未唯への手紙
未唯への手紙
ロシアの地政学 ユーラシアは大きな変化に向かう?
『地図で見るロシアハンドブック』より ロシアの地政学的利点
思いがけない鉄のカーテンの消失(1989年)とソヴィエト連邦の崩壊(1991年)は、分析のための時間をあたえなかった。このような激震を予想していた者はなく、したがってあらたな構造を想定していた者もいなかった。1993年から2001年までのクリントン政権時代に、モスクワの支配から自由になった地域に対するアメリカの政策の基礎が築かれた。NATO発足の原因となった冷戦は消滅しているにもかかわらず、NATOを拡大するという選択がなされたことは、アメリカで大いに議論された。
世界の地政学的な認識
ホワイトハウスが選択した政策は、ブレジンスキー・ドクトリン(『Le Grand echiquier』[邦訳名『地政学で世界を読む21世紀のユーラシア覇権ゲーム』]、1997年)の焼きなおしである。つまり、旧東欧諸国と旧ソ連諸国をEUとNATOにとりこんで、「欧州・大西洋共同体」に統合し、ロシアを遠ざけておくというものだ。フランス語版(1997年)の序文でジェラール・シャリアンが次のように書いている。「これは封じこめ(containment)ではなく、フォスター・ダレスが夢見てかなわなかった、撃退(roll back)である」。このドクトリンは、「海洋の強国」(1904年におけるマッキンダーにとってはイギリス、1942年におけるスパイクマンにとってはアメリカ)の存亡にかかわる敵ハートランド、つまり「大陸の強国」をユーラシア大陸に見ていたマッキンダーとスパイクマンから着想を得ている。スパイクマンにとってロシアはハートランドの強国であり、リムランドヘの支配をさまたげることがきわめて重要となる。リムランドはイギリスから日本まで延びるひとつながりの陸地で、人口と世界の富の大部分がふくまれている。戦後のアメリ‘カ政策の提唱者ジョージ・ケナンは、そのために「封じこめ」ドクトリンを作成する。リムランドにアメリカの同盟国の鎖をつくることを勧めたのである。
ブレジンスキー・ドクトリン(1997年)はウクライナに注目し、「ウクライナを失えば、ロシアはもはや帝国にはなりえない」としている。こうした観点からアメリカは2008年に、ウクライナとジョージアをNATOに加盟させる決定的なプロセスを開始しようとしていた。
この政策はアメリカで非難された。1998年にジョージ・ケナンはNATOの淑方拡大を、強国アメリカにとって「悲劇的なまちがい」「自己破壊的」(「self-defeating」)だと述べている。地政学者ソール・コーエンは2005年に次のように書いた。「ワシントンのもっとも挑発的な戦略は、ウクライナをNATOに加盟させようとしていることだ」。そして「国家の経済を破滅させる分離独立主義の紛争」を予想していた。
NATOを媒介としてウクライナを西側につなぎとめるというワシントンの考えは、軍事力を太平洋側に集中できるように、この地域を最終的に安定させる計画のあらわれと見る向きは多い。しかし紛争の歴史の上に建つキエフ周辺では、千年前から永続的な安定が得られたことはなかった。
2013年にヘンリー・キッシンジャーとズビグネフ・ブレジンスキーは状況を見なおし、ウクライナのフィンランド化[議会民主制と資本主義を維持しつつも共産主義国の勢力下におかれる状態]を強く勧めた。ウクライナがNATOに加盟するという脅威は、ロシアでの民族主義の高まりをまねくことになるからだ。というのも2013年の状況は、もはや1995年とは違っていたからである。ロシアは軍事大国になっていた。ロシアの反発はヨーロッパにおけるアメリカの負担を軽くするどころか、逆によりいっそう部隊を増強しなければならなくなるかもしれない。さらに「ロシアと中国がお互いに手をにぎりあう」ことになりかねないのであり、中国の力がさらに強まることになるだろう。2009年の東方パートナーシップは、EU構造基金を媒介として、ウクライナを西側にとりこむというねらいがあった。しかし結合したアメリカとEUは、自然の後背地から孤立し、その後背地と衝突しているウクライナを永続的に支える手段はもっていない。
ウクライナの引き金
EUと東方パートナーシップを結んだのは、事実上ロシアをウクライナから締め出したことになり、ロシアが反応を示さないということはありえなかった。2月22日の合意が守られず、政権交代がおこなわれたことが決定的だった。2014年3月にロシアがクリミアでおこなったのは、ウクライナがNATOに加盟するリスクを前にして死活問題であるセヴァストポリを守ろうとする防衛行動だった。国際的な危機が生じて、欧米との密接な経済関係にもとづいた発展計画がさまたげられるという犠牲をはらってでもそうしたのである。
欧米諸国はロシアと、ウクライナ中・東部の歴史的な関係がどれほど重要かわかっていなかったし、ウクライナからの締め出し計画がロシアにどれだけ衝撃をあたえるかもわかっていなかったのだという見方が広まっている。欧州では、EUとロシア間に築かれた「無理解の壁」の結果であるとされている。
ミアシャイマーから見ると、それはアメリカの「無自覚」であるという。ホワイトハウスは自由のドグマに忠実に従った。それは国家を解体させた新しい世界の秩序である。この理想主義的なヴィジョンは、ある当事者が現実主義のロジックによって反応するかもしれないということを理解できない。地政学という観点でいえば、こうした外交上のヴィジョンとは別に、ロシアとの危機は利益がないわけではないということに気づかされる。
・NATOにはもはやアフガニスタン以外の任務はなかった。欧米とロシアの緊張に悪い気はしなかったのも当然のことかもしれない。
・EUは有権者たちからますます異議を唱えられるようになっている。有権者たちが「バルバロイ(蛮族)」が戸口にいると信じてこわがることにメリットを見いだすかもしれない。
・アメリカにとっては、ヨーロッパ人たちが不安になれば、アメリカの意向によりいっそう迎合してくるかもしれない。
こうしたロジックが働いて、欧州・大西洋グループが形成されつっある。しかしそれが表面化すれば、世界的に重大な結果をまねくことになる。
地政学のバタフライ効果?
