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イスラムの勃興

 イスラムの勃興

六三六年、アラブ軍は、シリアとパレスティナに駐屯するローマ(ビザンティン)軍を打ち破り、この二地方からローマの勢力を永久に駆逐した。その少し後、別の遠征軍がメソポタミア(六四一年)とエジプト(六四二年)を平定した。そして六五一年までには、イランもまた、この数々の勝利によって形成されたイスラムの新帝国に併合された。預言者マホメット(六三二年没)に下った新しい天の啓示が、人々の熱情をよびおこし、この異常な連戦連勝の源となった。さらに驚くべきことは、マホメットが与えた宗教的確信のために、粗野なアラブの征服者とその後裔が、中東地方が文明のそもそもの発生期以来受けついできた、多種多様の、時には矛盾する諸要素を融合して、新しいそして明確にイスラム的なひとつの文明を作り上げることができたという事実である。

マホメットの生涯

マホメットの時代には、アラビアは数多くの好戦的な部族に分かれていた。そのある者は遊牧民で、ある者はオアシスの農耕地域や商業都市に定住していた。ユダヤ教とキリスト教はある程度アラビアにも浸透していたが、マホメットの生まれたメッカの町は土着の宗教が占めていた。若いころ、マホメットは隊商に加わって、パレスティナ周辺の町々へ旅をしていたらしい。四十歳位になると、彼はしばしば恍惚状態に陥り、虚空に声を聞いた。そして、すぐにこれが天使ジブリールの訪れであり、自分にアラーの神の意志への服従を命じる声であることを理解した。こうした体験に励まされて、マホメットは、アラーこそ一にして全智全能の神であること、審判の日が近づきつつあること、アラーの意志に完全に服従すべきことなどを説きはじめた。彼は「イスラム」の一語にその教えを要約したが、これはアラーへの「絶対帰依」を意味する言葉である。一日に五回の礼拝、喜捨、少なくとも生涯に一度メッカに巡礼すること、酒と豚肉を控えること、毎年一ヵ月を選んでその間日の出から日没まで断食することなどが、マホメットが信徒に課した戒律のおもなものであった。預言者が明かしたところによると、アラーへの服従の酬いには、死後天国に入ることを許される。それに反して偶像崇拝の徒やその他よこしまな行いの者は永遠の劫火に焼かれるだろう。「最後の日」における肉体の復活も、マホメットが大いに強調した点のひとつだった。

はじめのうち彼は、ユダヤ教徒やキリスト教徒も、彼の教えを神の意志の最後にして最も完全な啓示として認めることになろうと考えていた。なぜならアラーとは、マホメットの信じるところによれば、アブラハム、モーゼ、イエスその他あらゆるヘブライの預言者たちに語りかけたと同一の神格だからである。アラーが矛盾を示すことはあり得ないから、マホメットの啓示とむかしからの諸宗教の教理の間にある差異は、真正の神の教えを守り伝えてくる上での人間的な誤りとして簡単に説明された。

メッカの住民でマホメットの警告を聴き入れる者はわずかで、大部分は、マホメットが偶像崇拝だといって非難したむかしからの信仰を捨てなかった。六二二年、マホメットはメッカからメディナへ逃げた。このオアシス都市の相争う党派が、第三者に紛争の調停を依頼するため彼を招いたのである。この時以来、マホメットは政治指導者、立法者となった。メディナで、マホメットは、ユダヤ人とはじめてじかに衝突した。ユダヤ人たちは彼の権威を認めなかったからである。そこでマホメットは彼らを追い払い、その土地を奪って彼に付き従う信徒たちのものにした。その少し後で、やはりユダヤ人が住む別のオアシスを討ったが、こんどは住民に、そのままその土地を所有することを許し、その代わり彼らから人頭税を徴収することにした。ユダヤ人とのこれら初期の衝突は、守るべき先例として、後々まで支配者のモスレムと被支配者のユダヤ教徒(および後にはキリスト教徒)との関係を決定したから、重要な意味を持っている。

メディナでは、マホメットの教えを受け入れ、改宗して付き従う者は着々と数を増していった。その結果、信徒の共同体は、オアシス都市メディナの狭い境界内で、なんとか生計の途を講じる必要に迫られた。メッカの市民が所有する隊商を襲うのが手っとり早い解決策だった。最初の襲撃は成功だった。そこで直ちにくりかえし試みられ、いずれも勝利を収めたので、ついにメッカの抵抗も止むにいたった。マホメットは勝利者としてメッカに帰還し、引きつづき、アラビア全土をイスラムの旗のもとに統一する仕事に取りかかった。これは戦争によることもあったが、主として外交と談判によって進められた。

