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『世界の歴史㉔』

 209『世界の歴史㉔』

アフリカの民族と社会

人類の誕生と〝砂漠化”

大地溝帯の形成――繰り返される地殻変動

アフリカ大陸には、三六億年間にもわたる歴史が秘められている、という。地質学者は、アフリカ大陸を踏査することによって、地球の長い歴史を解読しようとしている。アフリカ大陸としての大地の歴史は、一般に約三~一億年前(古生代後期から中生代半ば)に、巨大大陸として南半球に存在したゴンドワナ大陸にはじまる、とされている。

その後、じつに長い歴史過程で数々の地殻変動が繰り返され、しだいに現在私たちがみるようなアフリカ大陸が形成されていく。そのひとつのピークが四〇〇〇万年前に形成されはじめた紅海地溝帯である。それより南に位置するケニアのグレゴリー地溝帯地域では大地溝帯の形成はかなり遅れ、中新世前期・中期(二三〇〇万~一四〇〇万年前)になってトゥルカナ沈降溝が形成され、玄武岩の流出がはじまった。この地域では、活発な火山活動が繰り返されながらも、東アフリカでは中新世(二三三〇万~五二〇万年前)から第四紀(一六四万年前以降)にかけて、火山活動の中心地は西から東に移っていった。一方アフリカ北東部では、鮮新世(五二〇~一六四万年前)になってから現在のように紅海がアデン湾を経て、インド洋につながった。

このように、東アフリカ大地溝帯は、フリカ大陸とアラビア半島とを引き裂く運動によって形成されたものと解釈されている。四〇〇〇万年前にはじまった活動はいまなお続き、活発な火山活動がおこっている。

二足歩行のサル

こうしたアフリカ地溝帯の、とりわけ東部地溝帯を中心とする地殻変動が繰り返されるなかで、人類は誕生し、進化してきたのである。最近のDNA研究によって、現生類人猿とヒトの比較がすすみ、ヒトとチンパンジーが分岐したのは、四〇〇〜六〇〇万年前と推定されるようになった。それを跡づけるように、一九九二年T・ホワイト、諏訪元、B・アスフォオらの主宰する調査隊によって、四四〇万年前の猿人がエティオピア北東部のアラミス遺跡で発見された。一九九五年になって同調査隊のホワイトは、一九九四年その新発見のヒト科の一種として公表したアウストラロピテクス・ラミダスの化石を、アルディピテクス・ラミダスと改名した。その理由として、その猿人は二足歩行であるが、初期人類というよりチンパンジーに似ている歯の化石を追加発見したためである。アルディピテクスというのは、「地上のサル」という意味である。

同じ時期に、ケニア国立博物館のミーブ・リーキーらのグループは、二足歩行であるがやはり類人猿に似た歯をもつアウストラロピテクス・アナメンシスと名づけた新種の化石の公表をした。アナメンシスやラミダスが、ともに四〇〇万年以上も前に東アフリカの森や林にすんでいたことはたいへん重要である。

家族の原型をもつ猿人

東アフリカの地溝帯を中心として、多くの化石が発見されているアウストラロピテクスは、サバンナに適応していった二足歩行の猿人として位置づけられ、オスとメスのペアである家族の原型をもっていたもの、と諏訪は推定している。その代表的な例が、アファール猿人である。アウストラロピテクスが生息していたのは、約四〇〇万~一〇〇万年の間のじつに長い期間にわたる。歴史上最初に発見されたのは、南アフリカのタウングである。それは、レイモンド・ダートによってアウストラロピテクス・アフリカヌス(アフリカの南のサル)と命名され、人類の仲間ヒト科として系統的に位置づけられた。

その後南アフリカを中心にこの種の猿人の化石がつぎつぎと発見され、一九五〇年代になってしだいに東アフリカにおける発掘がさかんになった。一九七四年にはエティオピア北東部のハダール遺跡で、ドナルド・ジョハンソンらによって、三〇〇万年以上も前のト科の化石としてほぼ完全な女性の骨格が発見され、「ルーシー」と命名された。

中新世後期から鮮新世の初め約一〇〇〇万~四〇〇万年前)の時期は、化石の空白期間になっているが、およそ九五〇万年前と推定される化石サンブル・ホミノイドがケニアの北部で石田英実が発見している。ヒト科の直接の祖先かどうかまだわからないが、中新世前・中期のアフリカ類人猿とアファール猿人をつなぐ化石がヒト科の起原研究にはどうしても必要になってくる。

いずれにしても、初期人類は、森林からより開けた草原へと進出し、二五〇万年前以降は、地球規模の気候変化とともに季節性の強くなったサバンナの環境に適応していった。

ヒト(ホモ)属の出現と拡散

約一八〇万年前のタンザニアのオルドヴァイ峡谷で発見された人類頭蓋の破片は、アウストラロピテクスより大きい脳容量をもち、ルイス・リーキーなどによってホモ・ハビリスと命名された。約二〇〇万~一六〇万年前にわたって生息していたものと資料から推定される。最初のヒト属の出現である。

