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音漏れツイキャス

7月20日に立ち入りがあるので、そろそろ、部屋の片付けをしないと

 明日はやはり掃除かな。

つながっていない感覚を楽しまないと

 誰とも、何ともつながっていない感覚。これを楽しむしかないでしょう。本当に見えなくなっている。

セブンイレブンのレジ袋アナウンス

 レジ袋を使わないことよりも、その一品を買わないほうが、はるかに地球を救う。セブンイレブンとして、地球を救うことを考えているのであれば、自分たちを変えることです。地域のシェアの拠点にしていくことです。

音漏れツイキャス

 音漏れツイキャスがいくつも立っています。個人が神宮の警備員を気にしながら発信している。十分、想像力で中の様子はわかります。ダンケシェーンと何空の生ちゃんの声は素晴らしい。リアルタイムに感じます。放送局がコストをかけずとも、受け手の想像力でカバーできます。

 あらロマが始まった。このユニットは最高! 今日は生ちゃんもいるから最高! あらロマの間に乃木恋が入っているんだ。ユニットの六人が告白している!

 ライブを音漏れcastとyahoo!リアルタイムで楽しんでいる。個人レベルでここまで発信できる時代です。コミュニティのツールは進化している。個人からの発信だから、音漏れのままか、しゃべるかで揉めている。二期生の「きっかけ」が始まった。生ちゃんのダンケシェーンをリアルタイムで聴けた! その前に神宮の花火。

 元々、すべてが想像力なのだから、アリーナだろうが、天空だろうが関係者席だろうか一緒です。色々なキャスでそれぞれ音量が異なるみたいです。それらを録画(録音)したものがアップされています。そこにアドレスが記載されている。ネット放送の一翼を担うことになるでしょう。これは個人の活動からきているので、規制することはできない。シェア社会にとって、大きな進歩です。超国家と市民が繋がるのも不可能ではない。

 ショールームにしても、個人のスマホだけで発信できる。マチャリンは沖縄のホテルで、皆とトランプゲームしながら配信していた。

ライブでは新規参入者

 今回のライブでは新規参入者が多かったみたいです。宇繰り上げられてきたやり方がうまくいかなかったと言っている。新しいフェーズを迎えたのでしょう。ファンに楽しみを与える、このグループでよかったと思えるコミュニティになってきた、新しい循環が可能になってきた。

 新規者のコメントがブログのコメントに多く上がっている。皆、興奮状態です。
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選書をする図書館員としての私

『<本の世界>の見せ方』より ⇒ 選書は大きなテーマになる。電子書籍になって、物理的に取り扱わなくなれば、<選書>は変わる。第三者が選ぶ必要はない。本人が選べばいい。その点でアマゾンが未来に一番近いところにいる。

本を選んでいる「私」は、自分の内面とは関係なく「社会的価値」を学習することによって選書をしているのでしょうか。利用者の要求・利用実態に機能的な反応を繰り返すところから選書をしていくのか、自身の価値観をそのまま選書に反映させることで良とするのでしょうか。どれをとってみても、図書館という現場で「私が私であること」を問うところに立つことはありません。

利用者や同僚との関係のなかで「私が私であること」が問われ、自己と向かい合うことになる、それが「働くということ」であり、主体性の確立に向かう契機となるのです。

選ぶ「私」が問われない「選書」はむなしいだけです。

「私」はどういう「私」であったのか、あるのか。どういう環境で育ち、どういう集団・文化のなかで自己形成してきたのでしょうか。その「私」は同僚とどう違うのか、いろんな利用者の「自分史」といかに重なり合わないのか、どこが重なり合うのか。違う世界をもつ他人とどういう橋を架けて、共有できるものをつくり出せるのでしょうか。選書という現場でそれはどういう形になるのでしょうか。

「私」は他人との関係で「私」になるのであって、その「私」は図書館員として他人とかかわることで、「図書館員としての私」になるのです。

選書をめぐって「楽しい貸出」、「利用者を否定しない棚」と考え続けてきましたが、次にまとめたのが、選書をする図書館員の主体性の問題です。図書館員としての私の〈こころ〉とくからだ〉とくことば〉の問題、と表現してよいのだと思います。

