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『悪と全体主義』ハンナ・アーレントから考える

 『悪と全体主義』ハンナ・アーレントから考える

大衆は「世界観」を欲望する

あふれ出した「大衆」と瓦解する国民国家

アーレントが「全体主義の起原」の第一巻、第二巻で考察したのは「国民」と「国民国家」のあり方でした。これを受けて第三巻では、国民国家を一応の基盤としつつも、その枠組みを突き崩すような「運動」として姿を現した「全体主義」の実体を明らかにしようと試みています。

近代ヨーロッパの主要な国民国家は、互いの境界線を守ることで均衡を保っていました。しかし、十九世紀末に勃興した「民族」的ナショナリズムは次第に人々の「国民」意識を侵食し、国民国家を支えていた階級社会も資本主義経済の進展によって崩れていきます。ほころびが目立ち始めた国民国家を、文字通り瓦解させたのが全体主義だったのです。

第三巻「全体主義」のキーワードは「大衆」、「世界観」、「運動」、そして「人格」です。アーレントはまず、かつては階級というそれぞれの抽き出しに収まっていた人々が「大衆」となって巷にあふれ出したこと、そこに提示されたのが強い磁力をもつ「世界観」だったと指摘します。

「世界観」とは、この世界のあり方を捉えるための系統だったものの見方、考え方を意味します。たとえばナチス・ドイツの場合には、第一巻で見た反ユダヤ主義や、第二巻で指摘された優生学的人種思想を巧みに取り入れながら構築された、「ユダヤ人が世界をわがものにしようとしている」という陰謀論的な物語のことです。こうした虚構によって人心を掌握した全体主義国家は、いわば砂上の楼閣です。砂上の国体は、つねに手を加えつづけなければ、その輪郭と権力を維持することはできません。つまり全体主義は、立ち止まることが許されない「運動」だったということです。

第二巻では、ヨーロッパの人々が信奉してきた「人権」概念が無国籍者の出現によって大きく揺らいだことが指摘されていました。しかし、先鋭化した全体主義「運動」は、権利のみならず、人間から「人格」まで奪い去ってしまいます。第三巻の第三章でアーレントは、ユダヤ人の大量虐殺が行われた強制収容所・絶滅収容所の問題に触れています。

ナチス・ドイツの強制収容所は、囚人や捕虜ではなく、ユダヤ人や、流浪の民とみなされたロマ(ジプシー)、同性愛者など、「民族共同体」にとっての異分子を強制的に監禁し、社会から隔離して「矯正」を行う施設として設けられたものでした。しかし、世界大戦が始まり、ドイツが支配する地域が広がるにつれて、支配下のユダヤ人は膨大な数に増え、最終的に、ガス室などを備えた「絶滅収容所」の建設に至ったのです。絶滅収容所にはヘウムノ、ベウゼツ、ソビボル、トレブリンカ、マイダネク、そして悪名高いアウシュヴィッツの六施設があります。

何百万もの人間を計画的かつ組織的に虐殺しつづけることが可能だったのはなぜなのか、また、なぜナチスにはそこまでする必要があったのかという問題を提起しています。

階級が消え、「大衆」が生まれる

全体主義とは何だったのか。数多ある政党と全体主義政党との違いを、アーレントはまず「大衆」との関係で論じています。

全体主義運動は大衆運動である。それは今日までに現代の大衆が見出した、彼らにふさわしいと思われる唯一の組織形態だ。この点で既に、全体主義運動はすべての政党と異なっている。(「全体主義の起原」第三巻、以下引用部はすべて同様)

ヨーロッパ社会に「大衆」の存在が浮上し、その特質が論じられるようになったのは十九世紀の終わり頃からです。そこで強調されたのは、「市民」との違いでした。国民国家で「市民」として想定されたのは、自分たちの利益や、それを守るにはどう行動すればいいかということを明確に意識している人たちです。彼らは自分たちの利益を代表する政党を選び、政党は市民間の利害を調整して、その支持を保っていました。

「市民」社会における政党が特定の利益を代表していたのに対し、何が自分にとっての利益なのか分からない「大衆」が自分たちに「ふさわしい」と思ったのが全体主義です。全体主義を動かしたのは大衆だったということです。

全体主義運動は、いかなる理由であれ政治的組織を要求する大衆が存在するところならばどこでも可能だ。大衆は共通の利害で結ばれてはいないし、特定の達成可能な有限の目標を設定する固有の階級意識を全く持たない。

労働者階級、資本家階級など、自分の所属階級がはっきりしていた時代であれば、自分にとっての利益や対立勢力を意識することは容易でした。逆に言うと、資本主義経済の発展により階級に縛られていた人々が解放されることは、大勢の「どこにも所属しない」人々を生み出すことを意味したのです。

アーレントはこれを、大衆の「アトム化」と表現しています。多くの人がてんでんバラバラに、自分のことだけを考えて存在しているような状態のことです。大衆のアトム化は、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、西欧世界全般で見られました。

かつては一部の人しか持ち得なかった選挙権が、国民国家という枠組みのなかで、多くの人にもたらされたことも、「大衆」が社会で存在感をもつことにつながりました。選挙権は得たものの、彼らは自分にとっての利益がどこにあるのか、どうすれば自分が幸福になることができるのか分からない。そもそも大衆の多くは、政治に対する関心が極めて希薄でした。

「大衆」という表現は、その人数が多すぎるか公的問題に無関心すぎるがゆえに、共通に経験され管理される世界に対する共通の利害に基づく組織、すなわち政党、利益団体、地域自治体、労働組合、職業団体等のかたちで自らを構成することをしない人々の集団であればどんな集団にも当てはまるし、またそのような集団についてのみ当てはまる。大衆は潜在的にすべての国、すべての時代に存在し、高度の文明国でも住民の多数を占めている。ただし彼らは普通の時代には、政治的に中立の態度をとり、投票に参加せず政党に加入しない生活で満足しているのである。

階級社会では、同じ階級に属する誰かが自分の居場所や利益を示してくれるので、政治や社会の問題に無関心であっても生きていくことができました。これに対して、階級から解放されると、自由である反面、選ぶべき道を示してくれる人も、利害を共有できる仲間もいなくなってしまうのです。

「大衆」と「市民」

誰に(どの政党に投票すればいいのか分からない「大衆」は、どの時代の、どこの国にもいるし、高度な文明国においてすら政治に無関心な大衆は「住民の多数を占めている」と、アーレントは耳の痛い指摘をしています。投票率から言えば、日本人の半数は「投票に参加せず政党に加入しない生活で満足している」大衆だということになります。「市民社会」を構成する「市民」が、自由や平等に関する自らの権利を積極的に主張し、要求を実現するために各種の政党やアソシエーションを結成することに熱心な人たちだとすれば、「大衆」は国家や政治家が何かいいものを与えてくれるのを待っているお客様です。自分自身の個性を際立たせようとする「市民」に対し、「大衆」は周りの人に合わせ、没個性的に漫然とした生き方をします。

しかし、平生は政治を他人任せにしている人も、景気が悪化し、社会に不穏な空気が広がると、にわかに政治を語るようになります。こうした状況になったとき、何も考えていない大衆の一人一人が、誰かに何とかしてほしいという切迫した感情を抱くようになると危険です。深く考えることをしない大衆が求めるのは、安直な安心材料や、分かりやすいイデオロギーのようなものです。それが全体主義的な運動へとつながっていったとアーレントは考察しています。

