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『ケニアのくらし』

『ケニアのくらし』

ケニアと東アフリカの歴史①

人類誕生の地の東アフリカ

●中部アフリカからやってきたケニア人

サバンナの大地をつくるアフリカ大地溝帯は、野生動物たちの宝庫であるとともに、人類誕生の地としても知られています。

大地溝帯にあるケニアのトゥルカナ湖畔では、人類の祖先とされる一四〇〇万年まえのラマミテクスという猿人化石がみつかっています。タンザニア北部のオルドバイ峡谷では、二〇〇万年以上もまえのホモ・ハビリスとよばれる人骨の化石や石器など、人類のはじまりとされる証拠がいくつもみつかっています。

紀元前六〇〇〇年ころ、ナイル川やサハラ砂漠ふきんにすんでいた人々が、ケニアのサバンナ地帯にうつりすんできます。そして紀元二世紀ころ、今のケニア人の多くをしめるバントゥー系とよばれる民族が、中部アフリカからやってきました。

●交易でさかえた東アフリカ沿岸

やがて八世紀ころから、東アフリカ沿岸のモンバサ、ラムなどに、アラブ人の商人がうつりすみ、都市をつくりはじめました。アラブ人たちは、各地の民族から、金や象牙、皮革などばかりでなく、奴隷も買いいれ、大きな富をえました。

ポルトガルのバスコ・ダ・ガマが、アフリカ大陸南端の喜望峰をまわって、インド洋沿岸にやってきたのは一四九八年のことです。ガマの報告をうけ、数年後にポルトガルの軍艦がおしよせ、アラブ人がつくったまちをせめました。抵抗するものはことごとく殺し、あらゆるものをうばいさりました。そしてこれをさかいに、アフリカ大陸は数世紀にわたってヨーロッパの国々からの侵略になやまされることになったのでした。

ポルトガル人による奴隷貿易がさかんになりました。南北アメリカ大陸には、一六世紀には九〇万人、一九世紀までに一四六五万人もの人々が奴隷としてはこびさられました。しかも、せまい船底におしこめられてはこばれたので、五人にひとりしか生きのこれなかったといわれます。アフリカ大陸から七〇〇〇万人以上のアフリカ人がうばいさられたと推定されています。

奴隷貿易に反対するイギリスのリビングストンは、キリスト教をひろめるとともにアフリカ探検を一八四一年にはじめます。探検家スピークは、一八六二年に、ビクトリア湖がナイル川の水源であることをつきとめます。しかし、これでアフリカがさまざまな資源の宝庫であることがわかると、ヨーロの国々は植民地をえようときそいあうようになりました。

一八六九年のスエズ運河開通は、さらにヨーロッパの国々による侵略をしやすくしました。

●ヨーロッパの国々がきめた領土

一八八五年のベルリン会議では、イギリスをはじめフランス、ドイツなどのヨ―ロッパの国々が、アフリカ大陸をどのように支配するかとりきめました。

ケニアの地は、イギリスが支配する東フリカ保護領になりました。今のケニアの中央高地の原住民の土地は、農園をつくるのにてきした土地であるということで、白人にうばいとられました。原住民だけでなくインド洋沿岸のアラブ人も、交易の仕事ができなくなるので、これにはげしく抵抗しました。

一八九五年、イギリスはモンバサからキスムにむけて鉄道建設工事をはじめました。この鉄道は、内陸の鉱物資源や農作物を、モンバサの港からイギリス本国におくりだすための鉄道でした。鉄道建設のために、イギリスの支配するインドから三万五〇〇〇人ものインド人が移住させられてきました。

●白人入植者のための法律

現在のケニアの首都ナイロビは、この鉄道建設工事のキャンプ地としてつくられたのがはじまりです。ナイロビはやがて、「ホワイト・ハイランド」とよばれる中央高地の入り口の重要なまちとしてさかえるようになります。そこに元からすんでいた人々は原住民指定地においやられ、焼畑農業でほそぼそとくらなければならなくなりました。

一九〇一年、モンバサーキスム間の鉄道が開通します。自分たちの土地をうばわれた原住民は、鉄道の開通をじゃまして抵抗しました。イギリスの保護領政府は、原住民のキクユ族やマサイ族のなかから、協力者をたくみにこしらえ、住民の抵抗をおさえました。

東アフリカ保護領政府は、イギリス本国からたくさんの移民をよびよせ、ワタのさいばいをさせました。これは、それまでの象牙、皮革、トウガラシなどにかわる重要な輸出品目となりました。

保護領政府はさらに、農園の労働者をしばりつけるための法律もつくりました。やとわれている期間がおわらないうちに職をすてたものは、法律でばっせられることになったのです。東アフリカのアフリカ人たちは、自分たちがたべる食料をつくりたかったので、長い期間を農園ではたらきたくありませんでした。それなのにアフリカ人は、むりやりにコーヒー農園にはたらきにでなければならなかったのです。

人類誕生の地であるアフリカ大地溝帯の底には、サバンナの原野とともに、湖がいくつもつらなる。ナクル湖には、断層でできたがけがせまっている。

ケニアと東アフリカの歴史③

苦難の道をあゆむ独立後の国々

●弾圧をはねのけて独立

さまざまな弾圧をうけても、「マウマウ団」は、白人から土地をうばいかえし、独立をかちとろうという運動をねばり強くつづけました。政府軍と戦い、多くの死者もだしました。