悩まない選書のやり方は、自分とは直接に関係ないどこかの基準や権威や常識でもって選ぶやり方です。勉強すればできるので手っ取り早いし、これまでの蓄積から学ぶわけで、そう悪いやり方でもないようです。無難なところまではやれそうです。

しかし、です。残念なことに、新しく出版された作品や新しいジャンルヘの対応がむずかしいのです。過去に学ぶだけにとどまっていたら、現実への対応力がなかなかうまれません。団塊の世代が残していった「教養主義」の資料群は1年ごとに古くなるのですから

図書館員としてのくこころ〉〈からだ〉〈ことば〉のどれかひとつがあれば、あとの二つも何とか身となり肉となる可能性があります。もちろん、そうはならなくて自分の可能性をどこかに置き忘れてしまうケースだってあるでしょう。もともと図書館員としての主体性なんかカケラもない人もいます。そういう人も仕事をしていくなかで変わる可能性があります。また、残念なことに虚勢をはったり、開き直ったり、無気力になったり、趣味に走ったりする図書館員もいます。

選書はこうした人が共同してやっています。そこにドラマが生まれなければ、選書の時間に魅力が欠けます。選書の場にはドラマツルギーが欠かせません。

ちょっと小説風に主人公を登場させて、前記の「選書をする図書館員としての私」として発表しました(『みんなの図書館』1990. 12 p. 21に初㈲。それをもとにして書きます。



選書をする図書館員としての私の〈こころ〉



今の義務教育の通知表は絶対評価でつけられていますが、20世紀後半の高度成長期以降は相対評価でした。5段階の相対評価の成績を平均して四捨五入すると、平均「3」の人が一番多くなります。従妹のなかには、小学校をオール3ですごしたのもいます。

こうした人たちを大衆や民衆、庶民という表現でひとまとめにして「良書」に大衆が出会いやすくする努力をした図書館はありますが、こうした人たちが利用の中心となる図書館をつくろうとした例は少ないでしょう。前者の図書館だと、大衆が「良書」という制度に組み込まれるだけです。

メディアには送り手と受け手がいる、そういう表現が軸となる回路のなかに図書館があるようです。そこでは読者、情報を選ぶ早Aが主人公ではありません。図書館思想のなかに「読者主体論」がない、啓蒙思想だらけだ、これは私が20歳代だった加古川時代から引っかかっていることです。

成田市立図書館に勤務していた時代に『女にもてないで出世できるか』といった類の本を選書委員会で検討したとき、そんな本を読んでいる奴が出世できるはずがない、という声があって、一同、大笑いになったその本は選ぱれませんでした。数週間後にリクエストが出されました。カウンターでリクエスト・カードを受け取りました。どうみても、よほどの大逆転がないかぎり出世しそうにない若者でした。選書会議で大いに話題になりました。

そういう本を読んでみようという彼は、会社について、出世について、どんな気持ちを抱いているのかにはじまり、『ポパイ』と『ホットドッグプレス』の読者の違い、などという話題にひろがりました。「正常」ならこんなのリクエストなんかしないよね、という「常識」がくっがえされて、図書館がこうした人のほうを向いて選書をしてこなかった、という反省にたどりつきました。

こうしたリクエストが出されたり、官能小説が足りないといわれたりします。館淳一や蘭光正のリクエストもありました。それは、読みたい本をそろえてくれるところが図書館なのだ、と露ほども疑っていない利用者がいるということです。そしてそれに淡々と応える図書館がある、当時そのことが楽しくてたまりませんでした。

だからといって、自分の価値観と無縁のところで本を選んでいるのではありません。さまざまな人生を生きている人たちの暮らしから生まれる資料要求を、自分の価値観で測るだけではなく、その要求から、利用者の心のかたむきに想像力をはたらかせ、内田義彦のいう『社会認識の歩み』(岩波書店1979)をかさねる、という作業を繰り返しているのです。

