世界の歴史㉖』

世界大戦と現代文化の開幕

ナチ党の台頭

二三年のヒトラー一揆で嘲笑まじりの注目を一時的に集めたものの、その後は騒々しい泡沫政党にすぎなかったナチ党が、三〇年九月選挙以来わずか三年で政治的選択肢の一つにのし上がったのはなぜだろう。近年の研究成果をまとめて、ナチ党の展開を見てみよう。

これまでナチ党、ナチスと書いてきたが、実はこの言い方はナチ党の政敵、社会主義者がナチ党を侮蔑的によんだ言葉に由来し、ナチス自身はけっして使わない呼称であった。かれらは国民社会主義ドイツ労働者党と長い党名をそのまま使うか、略称のNSDAPを使った。本書ではすでに定着しているナチ党、ナチスで統一する。

成立から権力獲得までのナチ党の展開は、共和国と同じく、三期に分けられる。というより、三つのナチ党があったといったほうがよいかもしれない。

軍事組織から政党へ

一九一九年、ミュンヘンで創設されたドイツ労働者党を前身として、二〇年にナチ党が成立した。このころのナチ党は当時数多くあった右翼組織、反ユダヤ主義団体の一つにすぎず、党といっても選挙に出るわけでもなく、地方宣伝団体の域を出なかった。しかし、他の右翼組織は指導者間の対立で離合集散がはげしく、また右翼団体同士の連合をめざしたのに対し、ナチ党の場合、二一年に党の全権をにぎったヒトラーのもとにまとまり、大衆への直接的働きかけを重視したことに特色があった。ヒトラーの弁舌の才はこの大衆への影響という点で不可欠であり、定職もなく家族もいないという孤独な境遇が、かえって党活動に専念できる長所になり、かれを指導者に押し上げたのである。

このころの右翼運動と同じく、ナチ党も軍や保守派政治家の指導のもとに、クーデタによる共和国打倒をめざしていたから、この段階では疑似軍事団体という性格が強かった。二三年秋、保守派の独裁計画が進まないのをみて、ヒトラーはそれを先導しようとして、十一月ミュンヘンで武装蜂起を企てて失敗した。ヒトラーは逮捕されて裁判にかけられたが、寛大な判決を受けた。ヒトラーが『我が闘争』を口述筆記させたのが獄中であったとは、かれが特別扱いされたことをよく物語っている。これが第一期ナチ党の終焉であった。

二五年のナチ党再建から第二期が始まる。ヒトラーは保守派に頼ることをやめ、武装蜂起ではなく、選挙による合法的権力奪取に方針を変えた。ナチ党ははじめて政党らしくり、突撃隊も政治宣伝・選挙活動組織に変わった。右翼団体、疑似軍事組織の多くは、安定期でのこの転換に失敗して消滅し、ナチ党はそのメンバーの多くを吸収することができた。

ナチ党は地方政党を脱して全国に組織を広げ、大衆宣伝方法に習熟し、二八年には党員は一〇万を超え、中堅活動家層の育成に成功した。この段階のナチ党は党員の自発的活動に支えられ、経済界の資金援助は問題になる規模ではなかった。保守的経営者には、「社会主義」「労働者」を掲げる党名や大衆志向が胡散臭く思われていた。

ナチ党が小勢力ながら持続できた背景には、この間の市民層の政治文化の変容があった。

「社会主義」のインフレ

大戦後、左翼陣営では、社会主義理念のインパクトが共産主義という新理念の出現で薄れたが、逆に右翼勢力の一部に「社会主義」がはやるようになった。あのシュペングラーも一九一九年に『プロイセン主義と社会主義』を出版した。シュペングラーはもちろん、マルクス主義的社会主義を考えていたのではない。かれの説ではマルクス主義は誤りで、ドイツ社会主義の真髄はプロイセンにあり、その創始者はなんとフリードリヒ大王なのである。かれの「社会主義」は、家柄・身分ではなく、能力・業績で選抜される指導者のもとに国民が結束し、経済が政治に従属する一種の兵営国家のことであった。

