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『ウィトゲンシュタインと独我論』

『ウィトゲンシュタインと独我論』

『論考』における「独我論」

「論考」においては、〈事〉とそれを認識する<思念〉とそれを外に表した〈命題〉は、同一の論理形式を有している。(図解Ⅰを参照。とは言え、事実としては可能的事実であってもよい訳であり、そしてこの場合には、思念は想像になる。何れにせよ事実と思念は、あらゆる可能的事実をも含めて、同一の論理形式を持って対応しており、そしてその論理形式は、それらに対応する命題において示される。したがって、あらゆる可能的事実をも含めた意味での〈世界〉と、それに対応するところの、想像を含めた意味での<思念)「広義の思念」は、同一の命題によって表される事になる。それ故その意味で、〈世界〉とそれに対応する<思念>――「広義の思念」のこと、以下同じ――は同じ内容を有し、且つ、可能的命題を含めた意味での命題の全体が〈言語〉であるとすれば、同一の言語の範囲内にあって、その〈言語〉の限界を限界とし、その意味で同じ限界を有する事になる。ち、〈世界〉と〈思念〉は、内容を同じぐし、且つ、限界も同じくするのである。そしてその意味で、〈世界〉と〈思念〉は、完全に重なり合いながら動くことになる。ところで、〈思念〉は疑いも無く私<思念〉である。したがって、内容においても限界においても〈思念〉と完全に重なり合いながら動く〈世界〉もまた、私の〈世界〉である事になる。そしてその意味で、世界は私の〈世界〉なのである。

*『論考』2・17、2・181、3、3・315を参照。

さて、世界は私の〈世界〉である、と言うとき、その私の〈世界〉は、他人にも理解可能であろうか。それは、理解不可能なのである。何故なら、私の〈世界〉は私の〈言語〉で語られるのであるが、その私の〈言語〉は、私のみが理解する<言語>(dieSprache,diealleinichverstehe5・私的<言語>であるのであるから。したがって、私の<世界)は、私のみが理解する〈世界〉私的〈世界〉なのであるから。(図解Ⅱを参照。)私の〈世界〉は私のみが理解する私的〈世界〉なのである。そしてこれは、〈独我論>の一表現であると言えよう。世界は私の〈世界〉であり、それは、私のみが理解する私的〈世界〉であるとすれば、各人はそれぞれ自己の〈世界〉に閉じこもり、そこには相互理解は存在しない事になる。即ち、各人の〈世界〉には窓が無いのである。私には私の〈世界〉のみがあり、そこには、私の感覚、感情、思い、意志、……が、即ち、私の心的なるものが、生き生きと存在するのであるが、他人のそれらは感じられず、他人はただ人の形をしたものとしてのみ存在するのである。このような世界観は、世界において心的存在として本当に存在するものは独り我のみである、という意味で、「独我論」と言われてよいであろう。

  • この部分は、文法的には、「それのみを私は理解する言語」即ち「私が理解する唯一の言語」ととる事も可能であり、事実多くの(例えば、ラッセル、ヒンティッカ、ステニウス、ブラック)そうとている。しかし、それでは、「世界は私の〈世界〉である」という事は帰結するが、「その私の〈世界〉は、他人には理解不可能である」という事は帰結しない。即ち、独我論は帰結しないのである。ウィトゲンシュタインは、独我論について、こう言っている。「誰も私を理解出来てはならない、という事が本質的なのである。即ち、他人は「私が本当に意味する事」を理解出来てはならない、という事が本質的なのである。….私は、彼は私を理解すべきである、という事は論理的に不可能である事を望む。即ち、彼は私を理解する、と言う事は、偽ではなく無意味であるべきなのだ。」(『青色本』p.65、一一〇頁)なお、ここで言う「私の<言語>」は、『探求』においては、第二五六節で「私自身のみが理解出来る言語」(dieSprache,dienurichselbstverstehenkann)と言われている。

それではウィトゲンシュタインは、このような意味での独我論――簡単に言えば「世界は私の〈世界〉である」という独我論――を、どう克服しようとしたのか。それは、『論考』においては、それを深化し徹底する事によって、であった。ポイントは、「私の」という所有格で言語的に姿を現している〈私〉と世界との関係、である。彼は、(途中省略した所もあるが、)こう言うのである。(図解とWを参照。)