独立のための戦いは、ケニアだけでなく、アフリカ各地の植民地でくりひろげられていました。一九五八年に、「全アフリカ人民会議」がひらかれ、独立をかちとるために、アフリカ人が力をあわせようという決議が採択されました。

そして一九六〇年、ソマリアをはじめ一七か国が独立をかちとりました。このかがやかしい年は、「アフリカの年」とよばれました。

ケニア植民地政府も、民族運動をしずめようと、「ホワイト・ハイランド」にアブリカ人がすむことをみとめたり、ケニヤッタを釈放したりしました。しかし、ケニア独立への流れをとめることはできませんでした。九六三年一二ケニアはイギリス連邦自治国として独立をはたし、ケニヤッタが初代大統領にえらばれました。

●かえられなかった経済のしくみ

一九六七年、ケニアは国境をせっするウガンダ、タンザニアとともに、東アフリカ共同体を結成しました。鉄道、港湾、郵便、通信などを共通のしくみで運営し、先進国にまけない国づくりをしようというものでした。しかしそれぞれの独立後は、工業化がすすんでいるケニアに有利であるということで、三国の足なみがそろわなくなりました。それどころか、ウガンダでは反対者を虐殺するという恐怖のアミン政権ができ、三国の国境はとざされてしまいました。

ケニヤッタ大統領は、外国の資本をとりいれ、工業化もすすめました。一九六四年から一九七三年にかけてのケニアの国内総生産の平均成長率は、年六・六%にのぼるほどになりました。

農業にも力をいれ、「ハランベー(わけあいたすけあう)」という大統領のスロガンのもと、かつてのホワイト・ハイランドにアフリカ人がぞくぞくと入植しました。九七〇年までに、三万五〇〇世帯が入植しました。しかしこの人植計画は白人入植者といれかわりに大農場をもつほんのひとにぎりのゆたかなアフリカ人農民をつくることになってしまいました。

一九七八年に、ケニヤッタ大統領が死去すると、モイ副大統領が大統領にえらばれました。

●アフリカの大きな問題、難民と飢餓

いまケニアのまわりには、内戦のためにあれはてたエチオピアやソマリアなどの国々がとりまいています。

そして、これらの国々がケニアに深刻な影響をあたえています。

一九九二年、国境をせっするソマリアでは、内戦がはげしくなり、戦火をさけてケニアにたくさんの難民がにげてきました。一九九四年には、ソマリアだけでなくスーダンでも内戦がおこり、難民がおしよせてきました。ケニアへの難民は、あわせて四〇万人にもたっしたといわれます。これにおいうちをかけるように、ケニアでは三年つづきの干ばつで、五〇〇万もの人々が食料不足になやまされました。

このように、内戦や飢饉のため国境をこえてはいってくる難民をかかえた国は、アフリカ大陸のなかだけでも二〇か国以上もあるといわれます。そして、難民をうけいれた国で、国民の食料すら不自由している国もたくさんあります。

ケニアにはいった難民は、職をもとめて大都市ナイロビにもおしよせ、スラムがふくれあがりました。失業者がまちにあふれ、大都市ナイロビの治安はきょくたんに悪くなってしまいました。

モイ大統領は、国連難民高等弁務官務所に、難民が自国へかえれるようにしてほしいともうしいれました。しかし、国連が兵をだしてソマリアの内戦を解決しようとしたことが失敗におわり、ソマリアでの和平が遠のいてしまいました。と同時に、難民が自分の国へもどれる日てしまったのです。

ケニア略年表

◆2世紀ころ中央アフリカのバントゥー系がインド洋沿岸にうつりすんできた。
◆730年ころインド洋沿岸のモンバサ、ラムに、アラブ人の商人がおとずれる。
◆16世紀はじめポルトガル人が進出して、インド洋沿岸のアラブ人とあらそう。
◆16世紀ころ西アフリカでの奴隷貿易がさかんになる。
◆1750年ころ東アフリカでも奴隷貿易。
◆1807年イギリス、奴隷貿易禁止令。
◆1841年リビングストン、キリスト教の宣教と探検を開始。
◆1863年アメリカ、奴隷解放令を公布。うんが◆1869年スエズ運河開通。
◆1884~85年ベルリン会議で、イギリスをはじめフランス、ドイツなどの国々が、アフリカ大陸をわけあった。ケニアを中心とする東アフリカ保護領は、イギリスに。
◆1895年モンバサからナイロビーキスム間の鉄道建設工事はじまる。
◆1901年モンバサーキスム間の鉄道開通。
◆1903年東アフリカ保護領で、原住民の土地所有を制限する条令が制定。
◆1905年ナイロビが首都となる。
◆1914年第1次世界大戦がはじまる。
◆1918年アフリカ人がコーヒーをさいばいすることが禁止された。
◆1939年第2次世界大戦はじまる。
◆1952年キクユ族のマウマウ団による土地の返還と独立をもとめる民族運動。
◆1958年人種差別撤廃と独立をめざし「全アフリカ人民会議」がひらかれる。
◆1960年ソマリアなど17か国が独立。「アフリカの年」とよばれる。
◆1963年12月12日、ケニア独立。
◆1964年ケニヤッタ、大統領につく。
◆1978年ケニヤッタ大統領死去。モイ副大統領が大統領にえらばれる。
◆1992年ソマリアで内戦。戦火をさけて、なんみんケニアに難民がにげてきた。
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