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豊田市図書館の30冊

914.6『続「戦後」倫理ノート』

559『戦争と平和のテクノロジー』

233.05『シェイクスピアの時代のイギリス生活百科』

578.57『富士フイルムの『変える力』』華麗なる方向転換ができた すごい技術の秘密

019.12『役員になれる人の「読書力」鍛え方の流儀』先人の経験や知を活かさない手はない

288.41『立憲君主 昭和天皇 下巻』

368.2『新 貧乏物語 しのび寄る貧困の現場から』

203.6『新版 世界史モノ事典』

312.9『世界を分断する「壁」』

C25.3『生活道路のゾーン対策マニュアル』--身近な道路を安全に-- ゾーン設定からデバイスの導入まで

290.38『スマートアトラス 世界・日本地図帳』

302.22『香港 返還20年の相克』

913.6『旭日、遙かなり 5』

210.03『新版 日本史モノ事典』

291.81『大学的 徳島ガイド--こだわりの歩き方』

289.3『美しき闘争』

324『リーガルベイシス 民法入門』

538.9『道への飛翔--宇宙はすぐそこに2--』

674.1『#HOOKED』消費者心理学者が解き明かす「つい、買ってしまった。」の裏にあるマーケティングの技術

391.6『CIA極秘分析マニュアル「HEAD」』武器としてのインテリジェンス

209.5『1493 入門世界史』コロンブスからはじまるグローバル社会

302.59『カリブ海世界を知るための70章』

301『世界の見方が変わる50の概念』

135.57『処罰社会』

135.4『思考と動くもの』ベルクソン全集7

281.04『日本を飛び出して世界で見つけた僕らが本当にやりたかったこと』海外で成功した日本人20人の働き方

392.1『自衛官になる本2019-2019』陸上・海上・航空自衛隊 自衛官への道を完全収録

326.81『物言えぬ恐怖の時代がやってくる 共謀罪とメディア』テロ対策が目的ではない 驚かされる市民社会

019.9『読み聞かせを活用したビブリオトーク』若者の言葉で伝えよう!

019.9『読書で離婚を考えた。』
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憎悪は連鎖し、破壊を招く

なぜ、選抜は18人なのか

 なぜ、選抜は18人なのか。6×3にしたかったのもあるけど、アンダーとの関係もある。アンダーも18人になる。そして、三期生が12人。合わせると48人になる。三期生と選抜の二人を重ねることで、46人になる

 先発とアンダーを同数にしたかった。デュアルを狙ったのでしょう。同数なら、様々な実験ができる。数学的にとくとこうなります

 なぜ、6×3の18にしたかったかは国民的行進曲を狙っているから。それも選抜とアンダーで挟むカタチにしたいから。

 そこまで考えるとアンダーの配列が見えてくる。握手会で5部制の8人でフロント6人と三列目の両脇を固める。二列目の生ちゃんの位置にひめたん、真夏の位置にかりんとなる。

8時が2時になっている

 今日は8時に家を出る予定が2時になってしまった。この最近はこのパターンですね。暑い。タオルがいる。

三期生のWセンターの役割

 三期生のWセンターが、山下とかクボとかりりあんでなくて、あの二人になったのは、カンナエ先方として、理解できる。弱さで誘い込むためです。人寄せパンダです。弱ければ弱いほどいい。ハンニバルの時の心配です

 18thでなぜ、二人が三期生から抜擢されたか分かってきた。18(選抜)+18(アンダー)+12(三期生)=48人となる。三期生と選抜を兼任させれば46人。

 「くぼした」は「いくひめ」に似ている。だからひめたんは久保が気になるのでしょう。内面から理解できてしまうから。

 そんな観点で、今日の久保のSHOWROOMで5万人超えるかどうか見ていた。ジャスト5万人になった。

TRCの女性

 TRCになって、カウンターが変わった。今日の女性は受け答えが魅力的だった。楽しみが増えた。歳を聞く手段。本の冊数で「いまいくつ」。これで年齢を応えてくれるかもしれない。

 本の冊数が「今、いくつ?」に掛けて、誤解を誘ったが無理だった。

SHOWROOMが渋滞している

 SHOWROOMが凄いことになっている。欅のあとに乃木坂の個人配信が始まった。山下のあとにくぼしたで五万人、五時からのれなちで三万人。この時間では考えられない。皆、コメントを読むために顔を近づける。7時からの久保は今日が16歳の誕生日だから、多分、五万人はいくでしょう。

