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日本のデジタル化のゆくえ

『デジタル資本主義』より 資本主義のゆくえ 交換様式・技術文化によって変わる将来像

日本のデジタル化のゆくえ

 これまで見てきたように、デジタルは技術であるだけでなく、我々の社会や経済システム、さらには価値観に対しても変革を促す存在である。しかしその未来像は一本道ではなく、我々人間がデジタルとどう付き合っていくか、どう活用するかによってさまざまな道筋が決まってくる。そこで日本にとってデジタルがどういう意味を持つのか、あるいはデジタルでどういう未来を作っていくべきかについても考えてみたいと思う。
 まず現状認識であるが、残念ながら日本は世界のなかでデジタル化が遅れているというのがおおむね共通の認識ではないだろうか。スイスのビジネススクールIMDが発表しているデジタル競争カランキング(2017年)では、日本は63力国中27位となっていて、2013年の20位からも徐々にランクを下げている。日本はデジタルの何が特に低く評価されているかといえば、ビジネスのスピード(57位)、人材(41位)である。
 ビジネスのスピードが遅い原因として、ビジネスカルチャーがその一因になっていることは間違いないだろう。日本企業はやることがはっきりすればその時の行動力は高いが、不明瞭な状態のなかで、とにかくやってから考えよう、というメンタリティには欠けている。ショットガン型(狙いをあまり定めずとにかく数を撃つ)ではなく、ライフル型(慎重に狙いを定めて一発で成功させる)なのである。それに加えて、デジタル・トランスフォーメーションの方向性が明瞭になってきたとしても、成功している既存事業が足かせになってなかなか動けない、ということも大いにあり得るだろう。
 ちなみに2017年の上位5カ国は、1位シンガポール、2位スウェーデン、3位米国、4位フィンランド、5位デンマークである。米国を除けば、上位を占める国は人口規模が小さい先進国で、コンパクトさ(機動力)と高い経済力がアドバンテージになっている。また北欧の国々が上位にランクインしているが、福祉制度が充実していることで、政府や企業が仕組みをデジタルに大きく変えようとしても、そこまで大きな社会不安が巻き起こらないのかもしれない。

デジタルを経済社会の問題解決に生かす

 日本では地方創生が大きな課題となっているなかで、NRIが提言しているように、ローカルハブとなる地方都市が自立した地方経済圏を牽引していくような姿になっていけば、そのコンパクトさを武器に、デジタル化が急速に進む地方が出てくるというシナリオが描けるかもしれない。ただし現状では、地方で産業を担っているのが東京、愛知、大阪などの大都市圏を本社とする企業の工場・研究所というケースも多く、そういった「出先の」事業所同士が横で連携することは非現実的である。その意味では、企業の本社等の地方移転を促進する目的で導入された「地方拠点強化税制」はその効果に期待したい。
 次に人材であるが、そもそも日本は人口減少が始まっていること、また2018年問題と呼ばれているように、18歳以下の人口が2018年から減少期に入ることで、定員割れする大学が増えていくなど環境的には厳しさを増していくだろう。人口減少自体は悪いことだけでもない。人口が増加している国の国民ほど、ロボットやAIに職を奪われるといった、いわゆる「技術失業」の懸念が強く、社会不安にもつながりかねないが、人口減少で労働市場も逼迫している日本においては、そのような懸念は弱く抵抗感も小さい。
 しかしせっかく抵抗感が小さいのに、デジタル活用のアイデアを出す人材が少ないことは致命的であろう。月並みな提言ではあるが、海外からいかに人材を引きつけるかが最重要課題である。
 18世紀の産業革命がなぜフランスやドイツではなく英国で始まったか、についてはさまざまな研究者によって理由が説明されているが、そのひとつが人材である。それまでは、英国よりもフランスの方が科学大国と呼べるような人材を多く抱えていたのだが、ルイ14世による新教徒(ユグノ-)迫害によって、多くの新教徒が英国に亡命した。これらの人々が科学に関する多くの知識と技術を英国にもたらし、産業革命の重要な役割を担ったのである。
 ひるがえって現代を見ると、トランプ政権下の米国が移民に対して厳しい姿勢をとるようになったことで、シリコンバレーで働く移民労働者がカナダなど海外に移住する動きが見られるという。日本は言葉の問題があるし、米国からは距離的に遠く離れているので、それほど簡単に人材を引きつけられないかもしれないが、たとえばアジアの優秀なデジタル人材を引きつける好機と見ることもできるのではないだろうか。
 日本は先進国のなかでも、デジタルが社会経済に及ぼしている影響度が実はかなり大きいのではないかと我々は見ている。第3章でも見たように、無料のデジタルサービスが生み出している消費者余剰の大きさが、対GDP比で米国よりも大きかったとと、さらに日本は欧米先進国以上にインターネットの普及率が高く、デジタルデバイドが小さいことや、第8章でも見たように日本は欧米と比較すると文化や宗教的な背景もあって、ロボットやAIに対する受容度が高いことがその理由である。つまりIMDのデジタル競争カランキングでは捉えきれていない、土壌としての「デジタル受容度」のようなものが世界的に見てもかなり高いのではないかと考えている。
 これを企業の視点から見れば、規制の問題はあるものの、新たなデジタルサービスの実験場であったり、プロトタイプを開発する場として日本は非常に魅力があるということになる。そして日本をホームグラウンドにしている日本企業は、相応のアドバンテージを持っていると言えるのではないか。
 欧米のシェアリング・エコノミー企業は日本に大きな関心を示している。市場への関心だけでなく、何か日本で新しいサービスを生み出せるのではないかという期待感もあるだろう。そうだとすれば、日本のインバウンド強化戦略の一環として外資の誘致や合弁企業等の設立、また外国人人材を日本に引きつけるといった動きも活発化させることで、国としての日本のデジタル・トランスフォーメーションが加速化され、世界を牽引する役割を果たしていけるのではないだろうか。