ファシスト運動であれ共産主義運動であれヨーロッパの全体主義運動の台頭に特徴的なのは、これらの運動が政治には全く無関心と見えていた大衆、他のすべての政党が、愚かあるいは無感動でどうしようもないと諦めてきた大衆からメンバーをかき集めたことである。

「愚かあるいは無感動でどうしようもない」とは直截な表現ですが、階級社会の崩壊で支持基盤を失った政党も、アトム化した大衆の動員を狙っていたということです。党是を理解できないような人であっても、とにかくたくさんのメンバーをかき集めて支持基盤を築きたかったのです。こうした動きは、第一次世界大戦後のヨーロッパで広く認められました。しかし、実際に大衆を動員して政権を奪取できたのは、ドイツとロシアだけだったことにもアーレントは注目しています。

政党の勢力はその国内での支持者の割合に比例するから、小国における大政党ということもあり得るが、これに反して運動は何百万もの人々を擁してはじめて運動たりうるのであって、その他の点ではいかに好条件であっても、比較的少ない人口の国では成立が不可能である。

確かに、ある程度の規模の「大衆」が存在しなければ、社会を大きく動かすような運動にはなり得ません。ヨーロッパ大陸で最も人口が多かったのが、ドイツとロシアであり、しかも第二巻で考察されていた通り、この両国には全体主義へと発展しやすい民族的ナショナリズムも広がっていました。

陰謀論という「世界観」

第一次世界大戦で敗戦したドイツは領土を削られ、賠償金問題で経済も逼迫。さらに九二九年に始まる世界恐慌で多くの有力企業が倒産し、街には失業者があふれていました。

この先、自分はどうなるのか、経済が破綻したこの国は、どうなってしまうのか――不安と極度の緊張に晒された大衆が求めたのは、厳しい現実を忘れさせ、安心してすがることのできる「世界観」、それを与えてくれたのがナチズムであり、ソ連ではボルシェヴィズムでした。

人間は、次第にアナーキーになっていく状況の中で、為す術もなく偶然に身を委ねたまま没落するか、あるいは一つのイデオロギーの硬直した、狂気を帯びた一貫性に己を捧げるかという前代未聞の二者択一の前に立たされたときには、常に論理的一貫性の死を選び、そのために肉体の死をすら甘受するだろう――だがそれは人間が愚かだからとか邪悪だからということではなく、全般的崩壊のカオスの状態にあっては、こうした虚構の世界への逃避こそが、とにかく最低限の自尊と人間としての尊厳を保証してくれるように思えるからなのである。

ともかく救われたいともがく大衆に対して全体主義的な政党が提示したのは、現実的な利益ではなく、そもそも我々の民族は世界を支配すべき選民であるとか、それを他民族が妨げているといった架空の物語でした。

全体主義運動は自らの教義というプロクルステスのベッドに世界を縛りつける権力を握る以前から、一貫性を具えた嘘の世界をつくり出す。この嘘の世界は現実そのものよりも、人間的心情の要求にはるかに適っている。ここにおいて初めて根無し草の大衆は人間的想像力の助けで自己を確立する。そして、現実の生活が人間とその期待にもたらす、あの絶え間ない動揺を免れるようになる。

「現実世界」の不安や緊張感に耐えられなくなった大衆は、全体主義が構築した、文字通りトータル(全体的)な「空想世界」に逃げ込みました。それは、自分たちが見たいように現実を見させてくれる、ある種のユートピアでした。

空想世界といっても、現実世界から完全に切り離されたものではなく、現実を(かなり歪曲した形で)加工したものが基盤となっています。大衆が想像力を働かせやすいエピソードをちりばめながら、分かりやすく、全体として破綻のない物語を構築するためにナチスが利用したのは「反ユダヤ主義」と、ユダヤ人による「世界征服陰謀説」でした。

周知のようにユダヤ人の世界的陰謀の作り話は、権力掌握前のナチスのプロパガンダのうち最大の効果を発揮するフィクションとなった。反ユダヤ主義は十九世紀の最後の三分の一以来、デマゴギー的プロパガンダの最も効果的な武器となっており、ナチスが影響を与えるようになる前、すでに一九二〇年代のドイツとオーストリアで世論の最も強力な要素の一つになっていた。

荒唐無稽な「作り話」であっても、ユダヤ系資本が力を持っていた英米仏から政治的、経済的に締め付けられ、厳しい暮らしを強いられていたドイツの大衆にとっては説得力のあるシナリオになり得ました。

これまでお話ししたように、ドイツではユダヤ人の同化がかなり進み、見た目だけでは普通のドイツ人と区別がつかない人が多く、学者、法律家、ジャーナリスト等、知的職業の人の割合がかなり高かった。その一方で、ユダヤ教の信仰や慣習を強く保持している人もいました。ドイツが急速に工業化を進めたのに伴って、東欧から多くのユダヤ人が移住してきましたが、そういう人たちは、いかにもユダヤ人という風体で、特定の地域に集まって貧しい生活をしていました。

私たちの中国人や韓国人に対する偏見がそうですが、自分と見た目がほぼ変わらない人が、自分から見て違和感のある振る舞いをしているのを見ると、余計に気に障るということがあります。ユダヤ人に対する偏見をぬぐえない人、自分は能力があるのにどうしてもっと認められないのだろう、社会がおかしいのではないかと不満を持っている人にとっては、本来ドイツ人とは全然違う異分子、「外」から圧力をかけている連中の一部が、表面的に姿を変えて、「民族共同体」の「内」にも潜り込んでいて飲んでいるかのようにも思えてきます。ゴビノーやチェンバレンの人種理論は、そういう見方を正当化してくれます。ユダヤ人は恰好のターゲットだったのです。

暴走する想像力

『永遠のユダヤ人』というナチスのプロパガンダ映画があります。ゲットー風のところに住んでいるいかにもユダヤっぽい人たちと、エリート的なユダヤ人を一つの流れの中に描き出し、両者の正体が「同じ」であることを強調します。ユダヤ人をめぐる文化的緊張を実感として知らない現代の日本人が見ると、あまりにわざとらしくてどうしてこれで騙されるのかと感じてしまうような代物ですが、当時のドイツ人の中には元々そういうイメージを持っていた人が多かったのかもしれません。

ヒトラーは政権獲得後も、自らを支持した大衆の反ユダヤ的な想像力を利用し、「ユダヤ人を排してドイツ民族の血を浄化する」という人種差別的なイデオロギーで大衆を率いていきました。大衆を動員するために利用した物語的世界観を、そのまま国家の指導原理に応用し、特殊な世界観で統一された全体主義の国家を作り上げていったわけです。

ナチス以前およびナチス以後のいかなる大衆プロパガンダより現代大衆の願望をよく知っていたナチス・プロパガンダは、「ユダヤ人」を世界支配者に仕立て上げることによって、「最初にユダヤ人の正体を見抜き、それを闘争で打ち破る民族こそがユダヤ人の世界支配の地位を引き継ぐだろう」ことを保証しようとした。現代におけるユダヤの世界支配というフィクションは、将来におけるドイツの世界支配という幻想を支える基盤となったのである。

「最初にユダヤ人の正体」はゲッベルスの日記からの引用です。陰のユダヤ人ネットワークが世界を支配しているのだとしたら、その仕組みを乗っ取れば自分たちが世界の支配者になれる――。単に「悪いのはユダヤ人だ」と糾弾するだけでなく、「ゆくゆくはドイツ人が世界の支配者として君臨する」という将来像を提示したわけです。