私の〈世界〉である事になる。そしてその意味で、世界は私の〈世界〉なのである。

  • 『論考』2・17、2・181、3、3・315を参照。


さて、世界は私の〈世界〉である、と言うとき、その私の〈世界〉は、他人にも理解可能であろうか。それは、理解不可能なのである。何故なら、私の〈世界〉は私の〈言語〉で語られるのであるが、その私の〈言語〉は、私のみが理解する<言語><dieSprache,diealleinichverstehe5・私的〈言語〉るから。したがって、界〉は、私のみが理解する<世界>――私的〈世界〉なのであるから。(図解Ⅱを参照。)私の〈世界〉は私のみが理解する私的〈世界〉なのである。そしてこれは、〈独我論>の一表現であると言えよう。世界は私の〈世界〉であり、それは、私のみが理解する私的〈世界〉であるとすれば、各人はそれぞれ自己の〈世界〉に閉じこもり、そこには相互理解は存在しない事になる。即ち、各人の〈世界〉には窓が無いのである。私には私の〈世界〉のみがあり、そこには、私の感覚、感情、思い、意志、が、即ち、私の心的なるものが、生き生きと存在するのであるが、他人のそれらは感じられず、他人はただ人の形をしたものとしてのみ存在するのである。このような世界観は、世界において心的存在として本当に存在するものは独り我のみである、という意味で、「独我論」と言われてよいであろう。

  • この部分は、文法的には、「それのみを私は理解する言語」即ち「私が理解する唯一の言語」ととる事も可能であり、事実多くの(例えば、ラッセル、ヒンティッカ、ステニウス、ブラック)そうとている。しかし、それでは、「世界は私の〈世界〉である」という事は帰結するが、「その私の〈世界〉は、他人には理解不可能である」という事は帰結しない。即ち、独我論は帰結しないのである。ウィトゲンシュタインは、独我論について、こう言っている。「誰も私を理解出来てはならない、という事が本質的なのである。即ち、他人は「私が本当に意味する事」を理解出来てはならない、という事が本質的なのである。….私は、彼は私を理解すべきである、という事は論理的に不可能である事を望む。即ち、彼は私を理解する、と言う事は、偽ではなく無意味であるべきなのだ。」(『青色本』p.65、一一〇頁)なお、ここで言う「私の<言語>」は、『探求』においては、第二五六節で「私自身のみが理解出来る言語」(dieSprache,dienurichselbstverstehenkann)と言われている。

それではウィトゲンシュタインは、このような意味での独我論――簡単に言えば「世界は私の〈世界〉である」という独我論――を、どう克服しようとしたのか。それは、『論考』においては、それを深化し徹底する事によって、であった。ポイントは、「私の」という所有格で言語的に姿を現している〈私〉と世界との関係、である。彼は、(途中省略した所もあるが、)こう言うのである。(図解とWを参照。)

私の言語の諸限界は、私の世界の諸限界を意味する。(5.6)

[私の]世界と[私の生活は一つである。(5・621)

私は、私の世界(小宇宙)[そのもの]である。(5.63)

[時々刻々]思考し表象する主体は、[世界の中には]存い。(5・631)

[時々刻々思考し表象する]主体は、世界には属さない、それは、世界の一限界なのである。(5・632)

[時々刻々思考し表象する主体ではなく、それを貫いている]形而上学的主体は、世界の中の何処に認められるべきなのか。君は、こう言うであろう、ここにおける事態は、眼と視野の関係と同じである。しかし、君は実際には眼を見てはいない。[それ故、眼は視野の中には存在しない。]

そして、視野にある何ものからも、それが眼によって見られているという事を推論する事は、出来ない。(5633)[それ故、視野と眼の関係は偶然的である。]

つまり、[二重の意味で]視野は例えばこのような形を[必然的に]持つものではないのである。(5・6331)

この事は、我々の経験の如何なる部分もア・プリオリではない、という事と関係している。我々が見るものは全て、別様でもあり得たのである。(5・634)ここにおいて人は、独我論は、厳格に遂行されると、純粋な実在論と一致する、という事を悟る。独我論の自我は、大きさのない点へと収縮し、その自我に対応する実在が残るのである。(5・64)