興味深いのは、かれの「社会主義」の内容より、現状を否定する新しい未来像を、社会主義という言葉で表現したことである。こうした「社会主義」者はシュペングラーだけではなかった。共和国・マルクス主義・帝制に反対する市民層出身の若い保守思想家に、「社会主義」はお気に入りのスローガンになり、かれらの論文や著作で「社会主義」はインフレ気味に多用された。こうした思想は、「保守革命論」とか「革命的保守主義」とかよばれている。あるべきドイツをめざすには、現状の革命的転換が必要で、そのためには労働者の統合が不可欠である、という認識が、「社会主義」をキーワードにさせたのである。右翼運動や市民層には、用語としての「社会主義」へのアレルギーが少なくなった。

政治文化としてのテロ

西欧諸国をのぞいて、ドイツ、イタリア、東欧諸国などでは、左翼の革命運動に対抗し、それ。出するために、市民層は旧軍人などを集めて反革命武装組織をつくった。ドイツでは、革命のなかで設置された義勇軍や自警団がそれにあたる。政府や軍はヴェルサイユ条約による軍備制限で正規軍が一〇万に限定されたため、いざというときの予備軍として、義勇軍解散後も民間の疑似軍事組織を容認した。

軍事組織やかれらがおこなうテロ行為が市民社会のなかにもちこまれた。ローザ・ルクセンブルクの虐殺から、エルツベルガー、ラーテナウの暗殺、右翼団体内の「裏切り者」の処刑(中世の秘密裁判にちなんでフェーメ殺人とよばれた)、ヒトラー一揆まで、テロは続いた。これを批判する人びとも少なくなかったが、訴追された犯人の多くは市民層出身の裁判官の寛大な判決を受けるか、当局の黙認のもとに逃亡した。これは左翼の蜂起やデモへのきびしい判決ときわだった対照をなしていた。

二四年から、個人テロは少なくなったが、政治行動のなかで疑似軍事組織が演じる役割はかえって増大した。統一的制服、独特のシンボル、軍事的規律で政敵を威圧する疑似軍事的政治団体の行進は、ワイマール・ドイツの日常の光景になった。政敵へのテロの黙認から政治行動の軍事化は、ワイマールの政治文化の暗い構成部分になっていたのである。

大衆政党への上昇

ナチ党は、この間党名通り都市を中心に労働者を獲得する戦術をとった。それが成功しなかったことは二八年選挙での後退が示した。ところが、二九年末のプロイセン州の統一地方選挙では、ナチスがあまり力を入れていなかった農業不況に苦しむ農村部、たとえば北部のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン地方で思いがけない高い支持があり、全体として得票率は二八年選挙の二・五倍になった。

目を引くのはオスナブリュック市議会選挙の例である。ここでは、ある地方週刊紙編集者が仲間五人と語らって選挙綱領もなしに新党を結成して出馬したところ、七人分の当選票が集まり、一挙に第三党になった。既成政党や既成政治家への失望がいかに市民層のあいだに広がっていたか、それでも人びとはなお政治に救済を求め、新しい政党、強力な指導者に期待したかがここからうかがえる。ナチ党はこれを機に地方都市や農民への宣伝を強めた。

ナチ党は反ヤング案闘争で既成の保守党派からパートナーとして認められて知名度を上げ、バーデンやチューリンゲンの州選挙でもかなりの票を集めた。チューリンゲン州では初のナチ閣僚が出た。三〇年九月の国会選挙では、政府の事前予測でもナチ党は前回の一二議席から四〇議席程度は取るだろうと見ていた。ところが、実際は九倍増の一〇七議席であり、ヒトラー自身も驚いたといわれる。ナチスの宣伝活動がすぐれていたことはたしかだが、現状不満票が向こうから押しかけてきたという面も無視できない。ここからナチ党の第三期が始まる。

ナチスの支持者

ところで、ナチスの支持者はどんな人びとだったのだろう。時期によってもちがうが、一般党員と投票者に焦点を当ててみよう。これまでは中小自営業者や商店員、中下級事務系職員・公務員・農民などの中間層がナチス最近の新しい研究はの基盤といわれてきた。これを否定はしていないが、いくつかの点で修正している。

一般党員については、中間層出身者が国民に占める比率をはるかに上回ることは確かめられているが、労働者も三分の一以上を占め、しかも非熟練労働者や失業者ではなく、熟練・専門労働者が多い。

