未唯への手紙
未唯への手紙
池田晶子『人間自身考えることに終わりなく』
生死は平等である
私には、本質的にしかものが考えられないという、どうしようもない癖がある。いか なる現実であれ、その現象における本質、これを捉えないことには気がすま る。これはもう若い頃からの癖なので、今や完全に病膏盲に入る。
一方で、世間とは、言ってみれば現象そのものである。 ャーナリズム、ある 多数の人のものの感じ方、現象を現象のままに受け取り、そのまま次の現象へ流されて ゆくといったていのものである。 平たく言うと、ものを考えるということをしない。 「考える」とは、現象における本質を捉えるということ以外でないから、ほとんどの人 は本質の何であるか、おそらく一生涯知らないのである。
ところで、本質的にしか考えられない私が、現象そのもののような週刊誌上で連載 を始めて三年になる。 本質的なことしか書きたくないから、 本質的なことしか書いてな い。その間、現象との距離を、反応を見ながら測りつつ、気がついたことがある。
「世間」 すなわち人間社会の現象の本質は、煎じ詰めればひとつだが、あえていくつか に分けてみることはできる。 それが「言葉」「自分」 「生死」といったものである。 私 はこれらを、その都度の出来事の本質はこれだぞという形で、何度も扱った。
「言葉」、この話題は、すんなり通じるか、全く通じていないか、どちらかのような感 じがする。 言葉は大事なものだという感性のある人なら同意するだろうし、そうでない 人には、そんなことはどうでもいい。
「自分」、この話題は、たぶんほとんど通じていない。本質問題のうちでは、これの唐 突さはダントツなので、たぶん何を言っているのかさっぱりわからないのではなかろう か。
「生死」、そして、この話題が、どうも一番厄介だということに私は気がついた。これ が大事な問題だということは、たぶん誰にも通じている。だからこそ、通じていない。 そういう感じである。完全に抽象的に述べたものではなく、具体的な医療や闘病に言及 して述べた際、 明らかな抵抗や反発が返ってくることがある。
要するに、人が死ぬという大事な問題なのに何だというものである。 生死事大。大事 な問題は決まっている。だから私は繰返し、生死こそが人間の最も本質的な問題だ、だ からこれを考えろと言っている。そして、まさにここが通じていないのだ。
多くの人は、生死を現象でしか捉えていない。死に方のあれこれをもって死だと思い、 本意だ不本意だ、気の毒だ立派だと騒いでいる。しかしいかなる死に方であれ、 「死に 方」は死ではない。 現象は本質ではない。 本質とは、「死」そのもの、これの何である か。これを考えて知るのでなければ、まともに生きることすらできないではないか。
この当たり前が、とくにきょうびは通じない。 通じないのは、認め ないからであ る。生きるのは権利であり、死ぬのは何かの間違いだと思っている。自然を忘却したか らである。そんなところへ、「人が死ぬのは当たり前だ」。これが不真面目に聞こえる のは、断じて私のせいではない。
生死の本質など、幼い子でも、勘がよければ直観している。年齢も経験も現在の状況 も関係ない。生死することにおいて、 人は完全に平等である。すなわち、生きている者 は必ず死ぬ。
癌だから死ぬのではない。 生まれたから死ぬのである。癌も心不全も脳卒中も、死の 条件であっても、死の原因ではない。 すべての人間の死因は、生まれたことである。ど こか違いますかね。
「医者の口からは死んでも言えない」とは、医者をやっている友人の嘆きである。 物書きだから、「不真面目だ」ですむ。医者が言ったら訴訟ものだと。
最も大事なことについての、最も当たり前なことを、当たり前に言えない。イヤな時代だと思う。 「言葉」「自分」「生死」 と、 あえて三つに分けてみたが、もとはひとつで ある。ひとつの真理の違う側面である。自ら考え、納得する人生でなけりゃ、しょうが ないでしょうが。
(平成十八年九月七日号)
奇跡のほんとう
前回の続き。
生命は素晴らしい、生きていることは奇跡的だと礼讃するなら、死ぬことだって、 じく奇跡的なことのはずである。 どうして生きていることばかりを奇跡と言って、死ぬ ことの方を奇跡だとは言わないのか。