ハンニバルはローマ憎しでやってて、カルタゴは滅んだ

 ハンニバルはローマの重装備歩兵をどのように壊滅させるのか考えたのか。その時が一番充実していた。カンナエで実際の姿になったときに愕然としたのでしょうか。空っぽのローマに向かわなかった。

 第三次ハンニバル戦争後、カルタゴは壊滅した。ローマ軍は塩を撒いて、何も生えないユニした。憎しみは増加し、連鎖する。

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「鬼十則」と企業文化

『広告的知のアルケオロジー』より 知識経営の課題--〈鬼十則〉と企業文化

電通には「鬼十則」という行動指針が存在した。「した」というのは二〇一六年の電通の新入社員自殺をきっかけとする長時間労働で特に第五項が取り上げられ、鬼十則=長時間労働の元凶といった一般の世間からの批判に対して対応し、「行動理念」から「正式」に削除されたためである。

筆者自身は電通生活三十年の中で「鬼十則」の持つメッセージ内容に深く共感してきたが、新入社員登格制度のころ、訳も分からずおぼえこまされた「鬼十則」に強い反発感を持ったことも確かだった。それは「鬼十則」の「……しろ」「……するな」といった軍隊調の文体が、命令形・断定形で書かれていることへの反発だったのかもしれない。

「鬼十則」をよく読めば誰でもわかると思うが、その内容は(1)失敗を恐れないチャレンジ精神、(2)社員一人一人の個性の尊重、(3)顧客満足の徹底的な追求、などの要素からなっており、それは「鬼十則」作成当時(新しい電波メディアの飛躍的進展が予想される時代への予感のもとに)、吉田秀雄社長が自らのことばで、電通社員が目指すべき行動スタイルや磨くべき知識・能力にはっきりとした方向性、ペクトルを与えたものであったと思う。さらにそれが時代や社会を超えてビジネス(特に価値創造型・市場創造型ビジネス)に共通して求められる行動スタイルを表現したものとして受け入れられてきたということもできると思う(これと対極にあるのは管理型・官僚型組織の行動スタイルだが、このことは後で触れたい)。

ただし、考える必要があると思うのは、時代や社会が変われば、どんなに普遍的な価値を表現したものであっても、表現そのものが時代気分とずれてきたり、使われている言葉が陳腐化したり、違和感が出てきたりする。ので、言葉遣いも含めて表現自体を時代や社会のコンテクストにあわせて(その時々の)経営者が変えていくことが必要だという点だ。

いわゆる企業理念や企業スローガン、企業の行動要綱などはCI(コーポレート・アイデンティティ)などを通して体系的に整理され、成文化された考え方が電通社内にもあると思うし、上記のような「鬼十則」の精神は一九八六年に制定された「企業理念」や「電通人の条件」の中にもちりばめられていると思うが、「鬼十則」そのものも「電通人の行動規範」としてそうした理念体系の一部としてそのまま組み込まれていた(『電通100年史・資料編』参照)。

しかし、「鬼十則」は理念体系の一部でありながら微妙な位置づけになっていて、企業理念や企業スローガンのように環境変化に対応しつつ変えていくようなものとは別に、「創業の精神」的な扱いになって、経営者も夕″チできない神聖な領域のように見られていたということも否定できない。

一方、上にあげたようなチャレンジ精神とか、個性の尊重、顧客満足の徹底的追求(それだけでぱないかもしれないが)はそれぞれ、(1)「キャリアリセット制度」(失敗して九定期間を過ぎると横並びの一段階上の資格を得られる)とか、(2)「個人商店」的な行動スタイルの容認・推奨、あるいは(3)「お得意先最優先」といった行動スタイルの奨励(役員に呼ばれても、得意先に呼ばれているということを理由に断っても問題とされない? とか)、(4)設定システムを含めた現場への権限委譲といった仕組みが存在し、失敗を恐れずに顧客のためにチャレンジしていく風土が醸成されてきたということもあるだろう。

ただ、こうした「鬼十則」の精神を実体化したような仕組みが会社としての大企業化が進行する中で、少しずつ変質していったことも事実ではないだろうか? たとえば、能力評価で半年後の目標を数値的に設定し、その目標を達成したかどうかで評価をする、といった評価手法が二時導入されたようだが、結果として、誰もが簡単に到達できる「小さな目標」、はじめから結果が出ることが分かっているような「小さな仕事」しかしなくなってしまう傾向が出てきて、「大きな仕事」とか、「数年先にしか結果が分からないような仕事」にあえて取り組もうという社員が少なくなってしまうということかあったのではないだろうか。