社会的上層出身者も案外多く、これは教養市民層に属する学生のナチ支持者が多かったことからきている。大学はナチスがもっとも早く制覇した領域であったからである。

投票者についても、それまで棄権していた者、また、あらたに選挙権を得た者からの支持投票がかなりあり、中間層の支持も大きいが、これまでの推測以上に国民各層から広く票を集めていた。地域的には、プロテスタント系の農村部・地方中小都市で大量票を得た。新規投票者は青年にほかならないから、「青年の反乱」と「地方の逆襲」がナチ党に有利に働いたといえる。得票では国民政党的性格をもつとはいえ、ナチ党を国民政党とはいえない。ナチ投票者は流動的で、ナチ党は投票者を党につなぎ止め、統合できなかったのである。

このことは突撃隊の動向からも確かめられる。突撃隊では「半年も隊員を続ければ、もうベテランになった」ほど出入りがはげしかった。突撃隊員は圧倒的に青年が主体で、失業者の比率が非常に高かった。したがって、突撃隊員はナチ党員になる時間も金もない者も多く(党員は別に党費を支払わなければならない)、党員が一人もいない突撃隊支部もあったという。興味深いのは、「失業労働者は共産党からナチ党に移動することが多かった」、つまり「両極端は相通ず」といわれたことがまちがいであったことである。最近の詳細な選挙分析研究は、失業労働者の共産党支持はかなり安定していて、ナチ党への移動は非常に少ないことを明らかにした。またナチスは、組織労働者層やカトリック地域には、最後までくいこめなかった。

ナチ党支持の理由

人びとのナチ党支持の理由を知るのは、支持者の分析よりむずかしい。政治的失望と経済的絶望による終末ムードの広がりと未知数の政党としてのナチ党が、消極的ではあれ一つの理由であったことはたしかであろう。同時代人の記録からは、ナチ党の宣伝活動の活発さが強い印象を与えたことがわかる。既成政党が選挙期間中にせいぜい一、二回集会を開く程度の村や町でも、ナチ党の宣伝隊列は何度も訪れたし、青年が多かったことも運動の若々しさを感じさせた。恐慌下で生活はすさび、三二年には家を失った放浪者が四〇万人と推定されるなかで、突撃隊の暴力も熱意のあらわれとみなされた。

ナチ党のイデオロギーは、ラディカルな現状否定、すべての職業が救済される民族共同体建設という目標以外は、スローガンの羅列で内容がほとんどなかったから、それが大きなインパクトを与えたとは考えにくい。支持基盤の不安定性も、間接的にそれを裏づけている。突撃隊でも、失業者はイデオロギーに惹かれたというより、日常生活では得られない仲間や交流の場、あるいは行動の機会を求めて参加した者が少なくなかった。後に悲惨な結果をもたらした反ユダヤ主義も党の中核メンバーには重要であったが、選挙戦ではあまり強調されず、支持の大きな理由でもなかった。

ヒトラー個人の影響も判定しにくい問題である。ヒトラーは、二〇年代後半、ドイツ最大のプロイセン州などで野外演説を禁止され、解禁後もヒトラー演説会の聴衆はナチ党員が主であった。ヒトラーの存在は党員の結束には大きな意味があったが、普通の選挙民が直接かれを見聞する機会は多くなく、かれのラジオ演説も一九三三三年までは一度もなかった。その意味でかれの個人的「魅力」や演説能力も、選挙でのナチ党拡大の要因としては重視できない。ただ、他の政党では党指導者個人を前面に立てる選挙活動をあまりやらなかったが、ナチ党はヒトラーの党、ヒトラーの運動であることを強調したから、それが強力な政治指導者を願望する選挙民にアピールしたことは考えられる。

大統領内閣の行き詰まり

バーペンは、ブリューニングがテロ続発に耐えかねて出した突撃隊禁止令を解除し、チスの暗黙の了解をとりつけ、社会政策費の削減、社会民主党の最後の拠点プロイセン州政府の罷免など、ワイマール体制の主柱を次々と打ち壊した。七月末の選挙では、ナチ党は予想通り第一党になり、反共和国勢力は過半数を超えたが、政府を支持する党派は国会の五パーセントもなかった。