「生命の神秘」と、口では言うが、本当の神秘を感じているのではないからである。 そ ういう場合の生命礼讃の本意は、たんに、 生きていればいいことがある。 いろいろ楽し いことができるからといった類のものである。だから、楽しいことができなくなると、 「生きていてもしょうがない」 と、こう簡単に裏返る。 それでどうして生命の神秘なの だろうか。
以前、子供が事故か殺人かで亡くなった小学校の先生が、「生きていればいいことが あったのに」と、子供たちに話していた。こういう教育はよくない。生きていれば悪いこともあるじゃないかと反論されたら、どう答えるつもりだろう。
子供にいきなり生命は尊いと教えるのは無理である。 「なぜ」それが尊いのかを実感 していないからである。 尊いと実感できるのは、それが神秘なものだと気がつくことに よってでしかない。これは自分の力を超えている、自分にはこれは理解できない。こう 気づくことによって、人は初めてそれを敬うという気持になるのである。 畏怖の感覚と 神秘の感覚はきわめて近い。
大人が忘れているのだから仕方ない。 「生命」と言えば、生の側、そのあれこれのこ としか思わない。権利意識としての生命尊重である。 そうでなければ、科学主義が喧伝 する仕方での「生命の神秘」である。精子と卵子が結合する確率は何十億分の一である。 これは奇跡的な確率である。私の存在は奇跡的である。 あなたも私もかけがえのない存 在であるという、あのノリである。
しかし、いかに奇跡的な確率であれ、確率であるということは、可能であるというこ とだ。可能なことは、可能なのだから、奇跡的なことではない。確率は奇跡ではあり得 ないのだ。
本当の奇跡は、自分というものは、確率によって存在したのではないというところに ある。なるほどある精子と卵子の結合により、ある生命体は誕生した。しかし、なぜその生命体がこの自分なのか。その生命体であるところのこの自分は、どのようにして存 在したのか。
これはどう考えても理解できない。なぜこんなものが存在しているのかわからない。 だから、奇跡なのだ。 なぜ存在するのかわからないものが存在するから奇跡なのだ。 な ぜ存在しているのかわかるのなら、どうしてそれが奇跡であり得よう。存在するという このこと自体は、人間の理解を超えている。
だからこそ、存在する生命は奇跡であり神秘であると、正当に言うことができるのだ。 生きることが奇跡なら、死ぬことだって奇跡である。 花が散るのが無常なら、花が咲く のも無常である。 無常だ、はかないという嘆きではない。 何が起こっているのかという 驚きである。なぜ存在するのかわからない宇宙が、なぜか自分として存在し、それが生 きたり死んだりしているのを見ているというのは、いったいどういうことなのか。 生き たり死んだりしているとは、(何が)何をしていることなのか。
とまあこんなふうに、「奇跡」 の意味を正確に追ってゆくと、とんでもないところに 出られる。 いやでも出てしまうのである。 人生というものを、生まれてから死ぬまでの 一定の期間と限定し、 しかもそれを自分の権利だと他者に主張するようなのが現代の人 である。これはあまりに貧しい。自分の人生だと思うから、不自由になる である。
しかし人生は自分のものではない。生きるも死ぬも、 これは全て他力によるものである。 さっき自分しか存在しないと言ったのと逆のように聞こえるかもしれないが、逆では ない。いや逆かもしれないが、どっちでもいい。 本当の神秘、本当の奇跡を感じている なら、理屈の前後はどっちだっていいのである。
(平成十八年九月十四日号)
ご苦労さまでした
先月、父親が亡くなった。
前立腺癌の再発で予後が悪く、長い闘病生活を送っていたのだが、結局最後は心不全 による脳梗塞で、意識がなくなってから三日で逝った。現代の三大死因を勲章に、見事 な闘士ぶりだった。
最初から、そんな見事な闘病の士だったわけではない。闘病、それも長い闘病生活と いうのは、人を芯から疲れさせる。 肉体が疲れるだけではない。 肉体が疲れるのと同じ ぶんだけ、心の方も疲れる。むしろそのことの方が疲れるのだ。まして、治癒の見込み がないことはわかっている。まるで闘病するために生きてるみたいじゃないか。 こんな 生活に何の意味がある。
そう思い始めるのは当然である。彼が闘病生活に入ったのは六十九という「妙齢」で もあった。日常の起居も次第に不自由になり、治療でこのままだらだらと生き延びたところで、それはもとの寿命が尽きるのと、おそらくは同じことである。私は直には聞か
なかったが、母には時々愚痴をこぼしていたらしい。