したがって実際、この意味でならば自我が哲学において心理学的にでは無く問題になり得る、という意味が存在する。自我は、「世界は私の世界である」という事を通して、哲学に入り込む。[この自我、即ち]哲学的自我は、人間ではない、人間の身体ではない、或いは、心理学が扱う人間の心ではない、それは、形而上学的主体であり、[私の]世界の部分ではな[超える事の出来ない]限界なのである。(5・641)

独我論で、「世界は私の〈世界〉である」と言うときの世界、即ち、私の世界は、私の生活世界の事である。(5・621)ここで我々は、決して、私の世界として物的な世界のみを考えてはならない。私の世界は、私の感覚、感情、思い、意志、等々、によって成り立っている私の生活世界なのであり、そして、それが即ち〈私〉というものの内実なのである。(5・63)

ところで、時々刻々思考し表象する主体は、私の生活世界の中には存在しない。(5・631)ウィトゲンシュタインによれば、例えば「Aは、pと考える」は「「p」は、pと考える」という形式を持っているのである。(5・542)主体Aは、命題「p」に成り切って、pと考える訳である。これが現実の事実である。即ち主体Aは、この世界から姿を消すのである。(なおこの所見は、中期においては、普通一般にIchdenke(私は考える)という表現によって意味されている事は、実はEsdenkt(考えが生じている)という表現で表されるべきものだ、と言われる。)こういう訳で、時々刻々思考し表象する主体は、私の生活世界の中には存在しないのである。勿論、生じている考えは、私が考えているものである。しかしその〈私〉は、私の生活世界の中には現れない。そのような主体は、私の生活世界には属さず、私の生活世界の一限界(eineGrenze)なのである。(5・632)そのような主体によって思考され表象される世界は、論理的に、当の主体を前提とし、且つ、当の主体を超え出る事は出来ないからであろう。それでは、私の生活世界の他の限界は何か。それは、私のみが理解する言語によって与えられる全可能的事実ではないか。そしてこの限界は同時に私の言語の諸限界(die Grenzen)でもあるのである。(56)私の言語の限界が諸限界と複数になっているのは、言語の限界には、名前に関する限界と、それらの間で可能な結合の形式に関する限界が有るからではないか。

他方、時々刻々思考し表象する主体ではなく、それを貫いている形而上学的<主体〉は、世界の中の何処に認められるべきか、と問われれば、君はこう言うであろう、形而上学的<主体〉と私の生活世界の関係は、眼と視野の関係と同じである。しかしそのように言うとき、もしも君がⅠ図のような図式、即ち、眼が視野の中に入り込んだ図式、を思い描いているとすれば、それは誤りである。何故ならば、君は実際には眼を見てはいないのであるから。したがって、眼と視野の関係は、Ⅱ図のようでなくてはならない。しかし、視野にある何ものからも、それが眼によって見られているという事を推論する事は出来ない。(5・633)したがって、眼と視野の関係は偶然的なのである。それ故、眼と視野が必然的にI図のような図式を有する訳でもない。実は眼は「見る」という事と何の関係もなく、実は額が見るのだ、という事も、論理的には有り得るのである。つまり、眼と視野の関係は論理的にはI図のような形もI図のような形も持ちはしないのである。(5.6331)この事は、我々の経験の如何なる部分もアプリオリではないのであり、我々が見るものは全て別様でもあり得たのだ、という事と関係している。(5.634)何故ならば、もしも眼と視野が必然的にI図のような図式を有するとすれば、たとえ眼の構造は偶然的であるとしても、それを前提にすれば、視野には眼の構造を反映するアプリオリな構造が存在する事になるであるから。

ここにおいて人は、独我論は、厳格に遂行されると、即ち独我論の自我がⅢ図のように大きさのない点へと収縮されると、純粋な実在論と一致する、という事を悟るのである。言い換えれば、独我論の自我は、大きさのない点へと収縮し、その自我に対応する実在如何なる部分もア・プリオリではない実在が残る、という訳である。(5・64)

とは言え独我論と実在論は、実は高々極限としてそれぞれの世界が一致するしくは重なるmitdemreinenRealismuszusammenfallen)までであって、独我論が純粋な実在論になるのではない。第一、独我論の自我は、「世界は私の世界である」という事を通して、大きさのない点としてであろうとも、なお形而上学的〈主体〉として、また、世界の一部分ではなく限界(dieGrenze)として、残のである。(5・641)そして第二には、私の言語は依然として私のみが理