エティオピアのゴナ川遺跡の出土品から、最古の石器製作の年代が二六〇万年から二五〇万年前にまでさかのぼることがわかった。どんな人類の集団がゴナで数千個もの石器を製作していたのかわからないが、ヒト属の集団、あるいはアウストラロピテクス属のパラントロプス集団という二つの候補が考えられている。それらの石器は、のちの更新世前期のオルドヴァイの石器に酷似しているので、オルドヴァイ文化に位置づけられている。このことは、オルドヴァイ複合文化が、二六〇万~一五〇万年前の期間にあたる鮮新世更新世の時代のさまざまな集団に広がっていたことを意味している。

約一八〇万年前には、ハビリスよりさらに脳容量が大きい人類ホモ・エレクトス(原人)が登場する。この人類は、アフリカで約一〇〇万年間存続し、ハンドアックスという高度な道具を製作し、火の使用を始め、猿人の二倍にもおよぶ脳容量をもつにいたった。一方、完全な直立二足歩行となり、約一〇〇万年前に人類は初めてアフリカ大陸の外へと移動していった。

ホモ・エレクトスは、その後各地域で独自の道を歩み、四〇万~二五万年前に新たな形態へと進化していった。現生種ホモ・サピエンスの誕生である。しかし、ネアンデルタール人(旧人)と現代型サピエンス(新人)がどのような関係にあり、どのように進化していったのか、まだ不明な点が多い。アフリカ単一起原説にもとづくなら、およそ一五万~一〇万年前にアフリカ大陸からレヴァント地域をへて、少なくとも一万二五〇〇年前には南米にまで広がっていったことになる。

年ごとに新しい遺跡が発見され、現生人類にいたる進化の道と拡散のルートは、しだいに明らかになっていく。現生人類の誕生に関する研究は、二十一世紀における化石人類学の課題である。しかし、アフリカ大陸が人類の誕生と進化の揺籃の地であったことはまちがいない。

気候変動・人為圧と“砂漠化〟

アフリカ大陸において砂漠化がいつ、どのようにはじまり、今後それがどのように継続していくのか。この問いかけは、アフリカに住む人びとにとってのみならず、二十一世紀における地球環境問題と食糧問題に直にかかわってくることである。

世界で最大の乾燥地帯であるサハラ砂漠では、砂砂漠はその約一四パーセントにすぎず、岩や礫でおおわれた台地が広い面積を占めている。もうひとつの砂漠地域は、南西アフリカ海岸のナミブ砂漠にみられる砂丘である。アフリカ大陸のおよそ六三パーセントを占めているのは、サバンナとステップである。雨がほとんど降らない乾燥した月数が二・五〜七・五ヵ月にわたり、イネ科草本が広がる大地に、雨の量におうじてアカシアなどの灌木・高木がでてくる。人類が誕生し進化していったのは、北東アフリカから南部アフリカにつらなる大地溝帯のサバンナである。いくつかの重要な作物が栽培化され、数々の王国が誕生したのは、おもにこのサバンナ地帯である。

熱帯多雨林は、おもにコンゴ盆地の赤道地帯と西アフリカ・ギニア湾岸に広がっている。

年間降水量は、約一三五〇ミリ以上、乾燥期間が二・五ヵ月以下の湿潤な地域を占めている。いずれの森林においても、四〇~五〇メートルに達する高木が最上層にみられる。ピグミーとよばれる狩猟採集民のほか、焼畑に依存しているバントゥー系の人が―系の人びとがおもにすんでいる。近年、人口増加と現金経済にまきこまれた市場圧によって、休閑期間の短い焼畑耕作が盛んになり、焼畑による森林の減少が指摘されるようになった。東部や南部アフリカの高山地帯では、かつては針葉樹を中心にした森林がみられたが、この一〇〇年の間にほとんど消滅してしまった。

西アフリカの熱帯林では、過去一〇〇年間にコートジボワールの九〇パーセントを筆頭に、各国平均して数十パーセント以上の森林が消滅している。そして、エティオピアにおける森林の残存率は、いまや国土全体の三パーセントになってしまっている。さらに、中部アフリカをのぞいた熱帯雨林地帯コートジボワールやナイジェリアでは、わずかに残っている森林が毎年一五パーセント前後という速さで破壊されている、という。こうした森林面積の激減によって、強雨による土壌の浸食にともない、土地のいちじるしい荒廃をもたらすばかりでなく、川の水の流れが不安定になってしまう。このことは、結果的に大陸の保水力を奪い、土地の生産力や人びとの住み場を脆弱にしていくことになる。(口絵参照)