中世の昔からロシアにとってテクノロジーの進歩は西欧から来ていた。西側では多くの人が、ロシアは全面的に依存関係にあると信じている。だから対ロシア制裁での先端技術の輸出禁止は適切だと思われている。気がかりなのは、15世紀にはじまった長い例外的な時代が、ちょうど終わろうとしているということだ。ヨーロッパが、いつもイノベーションの原動力となっていたわけではないのである。中国は数千年ものあいだヨーロッパよりも前にいた。中国のテクノロジーはすでに代用品を提供することができ、中国とロシアの能力を合わせれば、近いうちに大きな展望が開かれる。ユーラシア大陸のなかで、中国とロシアは警戒しあってきた。欧米の経済制裁は中国とロシアに、エネルギーや輸送手段のインフラで協力しあい、テクノロジーを共有するほうがいいということに気づかせた。もっと広く見れば、目下きわめて不評をかっている覇権主義的大国、かっての植民地大国、そして日本が手を結んでいる欧州・大西洋グループが表立った動きをすれば、中国・ロシアの軸を強固にすることにしかならない。多くの新興国も、中国・ロシアに依存するほうが、政治的・経済的利益があるということになる。
ロシア政府は10年ほど前から、トルコをふくむヨーロッパ全体と、太平洋にまでいたるすべての旧ソ連諸国を統合した広大な自由貿易圏をうち立てる構想を勧めていたが、EU執行部によっていつもはねつけられていた。2013年に開かれたロシアとEUの最後の会合で、皮肉なことにEU委員長マヌエル・バローソがこのことをとりあげた。21世紀の二大国である中国と北アメリカを前にして、EUとロシアがとるべき最良の選択は、地中海南岸と経済的・政治的協力関係を築くことであり、それが実現できなければEUとロシアは二大国のどちらかの支持にまわぅて相争うしかなくなるだろうという認識が、この構想の出発点だった。
思いがけない鉄のカーテンの消失(1989年)とソヴィエト連邦の崩壊(1991年)は、分析のための時間をあたえなかった。このような激震を予想していた者はなく、したがってあらたな構造を想定していた者もいなかった。1993年から2001年までのクリントン政権時代に、モスクワの支配から自由になった地域に対するアメリカの政策の基礎が築かれた。NATO発足の原因となった冷戦は消滅しているにもかかわらず、NATOを拡大するという選択がなされたことは、アメリカで大いに議論された。
世界の地政学的な認識
ホワイトハウスが選択した政策は、ブレジンスキー・ドクトリン(『Le Grand echiquier』[邦訳名『地政学で世界を読む21世紀のユーラシア覇権ゲーム』]、1997年)の焼きなおしである。つまり、旧東欧諸国と旧ソ連諸国をEUとNATOにとりこんで、「欧州・大西洋共同体」に統合し、ロシアを遠ざけておくというものだ。フランス語版(1997年)の序文でジェラール・シャリアンが次のように書いている。「これは封じこめ(containment)ではなく、フォスター・ダレスが夢見てかなわなかった、撃退(roll back)である」。このドクトリンは、「海洋の強国」(1904年におけるマッキンダーにとってはイギリス、1942年におけるスパイクマンにとってはアメリカ)の存亡にかかわる敵ハートランド、つまり「大陸の強国」をユーラシア大陸に見ていたマッキンダーとスパイクマンから着想を得ている。スパイクマンにとってロシアはハートランドの強国であり、リムランドヘの支配をさまたげることがきわめて重要となる。リムランドはイギリスから日本まで延びるひとつながりの陸地で、人口と世界の富の大部分がふくまれている。戦後のアメリ‘カ政策の提唱者ジョージ・ケナンは、そのために「封じこめ」ドクトリンを作成する。リムランドにアメリカの同盟国の鎖をつくることを勧めたのである。
ブレジンスキー・ドクトリン(1997年)はウクライナに注目し、「ウクライナを失えば、ロシアはもはや帝国にはなりえない」としている。こうした観点からアメリカは2008年に、ウクライナとジョージアをNATOに加盟させる決定的なプロセスを開始しようとしていた。
この政策はアメリカで非難された。1998年にジョージ・ケナンはNATOの淑方拡大を、強国アメリカにとって「悲劇的なまちがい」「自己破壊的」(「self-defeating」)だと述べている。地政学者ソール・コーエンは2005年に次のように書いた。「ワシントンのもっとも挑発的な戦略は、ウクライナをNATOに加盟させようとしていることだ」。そして「国家の経済を破滅させる分離独立主義の紛争」を予想していた。
NATOを媒介としてウクライナを西側につなぎとめるというワシントンの考えは、軍事力を太平洋側に集中できるように、この地域を最終的に安定させる計画のあらわれと見る向きは多い。しかし紛争の歴史の上に建つキエフ周辺では、千年前から永続的な安定が得られたことはなかった。
2013年にヘンリー・キッシンジャーとズビグネフ・ブレジンスキーは状況を見なおし、ウクライナのフィンランド化[議会民主制と資本主義を維持しつつも共産主義国の勢力下におかれる状態]を強く勧めた。ウクライナがNATOに加盟するという脅威は、ロシアでの民族主義の高まりをまねくことになるからだ。というのも2013年の状況は、もはや1995年とは違っていたからである。ロシアは軍事大国になっていた。ロシアの反発はヨーロッパにおけるアメリカの負担を軽くするどころか、逆によりいっそう部隊を増強しなければならなくなるかもしれない。さらに「ロシアと中国がお互いに手をにぎりあう」ことになりかねないのであり、中国の力がさらに強まることになるだろう。2009年の東方パートナーシップは、EU構造基金を媒介として、ウクライナを西側にとりこむというねらいがあった。しかし結合したアメリカとEUは、自然の後背地から孤立し、その後背地と衝突しているウクライナを永続的に支える手段はもっていない。
ウクライナの引き金
EUと東方パートナーシップを結んだのは、事実上ロシアをウクライナから締め出したことになり、ロシアが反応を示さないということはありえなかった。2月22日の合意が守られず、政権交代がおこなわれたことが決定的だった。2014年3月にロシアがクリミアでおこなったのは、ウクライナがNATOに加盟するリスクを前にして死活問題であるセヴァストポリを守ろうとする防衛行動だった。国際的な危機が生じて、欧米との密接な経済関係にもとづいた発展計画がさまたげられるという犠牲をはらってでもそうしたのである。
欧米諸国はロシアと、ウクライナ中・東部の歴史的な関係がどれほど重要かわかっていなかったし、ウクライナからの締め出し計画がロシアにどれだけ衝撃をあたえるかもわかっていなかったのだという見方が広まっている。欧州では、EUとロシア間に築かれた「無理解の壁」の結果であるとされている。
ミアシャイマーから見ると、それはアメリカの「無自覚」であるという。ホワイトハウスは自由のドグマに忠実に従った。それは国家を解体させた新しい世界の秩序である。この理想主義的なヴィジョンは、ある当事者が現実主義のロジックによって反応するかもしれないということを理解できない。地政学という観点でいえば、こうした外交上のヴィジョンとは別に、ロシアとの危機は利益がないわけではないということに気づかされる。
・NATOにはもはやアフガニスタン以外の任務はなかった。欧米とロシアの緊張に悪い気はしなかったのも当然のことかもしれない。
・EUは有権者たちからますます異議を唱えられるようになっている。有権者たちが「バルバロイ(蛮族)」が戸口にいると信じてこわがることにメリットを見いだすかもしれない。
・アメリカにとっては、ヨーロッパ人たちが不安になれば、アメリカの意向によりいっそう迎合してくるかもしれない。
こうしたロジックが働いて、欧州・大西洋グループが形成されつっある。しかしそれが表面化すれば、世界的に重大な結果をまねくことになる。
地政学のバタフライ効果?