言語であるから。したがって『論考』においては、独我論が消え去る訳ではない。それでは、そのような独我論を脱却するにはどうすればよいのか。それには、形而上学的<主体〉は実は非在である、という事と、②言語は、私の言語――私のみが理解する言語(私的言語)ではなく、本来公的なもの(公的言語)だ、という事を、明らかにしなくてはならない。そして『論考』の後、①の作業が『青色本』と『探求』において遂行され、②の作業が『探求』において遂行された。そして実は、その何れの作業の土台にも、彼の「言語ゲーム論」があるのである。言うならば、彼の「言語ゲーム論」が、彼の「独我論」批判の土台なのである。(図解Vを参照。)しかし、この事の具体的議論は第二章本論に譲る。

なお、Ⅱ図においては、眼と視野の関係は偶然的であった。それでは、Ⅲ図における自我と世界の関係はどうであろう。それは、世界は必然的に私の世界である、という意味では必然的であるが、その世界の内容は、アプリオリではなく、別様でも有り得た、という意味では、やはり偶然的なのである。したがって、言うなれば、自我と世界の関係は、形式的には必然的だが、内容的には偶然的なのである。そして「眼と視野」の比喩は、眼と視野の関係は形式的にも偶然的である、という点において、破れる訳である。

 209『世界の歴史⑩』

西ヨーロッパ世界の形成

聖処女・羊飼い・大天使

ジャンヌ・ダルク

奇蹟力をもつ王の勢威はいつまでも続かない。しょせん民衆の日常とはかけはなれた高みから聖性を垂示しようとする試みは根付かない運命にあるからだ。「魔女」として火刑台にのぼったドンレミ村の田舎娘が、王と王国の危地を回復するとは、いかにも不思議だが、現実の出来事であった。

十四、五世紀は、戦争の世紀である。フランスのみをとっても、フランドル・ギュイエンヌ戦争(一二九四~九八年)、フランドル戦争(一三〇二~一三〇五年)、そして百年戦争(一三三七~一四五三年)とつづいた。国家の財政は疲弊し、農村は荒廃し、人心は乱れた。頼るべき人もモノもなしに、フランスはこのまま衰退してゆくかに思われた。この時代、奇妙な伝説がどれほどプロパガンダとして上から流布させられても、それがただちに浸透することはまれであった。しかし、ただ一人の少女の純なる思い込みが、軍隊を動かし、王位を動かし、国を動かすという驚くべき出来事が、この時起きた。ジャンヌ・ダルクである。

彼女は一四二四~二五年に天使のお告げを得て、まずヴォークールールの守備隊長の所に赴き、そこからオルレアンに向かうが、途中シノンで王太子とはじめて会い、ポワティエでは神学者の一団から審問を受けた。処女性をチェックされて立場が公認され、ブロワをへてオルレアンに入ったのが一四二九年四月二十九日であった。彼女も会議に加わった作戦が功を奏し、同年五月、イングランド軍のために七ヵ月間包囲されていたオルレアンを解放したのである。

そして王太子の王位継承権を主張し、ランスで七月十七日に大司教から塗油を受けてシャルル七世が即位することになる。だがジャンヌは、翌年イングランド軍に捕らえられ、宗教裁判で有罪とされ、火刑に処せられる。

さて、多くの予言者がこの時期には生まれ出たのだが、この点、とくにジャンヌは著名であった。パリの一市民は、批判的だが、つぎのように同時代に述べている。「この時期に一人の乙女が、言われるようにロワール川の河畔に現れて自ら予言者だと名乗り出た。そしてかくかくしかじかのことが実現するだろうと言った」。彼女の政治的立場や権力者との関係がいかなるものであれ、その予言が、直接、国家の命運を決める政治・軍事決定のきっかけとなり、しかも正確な企図の下敷きになったことは、まこと、フランス史上空前絶後のことであった。口頭の予言文化が脈々と流れていたのだろう。

予言は知識人の占有ではなかったのである。一四六〇年前後には、ポワトゥー地方の農民が、いくつかの集会を独自に開く。そこではかれらは予言によって、下層民たちが貴族と教会関係者を破壊するだろうと言っていたというのである。いずれにせよ不思議な時代、不思議な出来事である。

