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『ご冗談でしょう、ファインマンさん』

『ご冗談でしょう、ファインマンさん』

下から見たロスアラモス

「下から見たロスアラモス」とは文字通り下っ端の目で見たロスアラモスという意味だ。なるほど今では僕もこの分野で少しは名を知られるようになったが、あの頃はまだペイペイの駆け出しで、マンハッタン計画の仕事を始めた頃は、まだ博士号さえ持っていなかった。ロスアラモスの想い出話をする人達は、ほとんど高い地位にあって重大な決断を下さなくてはならない立場で苦悩した人々だが、下っ端だった僕はそんな重大責任を負わされることもなく、いつも下の方でフワフワとび歩いていたのだ。

一九七五年カリフォルニア州立大学サンタバーバラ校で行われた「科学と社会」サンタバーバラ年次講演シリーズ第一回からとったもの。「下から見たロスアラモス」は、Lバダッシュ他編『ロスアラモスの思い出。一九四三年~一九四五年』として出版された九回にわたる講演シリ―ズのうちの一篇である。版権所有者は一九八〇年、オランダ、ドルドレヒト市、D・ライデル出版社。

そもそもことはプリンストン大学院の研究室に始まる。ある日僕が部屋で仕事をしていると、ボブ・ウィルソンが入ってきた。実は極秘の仕事をする金が出たという。ほんとうは誰にも口外してはいけないのだが、内容さえ聞けば君だって即座に参加すべきだと思うはずだ。だからあえて説明する、と言うのだ。そしてウランのさまざまな同位体を分離して、ゆくゆくはそれで爆弾を作る計画をうちあけた。ウィルソンは、ウランの同位体の分離過程をすでに考えだしており(結局最終的に使ったのは、彼のとは異なる分離法だったが)、これを発展させたいという話をした。話しおえると彼は「それで実は会議があるんだが………」と言いかけた。

僕は彼に皆まで言わせず、そんな仕事はまっぴらだと断わった。すると彼は「まあいい。とにかく三時に会議をやるから、そこで会おう」と言う。

「君の機密は人にもらしやしないが、僕はそんな仕事はやりたくないね。」

ボブが出ていったあと僕はまた自分の論文にとりかかったが、ものの三分もしないうちにさっきの話が頭に浮かんできて、仕事が手につかなくなってしまった。僕は部屋の中を行ったり来たりしながら考えはじめた。ドイツにはヒットラーがいて、原子爆弾を開発するおそれは大いにある。しかも向うが僕らより先にそんな爆弾を作るという可能性は、考えただけで身の毛がよだつ。結局僕は三時の会議に出席することにした。そして四時をまわる頃には、早くも一部屋に据えられた僕用のデスクに向って、この同位体分離法が、イオンビームから得られる全電流量によって限定されることがあるかどうか、などの計算に熱中していた。計算内容の詳細はさておき、僕はその場でデスクと紙をもらい、その装置を作る連中がすぐさま実験にとりかかれるよう、できるだけ早く結果を出すため、計算に大わらわだったわけだ。

まるで映画のトリック撮影で見る機械が目の前でパッパッパッとみるみるできあがっていくようなもので、僕が目をあげるたびにこの計画は雪だるま式にふくれあがっていく。というのもみんながそれぞれの研究を中止して、この課題にとりくむことになったからだ。だから戦争中の科学的研究といえばこのロスアラモスで進められた研究以外は皆ストップしてしまったわけだが、ロスアラモスの研究にしたって、科学というよりむしろ工学といった方がよかった。

それまでさまざまな研究に使われていた装置は今や一ヵ所に集められ、ウランの同位体分離実験の新しい装置を作るために使われることになった。この共通目的のため僕も自分の研究をしばらくあきらめることになったわけだ。(もっともしばらくしてから六週間休暇をとって博士論文だけは書きおえたが…….。)結局ロスアラモスに行く直前、学位だけはもらったからそれほどの「下っ端」ではなかったのかもしれない。

プリンストンでのこの計画に参加してまず面白かったことは、いろいろな偉大な研究者に会えたことだろう。それまで僕はあまり大物に会う機会がなかった。マンハッタン計画が始まると、研究の進展を助け、ウランから同位体を分離する方法の最終的方針をうちだすに当って、僕たちに助言協力するため作られた評定委員会というものができた。この委員会にはコンプトン、トルマン、スミス、ユーリー、ラービ、オッペンハイマーという面々が顔を揃えていた。僕は同位体分離過程を理論的に理解している人間として、説明を求められたり質問を受けたりしたときのため、この委員会を傍聴することになっていた。