このような陰謀論にかぶれてしまうと、あらゆることが「それらしく」見えてきます。ジグソーパズルのピースがぴたりとはまるように、それまで気にもしていなかったことが「あれも」「これも」陰謀を裏付けているように思えてくる。ナチスの提示した世界観の場合には、ユダヤ人の政界進出がその好例と言えるでしょう。

第一次世界大戦の頃からユダヤ系の人々が政治の表舞台で活躍するようになり、ドイツでは外相、内相、オーストリアでは外相、蔵相のポストを占めました。ドイツもオーストリアも憲法の主要な起草者はユダヤ系でした。かつては金融界や知識層に多かったユダヤ人が、政治にも進出してきているとなると、世界征服の陰謀がにわかに真実味を帯びて感じられるようになります。

それが真実かどうかは、ここでは問題になりません。陰謀論にはまった大衆が勝手に想像力を働かせてくれたおかげで物語世界がふくらみ、ナチスの世界観を強化していくことになりました。仮にその物語に疑問を持つ人がいても、何か変わったことを言えば、秘密国家警察であるゲシュタポに検挙されるかもしれないので、なかなか口にできません―――何をやったら反体制派と見なされることになるのかよく分からない状況を作り出して不安にさせることが、全体主義下の秘密警察の特徴です。誰も表立って口にしない。だから政権に対抗するもう一つの物語へと発展していかない。疑問に思っていた人も、自分の気のせいだったかもしれない、と自分に言い聞かせ、修正しようとする。そのため、ナチスの作り出した世界観に合った物語だけが流通し続けることになります。

求心力を維持するための「奥義」

世界観によって大衆の心をつかみ、組織化することが全体主義運動の最初のステップだとすると、その世界観が示すゴールに向けて、大衆が自発的に動くよう仕向けるのが次なるステップです。その手法を、ナチスは秘密結社に学んだとアーレントは指摘しています。

模範として秘密結社が全体主義運動に与えた最大の寄与は、奥義に通ずる者とそうでない者との間にヒエラルキー的な段階づけをすることから必然的に生ずる、組織上の手段としての嘘の導入である。虚構の世界を築くには嘘に頼るしかないことは明らかだが、その世界を確実に維持するには、嘘はすぐばれるという周知の格言が本当にならないようにし得るほどに緻密な、矛盾のない嘘の網が必要である。全体主義組織では、嘘は構造的に組織自体の中に、それも段階的に組み込まれることで一貫性を与えられており、その結果、ナイーヴなシンパ層から党員と精鋭組織を経て指導者側近に至る運動の全ヒエラルキーの序列は、各層ごとの軽信とシニカルな態度の混合の割合によって判別できるようになっている。全体主義運動の各成員は、指導層の猫の目のように変わる嘘の説明に対しても、運動の中核にある不動のイデオロギー的フィクションに対しても、運動内で各自が属する階層と身分に応じた一定の混合の割合に従って反応するように定められているのである。このヒエラルキーもまた、秘密結社における奥義通暁の程度によるヒエラルキーときわめて正確に対応している。

単なる下っ端の「よく分かっていない人間」のままなのは嫌だ、という大衆の心理を巧みに利用して、秘密結社的なヒエラルキーを導入したということです。アーレントは「奥義」と表現していますが、「真実」あるいは「トップシークレット」と言い換えてみるとイメージが湧くのではないでしょうか。

人間は、何が真実なのか分からない、自分だけが真実を知らされていない状態というのは落ち着かないものです。秘密結社に入っても、トップシークレットを知り得るのはヒエラルキーの階段を昇り詰めた、ごく一部の人たちだけ。自分も知りたい、教えてもらえるようなポジションに就きたいと思わせるヒエラルキーを、ナチスは構築したわけです。

信用されればされるほど、上に行けば行くほど、より多くを知ることができる組織と言えば、ある程度の年齢の方であれば、オウム真理教のケースを想起されるのではないでしょうか。これはメンバーの忠誠心と組織の求心力を高める、最も効果的な方法です。もともと上昇志向が強い人はもちろんですが、出世に無関心であったような人でも、一度「他の人が知らないことを自分は知っている」ということの妙を味わうと、知らないまま(知らされない状態のままではいられなくなります。

こうした心理状態は、いじめという現象のなかにも見出すことができます。いじめの第一歩は、仲間外れを作り出すことです。任意の人物を、集団の意思決定のネットワークから排除する。すると、それまで無関心だった人も、身近に意思決定のネットワーク――いじめっ子のグループがあると分かる。分かると妙に気になって、自分もそのネットワークに加わり、なるべく中核に近いところへ行こうとします。それが自分を安心させ、満足させる最も手近な方法だからです。ヒトラーには、このような人間の心理がよく分かっていたのだと思います。

流動し増殖する組織-「運動」としての全体主義

アーレントは、全体主義は「国家」でなく「運動」だと言っています。奥義通暁の程度に応じて細分化されたヒエラルキーも、大衆の心を組織の中枢へと引き寄せ、絶えず動かしていくための仕組みといえるでしょう。

通常の国家は、指導者を頂点として、命令系統が明確なピラミッド状(もしくはツリー状)の組織を形成します。法による統制を徹底するには、それが不可欠だからです。これに対し、組織が実体として固まっていかないのが「運動」。イメージとしては台風や渦潮に近いと思います。

台風の目(中枢)は確認できても、全体の形状は不安定で、輪郭も定かではありません。全体主義においては、命令を発する台風の目も常に運動し、それに合わせて周辺の雲(組織)もどんどん形を変えていきます。

「運動」は全体主義の特徴であると同時に、急所でもありました。気圧の運動が鈍化すると台風の勢力が弱まるように、運動の担い手である大衆が安定してしまうと求心力が落ちてしまう。それを防ぐためにナチスが講じた諸策のなかで、アーレントが特に注目したのが「組織の二重構造化」でした。

第三帝国の初期には、ナチスは何等かの意味で重要な官庁はすべて二重化し、同じ職務が一つは官吏によって、もう一つは党員によって執行されるようにすべく配慮していた。

例えば外務組織も、旧来の外務省とその職員を温存しつつ、党の機関として新たに二つの外務組織を設け、片方には東欧やバルカンのファシスト運動との関係を、もう片方には西欧諸国との外交関係を担当させています。

警察組織に関しても、悪名高きゲシュタポ(秘密国家警察)がすべてを牛耳っていたわけではありません。単一機関に任せると、肥大化してヒトラーを脅かす存在になりかねないからです。同等の組織を横に並べる二重化のほか、エリート組織の上に新たなエリート組織を重ねることも行っています。

一例として、ナチスの軍事的な任務がどのように担われていたかを見てみましょう。通常の国家であれば、それは国防軍が独占的に遂行するものですが、ヒトラーはゲシュタポやSS(親衛隊)、SA(突撃隊)のような複数の機関に分散しています。