中世の昔からロシアにとってテクノロジーの進歩は西欧から来ていた。西側では多くの人が、ロシアは全面的に依存関係にあると信じている。だから対ロシア制裁での先端技術の輸出禁止は適切だと思われている。気がかりなのは、15世紀にはじまった長い例外的な時代が、ちょうど終わろうとしているということだ。ヨーロッパが、いつもイノベーションの原動力となっていたわけではないのである。中国は数千年ものあいだヨーロッパよりも前にいた。中国のテクノロジーはすでに代用品を提供することができ、中国とロシアの能力を合わせれば、近いうちに大きな展望が開かれる。ユーラシア大陸のなかで、中国とロシアは警戒しあってきた。欧米の経済制裁は中国とロシアに、エネルギーや輸送手段のインフラで協力しあい、テクノロジーを共有するほうがいいということに気づかせた。もっと広く見れば、目下きわめて不評をかっている覇権主義的大国、かっての植民地大国、そして日本が手を結んでいる欧州・大西洋グループが表立った動きをすれば、中国・ロシアの軸を強固にすることにしかならない。多くの新興国も、中国・ロシアに依存するほうが、政治的・経済的利益があるということになる。
ロシア政府は10年ほど前から、トルコをふくむヨーロッパ全体と、太平洋にまでいたるすべての旧ソ連諸国を統合した広大な自由貿易圏をうち立てる構想を勧めていたが、EU執行部によっていつもはねつけられていた。2013年に開かれたロシアとEUの最後の会合で、皮肉なことにEU委員長マヌエル・バローソがこのことをとりあげた。21世紀の二大国である中国と北アメリカを前にして、EUとロシアがとるべき最良の選択は、地中海南岸と経済的・政治的協力関係を築くことであり、それが実現できなければEUとロシアは二大国のどちらかの支持にまわぅて相争うしかなくなるだろうという認識が、この構想の出発点だった。
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ロシアの地政学 北極・極東
『地図で見るロシアハンドブック』より ロシアの地政学的利点
北極地方
さまざまな評価見積もりで、北極海の海盆は天然ガスと石油の黄金郷であるとされている。ロシア・ノルウェー側でもアメリカ側でも同様な発見があることから、投機が活発になっている。夏の海氷後退によって、探鉱される範囲はしだいに広がっている。そのため領有権についての対立が激化した。
排他的経済水域(EEZ)の問題
ノルウェーとロシアは何年も前から海上の国境線について対立していた。両国とも、バレンツ海の天然ガス鉱床が多く、漁業資源の豊富な17万5000平方キロメートルの海域を自国のものと主張していた。探鉱をこれ以上遅らせないために、両者は2010年に和解して係争海域を分けあった。
北極水域の境界についてのそれ以外の対立は、沿岸国の排他的経済水域(EEZ)の広さという、もうひとつの側面にかかわっている。法的には排他的経済水域は沿岸から200海里まで広がっている。しかし当該地域が地質学的に大陸棚の延長であることを国連の大陸棚限界委員会に証明できれば、沿岸国は主権的権利を350海里(648キロメートル)まで延長できる。
ロシアは北極のロモノソフ海嶺が地質学的にシペリア大陸棚の延長であるとしている。もしそうであればロシアは、主権的権利を炭化水素が潜在的に豊富な120万平方キロメートルの水域に拡大することができるだろう。ところがこの海嶺は、ノヴォシビルスク諸島から、カナダのエルズミーア島まで1800キロメートルにわたって延びている。そのためカナダは、自国の大陸棚の延長だと主張している。デンマークはこの同じ海嶺がグリーンランドの大陸棚の延長であることを証明するために調査している。アメリカは、ロモノソフ海嶺が海洋火山の起伏であり、どの大陸棚の延長でもないのでいかなる権利をあたえるものでもないと主張している。
2007年夏、北極点の水深4261メートルの海底にロシア国旗を設置した遠征には、海底の岩石サンプルを採取してロシアの立場を強固にするという任務もあった。この遠征はアメリカの民同企業が小型潜水艇を賃貸したおかげでなしとげられた。
気候温暖化と外交の冷えこみ
気候温暖化とともに、北極海の「白夜」の6ヵ月間の海氷後退が顕著になっている。「極夜」のあいだは、気候温暖化があろうとなかろうと、つねに海氷が存在する。
ノヴァヤゼムリャがその境界線となっている。東側はベーリング海峡まで、数f・キロメートルにわたる厚い氷が6ヵ月間以上も航路を遮断し、夏も完全になくなるわけではない。数百メートルの氷盤が流れているので、船舶は危険なまわり道を強いられる。たとえば2013年9月4日の「白夜」の最中に、二重船殻(ダブルハル)構造ではないタンカーが、カタンガ港近くの氷のなかで数日間身動きがとれなくなった。
ノヴァヤゼムリャの西側では夏の海氷後退が加速し、冬の海氷も薄くなった。ノリリスクでは、原子力砕氷船のおかげで冬でも金属の輸出をおこなうことができるが、輸送量は制限される。ネネッ地域の石油は1998年以降、ヴァランデイ港から、氷の厚さ20センチメートルまでは自力で航行できる「砕氷」タンカーで輸出されている。石油はまず、ムルマンスクに集まっている2万トン級の小さなタンカーにポンプで積み替えられる。2008年以降は海上石油ターミナルによりて、冬には7万トンの「砕氷」タンカー、夏には15万トン級のタンカーが接岸できるようになった。
ヤマルに建設中の工場はさらに大きな流れを生み出すことになる(年間1650万トンの天然ガス)。天然ガスを輸出するため、容積17万立方メートルの砕氷LNGタンカー16隻を韓国の造船所に依頼した。この新型船は厚さ1.5メートル(後退するときは2.1メートル)までの氷のなかを航行するために、マイナス52皮でもゆっくりと動けるように設計されている。現在の結氷状態であれば、アジアヘは夏の4ヵ月間、ヨーロッパヘは一年中航行することができるだろう。
ヨーロッパ・アジア間の北極海航路による輸送は進展しているが、まだ数少なく(2011年夏に18隻、2013年に294隻)、スエズ運河のレベル(年間2万隻)にはほど遠い。しかしロシアはみずからが主張する排他的経済水域の管理と協力の役割を引き受ける義務がある。1980年代にNATOはムルマンスクのロシア基地を破壊するための大規模な攻撃を想定していた。そのため北極地方には航空基地やレーダー基地網の修復がおこなわれている最中であり、ふたたび活発になっている欧米の特殊部隊の動きを牽制するために、あらたな地上部隊が北極地方に配置されることになっている。
極東のロシア
太平洋に面したロシアは、APEC(アジア太平洋経済協力)の一員である。APECは、2012年時点で世界の人口の40パーセント、世界のGDPの54パーセントを占めるメンバーたちのフォーラムとなっている。年1回の会議が2012年にヴラジオストクで開かれたとき、ロシアはこの機会にヴラジオストクをロシアのショーケースにするため、多額の資金(投資額200億ドル)を投入した。2014年、アメリカはロシアをG8から除名したが、APECから除名することはできなかった。
空白部を管理する
ロシア極東部は、人口13億人の中国をふくめ、世界でもっとも人口密度の高い地域と隣接しているにもかかわらず、人口がきわめて少ない。エニセイ川の東では、1000万平方メートルあたり1390万人しかいない。1990年には1670万人だった。ロシア人は西へ逆流する傾向があり、数少ない原住民はあまり多産ではない。中国人移民はアメリカやヨーロッパ、アフリカなど、もっと温暖で実入りのいいところへの移住を好むので、ロシアヘはほとんど入ってこない。
1990年代にはイルクーツクやコムソモリスク・ナ・アムーレにあるスホーイ社の工場が、中国、インドなどアジア諸国に作戦機を大量に輸出して近代化された。現在、ロシアの航空機産業の復興はこれらの工場にかかっている。最新型の戦闘機(Su-30、Su-35、T-50)や、ソ連崩壊後に設計された民間旅客機、スーパージェット100やイルクートMS-2の製造がおこなわれている。いっぽう宇宙産業では、口シア政府によりスヴォボードヌイ宇宙基地の再建が2006年に決定された。2020年にはロシアの有人宇宙船のほとんどがっくられることになるだろう。ロシア西部にもっとふさわしい場所があったにもかかわらず、このような選択がなされたのは、アジアに投資しようという意思のあらわれである。