さてその会議では、誰か一人が意見を述べると、今度はちがう者(例えばコンプトン)がそれに対し異なる意向を説明する、という形で進行する。コンプトンが「これはこうあるべきだ。自分の言っていることは正しい」と言うとすると、また別な男が「うん、まあそうかもしれん。しかしそれに反するこのような可能性もあるぞ」などと言う。

こういう風にして卓を囲む連中が、てんでに一致しないような意見を述べたてる。聞いていて僕は、コンプトンがさっき言った自分の意見をもう一回繰り返して強調しないのが気になっている。ところが終りに議長のトルマンが「まあこうしてみんなの意見を聞いてみると、コンプトン君の意見が一番よさそうだから、この線でいこう」と言う。

この会議のメンバーは、皆それぞれ新しい事実を考えにいれて実にさまざまな意見を発表していながら、一方ではちゃんと他の連中の言ったことも覚えているのだ。しかも最後には一人一人の意見をもう一度繰り返してきかなくても、それをちゃんとまとめて誰の意見が一番良い、と決めることができるのである。これを目のあたりに見て僕は舌を巻いた。本当に偉い人とは、こういう連中のことを言うのに違いない。

最終的には、ウラン分離にウィルソンの方法は使わないことが決まった。このときになって僕たちは、ニューメキシコ州のロスアラモスで実際に原爆を作る計画が始まるので、今までここでやっていたことは中止し、全員ロスアラモスに集まってさっそくこの仕事にとりかかるよう指令を受けた。その現場では実験と理論的研究と二本立てで進めていく必要がある。僕はその理論的研究の方に入り、他の連中はみんな実験にまわることになった。さてロスアラモスの準備がととのうまでの間、何をすべきかがまず当面の問題だ。ボブ・ウィルソンはこの間の時間をむだにしないため、いろいろなことを計画したが、その一環として僕をシカゴに出張させた。例の爆弾とこれにまつわる諸問題について、シカゴのグループから学べることは全部学んでくるのが目的だ。そうすればさっそく僕たちの実験室で、ロスアラモスで使う装置や計数器などを作り始められるから、時間のむだがはぶけることになる。

シカゴ行きにあたり、僕は次のような指令を受けた。まずグループの研究に協力するというふれこみで、各グループに出むいては、僕自身その場で実際に仕事が始められるくらい詳しく問題を説明してもらう。そうしてそこまでいったら、また別のグループに行って別の問題を聞いてくるように、というのである。そうすればどのグループの研究についても詳しく理解できるというわけだ。

これはなかなか良い考えに違いなかったが、僕はどうも気がとがめてしかたがない。何しろみんな一所懸命にその問題を説明してくれるというのに、僕はそれをさんざん聞いておいて「はいさようなら」とばかり逃げだすのだ。だが運よく向うを助けることもできて少しは気がすんだこともあった。たとえばグループの一人が問題を説明してくれているときに、僕が「それなら積分記号の中で微分してみてはどうですか?」と言ったところ、今まで三ヶ月もかかって苦闘していた問題が三〇分ぐらいであっさり解けてしまった。例によって僕の「毛色の違った道具」が役に立ったのだ。

こうしてシカゴから帰ってきた僕は、この同位体分離によって放出されるエネルギーの量や、その爆弾のしくみの予想などについて現状報告をすることができた。この報告のあと、友人の数学者、ポール・オーラムが来て、「今に見てろ、これがあとで映画にでもなるとしたら、きっとりゅうとした背広を着こんで皮カバンか何かをさげた学者がシカゴから帰ってきて、もったいぶってプリンストンの学者の面々を前に原爆の報告をする、てなことをやるんだろうが、君ときた日にゃこの重大な画期的大計画を語ろうというのに、よれよれのワイシャツ姿で威厳もへったくれもないんだからなあ」となげいた。

