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家族という制度そのものの不安定化(流動化)

『友情の哲学』より 家族と友情

昨今、友達関係が注目を集めているもう一つの理由は、先にも触れたように、家族という制度それ自体がぐらついていることだ。家族が頼‐りにならなくなっているものだから、その代用品して、友達関係に目が向けられるようになっているという面がある。今から五〇年ほど前、学生運動の盛り上がりの中で、「家族解体」を叫び家族制度を壊そうとする試みがなされたのだが、そういう思惑とは全く独立に、家族はひとりでに解体しつつある観がある。

その際、友達関係に期待されているのは何か。ケア(世話、介護)である。ヤーノシュ・ショビンの本はそのものずばり「友達関係とケア」と題されている。この本の冒頭は次のように始まるのだ。ドイツ社会の未来をめぐる公共の議論の中で、友達関係が社会的希望の避難場所になってしまった。

私たちは、すべての人と濃密な関係を結びながら生きているわけではない。手持ちのエネルギーや感情には限りがあり、それを一部の人に配分しながら生きている。人間関係のエコノミーだ。私たちは大切な他者とそうではない他者の区別(差別)の中を生きているということだ。そして、大切な他者と聞いてまず思い浮かぶのは家族だろう。家族が大切な存在である、ということは、他の人との関係は、二の次三の次になる、ということでもある。そのようにして、家族があるがために、他の人々との関係は疎遠になる。そして、家族からは、濃厚なケアを期待することにもなる。その家族という制度が、どんどんあてにならなくなってきているのだ。そこで「友達」に出番が回ってくる、と言うとすれば、これはあまりにも虫の良い考え方だ、という感想を抱く人がいるとしても無理はない。

ショービンの診断は、さらに次のように続いていく。出産の割合が、全体として、人口を維持するために必要な下限をはるかに下回り、離婚率が五〇%前後であるような社会にあって、親戚関係のシステムがどのように変容するか、単純な思考実験をしてみるなら、その人は、以下のような結論にたどり着かずにはすむまい。家族や親戚は、将来、希少な資産になるだろう、と。家系図には、必然的に、無数の行き止まりやすかすかの枝々が出てこざるをえない。配偶者のいない一人っ子で、両親共にI人っ子である人には配偶者がいないだけではない。兄弟姉妹、おじやおばもいない。いとこもいない。唯一の家族のつながりは、両親と祖父母だけ、ということになる。--こうして、友達関係に出番が回ってくるのだ。思考実験的には、次のような打開策が大いに考えられるところとなる。パートナーも子供もいない人は、友達のことを考えるべきだ。なにしろ、どれほど出生率が低くても、どれほどパートナー関係がぐらついても、友達は、希少になるわけではないからだ。

一九五六年に京都の田舎の農村に生まれた私には、父方母方にそれぞれ三組のおじ/おばが(計六人)おり、いとこが合計で一二人いる。妹が二人いて、甥姪が四人いる。「唯一の家族のつながりは、両親と祖父母だけ」というのとは、大きな違いだ。両親共に四人きょうだいというのは当時(一九二〇-三〇年代)としては平均だったのだろう。私の世代になると二人きょうだいが既に多数派であったかもしれないが、きょうだい三人が多いという感覚はなかった(平均は、二人と三人の間だったに違いない)。

ショービンのこの診断は、親戚関係に光をあてることによって強い印象を喚起することに成功しているわけだが、しかし、問題の根本は、家族関係の縮小にこそある。親戚関係が小さくなったから家族関係も小さくなったわけではない。その逆だ。

こうも言えるのではないか。人生は長くなった、家族は小さくなった。小さくなってしまった家族に、長くなった人生の問題を今までどおりに押しつけることには無理がある、と。人生が長くなれば、そこで発生する問題(トラブル)も確実に多くならずにはすまない。長い老後を支える(ケアする)だけの力が、小さな(縮小してしまった)家族にはもはや期待できない、ということではないか。にもかかわらず、私たちは、依然として家族を当てにしすぎているように感じられる。

「家族の縮小」というが、単に子供の数が減っただけではない。家族を築いて生きることが当たり前、という考えが崩れ始めているという事実が指摘されうるだろう。一人で--つまりは、家族を築かずに--生きることを望む人が増えている、とは必ずしも言えないとしても、少なくとも、家族を築くことが人生における様々な選択肢の内の一つに地位低下してしまっている、とは言えるだろう。

前章で見たフーコーは、異性愛の世界の友情の貧しさを批判していると思われるが、それは、家族という制度があるからだと考えていたに違いない--だから、同性愛者がそれをコピーすることにも批判的だっただろう。家族は、友情にとっての大きな障壁だ。逆に言うと、昨今、家族度がぐらついているからこそ友情が注目されているのだとすると、これは友情にとってのチャンスだ、と捉えることもできる。そこからさらに、老後のケアを期待しての友達関係、という発想も生まれている。これは利害がらみの友情だが、不純だからといって切り捨てるべきでないのは、アリストテレスの言う通りだ。少子高齢化社会における友情、という立派な可能性である。
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