もちろん、文化の中心としての図書館に恥じない選書を、という考えがあることは承知しています。若い図書館員でも「買いたくない本」という表現をすることがあります。そういう人と選書するときには、その人の準拠する、依拠する文化、集団、価値観とは違った世界に生きる人たちのことを話すことで、その人の考えの相対化をはかることにしています。司書というとほとんどが大卒か短大卒なのです。そういう集団だからこそ、利用者への想像力をたくましくする必要があるのです。

いままで、選書をする「私」について、あまりにもその客観性」を疑ってこなかったように思います。自分か生まれ育っなかで獲得した習慣、感情、価値観、社会認識が、選書にどういう影響を与えているのか、を問うこと、選書をするためには、それが必要なのです。
栗本慎一郎『パンツをはいたサル』(光文社 1981)にたとえてみると、私と誰かとのパンツの違い、人はいろんなパンツをはいているということからはじまるマンウォッチングを欠かさないことですね。
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どうすれば豊かな福祉国家の不平等は縮小するのか

『大不平等』より 次はどうなるのか 将来の所得不平等とグローバリゼーションについての10の短い考察

短い20世紀は、継続的な平均所得の上昇に所得不平等の縮小が伴った、歴史上でも唯一の時期だ。これは豊かな国だけでなく、多くの発展途上国や、すべての共産主義国でも起こった。もし不平等が再び縮小することがあれば、クズネッツ波形の第二の波は、第一の波のふるまいを繰り返すに違いない。しかし、この第二の波が、20世紀に不平等を縮小したのと同じメカニズムー課税強化と社会移転、ハイパーインフレーション、資産の国有化、そして戦争-を伴うかどうかは疑問だ。なぜかというと、グローバリゼーションによって、不平等の最大要因(具体的には資本所得)への課税強化が非常に難しくなっているからだ。そうした課税は大半の国による完全な協調行動がない限りまず不可能なのだが、それは現時点ではるか彼方にすら見えてはおらず、まず実現しそうにない。簡単に言えば、資本への課税が難しいのは可動性が非常に高いからだが、そこから利益を得ている国には、それを失うのに手を貸す動機がなにもない。タックスヘイヴンはマイクロ国家だけでなく、合衆国やイギリスのような大きな国にも存在している。たとえば最近も、合衆国は、横領容疑で中国政府から起訴された在米中国人の調査や国外追放を渋っていたし(中国政府から経済犯罪で起訴されている「最重要指名手配者」100人のうち66人は合衆国とカナダに潜伏していると考えられている)、ロンドンのブローカーは皆ロシアの資金を、その出所に関わらず受け入れようと躍起になっている。さらには高所得の労働も国から国へと容易に移動できるために、課税が難しくなりつつある。トップエグゼクティブが、ロンドンやニューヨークではなくシンガポールや香港で仕事をしてはいけないという明確な理由はない。次のメカニズムであるハイパーインフレーションや国有化は、債権者と大口資産家からの略奪手段としてはもう人気がない。国有化する土地ももうない。力の均衡は資本家の早Aに移ってしまっていて、資産所有者や債権者が政治的パワーを握っている。最後の手段は大規模な戦争だが、これは誰しも避けたいと思っている(とはいえ良識ある者なら、残念ながら誰もその可能性を排除することはできない)。

課税や移転の前段階での介入が、21世紀のアプローチとしてはずっと有望だ。これには資源継承の不平等、とりわけ資産所有と教育の不平等の縮小が含まれる。資源継承(私的な富とスキル)の不平等が少なくなれば--富の利益率が財産の大小で大きく違わないと仮定して--市場所得(すなわち課税や移転の前の所得)は今よりずっと平等に分配されるようになるだろう。市場所得の不平等がコントロールできて、時間とともに抑制されていけば、移転と課税を通じた政府による再分配はさほど重要ではなくなるかもしれない。再分配を強調しなくてよいとなれば、重税は成長にマイナス影響になるという理由で小さな国家を望んでいる人たちも満足させられるだろう。もちろん、可処分所得の不平等が小さいこと自体を大切だと考える人たちや、それが機会の平等を推進し、経済成長によいから支持するという人たちも満足するはずだ。またこれによって、私が前のセクションで検討した、家族による遺産継承の最も有害な早A面のひとつを消し去ることにもなるだろう。