“砂漠化〟とは

こうした近年にみられる森林破壊のほとんどは、明らかに人間の活動によってもたらされるものである。過放牧や過耕地などの人為圧も否定できないが、もっとも大きい要因は薪炭材や建築材としての伐採があげられる。人びとが町や都市に集中し、その周辺地域をはじめとする森林はまたたくまに破壊されていく。伐採したのち、しばらく放っておくと、強雨によって表土が流され、植物の再生が困難になってくる。アフリカのほとんどの地域では、伐採したのちに植林するといった法律や慣習が国家レベルのみならず村落レベルでも、これまでほとんどみられなかった。

むろん年降水量の変化による影響も大きい。たとえば、年降水量が平年の三〇~四〇パ―セントにまで落ち込んだ一九七二年と一九八四年には、おびただしい数の人間と家畜が犠牲になり、多くの環境難民を生んだ。折も折、地球環境問題として“砂漠化〟がとりあげられ、国際社会の注目を集めることになった。しかし、“砂漠化〟は、自然圧によるものなのか、それとも人為圧によるものなのか、という議論はさておくにしても、少なくとも人為圧にたいして評価されるような防御策がこれまでほとんどほどこされていないのが、現状である。

アフリカにおける気候は、地球全体の気候変動によるばかりではなく、チャド湖の水位などを復元することなどによって、かなり歴史的に追跡することができる。一万年レベルでみていくと、近いところではウルム氷期(七万~一万年前)に求められる。ウルム氷期がはじまると、地球全体の気温はしだいに低下し、大気中の水蒸気が雨になりやすく、湿潤な気候がつづく。ところが、氷期の最盛期である寒冷の状態になってしまうと、気温は低くなりすぎ、地上からの蒸発量は激減してしまう。すると、大気中の水分は極端に減少するので、乾燥気候がつづくようになる、という。

このようにウルム氷期の寒冷期(二万~一万二〇〇〇年前)には、緑の大地は砂漠化して、サハラ砂漠は、現在よりもかなり南に拡大していた。いまよりはるかにきびしい“砂漠化〟をむかえていたのである。ところが、その寒冷期をすぎ後氷期になると、気温がしだいに上昇していくにつれ、水の蒸発量もふえて、ふたたび湿潤期にはいる。約一万一〇〇〇年前ぐらいから、人びとはサハラにもどり、現在より多い降水量で豊かなサハラ時代を形成していた。とりわけ湿潤のピークは、一万~八〇〇〇年前と七〇〇〇~五〇〇〇年前の二回にわたって認められる。一万~八〇〇〇年前には、チャド湖の水位は、現在よりも四〇メートル以上も上昇した。このころ、いまのサハラ砂漠地帯は、緑あふれたステップやサバンナ的景観をなし、さまざまな野生動物が群がり、広い地域に人びとが住み、旧石器文化が栄えた。

一万五〇〇年前ごろと同様、熱帯アフリカは七五〇〇年前ごろには短いがきびしい小乾燥期をむかえる。これまで栄えた漁撈や狩猟の文化は、いったん途絶えることになるが、約七〇〇〇~五〇○○年前には湿潤期がおとずれ、チャド湖の水位は四〇メートルほど上昇し、サハラにはふたたび緑がよみがえった。

初期の後氷期におけるサハラの狩猟民たちは、数々の豊かな岩壁画を残している。もっとも早い時期(約一万五〇〇年前)の岩壁画には、野生動物だけが描かれている。いまや消滅してしまった大型のアフリカ・アローやキリン、ゾウ、サイ、カバなどが彼らの絵の対象物になっていた。

約八〇〇〇年前ごろになると、野生動物やその狩猟シーンにかわって、家畜化されたウシがひんぱんに描かれるようになる。約四五〇〇年前ごろからしだいに乾燥してくると、岩壁画に描かれていた多くの種はしだいに少なくなり、約三五〇〇~一五〇〇年前にウマが、約二〇〇〇年前からラクダが主流になってくる。このことは、明確に乾燥化と対応しており、以後サハラ砂漠にいた人びとは、ナイル川やサハラ南部に移動していったものと考えられる。

地質学者の諏訪兼位によれば、「長期的スケールでみると、サハラ砂漠の南限は、地球的規模の気候変動と対応して、五〇〇~一〇〇〇キロのオーダーで南北移動している」という。なるほど、いまから約一万二〇〇〇年前や四五〇〇年前ごろには、現在よりはるかにきびしい乾燥期をむかえ、サハラ砂漠はかなり拡大していた。しかし、雨が降り湿潤になれば、緑豊かな大地に回復していたのである。つまり、可逆可能な潜在性をもつ大地であった。ところが、最近一〇〇年間の人為圧は、過去数千年の人類が自然に与えてきた影響とは比較することができないほど大きい。人為圧によって表土が浸食され、岩盤が露出した状態で、かりに今より降水量が多くなり、より湿潤になったところで、アフリカの自然はどれだけ回復力をそなえているのだろうか。アフリカ再生の可能性は、まさしくここに存在するように思われる。アフリカの人びとが一万年のレベルで築いてきた自然との共生が、外圧も含めてたかだかこの一〇〇年間でとりかえしのつかない自然との矛盾に直面していくように思われて仕方がない。

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