計画はまた何かの理由で遅れ遅れになっていた。そこでとうとうウィルソン自らいったい何でこう渋滞しているのか調べるため、ロスアラモスに乗りこんでいった。行ってみると現場では建築業者が懸命に働いており、もう講堂など彼らの作れる建物はすでにできあがっているのに、実験室がまだだった。実験に必要なガス管や水道管の数などがはっきしていなかったため作りようがなかったのだ。ウィルソンは、すぐさまその場でガス管何本、水道管何本と決めていき、さっそく実験室の建築にとりかかるよう指示して帰ってきた。

ウィルソンが戻ってくる頃には、僕らはもうすっかり準備をすませて待ちくたびれていた。そこでもう準備なんかできていなくてもいいから、とにかくみんなでロスアラモスにおしかけようということに衆議一決した。

僕たちはオッペンハイマーその他の連中に引き抜かれたことになるのだが、オッペンハイマーは実に忍耐強い人で、僕たち一人一人の個人的問題にも深い思いやりを示してくれた。彼は結核で寝ている僕の家内のことをたいへん心配してくれて、ロスアラモスの近くに病院があるかどうかまで気を使ってくれた。僕は彼にそのような個人的立場で会ったのははじめてだったが、その親切さは身にしみた。

僕たちは何をするにも細心の注意を払って行動するようにとの指示を受けていた。たとえばプリンストンのような小さいところで、大勢の人間がニューメキシコ州のアルバカーキ行きの切符でも買おうものなら、さては何かあるらしい、とたちまち疑われることは必定だ。だからみんな汽車の切符でさえプリンストンで買わず、別の駅で買ったくらいだった。ほかの連中がよそで買うのなら、一人くらいプリンストンで買っても大事あるまいと思った僕だけは例外だったが……..。

僕がプリンストンの駅に行って「ニューメキシコのアルバカーキまで」と言ったとたん、駅員に「ああ、それではあのたくさんの荷はあなた行きだったんですか!」と言われた。もう何週間というもの、僕たちは計数器のいっぱいつまった荷箱をどんどん送り出していたのだ。だからアルバカーキに行く僕という人間があることで、やっとたくさんの荷物が送られるかっこうの理由が見つかったわけだ。

さてアルバカーキに着いてみると、寮だの家だのというものはまだ全然用意ができておらず、実験室さえまだ完全にはできあがっていなかった。実はこうしてスケジュールより早くおしかけて、作業を急がせようという魂胆だったのだ。当局は大慌てでそこいら一帯の農場の家などを借り占めたので、僕たちはしばらくの間そういう農家に泊っては朝出勤するという生活をすることになった。はじめて車で出勤した朝のことは特に印象に残っている。東海岸からやってきて、あんまりドライブなどしたことのない僕は、その雄大な光景に息をのんだ。絵や写真で見たような巨大な崖がある。下からドライブして上がってくると、いきなり高いメサ(周りが急な崖になっているテーブル状の台地―訳注)が現われて目を驚かせる。一番びっくりしたのは車で登ってくる途中、僕が「このあたりは昔インディアンが住んでいたところかも知れないな」と言ったときのことだ。運転していた男はやおら車をとめると、ちょっと角をまわったところへさっさと歩いていって、古い時代にインディアンの住んでいた洞穴を見せてくれたのである。それは忘れることのできない感動的な経験だった。

 209『世界の歴史①』

人類の起原と古代オリエント

アッシリアとフリ人の勢力-前二千年紀前半の北メソポタミア

アッシリアの黎明期

アッシリアとは何か

アッシリアは前二〇〇〇年ごろ、ティグリス川中流河岸の都市アッシュル(ニネヴェの南約一〇〇キロメートル)から興り、前六一二年まで、およそ一四〇〇年にわたって北メソポタミアを中心領域として盛衰を繰り返した国である。アッシリアには有利な立地条件があった。まずアッシュルあたりから北では、灌漑をせずに雨水だけによる農業が可能になる(年間降雨量二〇〇ミリメートル以上)。またアッシリア中心部は、肥沃な三日月地帯の真ん中にあり、常に交易の中継地でもあった。