市場所得の不平等が小さくて政府も相対的に小さいという経済モデルは、聞いたことがないわけではない。実際に、いくつかのアジアの国には存在している。図5-Iは、欧米諸国のいくつかとアジアの豊かな国(韓国、台湾、日本)を比較したものだ。可処分所得(課税および移転後)のジニ係数を縦軸に、市場所得のジニ係数を横軸にとっている。アジアの3国は、可処分所得の不平等では豊かな西欧諸国とほぼ同じ水準だが、市場所得のジニ係数はずっと低く、15ポイントも差がある。その結果、可処分所得の不平等を一定水準に押さえるために政府が行う再分配は、アジアではずっと少なくて済む。台湾とカナダを考えてみよう。どちらも可処分所得のジニ係数は33だ。しかし、それを達成するために、台湾ではほとんど再分配の必要がなく(市場所得のジニ係数と可処分所得のジニ係数がほぼ等しいということ)、社会移転は市場所得の12パーセントしかない。一方のカナダには大規模な(台湾と比べて3倍の)課税・移転システムがあって、不平等の水準を、市場所得でのジニ係数47から可処分所得でのジニ係数33まで引き下げていることがわかる。

図5-1からは、欧米諸国の可処分所得の差が、市場所得の違いではなく、再分配される量の違いだということもわかる(たとえば合衆国やイスラエルは、ドイツやフランスよりも再分配がずっと少ない)。多くの学問的な注目が国家の再分配上の役割に集まっているのはそのためで、まるで、不平等を削減するためにできることは再分配だけだと言わんばかりだ。継承資源の分布はほとんど所与のものと受け取られている。しかし、アジアの豊かな国を見ればわかるように、これは事実ではない。資源継承はもっと平等にできる。したがって、可処分所得の不平等で同じ水準を達成することは、大規模な課税と移転を通してもできるし、資源継承の構造を比較的平等なものにして、そのうえで政府が穏健な介入をすることによっても達成できるはずだ。

では、どうすれば資源継承の平等化が達成できるだろう。ここでも過去と同じく、政府の役割が決定的に重要となる。ただし、このケースでの政府は、現時点での所得に働きかける(課税してそれを再分配する)のではなく、むしろ資本所有と教育の長期的な平等に向けて働きかけていくことになる。長期的な平等化に向けた政策には、(1)親が子に巨大な資産を移転できないような高い相続税(ピケティが呼びかけている)、(2)企業から労働者への株式分配を促進するような法人税政策、そして(3)貧困層や中間層による金融資産の取得・保有を可能にする税制および行政政策、などがある。同じくこの提案に沿っているのが、デ・ソトのいう資産所有の大幅な拡大で、これは、貧困層がすでに所有している資産の公認を伴っている(多くの国には、法的所有権なしに保持しているためにローンの担保に使えない土地があ吹Aべ

しかし、こうした政策だけでは不十分だろう。資本からの利益は激しく変動するし、賢い投資決定には多くの情報が必要だ。またそもそも、ある会社で働くことのリスクに同じ会社の株式を所有するリスクが重なるという問題もある。というわけで、いわゆる「ピープルズ・キャピタリズム(大衆資本主義)」を実現するのは非常に難しい。資源継承の不平等を削減するためには、資本所有を広範に広げていくことと併せて、教育の分配をもっと平等にしていく必要がある。ここで私が言いたいのは、誰もが同じ年月だけ学校へ行けるようにするだけでなく、教育への意味のあるアク七スを平等にするということだ。この種のアク七スを達成するためには、国費による教育がもう一度強調されなければならない。理由は以下の通りだ。もし教育の年数をそろえることだけが目標なら、ハーヴァードでの4年間も小さな州立大学での4年間も同じ価値だと結論付けることができる。この目標は容易に達成できるだろう。しかし、ハーヴァードヘのアクセスがこれからも事実上、富裕層の子弟に限定されるなら、そしてハーヴァードでの4年間の教育に関する収穫が、州立大学での4年間の教育に関する収穫の何倍もあり続けるなら、根本的には何も変わらない。教育の資源継承は、外見は平等になるが、根本的には不平等なままだ。根本的な平等を達成するためには、教育に関する収穫を多く生み出す学校へのアク七スを平等にし、かつ/または、すべての学校教育に関する収穫を同じにすることが必要だ。市場経済では、命令によって収穫を平等にすることは不可能だ。企業に対して、どの学校で学んだ者にも学校の質と無関係に同じ給料を支払わなければならない、と命じることは誰にもできないからだ。教育の資源継承を平等化するために唯一残された合理的な方法は、最高水準の学校へのアクセスを親の所得と無関係にほぼ同じにすること、そしてこちらのほうが重要なのだが、すべての学校の教育の質を同じにすることだ。後者を実現するには、国家による投資と財政支援しかない。