これには戦略的側面も大きい。なぜなら1992年に輸送機関への補助金が廃止されたので、ロシア極東部の経済生活は東アジアに頼るようになり、しだいに密接な関係が築かれるようになったからである。
潜在的な対立
アムール川とウスリー川に沿った現在のロシアと中国の国境は、1858年のアイグン条約で定められたものだ。この条約は19世紀にヨーロッパの列強に押しっけられた「不平等条約」と中国がよんでいるもののひとつである。1969年にウスリー川流域で両国の軍事衝突が起こった。その後、国境が画定され、承認された。
もちろん中国は束シべリアの豊富な鉱物資源に触手を伸ばしたいという気持ちはあるかもしれないが、これほど苛酷な地域の整備と運営の負担を引き受けることは避けたい。いずれにしても、この地城からの販路は中国か東アジアしかない。となれば中国の利益は、ここに投資して管理することかもしれない。両国の軍事的対立は欧州・大西洋共同体に資するだけであり、それより採掘鉱区やテクノロジーで協力しあうほうがよほど有益である。
一方、ロシアと日本の領土問題は数世紀前から続いている。千島列島は1644年から日本地図に描かれている。日本人は列島南部を支配し、ロシアのアザラシ猟師たちは北部にやってきていた。1855年の下田条約で、列島北部はロシアに、列島南部は日本に割りあてられた。国境線は択捉島とウループ島のあいだを通っていた。隣にある大きな島である樺太(サハリン)は共有とされ、両国の川留者に開かれていた。
1875年のサンクトペテルブルク条約で、日本は千島列島すべてを獲得し、口シアは樺太の統治権を得た。1905年にロシアが敗北したとき、ロシアは樺太の領有権は保持したが、日本が島南部の支配権を得た。
第2次世界大戦末期、ソ連軍が千島列島と樺太を占領した。樺太については1875年の条約にしたがって意義は唱えられなかった。 1946年、ソ連は千島列島全体を併合し、南の4島に住んでいた1万7000人の日本人を追放した。両国には平和条約がまったく結ばれていない。1951年のサンフランシスコ条約により、日本は千島列島北部を放棄したが、南部の4島はそうではない。
北極地方
さまざまな評価見積もりで、北極海の海盆は天然ガスと石油の黄金郷であるとされている。ロシア・ノルウェー側でもアメリカ側でも同様な発見があることから、投機が活発になっている。夏の海氷後退によって、探鉱される範囲はしだいに広がっている。そのため領有権についての対立が激化した。
排他的経済水域(EEZ)の問題
ノルウェーとロシアは何年も前から海上の国境線について対立していた。両国とも、バレンツ海の天然ガス鉱床が多く、漁業資源の豊富な17万5000平方キロメートルの海域を自国のものと主張していた。探鉱をこれ以上遅らせないために、両者は2010年に和解して係争海域を分けあった。
北極水域の境界についてのそれ以外の対立は、沿岸国の排他的経済水域(EEZ)の広さという、もうひとつの側面にかかわっている。法的には排他的経済水域は沿岸から200海里まで広がっている。しかし当該地域が地質学的に大陸棚の延長であることを国連の大陸棚限界委員会に証明できれば、沿岸国は主権的権利を350海里(648キロメートル)まで延長できる。
ロシアは北極のロモノソフ海嶺が地質学的にシペリア大陸棚の延長であるとしている。もしそうであればロシアは、主権的権利を炭化水素が潜在的に豊富な120万平方キロメートルの水域に拡大することができるだろう。ところがこの海嶺は、ノヴォシビルスク諸島から、カナダのエルズミーア島まで1800キロメートルにわたって延びている。そのためカナダは、自国の大陸棚の延長だと主張している。デンマークはこの同じ海嶺がグリーンランドの大陸棚の延長であることを証明するために調査している。アメリカは、ロモノソフ海嶺が海洋火山の起伏であり、どの大陸棚の延長でもないのでいかなる権利をあたえるものでもないと主張している。
2007年夏、北極点の水深4261メートルの海底にロシア国旗を設置した遠征には、海底の岩石サンプルを採取してロシアの立場を強固にするという任務もあった。この遠征はアメリカの民同企業が小型潜水艇を賃貸したおかげでなしとげられた。
気候温暖化と外交の冷えこみ
気候温暖化とともに、北極海の「白夜」の6ヵ月間の海氷後退が顕著になっている。「極夜」のあいだは、気候温暖化があろうとなかろうと、つねに海氷が存在する。
ノヴァヤゼムリャがその境界線となっている。東側はベーリング海峡まで、数f・キロメートルにわたる厚い氷が6ヵ月間以上も航路を遮断し、夏も完全になくなるわけではない。数百メートルの氷盤が流れているので、船舶は危険なまわり道を強いられる。たとえば2013年9月4日の「白夜」の最中に、二重船殻(ダブルハル)構造ではないタンカーが、カタンガ港近くの氷のなかで数日間身動きがとれなくなった。
ノヴァヤゼムリャの西側では夏の海氷後退が加速し、冬の海氷も薄くなった。ノリリスクでは、原子力砕氷船のおかげで冬でも金属の輸出をおこなうことができるが、輸送量は制限される。ネネッ地域の石油は1998年以降、ヴァランデイ港から、氷の厚さ20センチメートルまでは自力で航行できる「砕氷」タンカーで輸出されている。石油はまず、ムルマンスクに集まっている2万トン級の小さなタンカーにポンプで積み替えられる。2008年以降は海上石油ターミナルによりて、冬には7万トンの「砕氷」タンカー、夏には15万トン級のタンカーが接岸できるようになった。
ヤマルに建設中の工場はさらに大きな流れを生み出すことになる(年間1650万トンの天然ガス)。天然ガスを輸出するため、容積17万立方メートルの砕氷LNGタンカー16隻を韓国の造船所に依頼した。この新型船は厚さ1.5メートル(後退するときは2.1メートル)までの氷のなかを航行するために、マイナス52皮でもゆっくりと動けるように設計されている。現在の結氷状態であれば、アジアヘは夏の4ヵ月間、ヨーロッパヘは一年中航行することができるだろう。
ヨーロッパ・アジア間の北極海航路による輸送は進展しているが、まだ数少なく(2011年夏に18隻、2013年に294隻)、スエズ運河のレベル(年間2万隻)にはほど遠い。しかしロシアはみずからが主張する排他的経済水域の管理と協力の役割を引き受ける義務がある。1980年代にNATOはムルマンスクのロシア基地を破壊するための大規模な攻撃を想定していた。そのため北極地方には航空基地やレーダー基地網の修復がおこなわれている最中であり、ふたたび活発になっている欧米の特殊部隊の動きを牽制するために、あらたな地上部隊が北極地方に配置されることになっている。
極東のロシア
太平洋に面したロシアは、APEC(アジア太平洋経済協力)の一員である。APECは、2012年時点で世界の人口の40パーセント、世界のGDPの54パーセントを占めるメンバーたちのフォーラムとなっている。年1回の会議が2012年にヴラジオストクで開かれたとき、ロシアはこの機会にヴラジオストクをロシアのショーケースにするため、多額の資金(投資額200億ドル)を投入した。2014年、アメリカはロシアをG8から除名したが、APECから除名することはできなかった。
空白部を管理する
ロシア極東部は、人口13億人の中国をふくめ、世界でもっとも人口密度の高い地域と隣接しているにもかかわらず、人口がきわめて少ない。エニセイ川の東では、1000万平方メートルあたり1390万人しかいない。1990年には1670万人だった。ロシア人は西へ逆流する傾向があり、数少ない原住民はあまり多産ではない。中国人移民はアメリカやヨーロッパ、アフリカなど、もっと温暖で実入りのいいところへの移住を好むので、ロシアヘはほとんど入ってこない。