アッシリアの歴史は、古アッシリア時代(前二千年紀前半)、中期アッシリア時代(前二千年紀後半)、新アッシリア時代(前一千年紀前半)の三つにわけられる。それぞれに歴史的にも政治的にも特徴があるが、この三区分は主として言語の発展段階に即してなされている。メソポタミアを中心に使用されたアッカド語と総称されるセム系言語は時代と地域によって少しずつ文法と字形が異なる多くの「方言」をもっていた。アッカド王朝時代には古アッカド語が用いられ、その後、アッシリアでは古アッシリア語、中期アッシリア語、新アッシリア語と発展した。南のバビロニアでもほぼ同様に、古バビロニア語、中期バビロニア語、新バビロニア語と発展した。都市アッシュル(現代のカルアト・シルカト)の発掘は一九〇三年から一三年までドイツの調査隊によって行われた。しかしいつから都市アッシュルが存在したのか、そこにどのような人びとが住んでいたのかなどについては明らかになっていない。少なくともアッカド王朝時代には、その支配下に置かれたセム系民族がアッシュルに居住していたこと、またアッシュルには、当時から女神イシュタルの神殿があったことが知られている。

一九七五年にエブラで発見された文書から、アッカド王朝時代までには、セム系民族の文化がアッカドの地だけでなく、ユ―フラテス川中流域のマリ、ティグリス川中流域のアッシュルを経て、ある程度の同質性をもってシリアにまで広がっていたことが窺える。ただし今のところエプラ文書のなかにアッシュル市への言及は確認されていない。

アッシリアの一貫性

都市アッシュルの発掘では、古アッシリア時代の層にはほとんど手がつけられなかったため、アッシリア建国当時の事情はあまりわかっていない。しかしアッシリアは当初から独特の国であったに違いない。諸民族の抗争と国々の興亡が繰り返された古代オリエント世界の真ん中で、一四〇〇年も続く長寿国が存在したこと自体、驚嘆に値する。その秘密はおそらくアッシリアの「一貫性」にあるように思われる。

アッシリアはまず第一に歴史的一貫性をもっていた。アッシリア歴代の王の名を記した文書資料(アッシリア王名表)を再構成すると、第一代から第百十七代まで連続する王名を数えあげることができる。これは決してアッシリアでは王朝が交替しなかったということではない。王位簒奪者も少なくなかった。またアッシリアの王名表にはその時々の政治的意図をもった数度の編纂作業の痕跡が残されている。いずれにしてもアッシリア王たちは、王権が古くから続いてきていることを重視して、その伝統に連なろうとしたのであろ

第二の一貫性は、神アッシュルを頂点とする国家宗教に見られる。神アッシュルは常に神々の序列の最高位を占め、バビロニアその他の神々が入ってきても神アッシュルの下に位置づけられた。

第三の、そして最も重要と思われる「アッシュル」という名の一貫性がある。アッシュルの語源は不明であるが、都市名であり、地名であり、もちろん神名でもあった。原語ではどれも「アッシュル」であるが、それぞれ「市/町」(ウル)、「土地」(キ)、「神」(ディンギル)を表す表意文字を限定詞として付けて区別した。ただし限定詞は発音されない。歴史的にも地理的にも古代オリエント世界の中心に位置しながら、また波瀾に富んだ約一四〇〇年の間、一時的に他国から圧迫されても、常に中央集権的国家にもどり、強いアイデンティティをもち続けた。それは、アッシュルが元来、土地でもあり、神でもあることによると考えられる。この第三の一貫性から、第一と第二の一貫性も生じたといえる。

アッシリア前史

アッシュルから出土した最も初期の文書として、アッカド時代のイシュタル神殿で発見された石板碑文がある。そこには「イニン・ラバの息子である施政者イティティは、ガスルの戦利品からこれ(石板)をイシュタルに奉納した」と書かれている。この施政者(ワクルム)とされるイティティがアッカド王朝の支配下にあったのか、あるいは独立性の強い支配者だったのかはわからない。しかしアッシュルの東方一〇〇キロメートルに位置する都市ガスル(後のヌジ)に攻め込んで得た戦利品の一つを奉納した事実から判断すると、後者の可能性もある。

同じくイシュタル神殿から発見された鋼の槍先には「キシュの王マニシュトゥシュの僕であるアズズ」による奉納文が刻まれている。これによって少なくともアッカド王朝のマニシュトゥシュの治世には、アズズという人物がアッシュルの統治を委任されていたことがわかる。

ウル第三王朝時代の文書としては、アマル・スエン(前二〇四六~三八年)の支配下にあったアッシュルの代官ザリクムの奉納石板に刻まれたアッカド語碑文が知られている。「ウルの王であり、四界の王であり、強壮な男であるアマル・スエンの長寿を願って、彼の僕であるアッシュルの代官(シャカナクム)ザリクムが、彼自身の長寿をも願って、その女主人であるベーラト・エカリム(イシュタルのこと)の神殿を再建した」と記されている。