辛いなあ。 他人事ながら、そう思う。しかし治療すれば、その都度それなりの効果は あるのだから、これを拒否する積極的な理由もない。現世に執着するタイプの人ではな かったから、かえって死ぬにも死ねないという状況が九年近く続くことになった。 この 心的ジレンマをじりじりと生き延びてゆく時間というのは、たいそう辛いものではない か。
しかし、
「死ぬのがこんな大変なことだとは思わなかったよ」
何度目かの入院で、そう言って笑うのを見た時、ああ少しふっ切れ なと感じた。 お迎えを待つと言ったって、「待つ」というのは文字通り待つことなんだから、いつに なるのかわからない。死ぬのは自力を超えている。人はそれまでは待つしかないのであ る。なりゆきにまかせて生きるしかないのである。
そういう言わば「おまかせモード」に入ってしまうというのは、じつは一つの知恵である。諦観もしくは達観と言ってもいいが、その都度のあれこれに一喜一憂しない平常 心は、なげやりとは違う。死ぬのを待つということと、明るく生きるということは、矛盾しないのである。 進行する病状に合わせて治療も複雑化していったけれども、文句も 言わずに淡々とそれらをこなすようになっていった。闘病は人を疲れさせる一方、それ は人をつくるとも確かに言えるのである
趣味らしい趣味を持たなかった父は、私の仕事の追っかけに最後の生きがいを見出し ていたらしい。それが私には多少うっとうしくはあったが、生きがいなんだからしょうがない。病床で母に週刊誌を買って来い、新刊を買って来いと注文し、本を手にしては 悦に入っていたようだ。
それが、心不全の発作で倒れてからは、本を読む気力もなくなった。 お見舞に行くと、 いつも、眼鏡をかけたまままっすぐ天井を見つめている。 声をかけると、「おー来たか」 と喜ぶのだが、何を考えていたのだか。リハビリすればまだ歩ける段階なんだから、が んばってよ。と励ますのだが、「しかし歩けるようになってもなあ」。 看護に疲れてき た母を気遣っているのである。「お母さんを責めるなよ」。
ああ辛いなあ、お父さん。思わずそう言ったら、 あははと笑って頷いた。 私は彼の真 意が把めなくなった。ひょっとしたら、本人にも「真意」などなくなっていたのかもし れない。ほとんど老師の風格である。
このまま寝たきりになって、お迎えもずっと来なかったら、もっと辛いでしょ。
だからここはまずリハビリをして、私の仕事をもっと見ててよ。
「よし、そうするか」 じじつ彼は一週間後、歩行器で歩けるまで回復した。 が、 脳梗 塞で再び倒れた。 動く方の手を握ると、ぎゅっと握り返してくる。 お父さん、まだ治療 してみる? 尋ねると、その手は躊躇を示した。 わからないよね、こんな難しいこと。 わかってるよ、お父さん。
最後まで優しく明晰な人だった。現代版大往生のひとつの形だと思う。
(平成十八年十二月十四日号)
銀河も我も
八十八億光年向こうの宇宙で、銀河の大集団が続々と生まれていることが判明したと、 新聞に出ていた。もくもくと湧き立ち輝く銀河と星雲の写真も一緒に出ていた。なんで も、太陽と同じくらいの恒星は、もう何千個も確認できるということだ。
宇宙と宇宙論好きの私にとって、このようなニュースは、おっと目を引くものである。 しかし、この記事の周囲の記事はと言えば、言うまでもなく景気と談合である。銀河誕 生のニュースと、景気と談合のニュースとが、新聞紙面では「同一次元」に並んでしま うということに、今さらながら意表を衝かれる感じがする。
「変じゃないか」と感じる人は、どれくらいいるものだろうか。 銀河の誕生と景気の話 とは、情報として「同じ」情報だと、普通は思うのだろうか。
普通はそう思っているはずである。 百五十億年前のビッグバンにより宇宙は誕生し、 以来、膨張しながら進化を続け、それが 「我々の銀河を生み、次に「我々の」 太陽系を生み、やがて地球の誕生、生命、人類、そしてかく存在する「我々」と、そういう 我々中心の進化論的宇宙論を、現代人のほとんどは信じ込んでいるからである。宇宙は 「我々」に向かって進化してきた、人は無意識にそう思っている。
だから、宇宙の誕生と地上の景気とは、タイムスパンこそ違うものであれ、質的に違 うことではない。出来事としてそこに質的な断絶はないのである。ビッグバンで宇宙が 誕生したその結果が、この地上で我々があれこれのことをするということなのである。 しかし、それは本当にそうなのだろうか。百五十億年前のビッグバンにより存在した 宇宙が、我々を生み出したのだろうか。