パーペン、大統領ともヒトラーを首相にする気はなく、一方、ヒトラーは首相職を要求して譲らなかったから、ナチ党は政府との対決路線に戻った。パーペンは開会したばかりの国会をすぐに解散するという暴挙に出て、三二年は全ドイツで選挙づけの年になった。選挙の結果は、政府に何の展望ももたらさなかったが、ナチ党ははじめて二〇〇万票を失って後退した。すでにそれ以前から、ナチ党内部でヒトラーの「すべてか無か」の方針には危惧感が生まれていた。選挙後のナチ党内部文書も、支持基盤の流動性を指摘し、政権

に参加して積極的な成果を示さなければ、また二〇年代の中核党員だけの運動に逆戻りする、と警告した。

一方、パーペンには、もはや軍を頼りにした大統領独裁の道しか残されていなかった。軍の黒幕で国防相のシュライヒャーが協力を拒否すると、大統領もお気に入りのパーペンを辞任させるしかなく、ついに黒幕がみずから表舞台に出てきた。シュライヒャー新首相は、ナチ党内の動揺を見越してナチ党議員団長シュトラッサーを抱きこみ、社会民主党系の労働組合も引きいれて、大衆的軍事独裁路線を構想した。シュトラッサーは乗り気だったが、ヒトラーは頑として譲らず、シュトラッサーは全役職を辞任して去った。この事件で、ナチ党はやはりヒトラーの党であることが証明された。こうなっては、シュライヒャーもなすすべがなかった。

パーペンはこの間シュライヒャーに一泡吹かせる機会をうかがい、ヒトラーとひそかに接触し、ヒトラー政権に逡巡する大統領の説得に成功した。一九三三年一月末、大統領内閣路線が破綻し、国会の出番がきたとき、第一党として待機していたのはナチ党であった。保守派の陰謀は皮肉にも国会への復帰をもたらしたが、それは議会主義そのものの終焉となったのである。

一国社会主義路線の確立

スターリンとトロツキー

ソ連邦結成直前の二二年十二月、レーニンは病をおして口述筆記させた「大会への手紙」のなかで、ロシア共産党の分裂を招きかねない危険な要素として、スターリンとトロツキーとの対立をあげている。スターリンはこの年の四月に党の書記長に就任しており、党のすべてのポストを掌握できる書記長の地位を利用して党組織に影響力を拡大し、多大な権力を振るうようになっていた。理論的には、社会主義は一国でも建設可能だとする一国社会主義論を唱えるスターリン、ブハーリンと、世界革命論を唱えるトロツキー、ジノヴィエフを対立軸として、ロシア共産党内の主導権争いが展開された。

二二年末、スターリンは同じく、党の最高の政策決定機関である政治局員のジノヴィエフ、カーメネフと「トロイカ(三頭立ての馬車)」体制を組み、党員のあいだに強い影響力を保持していたトロツキーに対抗した。「トロイカ」は二三年四月に開催された第十二回党大会を乗り切ったが、この年の夏には、トロツキーが指摘した「鋏状価格差」(工業製品が高く、農産物が安くなること)が拡大し、経済恐慌が生じた。農業生産の回復が早かったことに加え、政府の穀物買い上げ価格が低かったのに対して、工業の復興は遅れ、流通のマージンが高かったため、工業製品価格が上昇したのである。

工業製品の売れ行きが落ち、労働者への賃金支払いは滞りがちになった。労働者は不満を募らせたが、労働組合はこうした不満を等閑視しつづけた。党指導部に対する党員の不満も強まった。政治局内で孤立していたトロツキーはこうした不満を背景として、党の経済政策や党内行政を批判し、党内民主主義を求めた。しかし、トロツキーの要求は党の秩序を破壊する行為として、二四年一月の党協議会で否決された。

レーニンの死後に開かれたこの党協議会では、トロツキーの批判をかわす目的も含め、従来の厳格な入党資格をゆるめ、二二年の時点で六五万人しかいなかった党員を拡大する方針が決められた。この結果、現場の労働者が数多く入党することになり、大衆政党への転換がなされた。