このザリクムの奉納文で特に注目したいことは、彼の肩書きのなかの「アッシュル」に、神を示す限定詞ディンギル(前置)と土地を示す限定詞キ(後置)の両方が付されて、「(ディンギル)アッシュル(キ)の代官」と記されていることである。これはすでにこの時代にアッシュルの土地が神格化されていたことを暗示している。

いくつかのシュメール語の文書では、ザリクムの肩書きは「アッシュル(キ)のエンシ」とされている。エンシは小都市国家施政者の称号であったが、この時代までには、広域を支配する王(ルガル)に任命されて一都市を治める者の職名となっていた。その意味でエンシはアッカド語のシャカナクムと同意であるが、表意文字としてのエンシは、アッカド語でイシアクムと読まれた。後にアッシリア王の称号となる「アッシュルの副王」のなかでも、エンシが前十四世紀半ばまで表意文字として残る。しかしその後は別の表意文字(シド)が使われるようになる。

神アッシュルとアッシリア

都市とその神が同名であることは、メソポタミアでは他に例がなく、不可解なことであった。神アッシュルは決してシュメール語風に「ニン・アッシュル」あるいはアッカド語風に「ベル・アッシュル」(アッシュルの主)と言われたことはないのである。

現在では、神アッシュルは都市アッシュルが神格化されたことによって生まれたとする学説が有力である。しかし厳密にいえば、神アッシュルは、都市アッシュルではなく、土地アッシュルの神格化であった。後に大帝国へと拡大するアッシリアは、神アッシュルの拡大でもあることになる。神アッシュルは元来系譜をもっていなかった。すなわちメソポタミアの他の古い神々のように配偶女神や子供たちとされる神々がいなかった。これもアッシュルが聖化された場所そのものであったためであろう。しかし後には神アッシュルの系譜が形成されていった。

シュメール人の時代から、都市はその主神(守護神)の所有物とされていた。ある都市の没落は、その守護神が守護を放棄して都市を離れることによって引き起こされると信じられていた。またバビロニアでも、首都バビロンの主神マルドゥクの像は、バビロンを陥落させた勝利者たちによって何度も略奪された。しかしアッシュルに関しては、神像略奪の記録はない。もっともアッシュル神像を造ったという確かな記録は後代になってからのものである。神アッシュルがアッシュルという土地と同一であるとすれば、神アッシュルはつれ去られることがない。いくら王朝が交替しようが、その場所がアッシュルである限り、アッシリア(アッシュル・キ)は続くのである。これがアッシリアが長寿を保った最大の根拠ではないだろうか。

古アッシリア時代

アッシリアの独立

古アッシリア時代についてのより多くの情報は、都市アッシュルよりも、中央アナトリアのカニシュのカールムⅡ層(前二十世紀中ごろから前十九世紀中ごろ。第三十三代エリシュム一世から第三十六代のプズル・アッシュル二世の時代にあたる)と、後のシャムシ・アダド一世(前一八一三~一七八一年)とほぼ同時代に始まる1層から出土した文書によって得ることができる(二四七ページ参照)。文書の多くはアッシリア本国とアナトリアの間で交易に従事していたアッシリア商人の活動を示すものであるが、アッシリア史に関する重要な情報も含まれている。

アッシリアはウル第三王朝が滅亡したことによって、その支配から解放されて独立したと考えられるが、その実在した最初期の王の一人がツィルル(アッシリア王名表ではスリリと記され、第二十七代王とされる)であった。

ツィルルの名は、カニシュで出土した九つの文書(アッシュルからカニシュに送られた書簡)に押されたツィルルの印章の銘文に見られる。もっともこの印章を使用したのは、アシリア王ツィルルよりも一〇〇年ほど後のツィルル(ウクの息子)という同名の別人である。当時のアッシリアでは印章はしばしば再利用されたのである