また、細かな数字は挙げられないが、他社と比べて電通社員の場合、「社外での活動」の割合が圧倒的に高く、「社外での活動がメインで社内では休息」というような例もあって、オフィスにいる時間が仕事をしている時間とは限らないような意識も強かったと思う。また、いわゆる「ナレッジ・マネジメント」的に言うと、「経験知」を組織として共有化するよりも、「強い個人」を育成することが重要と考える傾向があって、「個人商店」の集合体と言われたような意識が根強く存在していることも他社と比べた時の大きな違いだった。

「鬼十則」に関する社員の意識としては、

 (1)「鬼十則」は現在も生きていて電通の組織文化の基盤になっている、と考える社員と、(2)「鬼十則」は形骸化している。現実は「鬼十則」の精神とは反対の方向で組織文化が形成されている、

とする考え方が相半ばしていた。

その後、グローバル化対応と株式上場、汐留への本社移転といった経営上の大きな要請の中で、社員の意識にも変化がみられるようになってきたのではないが、ある種の管理型組織化が進展して、徐々に「鬼十則」の精神とは反対の方向に組織風土の変化が起きてきたということもあったのではないか。筆者の記憶違いがあるかもしれないか、社内の某部署で「普通の会社になろう」というようなスローガンが掲げられたり、「粛々と」というような官僚型組織に典型的な言葉遣いが社内で使われ始めたことなど、(パブリック・カンパニーとしてある意味仕方のないことだったかもしれないが)なんとなく居心地の悪さを感じた社員もいたと思う。

筆者自身は三十年間お世話になった電通を二〇〇二年に退社したこともあり、その後の電通社内の事情の変化についての情報ぱほとんど持っていない。右に述べたような流れがその後もさらに進行しているのか、それとはまったく次元の違う新しいビジネス環境の中で、電通という企業の蓄積してきた知的リソースが役に立たず、コモディティ化したサービス競争の中で効率化競争に陥ってしまっているのか、判断できない。そんな前提での議論なので、的外れのことがあると思うし、筆者の記憶違いもあるかもしれない。
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カリブ海世界にシリア・レバノン系社会

『カリブ海世界を知るための70章』より グローバル化するカリブ海世界 ★大きな経済格差と人口減少に直面する小国家群★

環カリブ海地域のビジネス界を語るうえでシリア・レバノン系移民の存在は欠かせない。彼らの父祖は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、地中海東部沿岸のシリア・レバノン周辺からカリブ海域に移住してきた東方正教会やマロン派のキリスト教徒であった。オスマン帝国によるキリスト教徒への迫害から逃れるため、そして商機と安住の地を求めて、約60万人のシリア・レバノン人が南北アメリカ大陸へ移住した。そのうちの80%がアルゼンチン、ブラジル、メキシコおよびキューバをはじめとするカリブ海域に定住したとされる。

当時のカリブ海諸島は、シリア・レバノンからフランスのマルセイユやイタリアのジェノヴァなどの港を経由して米国へ向かう航路の中継地点の役割を果たしていた。乗船した移民の中には、移住斡旋業者が船会社へ米国までの運賃を未払いだったために航路途中のキューバ、ジャマイカ、トリニダードなどのカリブ海諸島で下船せざる優得なかった者もいれば、カリブ海域を移住先とした者もいた。後者の典型は、1893年にパレスチナのベツレヘムからジャマイカに移住したエリアスーイサである。彼と息子のエイブラハム・イサの回顧録によると、1891年のジャマイカ万国博覧会を訪れた知人が語った現地での商機を聞き、移住を決心したという。首都キングストンに到着したイサ親子は、モーニングコートや豪華なドレス姿の男女や、ドーティ(腰布)姿のインド人男性で混雑し、電気や水道が整備された街を、馬やラバが引く路面車両が走るのを見て商機を確信したという。