SAはナチスの武装行動隊で、一九二一年に設立されました。SSはヒトラー個人を守る護衛隊で、二五年に設立されたときはSAの下部組織だったのです。しかし、三三年の政権獲得後、SAがヒトラーの統制を外れる行動をとり始めると、ヒトラーはこれを許しませんでした。SSに指示してSA幹部の虐殺を実行し、組織を無力化したのです(レーム事件)。その後、SSは正規軍に準ずる武装部隊を擁する組織に発展し、武装SSと呼ばれるようになりました。SSの指導者だったヒムラーは、三三年から三六年にかけて各州の警察長官のポストも掌握して、SSの統轄下にゲシュタポ(秘密国家警察)を設立。SS・ゲシュタポの両組織が反ユダヤ政策の実行にあたることになります。SSにはこの他、国防軍が闘っている最前線の後ろでユダヤ人を虐殺して回る特別行動部隊という準軍事的な部隊もありました。

このように、ナチス・ドイツの組織構造は、二重化どころか、次第に「増殖」の様相を呈し始めます。あまりに複雑で、外からはもちろん、組織のなかにいてもその全貌や指揮系統が見えづらい――それこそがヒトラーの狙いでした。ヒトラーが優先したのは、統治の安定化ではなく、不安定な状態のまま、組織の求心力を維持し高めていくことでした。何重にも組織を作って忠誠心を競わせたのはそのためです。

強制収容所がユダヤ人から奪ったもの

ナチス政権は十二年しか続きませんでしたが、少なくともその間はヒトラーの絶対的支配が揺らぐことはありませんでした。すべての計画、殲滅すべき敵は、特段の理由もなく彼の一存で決められ、「なぜ」ということを彼に問う者も、それどころかそこに疑問を持つ者すらいなくなったとアーレントは指摘しています。

誰が逮捕され粛清さるべき人間であるか、彼が何を考え何を計画するかははじめから決まっているのであり、彼が実際に何を考え何を計画したかは誰の興味もひかない。彼の犯罪が何であるかは、客観的に、いかなる〈主観的因子〉も参考にすることなく決定される。世界のユダヤ人と闘うのであれば、敵はシオンの賢者の陰謀の一味である。親アラブ的な対外政策を展開しようとしているのであれば、敵はシオニストである。

誰が、どんな罪を犯したかは、もはや問題ではありません。ユダヤ人による世界征服の陰謀などというものが嘘だったとしても、それが露見する怖れはありませんでした。それ

は、全体主義が不安定な「運動」だったからです。

安定した現実のなかでは、そしてすべての人に監視されている世界のなかでは嘘はすぐばれてしまう。嘘がばれないですむのは、全体的支配の状況がすでに日常世界を広く蔽ってしまい、プロパガンダが不必要になったときだけである。

不安定な運動のなかにあっては視界が悪く、嘘も見えなかったのです。いったん支配が確立し、全体主義という「台風」が人々の日常を完全に呑み込んでしまうと、「計画」を遂行するために誰かを説得したり、理由を説明したりする必要もなくなります。ナチスが「ユダヤ人のいない世界」を実現することは、さほど困難なことではなくなりました。その世界観を完成させたのが強制収容所であり、絶滅収容所です。

ナチスが最終的に「絶滅」を目指すようになった要因に、第二巻でアーレントが論じていた優生学的人種思想の影響があったと考えられます。文化的アイデンティティをベースとする「国民」概念で選別していれば、例えばユダヤ教を捨てた人は迫害の対象外にできたかもしれません。そうでなければ国外に亡命してもらう、という方法もあったでしょう。しかし、運動の初期段階で「人種」や「民族」という概念を世界観に持ち込み、それを統治の原理に組み込んだナチスは、ドイツ人たちにとって分かりやすい形で、「血」を浄化するつまり、守るべき血統と絶やすべき血統を厳密に弁別し、後者を排除する必要があったのです。「浄化」を最も分かりやすい形で実現するのが、絶滅です。絶滅させてしまえば、これ以上、血が汚されることはありません。突拍子もない話ですが、巨大な警察+軍事国家による全体的支配体制を確立すれば、不可能ではありません。そうやって、辻褄を合わせようとしたわけです。

ちなみに「血」のたとえは、ヒトラーが発案し、多くのナチス宣伝家が取り入れました。具体的には、異人種間の婚姻を「血の屈辱」と呼ぶことなどによって、ドイツ人の心理に原初的な感情を喚起したのです。一九三五年に制定されたニュルンベルク法は、ユダヤ人とドイツ人との婚姻・性交を禁止するなど、まさに「血の浄化」を法制化したものです。ナチスは、当初は単なるレトリックにしか見えなかったものを現実化していったのです。

強制収容所および絶滅収容所の罪過について、アーレントは次のように指摘します。

強制収容所および絶滅収容所の本当の恐ろしさは、被収容者がたとえ偶然生き残ったとしても、死んだ人間以上に生者の世界から切り離されている――なぜならテロルによって忘却が強いられているからということにある。ここでは殺害はまったく無差別におこなわれる。まるで蚊をたたきつぶすようなものだ。誰かが死ぬのは、組織的な拷問もしくは飢えに堪えられなかったからかもしれないし、あるいは収容所が一杯になりすぎていて、物質としての人間の量の超過分を処分しなければならなかったからかもしれない。また逆に、新たに供給される物質としての人間の量が不足する場合には収容所の定員充足率が下がり、労働力不足になる危険が生じるので、今度はあらゆる手段をもって死亡率を減らせという命令が出されることもある。

「生者の世界」とは、一般のドイツ人の社会を指します。彼らの多くは、強制収容所や絶滅収容所の内情を知りませんでした。情報統制が敷かれていたということもありますが、ナチスがユダヤ人を段階的にドイツ社会から切り離していたので、すでに「自分たちとは関わりのない存在」になっていたというのです。

ユダヤ人の段階的切り離し

ユダヤ人の段階的切り離しについて、少し歴史的な過程を補足しておきましょう。ヒトラーが首相に就任した三ヵ月後、一九三三年四月に制定された職業官吏再建法で非アーリア人は官庁から排除されます。次いで、大学教師、弁護士、公証人、保険医など、公的職業にユダヤ人が就くことが禁止され、民間企業にも圧力がかかります。自営業の人はアーリア系企業への売却が迫られ、自由業の場合でも、ユダヤ人の作家の著作が焚書に遭うなど、ユダヤ人の職業生活が次第に困難になり、多くの人がドイツを離れます。序章でもふれたようにアーレントたちも比較的初期に亡命しています。そして一九三五年九月に先ほどのニュルンベルク法が制定され、ユダヤ人はドイツ人と性的関わりを持てないだけでなく、選挙権や公務就任権が奪われます。

九三八年十一月、ユダヤ人少年による在パリ・ドイツ大使館員狙撃事件を口実に、ナチスに扇動された民衆による本格的なユダヤ人迫害が始まります。ユダヤ人商店やシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)、企業、住宅が破壊されました。その際砕けたガラス片を水晶にたとえて、この事件は「水晶の夜」と呼ばれました。こうしたなかで、SSとゲシュタポはユダヤ人の国外追放や強制収容所送りを進めました。約三万人のユダヤ人男性が強制収容所に入れられました。更にユダヤ人に特別税が課され、損害保険金も没収され、ユダヤ系の企業の資産はアーリア系の企業に無償譲渡されました。こうやって、ユダヤ人を迫害して追い出すこと、ユダヤ人がいない環境で暮らすことが次第に当たり前になりました。またそれが、ユダヤ人がいなくなった後の官僚ポストに就いたり、国外に出て行ったユダヤ人の財産を受け継いだ人たちにとっての利益になりました。