1990年代にはイルクーツクやコムソモリスク・ナ・アムーレにあるスホーイ社の工場が、中国、インドなどアジア諸国に作戦機を大量に輸出して近代化された。現在、ロシアの航空機産業の復興はこれらの工場にかかっている。最新型の戦闘機(Su-30、Su-35、T-50)や、ソ連崩壊後に設計された民間旅客機、スーパージェット100やイルクートMS-2の製造がおこなわれている。いっぽう宇宙産業では、口シア政府によりスヴォボードヌイ宇宙基地の再建が2006年に決定された。2020年にはロシアの有人宇宙船のほとんどがっくられることになるだろう。ロシア西部にもっとふさわしい場所があったにもかかわらず、このような選択がなされたのは、アジアに投資しようという意思のあらわれである。
これには戦略的側面も大きい。なぜなら1992年に輸送機関への補助金が廃止されたので、ロシア極東部の経済生活は東アジアに頼るようになり、しだいに密接な関係が築かれるようになったからである。
潜在的な対立
アムール川とウスリー川に沿った現在のロシアと中国の国境は、1858年のアイグン条約で定められたものだ。この条約は19世紀にヨーロッパの列強に押しっけられた「不平等条約」と中国がよんでいるもののひとつである。1969年にウスリー川流域で両国の軍事衝突が起こった。その後、国境が画定され、承認された。
もちろん中国は束シべリアの豊富な鉱物資源に触手を伸ばしたいという気持ちはあるかもしれないが、これほど苛酷な地域の整備と運営の負担を引き受けることは避けたい。いずれにしても、この地城からの販路は中国か東アジアしかない。となれば中国の利益は、ここに投資して管理することかもしれない。両国の軍事的対立は欧州・大西洋共同体に資するだけであり、それより採掘鉱区やテクノロジーで協力しあうほうがよほど有益である。
一方、ロシアと日本の領土問題は数世紀前から続いている。千島列島は1644年から日本地図に描かれている。日本人は列島南部を支配し、ロシアのアザラシ猟師たちは北部にやってきていた。1855年の下田条約で、列島北部はロシアに、列島南部は日本に割りあてられた。国境線は択捉島とウループ島のあいだを通っていた。隣にある大きな島である樺太(サハリン)は共有とされ、両国の川留者に開かれていた。
1875年のサンクトペテルブルク条約で、日本は千島列島すべてを獲得し、口シアは樺太の統治権を得た。1905年にロシアが敗北したとき、ロシアは樺太の領有権は保持したが、日本が島南部の支配権を得た。
第2次世界大戦末期、ソ連軍が千島列島と樺太を占領した。樺太については1875年の条約にしたがって意義は唱えられなかった。 1946年、ソ連は千島列島全体を併合し、南の4島に住んでいた1万7000人の日本人を追放した。両国には平和条約がまったく結ばれていない。1951年のサンフランシスコ条約により、日本は千島列島北部を放棄したが、南部の4島はそうではない。
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ホロコーストはイスラエル国家の存在
『ホロコーストに教訓はあるか』より イスラエルの教訓
ホロコーストはイスラエル国家の存在と必然性を正当化するため長く利用されてきたし、同時に、イスラエル国家が未来永劫存在の危機に曝されていることの証拠としてあげ連ねてきた」。国が危機にあるときには、一般の人々は不安になってホロコーストの教訓から指針を求め、その文脈のなかで直面している危険がどこにあるのか探そうとする。たとえば、迫害された人々について、あるいは地方や国や世界の無関心に対して行う正義の戦いについて、ホロコーストのアナロジーを適用できると主張し、衝突する利害関係に正統性を付与する場合もある。たとえば、何かの運動を行う者たちが自分たちの苦しみを劇的なものとして示そうと、強制収容所で囚人が着せられたストライプ柄の制服を身につけて登場したり、迫害された人々と結びつけて考えてもらおうと黄色い星を身につけて現れたりする可能性もある。それによって問題がややこしくなり、さらに解決が難しくなることもあるし、ホロコーストのときのように、静かに対応した結果、解決不能に思えるようになることもある。
ホロコーストの魔力を強力に呼び出そうとする動きとして、イスラエルの物理的存在にかかわる安全保障問題もある。アイヒマン裁判の六年後に当たる一九六七年六月、イスラエル人は現実の脅威に直面した。それは結果的に六日間戦争(第三次中東戦争)に至ることになる出来事だった。背景となる問題の一つは、核武装さえしかねないほど強力な軍事力を備えるようになったエジプトが「新たなホロコースト」を引き起こすのではないか、とイスラエルが恐怖感を抱いたことだった。そのあと連続して危機が訪れた。五月、エジプト大統領ガマルーアブドゥルーナセルは重装備の軍隊をイスラエルの南部国境沿いに集中させ、イスラエルからエジプト軍を隔てる国連の緩衝軍を放逐し、ティラン海峡を封鎖した。これによりイスラエル船舶は、イスラエル南部の港エイラートへの航路を取ることができなくなった。イスラエルが戦争を仕掛ければ、「限定戦争を推し進める。エジプトはこの戦争で、最終的にイスラエルを地球上から抹消するつもりだ。十一年前からこの瞬間を待っていた」とナセルは同盟国に向かって宣言した。不安が高まり、イスラエルは予備軍を動員し、この紛争を判断するためホロコースト関連の分析を行った。「待機期間」と呼ぶ準備段階だった。危機が高まるなか、ヨルダンがシリアとエジプトについた。ホロコーストとの関連が分析され続けた。「警告が続いた数週間、新聞はナセルをヒトラーになぞらえ続けた」とトム・セゲフは書いている。「戦争以外の方法でこの危機を回避しようとする提案は、第二次世界大戦前にチェコスロバキアに押し付けられたミュンヘン協定に喩えられた」。
数週間後の一九六七年六月五日、イスラエルはエジプトに対してかねてから準備していた先制攻撃を行い、空軍と地上軍を送ってシナイ半島を席巻した。ヨルダン、シリア、イラクの遠征軍が戦闘に加わるなか、イスラエル軍は東エルサレム、ガザ、ヨルダン川西岸、ゴラン高原を占領した。これによって、イスラエルは戦前のイスラエルの三倍の領土と、百万人近い住民を支配することになった。勝利は戦争の脅威と同じように、ホロコーストと結びつけて考えられたとトム・セゲフは書いている。イスラエルの若き将校ユーリ・ラモンは、このときの特別な経験について次のように書いているが、それは人々の間に広がっていた気持ちを反映している。戦争の二日前のことだ。私たちは決定的な瞬間が来たと感じていた。夜警から戻ったところで、汚れた軍服を身につけ武器を携帯していた。私は口ハメイ・ハゲタオトのキブツにあるゲットー・ファイターズ博物館にやって来た。私はかつての戦士たちに敬意を表したいと思っていた。戦士たちのごくわずかしか、国が自らを守るために立ち上がるこの日まで生きることができなかった。私たちの戦争は火葬場で、強制収容所で、ゲットーで、森で始まるのだとはっきり感じた。
目覚しい勝利のおかげで、ホロコーストの場所とイスラエル社会が学んだ教訓について深刻に考えなくてもよかったし、イスラエルの正統性が確認できたように思えた。歴史学者は、多くのイスラエル人がホロコーストと結びついた不安感をかなぐり捨て、達成感を味わった短い内省期間について叙述した。だが、これでいいのかと思う気持ちは長く続かなかった。六日間戦争のあと、一九六九年から一九七〇年にかけてエジプトが報復戦争に出て、断続的に攻撃を行った。一九七二年のミュンヘン・オリンピックでは、イスラエルの選手が殺害された。一九七三年のヨム・キプルの日(堕罪の日、十月六日)には、エジプトとシリアが率いるアラブ諸国がユダヤ人占領地を攻撃する戦争が起こり、イスラエルは緒戦で敗北を喫した。この戦争がイスラエル最大のトラウマとなることは初めからわかりきっていた。まず、エジプト軍がスエズ運河のイスラエル側にあるバーレブ・ライン要塞群を超えて襲撃した。そこは、一九六七年にイスラエルが獲得した地域だった。イスラエル北部では、シリア軍がゴラン高原に敷いたイスラエルの防衛を突破し、席巻した。何千人ものイスラエル兵が戦死し、イスラエル空軍は重大な損失を蒙った。イスラエルの国としての統率力が動揺したように思えたにもののすぐに立て直し、戦いの流れを変えた。しかし人々がホロコーストにとらわれる気持ちが続いたのも当然だった。イスラエルは絶えず包囲下にある、という感覚だ。