新たな移民としてのシリア・レバノン系のビジネス戦略は、移住先の一般市民と同じ暮らしをして、現地にはまだ存在しない分野のビジネスに着手するというものであった。そうして一般市民と平等な存在として社会に馴染み、現地のビジネス界では競争を回避して良好な関係を構築した。また移住先でカトリックに改宗した多くのシリアーレバノン系は、カトリックを信仰する現地のエリート層と教会で親交を深めることができた。つまり彼らは、白い肌など身体的特徴が彼らと似ている植民地支配者であるヨーロッパ系エリート層との違いを明確にしながら、エリート層と親密な関係を構築した。そうすることで、一般市民からは親しまれるビジネスマンとして、またエリート層からは利権を邪魔されない存在として認識されてきたのである。例えば、20世紀初頭に人口の多くを占める非ヨーロッパ系市民に対して銀行がローンの貸付や支払い猶予などを認めなかったときも、訪問商法を通じて各顧客の希望やニーズと同時に家計状況や金銭的な問題をも熟知していた彼らは、積極的に支払期間に猶予を与えて顧客の希望に柔軟に対応したという。

もちろん、このシリア・レバノン系の成功を好ましく思わない伝統的な支配者層やビジネス界の人々は、カリブ海域各地に少なからず存在していた。例えば、20世紀初頭に商機を求めて米国からハイチヘ再移住したシリア・レバノン系市民は貿易で大成功を収め、その影響力はハイチの政界に達するほどだった。この状況に危機感を覚えた(イチ政府役人やエリート層はシリア・レバノン系移民の排斥を訴え、彼らに不利益な貿易許可条件を課し、さらに最終的には貿易行為そのものを禁止したそのためほとんどが商人であったハイチのシリア・レバノン系は、米国や他のカリブ海諸島への再移住を余儀なくされた。同様の排斥の動きは、キューバなどカリブ海の他の地域でも起こった。

それでも第二次世界大戦後、既にカリブ海域でビジネスに成功した家族・親戚・知人を頼って、さらにシリア・レバノンから移民がやってきた。1952年にシリアからカリブ海域に移住してきたファレス・エリアス=ハディードは、まずベネズエラで2年間食料品の販売を行い、次はジャマイカで1年間、ガイアナで6ヵ月、バルバドスで2年間、トリニダードとグレナダで6ヵ月働き、1958年からアンティグアに定住を決めたという。この間、どの国・地域に行ってもシリアの同郷出身者に暖かく迎えられ、移住先で商売を始める資金の貸付やさまざまな援助を受けたという。血縁と地縁を尊重するシリア・レバノン系は、カリブ海域へ到着した同郷からの新移民を手厚く支援してきた。

現在、シリア・レバノン系としての強いアイデンティティを持つシリア・レバノン系社会は、グレナダなどの小さな島も含めたカリブ海全域に存在する。アンティグアのシリア名誉領事によると、現在アンティグアに住む約500人のシリア・レバノン系市民のうち、第3世代以降の若者の多くは幼少より定期的にシリアヘ渡航しており、結婚相手にシリア・レバノン系を選ぶという。また子どもの教育や職業の選択、起業についてはアンティグアに住む家族だけでなく、カリブ海全域、米国やラテンアメリカ諸国、ヨーロッパなどに広がる一族の総意によって決められるという。このように血縁と地縁の絆が強いシリア・レバノン系社会では、シリア・レバノン系家族経営の企業同士での商取引は少なくなく、閉鎖的で排他的であると批判され、時には僻みと妬みの対象ともなってきた。

こうして20世紀初頭に布生地を詰め込んだスーツケースと反物を抱え行商をしていたシリア・レバノン系移民は、20世紀半ばには店舗を持ちビジネスを展開し始め、21世紀の現在は、金融・航空・電力・メディア・不動産・リソートホテル・輸入・外食などカリブ海域の重要な産業を支えるようになり、経済界のみならず医学・学術・政界への進出も著しい。彼らの影響力はさまざまな分野に及び、植民地時代の名残で土地を持つョーロッパ系エリートに対し、カリブ海全域で最も現金を持つビジネス成功者として認められている。

1989年から9年間ジャマイカ首相を務めたエドワード・シアガはレバノン系である。公務員の給料支払いのためアンティグア政府に自己資金を融資したとの報道がある。トリニダードの首都には、ユセフやアブドラなどシリア系の名前がつく店や道路が存在する。カリブ海全域で見かけるマトウクーブランドのケチャップやマヨネーズ、ノーべル文学賞のカリブ版と呼ばれるアンソニー・サブガ文学賞の創設なども、シリア・レバノン系によるものである。移住当初はアラブ人と認識されていたシリア・レバノン系は、21世紀現在はその経済力と肌の白さ、改宗カトリック教徒であることから、ヨーロッパ系社会の一員として認められることも多く、エリートとしてビジネスを展開している。
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人間活動とコロンブス交換で小氷期出現

『1493 入門世界史』より 一六四二年の世界はどうなっていたか?