翌三九年、ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まり、ドイツが東欧の各地を占領支配するようになると、ヒトラーは東欧をドイツ民族の新たな入植地(東方生存圏)にするという、『我が闘争』(一九二五、二六年)以来の構想を実現しようとしました。しかし、それを実現するには占領地に暮らしている人々、特にユダヤ人をどうにかしないといけません。東欧には数百万人単位のユダヤ人がいました。フランス降伏後の仏領マダガスカル島へのユダヤ人移送計画(四〇年)、独ソ戦勝利後のロシア東部への移送計画(四一年)も立てられますが、いずれも計画倒れに終わってしまいます。その間、東方ではナチスの支配地域が広がっていきました。敵対勢力であるユダヤ人を監視下に置きながら占領を続けるのは負担ですし、彼らをどうにかしないと、ドイツ民族を中心とした東欧地域の再編(東部総合計画)が進みません。実際、ドイツ本国の人や民族ドイツ人の移住計画が既に動き始めていました。そこで文字通り、絶滅させるという選択肢が浮上してきます。

四一年六月に独ソ戦が始まると、特別行動部隊が前線の背後で、現地に居住するユダヤ人を虐殺し始めます。半年間に五十万人以上が殺されたとされています。この虐殺の進行によって、問題の解決のために彼らを丸ごと殺害するというやり方が、既成事実になっていきました。当初は、ソ連を速やかに征服して、ロシア東部にユダヤ人を移送するつもりだったのに、戦線が膠着化して、うまくいかなくなったこともあって、この路線が有力になりました。ユダヤ人問題の解決策は、「強制移送」から収容所での「絶滅=ホロコースト」に転換したわけです。

絶滅計画はなぜ可能だったか

ナチスの歴史を研究する歴史家の間で、直接的に虐殺の任務を与えられていなかった人たち、例えば治安維持を担当する予備警察部隊の隊員にも、ユダヤ人をなぶりものにして楽しみながら殺そうとする残酷な態度が見られるのをどう解するかが話題になったことがあります。「普通のドイツ人」にも、単なるユダヤ人嫌悪にとどまらない、絶滅を志向するようなメンタリティがあったのではないか、ということです。なかなかはっきりした答えの出ない問題ですが、十九世紀以降次第にヨーロッパ諸国、特にドイツ語圏に浸透していた反ユダヤ主義が、ナチス政権の八年間の間にドイツ的日常の一部になっていたことと、総力戦の戦場における緊張・高揚感が相乗作用を引き起こしたということは言えるでしょう。

「絶滅計画」が実行された主要な舞台が、ドイツ本国ではなく、東欧の占領地域だったことも、実行者たちにとって殺害のハードルが低くなった要因かもしれません。「追放計画」は政策として公表されていましたが、「絶滅計画」は一般国民向けには公表されず、ヒトラーと側近だけで方針を決め、特別行動部隊やSSの絶滅収容所の管理部門で実行されました。ただ一般国民も、戦争中とはいえ、隣人がいきなり連行されたら、心配したり、不安になったり、少なくとも行き先くらいは気になると思いますが、今までお話ししたようにユダヤ人が徹底して隔離され、そこにいてはならない存在だという教えが浸透したためか、あまり気にする人はいなかったようです。“自分と同じ一般市民〟である隣人がいなくなれば、我が身にも同じことが起こるかもしれないと不安になるかもしれませんが、ユダヤ人は自分たちとは縁もゆかりもない異質な存在になっていました。つまり、いなくなっても、あまり気にならない存在になっていた、ということです。

西欧世界はこれまで、その最も暗黒の時代においてさえ、われわれはすべて人間である(そして人間以外の何ものでもない)ということの当然の認知として、追憶される権利を殺された敵にも認めて来た。アキレスはみずからヘクトールの埋葬におもむいたし、専制政府も死んだ敵を敬ったし、ローマ人はキリスト教徒が殉教者伝を書くことを許したし、教会は異端者を人間の記憶のなかにとどめた。だからこそすべて跡形なく消え去ることはなかったし、あり得なかったのだ。人は常に自分の信条のために死ぬことができた。強制収容所は死そのものをすら無名なものにする―――ソ連では或る人がすでに死んでいるかまだ生きているかをつきとめることすらほとんど不可能なのだ――ことで、死というものがいかなる場合にも持つことができた意味を奪った。それは謂わば、各人の手から彼自身の死を挽ぎ取ることで、彼がもはや何も所有せず何ぴとにも属さないということを証明したのだ。彼の死は彼という人間がいまだかつて存在しなかったことの確認にすぎなかった。

アーレントがここでこだわっているのは、ナチスがユダヤ人の「死」をどう扱ったかということです。ただ命を奪ったのではなく、そもそも、その人が存在していたという事実まで抹消した名前も信条も、人格や個性も「なかった」ことにした――というのです。

アーレントが参照しているように、古代ギリシアの叙事詩に登場するアキレスは、仇の遺体を家族の元に返しています。有史以来、人間は自分が殺した敵のことも、殺さなければならなかった理由や経緯と共に記憶に留め、ときには敵を敬いもしました。しかし強制収容所での死は、殺した側が「人を殺した」という実感すら持たないようなものでした。ナチスは「ユダヤ人がいない世界」を作ろうとしたのではなく、「そもそもユダヤ人などいなかった世界」に仕立てようとしたわけです。

それが可能だったのは、ナチスがドイツ人からも道徳的人格を奪っていたからだとアーレントは示唆しています。道徳的人格は、私たちがお互いを単なる生物学的な意味でのヒトではなく、自由な意思を持った、自分と同等の存在として尊重し合う根拠になるものです。道徳的人格がないヒトは、ただの有機体、動く物質です。道徳的人格が否定された存在を殺すのは、物質を壊すこと、せいぜい、他の生き物を殺傷処分することと同じです。隣人が連行されたドイツ人の無関心も、良心の呵責に苛まれることなくユダヤ人を死に至らしめた人々のメンタリティも、全体主義支配が進展していく中で、ユダヤ人の法的人格が段階的に剥奪され、それに伴って、その根底にある道徳的人格も否定されたことの帰結です。

道徳的人格と「複数性」

アーレントは、そうした道徳的人格は生得的なものではないと考えます。生物としてのヒトが育っていくうちに、自然とお互いの人格を認め合い、かけがえのないものと見做すようになるわけではありません。アーレントにとって、人間は私的(プライベートな)領域だけでなく、「政治的領域」でも生活する存在です。私的領域は、生物として生きていくうえでのニーズを満たすだけの領域です―――アーレントは、私的領域を親しい人同士の親密な関係が築かれる領域というより、人の生活に関わる様々なことが秘密裏に(inprivate)処理される領域としてネガティヴに捉えています。それに対して、政治が営まれる公的領域では、人々はお互いに言語や演技によってお互いに働きかけ、説得しようと努力する中で、他者が人格をもった存在であること、更に言えば、自分とは異なった意思を持つ存在であることを学んでいきます。

そのようにして自律した道徳的人格として認め合い、自分たちの属する政治的共同体のために一緒に何かをしようとしている状態を、アーレントは「複数性plurality」と呼びます。アーレントにとって「政治」の本質は、物質的な利害関係の調整、妥協形成ではなく、自律した人格同士が言葉を介して向かい合い、一緒に多元的(plural)なパースペクティヴを獲得することなのです。異なった意見を持つ他者と対話することがなく、常に同じ角度から世界を見ることを強いられた人たちは、次第に人間らしさを失っていきます。