百年戦争

もう少し、この不思議の背景に肉薄してみたい。どんな時代、どんな状況、どんなメンタリティーが、ジャンヌの活動を可能にしたのだろうか。そもそも彼女の「愛国心」は、実際に「フランス国民」に感化を及ぼし、積極的な反応を得たのだろうか。ナショナリズムはすでにあったのか。

一三三七年には、フランス王フィリップ六世がイングランド王エドワード三世のフランス領内の封土(アキテーヌなど)を取り上げ、他方でイングランド王はフィリップのフランス王位継承権を認めずに、自ら王位継承を主張した。これが「百年戦争」の始まりである。その間、スロイスの海戦(一三四〇年)、ポワティエの戦い(一三五六年)、ついで、フランスから三分の一を削ってしまったブレティニー・カレー条約(一三六〇年)が結ばれた。しかし一三六九年には、新たに英王領土が没収された。

十五世紀に入るとアザンクールの戦い(一四一五年)が英軍の勝利とともに戦われ、英国の仏国内の占領地が増えてゆく。また仏王の捕虜化、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の内戦の開始などが危機を増幅する。フランスにとって屈辱的なトロワ協約(一四二〇年)が締結されて、イングランド王ヘンリ五世がフランス王に宣せられる。

そこに現れたのが、ジャンヌ・ダルクであった。彼女の死後もフランスの反撃は続き、カスティヨンの戦い(一四五三年)で英軍が仏軍に敗れ、ボルドーが降伏して百年戦争は終結し、カレーを除く全域からイングランド勢力は放逐される。

百年戦争時の王と国家意識

この百年戦争は、通常、中世的な封建制原理に終止符を打ち、国家主権をその領域(国土)支配とともに樹立する契機となった戦争だと理解されている。しかし、本当にこの時期に国民国家ないし主権国家があったなどといえるのだろうか、考えてみよう。

一三二八年に、男子なくシャルル四世が死去したとき、フィリップ端麗王の子供たちのうち、エドワード二世の寡婦で三世の母であるイザベルがまだ存命であった。だからエドワード三世にフランス王位が移ると考えるのが普通だろう。女子相続を認めない習いになっていたフランスで、なぜこの封建関係に規定された正当な要求が認められなかったのか。それは、フランス人らのあいだに一定の「国民意識」「国家意識」があったと仮定しなくてはうまく説明できないだろう。

十四世紀の神学者ニコル・オレームは、フランス王の条件は、フランス人であることだ、と述べている。そしてフランス王権は、ただ王や王家に属するものではなく、王国の三身分(聖職者・貴族・平民)すべてのものだという意識がすでにあったからこそ、一四二〇年のトロワ協約はかくも屈辱的だと考えられたのである。ヘンリ五世が、いくら国民感情に配慮し、フランス王国の不可分性と統合性を説いて、フランスの法・慣習・特権・自由を護ると約束したうえで支配者に納まろうとしたにもかかわらず、猛烈な反感を買ったのは当然すぎるかもしれない。フランス王家王国の象徴たる「ユリの花」が踏みにじられたのであり、言葉のわからぬ英国人の手に王冠と王国が移されるのはフランス人には赦せないのであった。この感情が、「オルレアンの乙女」(ジャンヌ・ダルク)によって火をつけられた。百年戦争は、その最終局面では党派争いなどではなく、国と国、国民と国民の争いでありえた。ジャンヌは正しく国民感情を体現し、国を動かす予言をなしえたのである。

百年戦争の結果、フランスは領土を確保し、イングランドも一四五五年から始まったラ戦争後、近代主権国家に近づくが、ブルゴーニュ公の北方への領国拡張策も、一種のナショナリズムの表れであったことを見逃してはならない。トロワ協約後、ブルゴーニュ公はフランスから離れ、ネーデルラント北部を押さえて自立した国家の創出をめざしたのである。

別の点でも、それは「近代的」戦争であった。歩兵による集団戦法が、騎馬の弩隊を圧倒するという軍事的な新展開があったからである。傭兵軍隊が雇われ盛んに活躍したことも、大きな特徴である。かれらは、それぞれの王国の防衛に尽くした。そしてその負担は全国民が担うよう、シャルル七世下で按配された。かくて、貴族層は徐々にその役割を失ってゆき、国王と市民との支えあいという絶対王政期の政治の仕組みが芽吹いた。