安全保障問題とホロコーストと結びつけて考えるときに最もお寒く感じて困惑せざるを得ないのは、ホロコーストの過去をイスラエルに対する地政学的な脅威と結びつけた「アウシュヴィッツの国境線」などどいう誇張した表現だ。第四次中東戦争(ヨム・キプル戦争)が終わってまだ二年しか経っていないときに生まれた表現だが、それは今日まで使われている。この発想は、征服した領土から撤退すれば、アウシュヴィッツ規模の虐殺、すなわち悪夢がよみがえることに他ならない、とするものだ。「アウシュヴィッツの国境線」は、イスラエルの著名な外交官アバ・エバンが、イスラエルが戦争前の状態に戻ることを心配して、一九七五年に国連の総会行った演説に端を発する。
私たちは、現在の地図が一九六七年六月四日のそれと同じものではないということを公の場で話してきました。私たちにとって、これは安全保障と原則の問題なのです。六月の地図は私だちからすると、安全のない危険な状態です。私はそれがアウシュヴィッツの記憶に重なるものだと表現しますが、大げさに言っているわけではありません。もし敗れていれば、一九六七年六月にどんな状況が待ち受けていたのかということを考えると身体が震えます。山上にはシリア人がいて私たちは谷底にいる。海の見えるところにはヨルダン軍がいて、私たちの喉もとを手で押さえているエジプト人がいる。こうした状況は歴史のなかで繰り返されてはならないものです。エバンが説明したイスラエルの感じた不安から、いかなる状況下であっても撤退することが必ずや死をもたらす危険につながる--ジェノサイドまで至るIと論じるところには、かなりの飛躍がある。だが、多くの人々がこの考え方を受け入れた。イスラエルの定住者たちは、何年もかけて「アウシュヴィッツの国境線」の歌を歌いながら前進し、平和のために土地を取引することに抗議した。「アウシュヴィッツの国境線」に賛同して、相互に領土を交換し一九六七年の休戦ラインに戻ることを論じ、それ以前に戻すことを提言したバラク・オバマ大統領を非難する者も最近では現れている。私か見つけた最も言語道断と思える例として、アメリカの最右翼シオニスト機関が二〇一一年に宣言した言葉がある。
「私たちはアウシュヴィッツには戻る気はない!」
ホロコーストはイスラエル国家の存在と必然性を正当化するため長く利用されてきたし、同時に、イスラエル国家が未来永劫存在の危機に曝されていることの証拠としてあげ連ねてきた」。国が危機にあるときには、一般の人々は不安になってホロコーストの教訓から指針を求め、その文脈のなかで直面している危険がどこにあるのか探そうとする。たとえば、迫害された人々について、あるいは地方や国や世界の無関心に対して行う正義の戦いについて、ホロコーストのアナロジーを適用できると主張し、衝突する利害関係に正統性を付与する場合もある。たとえば、何かの運動を行う者たちが自分たちの苦しみを劇的なものとして示そうと、強制収容所で囚人が着せられたストライプ柄の制服を身につけて登場したり、迫害された人々と結びつけて考えてもらおうと黄色い星を身につけて現れたりする可能性もある。それによって問題がややこしくなり、さらに解決が難しくなることもあるし、ホロコーストのときのように、静かに対応した結果、解決不能に思えるようになることもある。
ホロコーストの魔力を強力に呼び出そうとする動きとして、イスラエルの物理的存在にかかわる安全保障問題もある。アイヒマン裁判の六年後に当たる一九六七年六月、イスラエル人は現実の脅威に直面した。それは結果的に六日間戦争(第三次中東戦争)に至ることになる出来事だった。背景となる問題の一つは、核武装さえしかねないほど強力な軍事力を備えるようになったエジプトが「新たなホロコースト」を引き起こすのではないか、とイスラエルが恐怖感を抱いたことだった。そのあと連続して危機が訪れた。五月、エジプト大統領ガマルーアブドゥルーナセルは重装備の軍隊をイスラエルの南部国境沿いに集中させ、イスラエルからエジプト軍を隔てる国連の緩衝軍を放逐し、ティラン海峡を封鎖した。これによりイスラエル船舶は、イスラエル南部の港エイラートへの航路を取ることができなくなった。イスラエルが戦争を仕掛ければ、「限定戦争を推し進める。エジプトはこの戦争で、最終的にイスラエルを地球上から抹消するつもりだ。十一年前からこの瞬間を待っていた」とナセルは同盟国に向かって宣言した。不安が高まり、イスラエルは予備軍を動員し、この紛争を判断するためホロコースト関連の分析を行った。「待機期間」と呼ぶ準備段階だった。危機が高まるなか、ヨルダンがシリアとエジプトについた。ホロコーストとの関連が分析され続けた。「警告が続いた数週間、新聞はナセルをヒトラーになぞらえ続けた」とトム・セゲフは書いている。「戦争以外の方法でこの危機を回避しようとする提案は、第二次世界大戦前にチェコスロバキアに押し付けられたミュンヘン協定に喩えられた」。
数週間後の一九六七年六月五日、イスラエルはエジプトに対してかねてから準備していた先制攻撃を行い、空軍と地上軍を送ってシナイ半島を席巻した。ヨルダン、シリア、イラクの遠征軍が戦闘に加わるなか、イスラエル軍は東エルサレム、ガザ、ヨルダン川西岸、ゴラン高原を占領した。これによって、イスラエルは戦前のイスラエルの三倍の領土と、百万人近い住民を支配することになった。勝利は戦争の脅威と同じように、ホロコーストと結びつけて考えられたとトム・セゲフは書いている。イスラエルの若き将校ユーリ・ラモンは、このときの特別な経験について次のように書いているが、それは人々の間に広がっていた気持ちを反映している。戦争の二日前のことだ。私たちは決定的な瞬間が来たと感じていた。夜警から戻ったところで、汚れた軍服を身につけ武器を携帯していた。私は口ハメイ・ハゲタオトのキブツにあるゲットー・ファイターズ博物館にやって来た。私はかつての戦士たちに敬意を表したいと思っていた。戦士たちのごくわずかしか、国が自らを守るために立ち上がるこの日まで生きることができなかった。私たちの戦争は火葬場で、強制収容所で、ゲットーで、森で始まるのだとはっきり感じた。
目覚しい勝利のおかげで、ホロコーストの場所とイスラエル社会が学んだ教訓について深刻に考えなくてもよかったし、イスラエルの正統性が確認できたように思えた。歴史学者は、多くのイスラエル人がホロコーストと結びついた不安感をかなぐり捨て、達成感を味わった短い内省期間について叙述した。だが、これでいいのかと思う気持ちは長く続かなかった。六日間戦争のあと、一九六九年から一九七〇年にかけてエジプトが報復戦争に出て、断続的に攻撃を行った。一九七二年のミュンヘン・オリンピックでは、イスラエルの選手が殺害された。一九七三年のヨム・キプルの日(堕罪の日、十月六日)には、エジプトとシリアが率いるアラブ諸国がユダヤ人占領地を攻撃する戦争が起こり、イスラエルは緒戦で敗北を喫した。この戦争がイスラエル最大のトラウマとなることは初めからわかりきっていた。まず、エジプト軍がスエズ運河のイスラエル側にあるバーレブ・ライン要塞群を超えて襲撃した。そこは、一九六七年にイスラエルが獲得した地域だった。イスラエル北部では、シリア軍がゴラン高原に敷いたイスラエルの防衛を突破し、席巻した。何千人ものイスラエル兵が戦死し、イスラエル空軍は重大な損失を蒙った。イスラエルの国としての統率力が動揺したように思えたにもののすぐに立て直し、戦いの流れを変えた。しかし人々がホロコーストにとらわれる気持ちが続いたのも当然だった。イスラエルは絶えず包囲下にある、という感覚だ。
安全保障問題とホロコーストと結びつけて考えるときに最もお寒く感じて困惑せざるを得ないのは、ホロコーストの過去をイスラエルに対する地政学的な脅威と結びつけた「アウシュヴィッツの国境線」などどいう誇張した表現だ。第四次中東戦争(ヨム・キプル戦争)が終わってまだ二年しか経っていないときに生まれた表現だが、それは今日まで使われている。この発想は、征服した領土から撤退すれば、アウシュヴィッツ規模の虐殺、すなわち悪夢がよみがえることに他ならない、とするものだ。「アウシュヴィッツの国境線」は、イスラエルの著名な外交官アバ・エバンが、イスラエルが戦争前の状態に戻ることを心配して、一九七五年に国連の総会行った演説に端を発する。