全体主義的支配は、一方では政治的・公的領域の消滅の後にも残っている人間間の一切の関係を破壊し、他方ではこのように孤立化され、お互いを見捨てたあげく、放置された状態にある人々が再び、政治行動―もちろんそれは真の政治的行為ではないのだが――に動員されるような状況を否応なしに作り出す。

ナチスの全体主義的支配で、言葉によって人々が結び付く「公的領域」が崩壊した状態で生き続けた人たちは、プロパガンダの分かりやすい言葉に反応しやすくなります。そうやって他者との繋がりを回復しようとするわけですが、それは対話を通して他者を理解するようになる言葉ではなく、動物の群れを同じ方向に引っ張っていく合図の呼び声のようなものです。人々は、そういう単純なシグナルに従って、同じ方向に進んでいくことが政治で、それによって人間らしい繋がりを回復できると勘違いしてしまうのです。「公的領域/私的領域」の関係や、「複数性」をめぐるアーレントの議論は結構複雑なのですが、終章で少しまとめた形でお話ししたいと思います。

道徳的人格が解体されていく(つまり、自分の頭で考えたり、判断したりしなくなる)過程や、人格としての自律を失った人間のメンタリティについて、アーレントがより本格的に取り組むきっかけとなったのがアイヒマン裁判です。

元ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンの裁判は、ユダヤ人が建国したイスラエルで開かれました。これを傍聴したアーレントが何を感じ、どのような結論に至ったのか。第4章では、裁判の一部始終から死刑執行までを追ったアーレントの著作『エルサレムのアイヒマン』を紐解いていきたいと思います。

現代にも起こり得る全体主義

アーレントは『全体主義の起原』のエピローグで、先ほど見たように、全体主義支配が人間の「自己」を徹底的に破壊することを指摘しています。彼女自身はナチスのような全体主義が再興する危険性を、具体的な形で言及してはいません。しかし、条件が揃えば現代でも全体主義支配が起こる可能性はゼロではないと思います。

ナチスが台頭した頃と同様、現代は個人がバラバラになっています。人間同士のリアルなつながりが薄れる一方、人々が逃げ込むインターネット上ではプロパガンダが跋扈しています。

人間は、明快な世界観や陰謀論的なものに弱いものです。大人向けのアニメの多くに陰謀論的な筋書きが施され、またそうしたものが支持されているということに、それは表れているでしょう。

強い不安や緊張状態にさらされるようになったとき、人は救済の物語を渇望するようになります。それまでの安定と、現在の不安とのギャップが大きければ大きいほど、分かりやすい物語的世界観の誘惑は強くなります。経済的格差が拡大し、雇用や福祉制度などの社会政策が崩壊しかけていると言われる今の日本は、物語的世界観が浸透しやすい状況と言えるかもしれません。

ナチスも、結党当初はそれほど強い支持を得ていたわけではありません。しかし第一次世界大戦で敗北して以降、急速に経済が逼迫するなか、当時の政権(ヴァイマル共和政の社会民主党政権)は、大衆が国の再興を実感できる(期待できる)処方箋を提示できずにいました。議会での民主的審議を重視するあまり、物事を決定できなくなっていたのです。戦勝国に対しても、強い交渉力を発揮できていないように(大衆には)見えた。我慢できなくなった大衆が求めたのは、強力なリーダーシップを発揮できる剛腕でした。様々な問題を一発解消してくれる秘策が、どこかに必ずあるはず-そう期待したのです。それまで政治に対してまったく無関心・無責任だった人たちが、危機感のなかで急に“政治〟に過大な期待を寄せるようになると、そういう発想に陥りがちだという点にも留意する必要があるでしょう。

現代でも、特に安全保障や経済に関連して、多くの人が飛びつくのは単純明快な政策です。完全に武力放棄するか、徹底武装するか。思い切った量的緩和こそ最善の策と主張する人がいる一方で、古典的自由主義に則って市場介入を一切やめるのが正解という人もいますが、世界はそれほど単純ではありません。

単純な解決策に心を奪われたときは、「ちょっと待てよ」と、現状を俯瞰する視点を持つことが大切でしょう。人間、何かを知り始めて、下手に「分かったつもり」になると、陰謀論じみた世界観にとらわれ、その深みにはまりやすくなります。全体主義は、単に妄信的な人の集まりではなく、実は、「自分は分かっている」と信じている(思い込んでいる)人の集まりなのです。

分かりやすい説明や、唯一無二の正解を求めるのではなく、一人ひとりが試行錯誤をつづけること。アーレントの「全体主義の起原」は、その重要性を言外に示唆しているように思います。

第一次世界大戦後の賠償金問題

一九一九年、連合国側とドイツはヴェルサイユ条約に調印し、ドイツはすべての植民地と領土の一部を失い、さらに巨額の賠償金の支払い(一九二一年、千三百二十億金マルクに決定)を課せられた。

世界恐慌

一九二九年、ニューヨーク株式市場での株価の大暴落から世界中に拡大した経済恐慌。ドイツはヴェルサイユ条約と世界恐慌により、深刻な経済状況に陥った。

ボルシェヴィズム

ソ連共産党の前身であるボルシェヴィキの政治思想。ボルシェヴィキは「多数派」の意味で、一九〇三年にロシア社会民主労働党が分裂した際にレーニンが率いた勢力。彼らはブルジョア階級との妥協を排し、前衛政党が労働者・農民を指導する武装革命を提唱し、一七年の十月革命で政権に就くと党による独裁体制を築いた。分裂したもう一方の勢力は「メンシェヴィキ(少数派)」と呼ばれた。

プロクルステスのベッド

ギリシア神話に出てくるアッティカの追い剥ぎプロクルステスが、通行人を捕らえてベッドに無理やり寝かせ、身長がベッドより長ければその長さだけ足を切り落とし、短ければ槌で打ち伸ばしたというエピソードから、容赦ない強制や杓子定規の意味で使われる。

『永遠のユダヤ人』

一九四〇年に公開された、ナチスの宣伝相ゲッベルスの指示で製作された反ユダヤ主義のプロパガンダ映画。原題の〈DerewigeJude>は、十字架のイエスを侮辱したため、永遠に放浪する呪いを受けた「彷徨えるユダヤ人」という民間伝承の登場人物を指す。アーリア人の優秀さとユダヤ人の劣等性の対比を強調しながら、ユダヤ人の世界支配の陰謀を描き出す。

ゲッベルス

一八九七~一九四五。ナチス政権の宣伝相として、言論・文化統制を行って反ユダヤ主義を喧伝し、国民を戦争に動員した。ヒトラーは彼を後継首相に指名して自殺したが、ゲッベルスもその翌日に自殺。

レーム事件

ナチス政権樹立後、SAの正規軍への格上げを主張し、ヒトラーや国防軍の首脳部と対立を深めていたSA幕僚長のレームや、社会主義的な路線を追求するナチス左派の領袖グレゴール・シュトラッサー、ヒトラーを公然と批判していたシュライヒャー元首相等がSSやゲシュタポ、国防軍によって粛清された事件。一九三四年六〜七月。これによってヒトラーの権力は絶対的なものになる。