人間の主観世界の重要さ

 デジタルによって経済社会はどう変わるのか、それが本書の中心テーマである。そしてこの変化を最も象徴しているのが、第3章で紹介した消費者余剰の存在感の高まりではないかと考えている。消費者余剰、つまり人間の主観の領域にデジタルがスポットライトをあててきているのである。ドラッカーが指摘しているように、産業革命はそれまで暗黙知とされてきた職人技(テクネー)を体系化(形式知化)した。それに対してデジタル革命は、センサー技術やネットワークを駆使して、さらに奥深いところに存在する人間の感情や意志のようなものまでを、何とか表出化させようとしているかのように見える。
 それに伴い、ハンナ・アレントが『人間の条件』で論じた「労働」「仕事」「活動」も序列が大きく変わっていく。自分が何者かをさらしていく「活動」の序列が最も高まり、次に人間の想像力をべースに世界を作り出す「仕事」が続く。そして「労働」はロボットやAIに代替されるにつれて序列が下がっていくだろう。序列の完全な転倒が起こるのである。
 デジタル革命というと、ロボットやAIのような客観的存在に注意が行きがちであるが、デジタル化の進展によってむしろ人間の主観領域がより脚光を浴びると考えている。デジタル資本主義では、主観知、実践知、あるいは集合知と呼ばれる知が重要性を増してくるのだ。第7章でも示したように、資本主義システムは、利潤獲得のために顧客のこだわりをこれまで以上に引き出して支払意思額を高めようとするはずである。そこにアナリティクスやAIなどの技術が活用される。
 デジタルによって人間の主観世界がより掘り出されるということは、それによって実現される我々の社会像も、これまで以上に人間の主観に依存するということを意味する。我々人間がどういうデジタル社会を作りたいか、あるいはどういう社会になると考えているか、によって実現する社会像も変わってくるのである。PARTⅢでは2つのフレームワークを紹介したが、デジタルによって、柄谷モデルで言うところのどの領域を強めたいと我々は考えているのか、あるいは川田モデルで言うところの、どの技術文化のもとでデジタルを活用していこうとしているかがカギとなるだろう。その意味で、本書はデジタル社会の未来像について唯一の解を提示しているわけではないが、どのような未来を作り出すかは人間次第、しかもそれはデジタル化の進展でより顕著になると考えている。
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