羊飼いのもつ政治的意味

さて、ジャンヌ・ダルクとその伝説にもどろう。ジャンヌ・ダルクが、「羊飼い」だったという話がある。ブルゴーニュの年代記作者モンストルレやジャン・ジュフロワは、彼女の評判を落とすために彼女を「牛飼い女」にした。また、すでに同時代に彼女が「女羊飼い」だという伝説が広まりはじめていたのも事実である。羊飼いであったからこそ、かくも民衆の信望を得たというのであろうか。しかしジャンヌ自身は、糸紡ぎや裁縫上手な女の子ではあったが、羊飼いであることについては、公開審理で否認している。

古来、羊飼いは宗教において特別の位置を占めていた。古代オリエントでは、いずれの国においても王や神々が羊飼いとして表象された。キリスト教でも族長や預言者を(もと)羊飼いとし、また司祭をもそう喩える習わしがある。中世は、この伝統をより豊かにした。

「子供時代のイエスの福音書」(外典)が十三世紀から流行して、羊飼いへの好意的な見方が台頭する。また、時禱書をはじめとするミニアチュールの図像も、三王に先立ってイエスに会いにいった羊飼いを好んで描くようになる。入城式でのスペクタクルでも、羊飼いらの扮装が登場する。結局、十五世紀末には、三王とならんで羊飼いが、さまざまなメディアを通じて栄光化されたことになる。

だが、聖書の物語への新たな影響だけが、羊飼いを注目の的にしたのではない。中世後期の荒れ果てた農村は、かえって家畜の放牧地を急増させ、それが都会人たちの食習慣の変化、肉食偏重とあいまって、実際的にもかれらの活動を重要なものにし、関心を高めさせたのである。

羊飼いは、山や農村を主な活動の舞台とした。山野のまんなかで動物たちと暮らすかれらは、どこか神秘的なところがあると感じられていた。見てみたい誘惑にかられる人物ではあるが、ときにはうさんくさく付き合いにくい変人ということにもなる。実際、農村では羊飼いらは広大な土地を横切って動物たちを動かし飼わねばならないので、しばしば農耕者と衝突し、また他の羊飼いとぶつかることもあった。ときに国境を越え移動するかれらについては、土地利用・通行権などが問題となった。性格的には不精で不誠実でサボリ屋で、怠惰で変わり者だという評判だ。

しかし動物にはやさしくて、ほかのだれにもできないような付き合い方をする。かれらは、天気の見分け方や植物の知識に精通し、何月にどの植物が生え、それにどんな効能があるか熟知して、家畜を護らねばならなかった。

その関連でいえば、百年戦争のときジャンヌ・ダルクは、自分の家畜を「インスラ(イ―ル)」と呼ばれる城のところに兵士の危害からまぬがれさせるためにつれていったと、裁判記録にはある。狼藉をはたらく兵士らは、容赦なく家畜を奪っていくからだ。さらに狼の危難もひかえていることは、すでに述べたとおりである。

羊飼いであって後年フランス国王に仕えることになったジャン・ド・ブリーが、十四世紀後半に著した「善き羊飼い」の手引書がある。国王(シャルル五世)みずから羊飼いの科学に興味をもって執筆を命じたようだ。本書には、羊飼いの仕事の特質と栄誉、天候の予兆のしかた、動物の病とその治療法、その他各月の留意点などが書かれている。そして面白いことに、章句の端々に、司牧者たる聖職者とその信徒を羊に見たてた忠言が数多くちりばめられていて、どちらともとれる二面性がある。

社会的に特別な立場は、宗教的な異能者という噂をもたてることになった。実際羊飼いは、ときに魔術を使った廉で裁かれている。一四九六年、ポントワーズの住人は、ある羊飼いに魔術的手段で自分の家畜を護ってくれるように頼んで、一二スーの罰金を科された。かれらは他のどんな職業人にもまして、特別な力があると考えられていたようだ。