大西洋と太平洋を横断する航海によって、突如として世界規模の経済システムが出現した。しかし、新しい貿易形態が生命史に新時代を招き入れたというのは、本当なのだろうか? この質問に答えるため、コロンブス第一回航海の一五〇年後に当たる一六四二年の世界を、想像の飛行機に乗って一周してみよう。高度一万メートル上空からは、コロンブス交換による大攬乱の初期に揺れる地球が見えるはずだ。いったい何が起こっているのだろうか?

一六四二年までのほぼ一〇〇年間、ヨーロッパでは、雪の多い冬、遅い春、寒い夏という異常な気候が毎年くり返されていた。川という川は凍結し、デンマークからスウェーデンまで、一六○キロメートルにわたって海面が凍り、歩行できるようになったという。農作物は生育が遅れ、まったく収穫できないこともあった。食糧不足のせいで、暴動や土地の不法占拠が起き、暴力が横行し、世の中から秩序はなくなったように見える。

この寒冷な時期は〝小氷期〟と呼ばれている。北半球では、一五五〇年から一七五〇年までの二〇〇年間つづいたと見られているが、場所によってばらつきがあるため、明確に期間を断定することはできない。当時、気象に関する記録をとりつづけていた人はほとんどいないので、小氷期については、樹木の年輪の幅や、極地の氷にふくまれる気泡の成分を調べるなど、間接的な方法によるしかないのだ。専門家は、小氷期の原因について、太陽の黒点活動や火山噴火をふくめ、さまざまな説を挙げてきた。ところが二〇〇三年、過去の気候変動を研究する古気候学者のウィリアム・F・ラディマンは、まったく異なった原因説を発表した。小氷期は、人間活動とコロンブス交換によって説明できるというのだ。

ラディマンによると、人間は共同体を作り、土地を開墾して農地にし、木を伐採して燃料や住まいに供してきた。ヨーロッパとアジアでは、森は斧によってひらかれた。しかし、コロンブス到着以前のアメリカ大陸では、先住民は火によって開墾していたのだ。北米の広い地域が、インディアンのたき火から立ちのぼる煙に何週間も覆われていたという。同様の光景は、アルゼンチンの大草原、メキシコの丘陵地帯、アンデスの高原地帯でも見られた。彼らは毎年、定期的に火入れを行なって、じゃまな下生えを燃やし、害虫を焼き払って農地をひらいたのである。南米・中米で出土した古代遺跡三一ヵ所を調査した結果、火入れの証拠となる土中の炭の総計は、二〇〇〇年以上にわたって顕著にふえつづけていたことが判明している。

そして、コロンブス交換が起きた。ユーラシア大陸からの病気や寄生生物がアメリカ大陸へ襲いかかり、きわめて多くの人命が失われた。そのため、何千年間も森の管理をつづけてきた先住民が激減し、火入れの炎は絶えた。ひらけた草地はまもなく森にのみこまれてしまった。北米のマサチューセッツに〝ピルグリム・ファーザーズ〟が上陸してから一四年後の一六三四年、入植者の一人ウィリアム・ウッドは、以前は明るくひらけた森だったのに、今や下生えがびっしりと茂り、「通り抜けるのもひと苦労だ」と不満を記している。このように森林は、北米、中米、アンデス、アマゾン盆地の大部分で自然状態へ回帰した。

ラディマンの主張は単純明快だ。新たにもちこまれた病気によって、先住民社会が崩壊した結果、森への火入れが激減し、樹木の生長が旺盛になった。火入れがなくなって森が生長するという過程が、大気中の二酸化炭素量を減少させたというのである。二酸化炭素は、〝温室効果ガス〟でもある。太陽熱を吸収して大気圏内にとどめ、地球の気温を上昇させる温室効果をもつ物質の一つだ。つまり、二酸化炭素の総量がへれば熱が蓄積されにくくなり、気温も低くなるはずだ。現代の科学者は、大気中の二酸化炭素の増加によって地球は温められ、気候変動が引き起こされている、と警告している。ラディマンはそれとは逆に、大気中の温室効果ガスがへったために寒冷な気候が出現した、と主張しているのだ。

想像の飛行機でアメリカ大陸上空を飛んでみれば、小氷期の影響がはっきりと見てとれる。インディアンが管理していた土地は森にのみこまれ、さらに雪に覆われている。ボストン港はもちろん、もっと南のチェサピーク湾も大部分が凍りついている。北のメインやコネティカットでは、ヨーロッパからもちこまれたウシやウマが、雪の吹きだまりの中で息絶えている。カナダに入植地モントリオールを建設したばかりの四〇人ほどのフランス人は、厳しい寒さで今にも凍死しそうだ。