資源継承の平等化に重点を置いたシステムでは、国家がきわめて重要な、しかし大平準化のときとはまったく違う役割を果たすことになる。大平準化では、国家は、教育へのアク七ス拡張とともに、保険(合衆国では社会保障制度)と支援(同じくフードスタンプ)で構成される所得再分配のメカニズムに取り組んだ。クズネッツ波形の第二の波では、資源継承への働きかけを増やし、課税と移転への取り組みを減らすべきだろう。

しかし、たとえ理論的に可能だからといって、また、たとえ一部の国では実例があるとしても、こうした政策が将来、広く実施されるということにはならない。ヨーロッパの福祉国家は、またそれよりは劣るが合衆国も、ほぼI世紀にわたってまったく違う前提で運営されてきたのだから、今になってそれを変えるのは容易ではないだろう。グローバリゼーションによる反平等の逆風を受ければさらに困難になるだろうし、グローバリゼーションにつきものの、労働に関する収穫の不均等も同様の働きをするはずだ。次のセクションでは、これを考えてみよう。
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公共図書館の5つの将来像

『ポストデジタル時代の公共図書館』より デジタル時代における電子書籍と公共「図書館をどう理解するか

デジタル時代においても紙の書籍の活用を促す方向でしか活動していない、というやや悲観的な現状を述べた。だからといって、日本の公共図書館が時代遅れの存在になりつつあるわけではないことも述べた。地域を活性化しまちづくりに役立つ図書館をめざす、という方向では他国の公共図書館と共通しているし、それなりの実績も上げているのである。

このような現状から出発してわが国の公共図書館の今後を眺めたとき、電子書籍との関連でどのような将来像が描けるのであろうか。ここでは想定される5つの将来像を提示したい。

これらの将来像は、いま記したふたつの前提に基づいて、広狭両義の電子書籍と紙の書籍に対する自治体・公共図書館が取りうる対応を想像した私見である。異なる方向への展開を展望しているが、将来像同士は相互排除的ではない。むしろ状況に応じて複数の方向を取るのが普通であろう。

将来像1

 「本を読む場所」として、市民のニーズを重視し、ニーズに合わせて資料を提供する。現在は紙の書籍の読書こそが読書の中心と見なされているが、仮に世の中の「読書」が紙から電子に移り、市民のニーズも変化すれば、公共図書館も次第に提供資料の中心を紙から電子に変えることになる。

 現在の公共図書館の姿勢からすると、一番無理のない想像に思えるが、仮に書籍の中心が紙から電子に移ったとすると、電子書籍を提供するために、契約の問題等さまざまな課題を解決しなければならない。同時にアクセスできる人数とか、個別の合意により技術的に解決できるものも多いだろうし、ひょっとすると個別の合意や契約で済んでしまうのかもしれないが、しかしその根底に、出版社の自由な出版活動と図書館の公共性をめぐる議論があることを忘れてはならないだろう。