しかし、農村社会の組織化はほとんどできていなかった。二四年十月の党中央委員会総会で、農村ソヴィエトへのてこ入れが提起された。当時、人口の八〇パーセント、一億二〇◯◯万人が農村社会に住んでいたが、二二年の調査では、党員数はそのうちのわずか〇一三パーセントにすぎなかった。しかも、党員の大部分は村の教師や医者、農業技術者、農村ソヴィエトの役人であった。農民はソヴィエトに統合されることなく、相変わらず伝統的なミール共同体を基盤として生活を送っていたのである。

スターリンの台頭

党員が拡大し、スターリンは新党員に影響力を強める一方で、反トロツキー・キャンペ―ンが続けられた。二四年十月、トロツキーは論文集『十月の教訓』を出版し、このなかでジノヴィエフやカーメネフが十月革命の直前に武装蜂起に反対したことを暴露した。これに反発したジノヴィエフはトロツキー攻撃の先頭に立ち、トロツキーを政治局から追放することを要求した。二五年一月、トロツキーは政治局員にはとどまったが、軍事人民委員を辞任せざるをえなかった。トロツキーの政治的影響力は大幅に減少した。

反トロツキー・キャンペーンの嵐がおさまると、今度は、二五年五月にスターリンがはじめて公言した一国社会主義論の是非をめぐって、理論家として知られるブハーリンの支持を受けたスターリンと、一国社会主義は不可能だとするレニングラード・ソヴィエト議長のジノヴィエフ、カーメネフらとの対立が表面化した。この対立は、一国社会主義論がはじめて明確化された二五年十二月の第十四回党大会から二七年十二月の第十五回党大会まで継続した。

結局、二七年十一月に、トロツキーとジノヴィエフは党を除名され、翌月の党大会で論争に決着がつけられた。党大会の時点で、党員数は一二四万人であり、二二年とくらべると二倍に増えていた。にもかかわらず、この大会に出席した約一七〇〇人の代表者のうち、反対派は一人もいなくなってしまう。スターリンによれば、このように「一枚岩」となった党が、プロレタリア独裁を実現する。党の指令は絶対であり、労働組合や協同組合などの大衆組織によって伝達され、実行されることになる。農村社会をのぞき、上意下達の一党国家体制がほぼ完成されたのである。

ソ連とヨーロッパ諸国

内戦が終息し、新経済政策が導入された二一年は、ソ連の対外関係にとっても重要な年であった。ソヴィエト政権は荒廃した経済の再建のために、対外関係の改善を求めていた。ヨーロッパ諸国のなかでは、イギリスがロシアをできるだけ早く資本主義経済圏に引き入れ、戦後の経済復興をはかろうとしていた。両者の利害関係が一致して、正式の国家承認はともなわなかったものの、二一年三月に英ソ通商協定が結ばれた。これに対して、アメリカやフランスはソ連政府に革命前の債務の支払いなどを要求して、通商関係を開こうとしなかった。

二二年四月から五月にかけて、戦後復興の経済問題を協議するために、アメリカは出席しなかったが、「ロシア連邦共和国」と敗戦国ドイツを含めたヨーロッパ諸国の国際会議がイタリアのジェノヴァで開催された。この会議に出席していたヨーロッパ諸国の代表は、ボリシェヴィキ政権の代表がどのような服装で会議に出席するか興味津々であった。レーニンの代理で代表団を率いたチェチェーリンは、シルクハットに白手袋といった伝統的な外交官の服装であらわれたので、参加者一同胸をなで下ろした。

会議では、ボリシェヴィキ政権に対するフランスの強硬な姿勢が目立ち、交渉は実りなく終わった。しかし、チェチェーリンは会議期間中に、同じく賠償問題で苦しんでいたドイツ代表とジェノヴァ近郊の保養地ラパロでひそかに会談し、相互に賠償を放棄する内容のラパロ条約を締結して外交関係を開き、世界を驚かせた。もっとも、両国は一九年からすでに軍事協力の交渉を始めており、秘密の軍事協力関係はヒトラーが政権についた三三年まで継続した。ヴェルサイユ条約によって再軍備を禁止されていたドイツは、ロシアで新兵器の開発や生産を進めようとした。一方、ロシアはドイツから軍事技術を学び、軍需産業の建設を援助してもらおうとしたのである。

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