この事業が完成するかしないかのうちに、マホメットは死んだ(六三二年)。彼にはその後を継ぐ男の子がいなかったので、預言者の旧友で親しい同志の一人、アブー・バクルが、イスラム教徒の共同体を指導するカリフ(後継者の意)に選ばれた。彼はただちに、各地の族長があいついで彼に離反するという困難に直面した。彼らは、マホメットに服従を誓ったからといって、全体としての信徒の共同体に忠実でいなければならぬ義理はないと考えたのだ。だが戦いとなると、マホメットの信徒のかたく団結した中核部は、その熱情と信念によって再び敵を圧倒した。族長たちは今一度、結束して新しい信仰の旗の後に従うことになった。この危機が過ぎるとまもなくアブー・バクルは死に(六三四年)、指導者の任務はウマル(六三四―六四四年までカリフ)の手に移った。この男は敬虔で献身的な信徒であったばかりでなく、軍事指導者としても行政官としても卓抜な器量を備えていた。

アラブの征服事業とウマイヤ朝

全アラビアの統一は、アラビア人によるめざましい征服事業の端緒となった。小アジアを除く旧中東の全土、インダス下流の荒地(七一五年まで)、北アフリカ、さらにスペイン(七一一―七一五年)がイスラム教徒の支配下に入った。これらの勝利はなんら戦闘技術の変化によるものではなかった。アラブ軍は数において優れていたわけでもなく、特別に装備がよいというわけでもなかった。だが、神が自分たちと共に在すという信念、戦死は天国における至福の生を保証するという確信、さらにウマルの適切な指導、それだけでアラブ軍を無敵の勝者とするに充分だった。

しかし七一五年以後になると、易々たる勝利は見られなくなった。ビザンティウムの都は、きびしい長期の包囲戦に耐え抜いた(七一七七一八年)。この重大な挫折と時を同じくして中央アジアでも、一連の小会戦における敗北があった。ここでは、トルコ軍が、七一五年までにイスラム軍を東部イランから押し返した。さらにそのすぐ後で、フランク軍が、ガリア中央部のトゥールにおける会戦で、イスラム教徒の遠征軍を破った(七三二年)。

これらの敗戦は、最初の頃の宗教的情熱と信念の避けがたい衰えも手伝って、イスラム教徒の共同体の内部に種々の深刻な問題を生じさせた。最初の一、二世代の間は、アラブの戦士たちは、多かれ少なかれ被征服民から孤立していた。ウマルは特別の駐屯都市を設け、アラブ人はそれぞれ部族の長の指揮下にそこに住んだ。各戦士は、ローマやペルシャから引き継いだ官僚機構にもとづいて、一般民衆から徴収される税から給料を得ていた。このやり方は最初のうちはひじょうにうまくいった。そして、イスラム共同体の指導が、初期の二、三の指導者からはるかに能力の劣る者の手に移った後でも、まだかなりの効力を残していた。

最初の試練は、六四四年ウマルが暗殺された時に訪れた。ウマイヤ家の家長がカリフの位を継ぎ、以後世襲されて七五〇年までつづいた。ウマイヤ朝代々のカリフはシリアのダマスクスを首都とした。彼らの権力は、三つのまったく性格を異にする役割の間に微妙なバランスをとることで保たれた。カリフはなによりもまず、対立するアラブの部族や族長たちの衝突を和らげなければならなかった。次に、カリフはローマやペルシャの前任者から引き継いだ官僚機構を維持し、それを手段として民衆全体から税を取り立てる必要があった。最後にカリフは、イスラム共同体の宗教上の長としての任務をはたさなければならなかった。

この三つのうち、最後にあげた役割を、ウマイヤ朝代々のカリフは適切にはたすことができなかった。真面目で敬虔な信仰の人、アラーの意志を知りそれを忠実に実行しようと願っている人々は、ウマイヤ朝の政治が行う、人目を惹くはでな事業にはなんの満足も見出さなかった。軍事的な成功がつづいている間は、このような不満も政治的に力を持つことはなかった。だが、イスラム教徒がはじめて深刻な敗北を蒙った七一五年以後になると、真にカリフの名に価する、神に選ばれたカリフを要求する宗教上の不服従は深刻な問題になった。