それではメキシコまで南下し、中国へ向かう銀の輸送船団を追っていこう。小氷期は、東アジアでも猛威をふるっている。こちらで問題になっているのは雪や氷ではなく、寒冷な日照りつづきで渇水になる時期と、豪雨の時期が交互にやってくることだ。一六三七年から一六四一年までの五年間は、過去五〇〇年で最悪の干魅に見舞われていたのに、翌一六四二年には、雨で作物は水浸しになっている。太平洋東部で頻発した火山爆発とも相まって、被害はますます深刻化している。噴火によって大気中に吐き出された亜硫酸ガスが水蒸気と混ざり合い、硫酸塩の微細な粒に凝結し、太陽熱を宇宙へはね返しているのだ。このことも、気温低下の原因の一つになっている。

何百万という人々が命を落とした。国民の大量死と雨の多い寒冷な天候のせいで、中国の農地の三分の二は耕作されず、飢饉の発生に拍車がかけられている。人肉食いが横行しているとのうわさもある。時の支配王内での党争と北方勢力との戦争で、身動きがとれないのだ。スペイン王室と同じく、明の皇帝はスペインから輸入した銀で官軍をまかなっているが、兵たちは銀で税金を納めることになっている。ところが銀の価値が下落して税収がへり、国庫は財源不足におちいった。六つの省で、農民による大規模な反乱が起きている。そして、一六四二年から二年後の一六四四年、首都北京は、反乱軍の指導者李自成に占領されてしまうのだ。

中国でのこうした急激な変化は、富と権力がより大きなスケールで移行していた時期の一例にすぎない。同様の変化は、世界中で起きていた。

世界の大都市が移動した

 コロンブスがラ・イサベラを建設した一四九四年には、もっとも人口の稠密な大都市は、熱帯地方に集中していた。一都市をのぞいて、すべて赤道から緯度三〇度以内に位置していたのである。世界最大の人口を擁していたのは、唯一の例外である北京だ。二番目が、南インドのヒンドウー教国ヴィジャヤナガル王国の同名の首都で、人口が五〇万を超えていたのはこの二都市だけだった。つづいて、エジプトのカイロ、そして中国、イラン、インドの数都市、メキシコにあったアステカ帝国の首都テノチティトラン、現在のトルコであるオスマン帝国の首都イスタンブール、さらに、西アフリカのイスラーム国ソンガイ王国の首都ガオと、アンデス山中のインカ帝国の首都クスコも挙げられるだろう。このように世界の主要大都市には、おそらくはパリをのぞき、ョーロッパの都市は一つも入っていない。現生人類ホモ・サピエンスが最初に見上げたのがアフリカの空だったように、世界の中心はつねに暑い地域にあったのだ。

 しかし、コロンブス到着から一五〇年後の一六四二年、この摂理は変わりつつある。まるで地球が引っくり返されて、富と権力のすべてが南から北へ流れ出したかのようだ。栄華を誇った熱帯の大都市は、今や没落しつつある。数百年たつと、イギリスのロンドンやマンチェスター、アメリカ合衆国のニューョーク、シカゴ、フィラデルフィアのように、世界の主要都市はすべて北半球の温帯地方へ集中していく。一九○○年には、世界で最大の人口を擁する都市は、もっとも西洋化された東京をのぞいて、すべてヨーロッパかアメリカ合衆国に位置するようになる。

 なんとも衝撃的な変化が起きているのだ。あっという間に、何千年もつづいてきた人類史の秩序はくつがえされてしまった。だが、今日では、生態系や経済面でのあわただしい交換は、宇宙から届く自然放射線のようなものになった。史上かつてなく多くの人々が住むこのせわしない惑星に、自然放射線はつねに降りそそいでいるが、わたしたちはまったく気づかない。それと同じように、ブラジルに日本人の森林伐採者がいても、西アフリカに中国人のエンジュアがいても、あるいはネパールでリュックを背負って登山していたヨーロッパ人がニューヨークでディナーを楽しんでいたとしても、もはや誰も驚いたりはしない。形こそ違っても、似たような交換は何百年も前から起きていたのだ。そうした過去の交換こそが、今ある世界までの道のりを語ってくれるに違いない。
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