その銘文は「アッシュル(キ)は王、ツィルルはアッシュル(キ)の副王(イシアクム)、アッシュル市の伝令であるダキキの息子、……」」と読める。ここで「アッシュル(キ)は王」と宣言されていることは注目に値する。これはもちろんアッカド王朝やウル第三王朝の支配を脱したことを示すが、それ以上に重要なことは、土地アッシュルが王であり、そこで政治を行う者は、土地アッシュルに任命された副王もしくは代官という考えである。ここでは王と副王を示す表意文字として、それぞれシュメール語のルガルとエンシが使われている。シュメールの政治機構のなかで用いられたルガルとエンシの称号を借りてきてはいるものの、アッシリアでは土地アッシュルを王と宣言していることに、今後のアッシリア史を貫く理念の萌芽を見てとることができる。

またこの銘文から、ツィルルの父親ダキキがアッシュル市(ウル・アッシュル・キ)の「伝令」という役職にあったことがわかる。ここでも土地アッシュル(アッシリア)とアッシュル市は区別されていた。都市名も地名であるのでしばしば限定詞キも付される。またダキキの名は王名表にはない。

第三十三代のエリシュム一世の治世になると、碑文もアッシリア王のものとしては初めて一七点という多数になる。これらの碑文では、称号「アッシュルの副王」のアッシュルには、限定詞が省略されたもの、限定詞ディンギル(神)が付されたもの、限定詞キ(土地)が付されたものの三様があり、一定していない。たとえばカニシュ出土のエリシュム一世の碑文では、「(ディンギル)アッシュルは王である。エリシュムはアッシュル(限定詞なし)の副王である」と書かれている。アッシュルの限定詞についてはこの時期が過渡期であり、これ以後は、神アッシュルも、王の称号のなかのアッシュル(本来「土地アッシュル」も、ディンギル付き、もしくは限定詞なしで書かれることが一般的になってゆく。第三十四代イクヌムを継いでその息子サルゴン一世が第三十五代アッシリア王となった。「サルゴン」はアッカド語では「シャル(ム)キン」であり、「確固たる王」という意味を持つ。だからといってこの名をもつ王が必ずしも王位簒奪者であるとは限らない。この名はいずれにしても即位名である。「サルゴン」と表記されるのは、後の新アッシリア時代に出現したサルゴン二世(前七二一~七〇五年)が旧約聖書のなかで「サルゴン」(「イザヤ書」二十章一節)として言及されるからである。ちなみにアッカド王朝のサルゴンとアシリアのサルゴン一世が混同されてはならない。

シャムシ・アダド一世

古アッシリアに大きな変化をもたらしたのは、第三十九代アッシリア王となったシャムシ・アダド一世(前一八一三~一七八一年)である。彼の一族はハムラビ(前一七九二~五〇年)の一族と同様に、ウル第三王朝滅亡後にメソポタミアに広がったアモリ系民族の一つであった。シャムシ・アダド一世の父イラ・カブカブは、同じくアモリ系のマリ王国に接する小国を治めていた。しかし息子のほうが目覚ましい戦績をおさめた。彼はティグリス川左岸の要塞都市エカラトゥムを占領し、さらに、そのころ弱体化していたアッシリアに攻め込み、第三十八代エリシュム二世から難無く王位を奪うことに成功した。

ここでシャムシ・アダド一世はアッシリアに新王朝を打ち立てることもできたはずである。しかし彼は自分を由緒正しいアッシリア王として位置づける道を選んだ。現在知られているアッシリア王名表に対してなされた数度の編纂作業のなかで、最初のものはシャムシ・アダド一世によると考えられる。彼は実の父イラ・カブカブを自分よりはるか以前の第二十五代アッシリア王として組み入れ、それ以前の王たちとして彼の先祖たちの名を連ねたのである。そして王名表の最初には、テントに居住していたという一七人の王の名を記したが、そのなかには、アモリ系の部族名にちなんで創作されたものも含まれているようである。

アッシリア王となったシャムシ・アダド一世は領土を西へ広げていった。マリでは王ヤハドゥン・リムが家臣の一人に暗殺され、王位継承者のジムリ・リムはアレッポに亡命していた。これを好機とみて進軍したシャムシ・アダド一世はマリを併合することに成功した。マリの勢力はユーフラテス川中流域全体に及んでいたため、この併合は大きな収穫であった。