 書籍の電子化が進展する中でも、あえて紙の書籍の提供をサービスの中心とする、という選択もあり得る。この選択は短期的には有効かもしれないし、紙の書籍に対するリテラシーを保持することも公共図書館の大切な役割であることを考えると、意義のあることでもある。江戸時代に大量に出版された書籍を読む能力を、私たちが失った川ように、紙の書籍を読む能力もやがて失われていくに違いない。そうした中で、単にものを後世に残すだけでなく、読解力も保持してゆくことは、文化の継承という点で意味のあることである。

 しかし、利用を中心にサービスを組み立てられてきた公共図書館が、出版点数が減り価格が高くなり利用が減るような資料を、どれだけ購入し続けることができるかは疑問である。

将来像2

 先程述べたように、アメリカの公共図書館はICTへの対応をいち早く進め、今日なお強力に進めている。公共図書館はデジタル社会における情報の機会均等を保証する機関としての役割を担おうとしてきているのである。学校などと共に低料金でのインターネット接続を実現し、市民に無料で提供している。館内にPCを多数置き、インターネットヘの無料接続サービスを提供すると共に、多数の情報活用講座を開くことによって、人々に学習の機会も提供してきた。

 こうした基盤の上に立って、アメリカの公共図書館では、大学図書館に続き大規模なデジタル化が進行している。本書第2章で触れているように、テキサス州サンアントニオ市立図書館は「BiblioTech」と呼ばれる、本が1冊もない分館を2014年に開館し、「アメリカで最初の『本のない図書館』」を謳っている。そこでは約1万タイトルの電子書籍に加えて、多数のPCやタブレット端末、読書専用端末を備えて、市民に提供している。本のない図書館は他にもあるし、それほどではないにせよ、多数の電子機器を備え、広義の電子書籍を提供している図書館は多い。

 わが国でも、アメリカのようにデジタル社会における情報へのアクセスの機会均等を促進する役割を公共図書館が担おうとする方向性が提示されたことは、『2005年の図書館像』で触れた。しかし、公共図書館が広い意味での書籍の提供を超えて、デジタル社会における市民の情報活用を推進する機関であるとの認識や期待は、わが国にはない。したがって、公共図書館がICT活用の場だという認識を基礎に公共図書館に電子書籍が普及する、という道筋は、現実的でない。

将来像3

 すべての市民に書物を通じて情報にアクセスする機会を提供する、という近代公共図書館の理念を電子書籍にも適用して、すべての市民が電子書籍を利用する機会を提供する。これは将来像1で述べた図書館の公共性についてのひとつの明確な見解であるが、社会的公平性を重視して電子書籍の市場を無視するような考え方は、出版界にとうてい受け入れられないだろう。

 出版界との関係では、一方で、大学図書館との間における電子ジャーナルの契約のように、機関を主な単位とするものがある。これだと機関外の人の利用が閉め出されてしまい、一種の情報の囲い込みが起こってしまうことから、オープンアクセス運動のような、囲い込みを打ち破り、誰でもが情報にアクセスできるようにしようとする動きが出てきている。

 図書館と書店は、同じ潤A品を同じ人々に届けているという意味で、本質的に競合関係が存在している。一方で、例えば子育て中の家族にとって、絵本のように子どもが成長したら必要なくなるものに対してまですべて購入しなければならないときの購入可能な絵本の数とそれによる社会的効用を、公共図書館を通じて利用可能となる数と、そこから得られる読書体験、およびリテラシー獲得による教育的効果を考えると、公共図書館を通じた書籍の提供には、書籍を普及させることを通じた社会的効用のあることが理解される。

 紙の書籍においては、書店・出版社との競合は新刊書籍に限定されていて、品切れ・絶版書については競合関係を想定する必要がなく、むしろ図書館は出版文化の維持と継承という点では出版社を補完するような存在であった。しかし、電子書籍においては、出版社は同じプラットフォームを通じて市民にも図書館にも販売することができるため、以前に出版された書籍についても競合関係が生じてしまう。