私たちは、現在の地図が一九六七年六月四日のそれと同じものではないということを公の場で話してきました。私たちにとって、これは安全保障と原則の問題なのです。六月の地図は私だちからすると、安全のない危険な状態です。私はそれがアウシュヴィッツの記憶に重なるものだと表現しますが、大げさに言っているわけではありません。もし敗れていれば、一九六七年六月にどんな状況が待ち受けていたのかということを考えると身体が震えます。山上にはシリア人がいて私たちは谷底にいる。海の見えるところにはヨルダン軍がいて、私たちの喉もとを手で押さえているエジプト人がいる。こうした状況は歴史のなかで繰り返されてはならないものです。エバンが説明したイスラエルの感じた不安から、いかなる状況下であっても撤退することが必ずや死をもたらす危険につながる--ジェノサイドまで至るIと論じるところには、かなりの飛躍がある。だが、多くの人々がこの考え方を受け入れた。イスラエルの定住者たちは、何年もかけて「アウシュヴィッツの国境線」の歌を歌いながら前進し、平和のために土地を取引することに抗議した。「アウシュヴィッツの国境線」に賛同して、相互に領土を交換し一九六七年の休戦ラインに戻ることを論じ、それ以前に戻すことを提言したバラク・オバマ大統領を非難する者も最近では現れている。私か見つけた最も言語道断と思える例として、アメリカの最右翼シオニスト機関が二〇一一年に宣言した言葉がある。
「私たちはアウシュヴィッツには戻る気はない!」
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ホロコースト アーレントの本がなぜ重要だったのか
『ホロコーストに教訓はあるか』より アーレント
アーレントの本がなぜ重要だったのか。『イェルサレムのアイヒマン』は、歴史学の技法を尽くして書かれた本ではない。むしろ確実に、その反対だ。この本が熱い論争を引き起こしたのは、一九六〇年代、歴史学を学んでいる研究者に生の材料を提供したことと、広く聴衆に訴えることで、ヨーロッパ・ユダヤ人の殺害--当時の歴史の核心部分で熱い議論が行われていたユダヤ人問題--と結びつけたからだった。『イェルサレムのアイヒマン』は、たとえば、ナチスの殺害計画の規模やシオニストの活動家ユダヤ人評議会、戦後の正義といった多くの話題を広範囲に明らかにした。アーレントの怒りは行問から香り立ち、多くの若者を魅了した。それは、バークレー校の学生デモに参加した学生たちにとっては新鮮で、かつ心を挾るようなものだったのだ。アーレントは、西欧諸国ですでに自分の立ち位置を確立しているユダヤ人評論家たちの立場をさらに悪くしたことなど我関せずだった。「『イェルサレムのアイヒマン』は、アーレントの作品のなかでは最高傑作だ。痛みを伴う話題に正面から対峙し、権威付けされた陳腐な決まり文句に異を唱え、批判した人々だけでなく同調者にも議論を焚きつけた。特に、人々がこれまで受け入れていた安易な平穏をかき回したのだ」と私よりたった三歳年下なのだが、情熱家のトニー・シャットは述べた。これはアーレントに対して肯定的な見方だった。だが、反対する人々にとって、アーレントの仮定は我慢ならないものだった。ドイツ生まれのイスラエルの哲学者であり、ヘブライ大学エルサレム校でユダヤ神秘主義の歴史を研究していたゲルショム・ショーレムは、かつて賞賛していたアーレントを鼻であしらった。「ハンナ・アーレントは社会主義者で、思想の半分が共産主義者だった頃を知っているし、シオニストだった頃を知っている」と。ショーレムは、ヴァルター・べンヤミンやレオーシュトラウスと親しかった。ショーレムはヒトラーが首相になる前にベルリンにいたアーレントを知っていた。アーレントのことを「かつて深くかかわっていた運動のことを、何光年も離れた極度に高いところから見て話ができる能力があることにびっくり仰天した」と評価したこともある。このように捉えた人々がいるということは、かつてアーレントが問題提起し戦っていたときに、それに関心を寄せていた人々はほとんど中立的でなかった、ということだ。
アーレントはこのテーマについて、これまで受け入れられていた概念に挑み、アーレントらしい辛辣な言葉を使って、広く社会に議論を提起した。そのため、アーレントは冷徹で感情がないと評されることが多かった。「極悪非道のナチスというこれまでの概念の代わりに、『凡庸な』ナチスというイメージをアーレントはわれわれに示している。高潔なユダヤ人という概念の代わりに、悪の共犯者というイメージをわれわれに示している。有罪と無罪を対峙させる代わりに犯罪者と被害者の『協力』というイメージをわれわれに示している」-ノーマンーポドレツは「コメンタリー」誌でこう批判した。この裁判を通して高い評判を得たイスラエルの検事ギデオン・ハウスナーが、アイヒマンのことを何世紀にもわたりユダヤ人の歴史にダメージを与えてきた反ユダヤ主義を体現する者と捉えていると述べ、そしてハウスナーは「典型的ガリツィア・ユダヤ人」だとアーレントを痛罵した。(ウスナーの主張は「間違った歴史に基づいており、安っぽいレトリックを使っている」とアーレントは述べた。真の問題は、多くの中間層、すなわち、アイヒマンのように思考力のない官僚が、ナチ体制を動かしていたということであり、彼らが近代の全体主義体制に奉仕していた、ということにあった。アーレントはアイヒマンの考えを、極悪非道の悪意ある反ユダヤ主義イデオローグだとして切り捨てた。アーレントの見解--後世の歴史学者は受け入れ難い考え方だと付け加えたいが--によれば、アイヒマンはまったく「凡庸な」人物で、権力に目が眩み、出世欲があり、自分の行為の間違いを理解できなかった、ということになる。最後にアーレントは、ヨーロッパ中の「ユダヤ人問題」の「最終解決」のためにドイツ人が利用したユダヤ人行政官に次のような熔印を押した。すなわち、同胞を取り締まり、搾取し、一斉検挙し、移送して死に追いやったドイツの悪魔のプランを可能にした人々だ、と。これは「全体の暗い物語のなかで、最も啼淆たる一章となっている」とアーレントは挑発的に書き起こし、「品位のあるヨーロッパ社会にナチスが引き起こした道徳的崩壊の全体性が、ドイツだけでなくほとんどすべての国に、迫害する側だけでなく犠牲者側にもあること」を描き出した。
ホロコーストの歴史を意識し、関心を持っていた学生たちは、アーレントの思考を真剣に検討した。真剣過ぎるほどだったと言えると今では思っているが、アーレントが俎上に載せた問題が、トロント大学とバークレー校のホロコーストに関する正規の教育ではまったく欠けている、と感じたのは私だけではなかったのは間違いない。アーレントを批判的に捉えた人々--多くが批判的だったのだが--なかには、現代のユダヤ人問題について最も積極的に発言している作家たちが含まれていた(ホロコーストの専門家は当時ほとんどいなかった)。ライオネル・エイべル、オスカー・ハンドリン、ノーマン・ポドレツ、マリー・シルキンらだ。アーレントにはユダヤ民族に対する愛情が欠落していると非難したゲルショム・ショーレムと、アーレントは激しい公開書簡のやりとりを行った。そのなかでアーレントは、どの民族に対しても愛情など持っていないと回答した。愛情は友人に対して持つだけだと断言した。イスラエル人の迫害について助言した、ニューヨークに活動拠点を置くリトアニア生まれのユダヤ人官僚ジェイコブ・ロビンソンは、アーレントの間違いをテーマにして、『歪んだものを平らに』を出版した。題名はイザヤ書からとった一節だ。気質的にも、受けた教育からも、法律にこだわり形式を重んじたロビンソンは、アーレントの作品のなかに事実関係の誤りを数多く見つけた。しかしロビンソンはアーレントにまったく太刀打ちができず、論争を進めることができなかった。一九六〇年代半ばの三年間、激しい論争が行われ、その議論の多くが本になった。
これらがすべて、ホロコーストの歴史について無知だった私のような者にとっては、糧となった。イスラエルの外にいるユダヤ人にとって、アーレントの本に関連する裁判と論争は「がんじがらめになって一体化した」問題に発展したと、歴史学者のイディスーゼルタは述べている。今日でも、デボラーリプスタット教授かアイヒマン裁判について著しているように、この裁判のことをアーレントの分析から切り離して考えるのは難しい。このテーマは現在のユダヤ人が自己を定義するうえで重要であるばかりか、近代史の空白を埋め、理解するうえで決定的に重要な問題になっている、ということに私は気づいた。