ここで、あっと気がついてみたいのは、ビッグバンにより存在した宇宙が我々を生み 出したというのは、それ自体が「考え」であるということである。いやそれは考えでは なくて科学的物証であるという人もいるだろう。しかし、それらの科学的物証を、ひと つの考えとして考える以外、我々は考えようがないはずである。すべての事象は、「考 えられて」、存在する。ここに、「ビッグバンにより存在した宇宙が我々を生み出した と考える我々を、ビッグバンにより存在した宇宙は生み出した」という、科学的物証を 超越する認識の入れ子構造が出現する。 考える限り、誰も考えの外には出られないのだ から、「宇宙」と「我々」とは、じつは同じものだったと気づくのである。当然のこと、この「我々」は、物理的のものではない。時間的存在者ではないことになる。
時間的存在者としての「我々」と、時間的存在者ではない「我々」との間には、決定的な断絶が存在する。一方は死ぬし、一方は死なないからである。時間的存在者ではな い我々は、ビッグバ の果てに出現したものではない。こんなものがどうして存在して いるのかわからない。存在するということは謎であると、いつも私の言うところである。 ビッグ ンの果てに自分は出現したと思って人生を生きている人にとっては、景気や 談合のニュースと銀河誕生のニュースとは同じものである。どれも自分の人生に起こる あれこれのことだと思っているのである。しかし、「自分の人生」だなんて、あな その「自分の人生」が存在するところのこの宇宙が、かくもわけのわからないものであ るというのに、どうして景気と談合なんですかね。
私には、あれらの宇宙や宇宙論の記事は、この地上にボコッと開いた異次元への穴ぼ こみたいに見える。穴ぼこの向こうは、底が抜けている。記事を読んでいる私の目もま た、底が抜けているはずである。
「宇宙の側から見てみれば」、地上の出来事は小さく見える、というのではない。 物理 的宇宙に比べて物理的人間が小さいのではないのである。 地上的な苦しみは、当人にと っては宇宙大に大きい。だからそうではな して、すべて謎であると知ることはひとつの救いであり得るということである。 お正月明け、半分妄想みたいな宇宙論でした。
(平成十九年一月十八日号)
数学と同様に 論理が自然に湧き上がるのを待ちましょう
意図的ずる
1.8.1 未唯宇宙:全てとは核から端まで知ること
心はどこにある という問いに対して 自分の中と宇宙の端にあると応えたことがある
やっと 全ての解釈でそれを回収できた
1.8.2 無を知る:存在ゆえに無がある
無を知るために生まれてきた
存在ゆえの無に気づいた
無から存在を見ている
無しかないと知る
はからずしも スターリン 毛沢東 マスードが読書家であったことの意味 読者は戦略を生む 戦術は生まない
せーらはいなくなった スタバのリクエストネームはセーラのまま # 早川聖来
組織から個に主体が移ることは無限から有限の世界に入り込む そういうから共有 資本主義は持ちこたえるか
2.1.3 空間をつくる:点から空間を作るリーマン面
全体は点の揺らぎから作られる
点は不変から生まれる
不変は超から与えられる
不変とは社会の常識みたいなもの
やはりいなくなった 去年とは異なり 写真集を残して見事にいなくなった #早川聖来
2.2.1 トポロジー:点から近傍 そして全体
個から近傍、そして全体を規定
同じようなもので近傍は設定される
異質なものは特異点として別空間
位相を社会に展開する役割をもつ
・トポロジーは点ありき
・近傍に位相をつくり、空間に拡げていく
・エネルギーがあって全体を作り出す
・個々の点のエネルギーは膨大
・その点が集まった位相空間
・トポロジーを習っていて 正解です
2.3.3 位相構造:位相で部分が全体へ伝播
基本空間を経由したつながり
部分からパスで全体をつくる
特異点は避けられた構成
基本空間で位相を保証
コンパクト性に境界は不要
・点から基本空間を経由して全体をカバーする
・全ての点が主役になることで境がなくなる
・位相は点から全体を作るものの総称
・組織の全体ありきとは逆の発想
・伝播は内部発火で行われる
・7世紀のイスラムの伝播速度
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