ザグロス山地からユーフラテス川に至る北メソポタミア全域を掌中に収めたシャムシ・アダド一世は、支配権を二人の息子とわけることにした。兄のイシュメ・ダガンをエカラトゥムの王として、エシュヌンナをはじめとする外敵に対する備えをさせた。そして弟のヤスマハ・アッドゥをマリの王として、シリアからの遊牧民の侵入を防ぐことに尽力させた。シャムシ・アダド一世自身はアッシリアの中央、特にシュバト・エンリル(テル・レイラン)で国全体の統治を行った。彼はアッシリア初の強大な君主であり、三〇年以上に及ぶ治世のなかで、アッシュル、マリ、シュバト・エンリル、テルカ、エカラトゥム、カラナ、シュシャラなどの諸都市を支配下にもつ大国を築いた。

シャムシ・アダド一世によって、アッシリアに西と南の文化が持ち込まれ、多くの変化が引き起こされた。たとえば王の称号として、しばしば「(ディンギル)エンリルの代官」が「(ディンギル)アッシュルの副王」の前に付くようになり、またまれには「世界の王」という称号も用いられた。

しかし彼の没後はしばらくの間内政の混乱が続き、その後に再びアッシリア人が王位に就くようになった。そして領土は大幅に縮小し、王の称号も「アッシュルの副王」にもどった。

市民会とリンム制度

アッシュル市では、「アールム」すなわち「市」という語が市民会をも意味し、重要な事柄はそこで審議され、決定された。その決定はアナトリアのアッシリア商人たちにも伝えられた。

アッシリアのもうひとつの重要な制度はリンムであった。アッシリアでは毎年、おそらくアッシュル市の有力者たちのなかから、リンム職に就く役人が選ばれた。その人は、市民会の議長を務めたのかもしれない。市民会は「市の館」(別名「リンムの館」)と称される市役所のようなところで開催された。またそこはリンム職の執務の場所でもあったのだろう。中期アッシリア時代以降の慣例とは違い、古アッシリア時代には王がリンム職に就くことはなかった。少なくともシャムシ・アダド一世以前の時代には、市民会の力が強く、王の権力は制限されたものであった。

アッシリアでは、年代を表すには、その年のリンム役人の名が用いられた。たとえば文書の日付として「何月何日、某のリンム」と記載されたのである。リンム制度はしだいに形骸化され、市民会も力を失ったが、毎年リンム役人が選ばれて、その名によって年が表記されることはアッシリアが滅亡するまで続いた。

古アッシリア時代の印章(印影)として「神アッシュルのもの、市の館のもの」という銘文をもつものがある(この印章は一三〇〇年ほど後になって、新アッシリア時代のエサルハドンによって、誓約文書の調印に用いられたことで知られることになる)。この銘文から、神アッシュルと市役所は印章を共有していたことがわかる。この印章図像として、礼拝者ととりなしをする女神はあるが、礼拝される神の像があるはずの部分が空白になっている。それは、神アッシュルが土地の神格化であるために、その図像表現がまだ確定していなかったためであろう。

 奥さんへの買い物依頼
卵パック   148
お茶       148
海鮮ちらし  378
シャウエッセン     358
もも肉     298
野菜生活ぶどう     78
塩辛       258
海老フライ  299
中華まん   269
ピザ       219
食パン8枚  128

 2.4.4 部分に全体がある:個と超で全体を挟む数学
超から見れば全体は個になる
個は超から全体を把握する
個から作られる全体に意味がある
分化・統合で再編成させる
・全体を超えるもので全体は部分になる
・全体は分化・統合する
・全体を超えるものを想定する
・超の存在で全体は安定する
・個と超で全体を挟み込む
・超は個に隠されている

 2.5.2 個が目的をもつ:個の目的を達成するのが全体の目的
組織ピラミッドは個の目的で逆転する
個の目的を生かした組織の目的
個の目的は全体を超える
存在の意識は覚醒が前提となる
・個の目的を軸に社会構造を逆転させる
・個の有限から持続可能な社会につくる
・個の覚醒を引き出す条件
・個の目的の達成を目指す社会
・超の存在が絶対を作り出す

 2.6.2 個に目的:個の目的で空間を超える
個の目的として夢を設定する
夢を聞き、叶える役割を外す
存在を目的に入れ込む
個の未来を描く
・内なる世界を持つことで自由を得る
・社会の分化と統合が可能になる
・個の目的で空間を超えて覚醒する
・夢はないものは夢があるものを支援する
・目的達成は逆ピラミッドをなす
・上に行くほど広がる空間
・最上位が超の空間
・空間に目的を持たせる
・個の目的達成が組織の目的
・超の支援で目的を達成する
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