ヒムラー

一九〇〇~四五。ナチスの党官僚。一九三六年にSS全国指導者兼全ドイツ警察長官に就任し、国内の警察機構を掌握する。政権末期には内務大臣も兼務する。

ニュルンベルク法

ナチス政権下のドイツで、一九三五年九月に制定された「ドイツ人の血と名誉るための法律」「帝国市民法」の二つの法律の総称。ナチスの全国党大会が開かれていたニュルンベルクにおいて召集された国会で議決されたことから、この名称で呼ばれている。前者でドイツ人とユダヤ人の婚姻や性交渉が禁止され、後者で非アーリア人に対して、選挙権や公職就任権などの帝国市民権が否定された。これらの法律の施行令でユダヤ人の定義が明確にされた。

マダガスカル計画

ドイツの勢力圏内に住む三百万~四百万人と言われるユダヤ人を集めてアフリカ東岸の仏領マダガスカル島に移住させることで、ユダヤ人問題を解決する計画。一九三八年頃からゲーリングやリッベップなどのナチス幹部の間で強制移住味が検討され始め、三九年一月に保安警察長官のハイドリヒを本部長とし、アイヒマンを実質的責任者とする「ユダヤ人移住中央本部」が創設される。一九四〇年六月にフランスがドイツに降伏したことで、現実味が増すが、大西洋の制海権を握る英国との講和が前提だった。四〇年八~九月のイギリス本土大空襲(バトル・オブ・ブリテン)が失敗したため、この計画も挫折した。

民族ドイツ人

ドイツの国外に居住しているが、血統的・人種的にドイツ人と認められる人。ナチスは東欧の占領地域で、民族ドイツ人とユダヤ人やスラブ人を区別し、前者を優遇した。また、ポーランドの占領地域の内、ドイツ帝国に編入した西部地域に、ポーランド東部、ソ連、バルト三国、ルーマニア等に居住する民族ドイツ人を移住させ、ゲルマン化を図った。*122独ソ戦ナチスは当初は徹底した反共の立場を取り、ソ連と敵対していたが、チェコスロヴァキアの併合をめぐって西欧諸国との緊張関係が高まると、同じ様に西欧諸国と緊張関係にあったソ連と相互に接近するようになる。一九三九年八月に独ソ不可侵条約を結び、九月にそれぞれポーランドに侵攻し、分割占領する。しかし、東方こそがドイツの生存圏だと信じていたヒトラーは、対ソ戦争の準備を命じ、四一年六月に三百万の兵力を投入してソ連を奇襲攻撃する(バルバロッサ作戦)。

アキレス

ギリシア神話の英雄、ホメロスの叙事詩『イーリアス』の主人公。女神と人間の王の間に生まれた半神で、踵(アキレス腱)以外はいかなる攻撃によっても傷つかない。トロイ戦争で、自分の親友を殺したトロイの王子ヘクトールと戦い、復讐を遂げる。ヘクトールの遺体を戦車につないで引き摺り回すが、ヘクトールの父である、トロイの王プリアモスの懇願に心を動かされ、遺体を引き渡す。

 209『世界の歴史⑮』

成熟のイスラーム社会

オスマン帝国の成立

王子メフメトの夢

一四五一年にメフメト二世が最終的に即位すると、オスマン朝の歴史は新しい局面をむかえた。かれは、その精力的な征服活動もあって、ヨーロッパ諸国からは「破壊者」「キリスト教最大の敵」「血に塗れた君主」などと恐れられているが、トルコ人にとっては偉大なる君主以外の何者でもないことはもちろんである。一四五三年五月二十九日にコンスタンティノープルは五三日間の激しい抵抗の末に陥落した。この町の征服はかれの子どものころからの夢の実現であった。それは、継母であるセルビアの旧封建領主の娘マラからコンスタンティノープルの絵を見せてもらったりして、早くからこの町になみなみならぬ関心をもっていたからである。一方、イスラーム勢力としては、六四二年のニハーワンドの戦いでサーサーン朝ペルシアを滅亡させて以来の目的の達成であった。コンスタンティノープルの攻防の様子はわが国でもすでによく知られている!

ハンガリー人ウルバンに作らせた巨大な大砲や、金角湾の入り口が鉄の鎖で閉鎖されたためにボスフォラス海峡側から陸地を通って金角湾に船を降ろした「艦隊山越え」のエピソードなど話は尽きない。しかしなんといっても勝利を決定づけたのは、メフメトがハンガリー人の技術者ウルバンを、高い報酬を支払って雇うことができたのに対して、ビザンツ側は自分の技術を売り込んできたウルバンを資金不足で雇うことができなかった事実にみられる、オスマン朝とビザンツ帝国との経済力の差である。そしてこの差こそ、すでにアナトリアとバルカンの多くの地域をオスマン側が確保し、エーゲ海とマルマラ海一帯に一つの商業圏すら成立させていたという現実に根ざしていた。その中心がブルサとエディルネ(旧アドリアノープル)であった。当時まだエーゲ海沿岸各地に領土を持っていたヴェネツィアと、クリミア半島のカッファ港をコロニーとしていたジエノヴァとは、すでにビザンツ帝国を見限り、トルコ勢との通商に将来を託していた形跡がある。コンスタンティノープルの攻防におけるオスマン朝の軍勢は一〇万から一二万にのぼったのに対して、ビザンツ側は七〇〇〇人であったという。それもそのはずで、コンスタンティノープルは第四回十字軍の略奪によりすでに荒廃しきっており、かつて一〇〇万といわれた住民もいまや五万人前後に減少していた。

オスマン帝国の成立

コンスタンティノープル征服によるビザンツ(東ローマ帝国の消滅は、ヨーロッパ史上に中世の終わりを告げる大事件であった。この事件が当時のヨーロッパ諸国にあたえた「恐怖」は想像にかたくない。しかし、コンスタンティノープル征服は、オスマン朝にとってもその国家の本質的な転換につながるできごととなった。その第一は、これまで大きな都市をもったことのないオスマン朝が、はじめてメガロポリスともいえる大都市を手中にしたことにある。第二は、すでにスルタンというイスラーム国家の君主の称号をえていたとはいえ、実質的にはいまだトルコ系ガーズィ集団のリーダーにすぎなかったオスマン朝の君主が、いまや中央ユーラシア以来の遊牧君主ハーン(大可汗)、古代ペルシア以来の伝統のあるシャー(オスマン帝国ではパーディシャー)、そしてビザンツ皇帝の威容をもおびる専制君主となったことである。メフメト二世は征服直後に父ムラト二世の時代から絶大な影響力をもっていたトルコ人の有力者チャンダルル・ハリル・パシャを処刑し、代わってバルカンのキリスト教徒出身のザガノス・パシャを大宰相に据えることによって中央集権支配の足場を築いた。これ以後、草創期に活躍したガーズィやアナトリアのトルコ系の有力な家系の者たちはしだいに政治の中枢から排除され、ザガノスのような「デヴシルメ」(後述)出身の「奴隷」身分の軍人・官僚が重用されることになる。こうした一連の中央集権化政策は、オスマン国家の永続性を確保した点で、オスマン朝の歴史の上に決定的な転換点をなした。つまり、オスマン朝は、征服によって獲得された国土を一族の間で分割(分封)するという中央ユーラシア以来の遊牧国家の慣習を払拭できず短期間に分裂・消滅したセルジューク朝やティムール朝などの限界を乗り越えたのである。