十字軍のうち、一二二年、ドイツとフランスで発生した「少年十字軍」を率いたのは、まだ青二才の羊飼いであり、かれらはイエスの出現を得て、自分の神聖な使命を悟ったのだという。ほかにも羊飼いの加わった民衆運動は、いくつも記録にとどめられる。年代記の語るところでは一二五一年、羊飼いを中心とする民衆が激しく反乱を起こし、聖地を解放したいと願った。一三二〇年にも、パリの仏国王をたずねて十字軍の先頭に立つように願う「羊飼いの十字軍」と呼ばれる運動が、羊飼いの若者の幻視から始まった。イングランドでは、宗教劇や羊飼いの「対話」が、社会の厳しい批判をするところまでゆく。たとえばタウンリーの羊飼い劇がその例である。フランスではかくも過激なことはしないで、むしろ既存秩序の賞讃の舞台にかれらが登場する。

要するに、権力者の注目を浴び、また政治的な意味を負わされ、自らも民衆に隠然と影響力をもつことをたのんで自信を深め、行動を起こすようになったのが中世末の羊飼いであったといえる。ジャンヌ・ダルクが本来の羊飼いであったかどうかはべつとして、牛や羊と日ごろ親しんでいた田舎娘であり、「妖精の木」とその近くの泉のまわりで踊り歌って春祭りを楽しんだことはたしかであるし、またそのような伝説が広まったこと自体、動物との特別な関係をもつ人物が政治の舞台に聞入して、その方向を変えることもありうるという時代の特質を表している。ここにも、中世盛期以後、自然を征服・収奪してきた人間とその社会への自然側のリアクションがあるのではないか。

大天使ミカエルと国家

もうひとつ、ジャンヌ・ダルクにからめて中世末の国家と信仰について考えるとき、「大天使」が興味深いきっかけになるのではないだろうか。ジャンヌは、故郷ドンレミ村の泉のほとりで、大天使ミカエルのお告げを聴き(幻聴)、自らのフランス救国の戦士としての使命を確信した。大天使のほかには、聖女マルガリータとカテリーナの「声」が聞こえたという。その後も、幾度も決定的なお告げを授かっている。なぜ、大天使なのだろうか。たとえば聖母マリアではいけないのだろうか。

大天使は聖者とちがって純粋な霊であるから、聖遺物がない。どの修道院も王侯も、その骨をもつということはできない。ノルマンディーの海岸沖の小山上にあるモン・サン・ミシェル修道院や、イタリア東部のモンテ・ガルガノを代表的な巡礼地とするとしても、だれにでも、どこからでも、すべからく「高きところ」から現れる融通無礙の遍在性を備えている。しかも、中世末にいよいよ切迫した危機感が抱かれた「最後の審判」においては、大天使は竜をふみひしぎ、神の天使の軍勢を率いて、サタンの軍勢たる悪霊や反キリスト先遣隊たる呪われた民族ゴグ・マゴグの軍隊を折伏する。

諸天使たちが、地上の信徒たちの身近にいて物質的援助をしたのにたいし、もともと大天使は、数ある天使たちのうちでも最高の地位にあり、主の玉座のまわりに侍る四人の主要天使が含まれる。ミカエルのほか、聖母マリアに受胎告知をして盛んに図像に描かれた「慈悲の天使」ガブリエル、そしてラファエルとウリエルである。

なかでも戦う大天使ミカエルは、光の君であり、おびただしい天使の群れから、一頭地抜きんでた存在だ。もともとかれは、戦士たちの守り手であるとともに、国家・帝国の守護者でもあった。カロリング朝は、国の守護者としてほとんど公式にかれを認知していたし、ついでドイツでもザクセン朝の諸王が、勝利をもたらしてくれる天使にいくつものバシリカを捧げた。

フランス、そしてジャンヌ・ダルクとのかかわりに着目すれば、中世盛期から中世後期にかけて、ミカエルは仏王が標章に採用するところとなり、シャルル七世時代からは、仏王の守護者として王軍の旗にも描かれ、いわば王権のシンボルとなるのである。

中世末に、神の代理としてキリストに並び立つようにしていよいよ存在感をました正義と戦いの大天使は、不断の戦争に巻き込まれながら、正義はわれにありとして、霊的な高みから国土を支配する権威を要求していった王の統べる集権的国家に、まさにふさわしい存在ではあるまいか。

 トークは消えたけどメールは残っている ダブルで受信していて本当に良かった 一番好きな 8月2日のメール #早川聖来
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