アーレントの本がなぜ重要だったのか。『イェルサレムのアイヒマン』は、歴史学の技法を尽くして書かれた本ではない。むしろ確実に、その反対だ。この本が熱い論争を引き起こしたのは、一九六〇年代、歴史学を学んでいる研究者に生の材料を提供したことと、広く聴衆に訴えることで、ヨーロッパ・ユダヤ人の殺害--当時の歴史の核心部分で熱い議論が行われていたユダヤ人問題--と結びつけたからだった。『イェルサレムのアイヒマン』は、たとえば、ナチスの殺害計画の規模やシオニストの活動家ユダヤ人評議会、戦後の正義といった多くの話題を広範囲に明らかにした。アーレントの怒りは行問から香り立ち、多くの若者を魅了した。それは、バークレー校の学生デモに参加した学生たちにとっては新鮮で、かつ心を挾るようなものだったのだ。アーレントは、西欧諸国ですでに自分の立ち位置を確立しているユダヤ人評論家たちの立場をさらに悪くしたことなど我関せずだった。「『イェルサレムのアイヒマン』は、アーレントの作品のなかでは最高傑作だ。痛みを伴う話題に正面から対峙し、権威付けされた陳腐な決まり文句に異を唱え、批判した人々だけでなく同調者にも議論を焚きつけた。特に、人々がこれまで受け入れていた安易な平穏をかき回したのだ」と私よりたった三歳年下なのだが、情熱家のトニー・シャットは述べた。これはアーレントに対して肯定的な見方だった。だが、反対する人々にとって、アーレントの仮定は我慢ならないものだった。ドイツ生まれのイスラエルの哲学者であり、ヘブライ大学エルサレム校でユダヤ神秘主義の歴史を研究していたゲルショム・ショーレムは、かつて賞賛していたアーレントを鼻であしらった。「ハンナ・アーレントは社会主義者で、思想の半分が共産主義者だった頃を知っているし、シオニストだった頃を知っている」と。ショーレムは、ヴァルター・べンヤミンやレオーシュトラウスと親しかった。ショーレムはヒトラーが首相になる前にベルリンにいたアーレントを知っていた。アーレントのことを「かつて深くかかわっていた運動のことを、何光年も離れた極度に高いところから見て話ができる能力があることにびっくり仰天した」と評価したこともある。このように捉えた人々がいるということは、かつてアーレントが問題提起し戦っていたときに、それに関心を寄せていた人々はほとんど中立的でなかった、ということだ。
アーレントはこのテーマについて、これまで受け入れられていた概念に挑み、アーレントらしい辛辣な言葉を使って、広く社会に議論を提起した。そのため、アーレントは冷徹で感情がないと評されることが多かった。「極悪非道のナチスというこれまでの概念の代わりに、『凡庸な』ナチスというイメージをアーレントはわれわれに示している。高潔なユダヤ人という概念の代わりに、悪の共犯者というイメージをわれわれに示している。有罪と無罪を対峙させる代わりに犯罪者と被害者の『協力』というイメージをわれわれに示している」-ノーマンーポドレツは「コメンタリー」誌でこう批判した。この裁判を通して高い評判を得たイスラエルの検事ギデオン・ハウスナーが、アイヒマンのことを何世紀にもわたりユダヤ人の歴史にダメージを与えてきた反ユダヤ主義を体現する者と捉えていると述べ、そしてハウスナーは「典型的ガリツィア・ユダヤ人」だとアーレントを痛罵した。(ウスナーの主張は「間違った歴史に基づいており、安っぽいレトリックを使っている」とアーレントは述べた。真の問題は、多くの中間層、すなわち、アイヒマンのように思考力のない官僚が、ナチ体制を動かしていたということであり、彼らが近代の全体主義体制に奉仕していた、ということにあった。アーレントはアイヒマンの考えを、極悪非道の悪意ある反ユダヤ主義イデオローグだとして切り捨てた。アーレントの見解--後世の歴史学者は受け入れ難い考え方だと付け加えたいが--によれば、アイヒマンはまったく「凡庸な」人物で、権力に目が眩み、出世欲があり、自分の行為の間違いを理解できなかった、ということになる。最後にアーレントは、ヨーロッパ中の「ユダヤ人問題」の「最終解決」のためにドイツ人が利用したユダヤ人行政官に次のような熔印を押した。すなわち、同胞を取り締まり、搾取し、一斉検挙し、移送して死に追いやったドイツの悪魔のプランを可能にした人々だ、と。これは「全体の暗い物語のなかで、最も啼淆たる一章となっている」とアーレントは挑発的に書き起こし、「品位のあるヨーロッパ社会にナチスが引き起こした道徳的崩壊の全体性が、ドイツだけでなくほとんどすべての国に、迫害する側だけでなく犠牲者側にもあること」を描き出した。
ホロコーストの歴史を意識し、関心を持っていた学生たちは、アーレントの思考を真剣に検討した。真剣過ぎるほどだったと言えると今では思っているが、アーレントが俎上に載せた問題が、トロント大学とバークレー校のホロコーストに関する正規の教育ではまったく欠けている、と感じたのは私だけではなかったのは間違いない。アーレントを批判的に捉えた人々--多くが批判的だったのだが--なかには、現代のユダヤ人問題について最も積極的に発言している作家たちが含まれていた(ホロコーストの専門家は当時ほとんどいなかった)。ライオネル・エイべル、オスカー・ハンドリン、ノーマン・ポドレツ、マリー・シルキンらだ。アーレントにはユダヤ民族に対する愛情が欠落していると非難したゲルショム・ショーレムと、アーレントは激しい公開書簡のやりとりを行った。そのなかでアーレントは、どの民族に対しても愛情など持っていないと回答した。愛情は友人に対して持つだけだと断言した。イスラエル人の迫害について助言した、ニューヨークに活動拠点を置くリトアニア生まれのユダヤ人官僚ジェイコブ・ロビンソンは、アーレントの間違いをテーマにして、『歪んだものを平らに』を出版した。題名はイザヤ書からとった一節だ。気質的にも、受けた教育からも、法律にこだわり形式を重んじたロビンソンは、アーレントの作品のなかに事実関係の誤りを数多く見つけた。しかしロビンソンはアーレントにまったく太刀打ちができず、論争を進めることができなかった。一九六〇年代半ばの三年間、激しい論争が行われ、その議論の多くが本になった。
これらがすべて、ホロコーストの歴史について無知だった私のような者にとっては、糧となった。イスラエルの外にいるユダヤ人にとって、アーレントの本に関連する裁判と論争は「がんじがらめになって一体化した」問題に発展したと、歴史学者のイディスーゼルタは述べている。今日でも、デボラーリプスタット教授かアイヒマン裁判について著しているように、この裁判のことをアーレントの分析から切り離して考えるのは難しい。このテーマは現在のユダヤ人が自己を定義するうえで重要であるばかりか、近代史の空白を埋め、理解するうえで決定的に重要な問題になっている、ということに私は気づいた。
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地政学から超国家を見る
地政学から超国家を見る
地政学から超国家を見ていくと、国の分割になる。500万人ぐらいで分けて考えていく。もしかすると、物理的な土地は関係ないかもしれない。
超国家の前に国家の分割が起こる
地政学からすると、考えやすい。一番顕著に起こるのが中国であろう。元々、統一できていません。チベットなどを押さえ込んでいるのは無理がある。
イスラエルのパレスチナ統治とか戦前の満州・台湾統治も同様である。これらはしたから再配置すれば、余分なエネルギーは不要になる。グローバル化での超国家をそのらの観点から見ていく。
地政学から超国家を見ていくと、国の分割になる。500万人ぐらいで分けて考えていく。もしかすると、物理的な土地は関係ないかもしれない。
超国家の前に国家の分割が起こる
地政学からすると、考えやすい。一番顕著に起こるのが中国であろう。元々、統一できていません。チベットなどを押さえ込んでいるのは無理がある。
イスラエルのパレスチナ統治とか戦前の満州・台湾統治も同様である。これらはしたから再配置すれば、余分なエネルギーは不要になる。グローバル化での超国家をそのらの観点から見ていく。
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