こうして、イスタンブルを首都とし、広大な地域を中央集権的な支配のもとにおさめたこの国家を、以後われわれは「オスマン帝国」と呼ぶことにしよう。少しのち、十六世紀はじめのことになるが、シャルル八世の率いるフランス軍の侵入を経験して、小国家の分立状態にあったイタリアのマキアヴェリが祖国を救う手だてとして範としたのは、専制君主のもとに「力と統一」を実現した「トルコ」であった。ただし、こうした中央集権化への道も、ただメフメト二世の個性とコンスタンティノープル征服とによって突然生まれたものではない。アンカラの戦いで挫折したとはいえ、バヤズィト一世以来の歴史的な経験の所産であったことをつけ加えておこう。また、この国家の統治理念や官僚機構などについては、のちにふれることにしよう。

コスモポリタンな宮廷

メフメト二世は最初、グランド・バザールの近く、現在イスタンブル大学の本部のおかれている場所に宮殿を作ったが、やがて帝都にふさわしい新たな宮殿の建設が一四六五年に着手され、七八年に完成した。これがトプカプ宮殿である。以後ここは一八五三年までオスマン王家の居所であり、かつ政治の中心として機能した。ただし、ここにオスマン王家の女性や子供たちが移り住んで「ハレム」ができたのは、ずっとのちムラト三世(在位一五七四~九五年)時代のことである。「ハレム」の名は、ヨーロッパ人のオリエンタリズムによって歪んだイメージが持たれているが、要は、オスマン王家の「家庭」であり、またオスマン帝国の文化の先端をいく「上流文化のサロン」である。

トプカプ宮殿は、左の図にみるように、ヨーロッパ型の大宮殿とはまったく違う景観をもっている。第一の門、第二の門と順々に進んだのち、ようやく内廷へとたどりつく。そうした手順は中国の紫禁城をしのばせるという考え方もなりたつ。しかし、それよりも、歴代のスルタンたちが思い思い気に入った場所にキオスク(東屋)を建てることによってできあがったこの宮殿は、遊牧民の天幕の集合体といった趣きである。それは遊牧文化の伝統をしのばせる。

第二門をくぐった御前会議のある庭園には、珍しい花が咲き乱れ、鹿やダチョウなどの動物が放し飼いにされ、芝の上を流れる水音だけが静寂を乱す唯一のものだったという。これは自然をこよなく愛するトルコ人の感覚であり、むしろバ―グ(庭園)を好んだサファヴィー朝の宮殿と一脈通じるものがある。スルタンたちは、ここでいくさと政務に疲れた心と体をいやしたのである。

しかし、メフメトの宮廷での生活ぶりは、やはりコスモポリタンであった。メフメトはトルコ語のほかにアラビア語、ペルシア語をよく知っており、少しではあるが、イタリア語とギリシア語も知っていた可能性がある。かれの宮殿で文学用語として幅をきかせていたのはペルシア語であった。ニザーミーの『ハムサ(五部作)』やフェルドウシーの『シャー・ナーメ(王書)』が好まれたという。また、イル・ハーン国の宰相ラシード・アッディーンの『集史』も盛んに読まれた。ペルシア語と張り合ったのはティムール朝のアリ・シール・ナヴァーイーとジャーミーに代表されるチャガタイ文学であった。これらのことは、一方ではオスマン・トルコ語がまだ文学としては十分に成熟していなかったことを示すとともに、他方では、中央ユーラシアやイランとの文化的連続性が濃厚であったことを物語っている。こうした雰囲気を伝えるのが、メフメトがアリー・クシュチュ(一四七四年没)という人物を厚遇した事実である。クシュチュの父は、サマルカンドに天文台を作ったことで知られるウルグ・ベク(ティムールの孫)の鷹匠(クシュチュ)であった。

クシュチュはウルグ・ベクのもとで天文台建設の指揮をとったが、一四四九年にウルグ・ベクが暗殺されると、つぎの君主に仕えることを嫌ってメッカへの巡礼にでかけるとの口実でサマルカンドを離れ、タブリーズでトルコ系アクコユンル(白羊朝)の英主ウズン・ハサンを訪問した。ハサンもかれを歓迎して召し抱えた。その後、かれがメフメト二世のもとへ使節として派遣されたとき、メフメトはイスタンブルでかれをよい待遇で召し抱えることを提案した。クシュチュは一度タブリーズへ戻って使節の役目を果たした後、約束通りイスタンブルへ戻ったという。

メフメト二世は晩年に「御前会議」を直接主宰することをやめ、そのすぐ後ろの部屋から会議を見守る習慣を作った。そのきっかけとなったのは、ある日、アナトリアから来た遊牧民の族長が部屋に入ってきて「われらがスルタン陛下はどなたかな?」と聞いたからであるという。こうした話の真偽は定かではない。しかし、それはメフメト二世が臣下たちとあまり変わらぬ風体をしていたことを示している。以後、メフメト二世の宮廷ではこれまでのトルコ的・遊牧的で質素な雰囲気を改めて、ビザンツ的な重々しい雰囲気を醸し出すことに気をつかい、スルタンは、これまでのように大臣たちと一緒に食事する習慣を改めて別室で食事するようになったという。

メフメト二世の肖像画は本物か?

メフメト二世はイスラームの造形表現に対する忌避の観念を大胆に犯してイタリアのルネサンス画家ジェンティーレ・ベッリーニ(一四二九~一五〇七年)に肖像画を描かせたことで有名である。現在ロンドンにあるこの絵は後代の画家が修復したものらしい。一九三五年にこの絵の真偽を確かめるために行われたレントゲン撮影の結果、オリジナルな部分として残されたのはターバンだけであったという。あるトルコ人学者によれば、ジェンティーレ・ベッリーニが描いたメフメトのオリジナルの絵は王者の風格とはほど遠いやつれた姿であった。かれは二つの絵を比較して、メフメトは、実は癌であったと推測している。ベッリーニが肖像画を描いたのはメフメトの死のわずか八ヵ月前のことであった。メフメトがベッリーニだけではなく、イタリアのルネサンス画家を何人か招待したのは事実である。かれはイスラームの彫像に対する禁止戒律には無頓着であった。いまでもイスタンブルに残るヒポドローム(競馬場)の「三匹の蛇」の柱頭も、ウラマーたちの反対を押し切ってメフメトが破壊から救ったのだという。

不満なトルコ人たち

このように、メフメトは文人や学者の保護者であったが、かれがイタリア・ルネサンス画家のパトロンであったとするのは、もちろんいいすぎである。かれは基本的にはムスリム君主であった。かれがイタリア人教師からイタリア事情を学んでいたのは、ローマの征服を射程に入れていたからであろう。それにもかかわらず、メフメトがトルコ人よりもペルシア人、イタリア人、ユダヤ人を重用したことは、トルコ人にとっては不満の種であった。次の言葉はこうした不満を象徴している。

お前がスルタンの宮殿で名を高めようとするなら、お前はユダヤ人か、ペルシア人か、フランク(ヨーロッパ人)にならねばならぬ。

お前の名をハービル、カービル、ハミディと変えねばならぬ。

こうした言葉を聞くと、メフメト二世の時代はコスモポリタンな雰囲気にあふれてはいるが、その実はいまだイスラーム国家としてのオスマン帝国の体制とその文化とが確立するまでにいたらない過渡的な時代、オスマン朝史上にきわめて特異な時代であった。といえるであろう。

 奥さんへの買い物依頼
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リアルゴールド3本     117
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いか塩辛      258
生しょうが     238
白菜1/4      88
アルトバイエルン        298

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ジャム         238
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