全民衆に対する為政者としても、ウマイヤ朝は次第に多くの困難に直面するようになった。キリスト教徒やゾロアスター教徒、あるいはその他の宗教を信じていた者も、イスラム教の神学上の簡潔さ、法における明確さ、実際の成功などに心を動かされて改宗する者が相次いだ。原理的には、これら改宗者は信徒の共同体に喜んで迎え入れられた。だが、改宗が税の免除を意味した時(最初のうちはそうだった)、宗教上の成功は経済上の危機を意味した。さらに、イスラム共同体は以前と同様、部族によって構成されていたが、部族は大勢のよそ者を同胞として迎え入れることなどできず、第一望みもしなかった。アラブ人は、新改宗者に対してとかく軽蔑の目を向け、マホメットの教えの明確な規定にもかかわらず、彼らをイスラム教の共同体の完全に平等な一員としては扱いたがらない傾きがあった。

こうした緊張は七四四年に頂点に達した。この年、後継者争いが内戦に発展したのである。内戦はウマイヤ朝の滅亡をもって終わった(スペインを除く。スペインではウマイヤ朝の後継者が権力を握った)。勝利者アッバース朝が首府をメソポタミアのバグダードに定めたとき、アラブ駐屯軍の特権的地位も崩壊した。彼らの軍事的支柱となったのはおもにペルシャ人の改宗者だった。だからアッバース朝の政策が、かつてのササン朝の先例から多くの特徴を受け継いでいたのも不思議ではない。以前、重要な存在であった、アラブ人の部族集団は崩壊した。部族の構成する駐屯軍の戦士たちは、ウマイヤ朝の時代のように、首領を通じて給料を支給されることがなくなったからである。本来のアラビア地方では、古くからの遊牧生活がつづいていたので、部族的連帯もそのまま残っていた。だが、帝国内の定住地域では、アラビア人は一般住民と混じりあった。普通は地主になったが、その他の特権的地位に就く者もいた。そして、すみやかに部族的特性と規律とを忘れていった。彼らに代わって、旧帝国そのままの型を踏襲した官僚組織が、通常の行政全般を司った。一方、カリフの軍隊も、イラン人やトルコ人その他の傭兵が、次第にその中核を占めるようになった。

こうしていろいろな点で、大むかしからの大帝国の前例に逆戻りしたことは、イスラム教に改宗した非アラブ人の要求に合致するものであった。彼らもアラブ人も、今では一様に、雲のうえの近づき難いカリフの、縁もゆかりもない臣下なのだ。だがこの変化は、神の意志を、あらゆる細かな点にいたるまでこの地上に実現すべしと考えている、敬虔なイスラム教徒たちを満足させるはずがなかった。この難問を解決するためにアッバース朝の政治家たちが採った政策は、以後の全時代のイスラム社会に影響する重要な意味を持っている。すなわちアッバース朝は、以前のように宗教的権威と、軍事的、政治的指導権をひとつに結ぶことをやめ、宗教的に重要な事柄についての立法権を、いわゆるウラマーと総称される、イスラム教神学に精通した学者集団の手に移すことを、暗黙のうちに承認したのである。

イスラム教徒の聖典と律法

ウラマーは自然に発生した。信仰心の篤い人たちが、いかに行動すべきかの問題にぶつかったとき、この場合神はどう望まれるかを知りたいと願った。それを知る方法は、預言者マホメットの言葉や行為に先例を求めることだった。だが、普通の人は、そういう言葉や行為に通じていない。それに通じている専門家に教えてもらわなくてはならない。預言者と行を共にした最初の世代の者は皆亡くなっていたから、このことは系統的な研究を要した。マホメットの生涯の細かな点が研究されたのは、当然ながら、はじめはメディナだった。彼が生前、神の啓示を受けて発した言葉の数々が、この町で集められ細心の注意を払って編纂されたが、それは彼の死後まだ何年もたっていない時だった。こうして出来た聖典が『コーラン』で、今日までイスラム教徒にとって、信仰上究極的に依拠すべき教えの集められた、最高の権威ある経典となっている。

『コーラン』が直接の指針を示していない、その他の多くの事柄についてもなんとかして処理しなければならない。こういう場合の問いに対する答えとして、イスラム学の専門家は、まずマホメットの日常の言行を拠りどころとした。これは、真実であるか作られたものかは別として、いずれもマホメットと行を共にした同志のだれかから伝えられたと称するものが数多く残っていたのである。それでも足りない時には、マホメットと密接な関係にあった人々の行いが補助手段として用いられた。さらにこの「列伝」によっても、適切な解答の得られない場合には、ウラマーは、類推によって問題点を処理することを認めた。最後に類推によっても充分な指針の得られない場合には、結局、信徒たちが一致して決定したことを正しいとせざるを得なかった。個々人の判断がいかにまちがっていても、全体としての成員が過誤を犯すことをアラ―がお認めになるはずはないとするのである。