 先程の子育て中の家族の例を電子書籍の場合に当てはめてみると、あるプラットフォームが定額・低料金で絵本の読み放題のサービスをはじめたとしたら、それはほぼ公共図書館のサービスに重なり、違いは有料か無料かという一点のみになってしまう。このとき、公共図書館が無料で電子書籍を提供するとしたら、その意義は、すべての人に電子書籍の利用機会を提供するか、または、総体としてかなりな金額になる契約料金の支払いを通じて、あまり利用が見込めなかったり、単独では電子書籍の出版ができない出版社を支援する、という福祉的・文化的な役割に求めることができるだろう。いずれにせよ、公共図書館と出版社とは競合を避け、互恵的な関係を構築する必要があるが、それは難しいものとなるだろう。

将来像4

 高齢者や障害者など、情報へのアクセスに支障のある人々に対して、アクセスを保障する。本書第5章で見たように、デイジーなど、デジタル化はアクセシビリティの改善に効果があり、その提供は公共図書館の役割として期待される。高齢化の進展と共に情報アクセスヘの支援を必要とする人々の数は増え続けるから、この将来像は実現する可能性が大きい。ただし、サービスを必要とする人の割合は比較的少数に留まるであろうから、図書館サービスの中核となる可能性は低い。また、新しいサービスはICTに関する技能を前提としているから、技能習得の機会を設けることも忘れてはならない。

将来像5

 わが国の公共図書館が向かおうとしている方向、すなわち、地域や住民の課題解決に貢献し、地域の役に立つ図書館になることをめざす、という方向においても、本書第5章で野口が述べているように、電子書籍の活用を想定することができる。特に、地域のさまざまな面を記録し保存する事業は、地域の記憶装置としての役割を公共図書館が果たすことになる。例えば、東松島市図書館は、外部のさまざまな機関と連携して、震災関係の資料や写真を収集すると共に、市民の経験を記録し保存するという、「ict地域の絆保存プロジェクト」を実施し、成果を上げている。

 公共図書館が地域の活動に参加し地域の活動を支援する中で、広義の電子書籍が作成され活用されることもあるかもしれない。岡山県立図書館が作成・提供する「デジタル岡山大百科」などは、市民参加型の郷土情報データベースを構築する試みであろう。公共図書館の正規の事業ではないが、各地で図書館を会場に行われているウィキペディアタウンヘの支援なども、広義の電子書籍作成に公共図書館が関与しようとする試みとみなすことができる。

 狭義の電子書籍に関連しては、札幌市立図書館が行った、北海道内の出版社による電子書籍出版の支援が注目される。

 これらはいずれも意義のある試みであり、また、将来性も見込めるが、札幌市立図書館の事例を除いて、本書第6章で述べられているように、デジタル化の課題は主にデジタルアーカイブ論の領域で論じられてきており、まちづくりや地域の課題解決といった面でとらえられる活動では、作成される記録類はまだまだ紙によるものが多いように思われる。

7 デジタル時代における「公共」とは

 デジタル化・電子書籍という観点から公共図書館の可能性を眺めてきた。アメリカのようなデジタル環境への積極的な関与のない日本の公共図書館では、図書館がイニシアティブを取って電子書籍の積極的導入を図ることは難しいが、市民のニーズをベースに読書中心のサービスを提供している現状から、電子書籍が一般的になれば公共図書館も追随するだろうこと、その場合には、出版社との競合から、図書館の公共性が改めて問われるだろうと記した。

 情報へのアクセスに支障のある人々に対するサービスや、まちづくりへの関与、地域への貢献からは、わが国の公共図書館においても広義の電子書籍、デジタルアーカイブに関わる可能性のあることが示唆されている。結局のところ、市民に対してニーズに応えて何かを提供するという姿勢よりは、市民に提案し市民と積極的に関わる中からしか、デジタル時代に対応し、広狭両様の電子書籍を作成し発信し、収集し提供する新しい公共図書館の姿は見えてこない、ということなのではあるまいか。従来の、ややもするとまず規則ありきで、未来を先取りしようとしない硬直的な運営を良しとするあり方から、市民との協働の下に、未来を創る活動を促進するように自ら規則を作り柔軟に運用するような、新たな「公共」の図書館が求められ、そしてそれを実現しようとする活動ははじまっているのである。
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