こうした手段によって、イスラムの学者たちはまもなく精緻な律法の体系をつくり上げた。そしてそこにアラーの意志が表れているとした。この聖なる律法はもちろん不変である。アラ―が変化することなどないからである。すべての努力が、個々の特定の状況において、人間がどう行動するのをアラーが望まれるか、を疑いの余地なく明らかにすることに向けられたので、これはきわめて詳細にわたっていた。その結果、放棄することも改変することも許されないこの律法は、後のイスラム教徒の社会にとって次第に重荷になっていった。

だがアッバース朝のもとでは、この聖なる律法はまだ鋳造したての金貨のように光り輝いていた。人間に対するアラーの意志はそこに確実に表れているように思われ、信徒はあらゆる行いを、そこに示された明確な規定に合致させるように努力する義務があった。そしてこのことはさほど困難ではなかった。と言うのは、『コーラン』と聖伝と律法の細目についての正確な知識で人々の尊敬を受けている学者が、主要都市にはかならずいて、人々が持ち込む良心の問題について判断を下してくれたからである。こうして、個人や個人の生活に関する政府の仕事の多くが、これらの専門的宗教家の立法の手に移されたのである。それゆえ信仰心の篤いイスラム教徒も、真に重要な事柄は、最も正しく最も賢明な人たちが掌握しているのだと実感することができた。それに比べれば、中央政府を動かし、税を徴収し、国境を防衛し、豪奢な宮廷生活を享受しているのが、今一体だれなのかなどということはたいした問題ではなかった。

かつての、完全に神に捧げられた共同体の理想、預言者マホメットの正しい後継者に率いられ、アラーの意志への服従のためにのみ存する共同体という理想を、大多数のイスラム教徒は、こうして不本意ながら放棄したのである。だが全部がそうしたわけではない。頑固な理想主義者たちはもとの理想に固執し、やがて異端者となった。彼らの多くは、預言者マホメットの女婿アリーの後裔のみが、真に信徒の共同体を率いる指導者たるに価すると主張した。アリーの直系が十二代目で絶えたとき、彼らのある者は、預言者マホメットの真の後継者はこの手のつけられぬほどの邪悪な世界から一時身を退いたのだ、だが将来いつか戻って来て、恐るべき復讐の罰を、真理をねじ曲げアラーの命に背いた者共に下すであろう、と論じた。極端な派閥争いから多数の分派を生じたが、そのあるものは、アッバース朝をはじめ、妥協を知らぬ彼らの理想に少しでも欠けるところのある現実のすべての体制に対して、徹底的に否定する革命的態度を貫いた。これらの集団はシーア派と総称される。それに対して、アッバース朝の政策にもとづいて決められた枠内で、生を送ることを望む大多数の者はスンナ派と呼ばれている。

スンナ、シーア両派の抗争はイスラムの全歴史を貫いて今日までつづいている。同様に、アッバース朝が妥協して、世俗の政府の職権に設けたさまざまな制限は、以後すべてのイスラム国家の政府の政策に影響した。

律法が政治権力とは独立して自律的に運用されたことの必然的結果として重要なのは、イスラムの政治的実権者が、他の宗教集団の指導者たちに対して、ウラマーがイスラム教徒の生活を指導したのと同じように、それぞれの信者を、個人的、宗教的な事柄について、指導し規制してくれるように期待したということである。そこで、キリスト教徒やユダヤ教徒の集団に広範な自律性が保証された。

イスラムの掟のもうひとつ重要な意味は、個人はイスラム教を全面的に受け入れるか、全然拒否してしまうかのどちらかでなければならないとする点である。曖昧な態度は不可能である。マホメットがアラーの最後にして唯一の権威ある預言者であり、聖なる律法は、そのあらゆる細部にいたるまで、アラーの人間に対する意志を真に表現したものであるとするか、あるいは、そのような説はまったくの偽りとするかの、ふたつにひとつである。論理的に言って中間点は存在しないし、実際そのようなことを主張した者もほとんどいなかった。イスラム教は、その先駆であるユダヤ教やキリスト教の持つ教義上の不寛容性を受け継ぎ、一層徹底させたのである。

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