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自動運転が未来を変えるとしたら

乃木坂の代表曲

 乃木坂の代表曲となるのは、レミゼの「民衆の歌」のようなものになるでしょう。そこまでの覚悟があるのか。

 折角、6×3の隊形を取りながら、攻撃性が18thに出ていない。舞台でのフォーメーションにしないと、国民的行進曲は無理です。道に出ましょう。レミゼでフラッシュ・モブをしないなら、代わりに行ないましょう。

自動運転が未来を変えるとしたら

 自動運転が未来を変えるとしたら、それは所有することがなくなることです。元々、車には所有する意味がないんです。公共と一緒です。バス、電車、飛行機(飛行場)を所有する人はいないでしょう。

 事故った時に、個人が保障せないかんということはない。メーカーが保障するなら分かる。それを利用する単位は何か。それは公共と一緒です。地域です。それは道路と同じです。

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ドイツ鉄道旅行で行ったところ

『ドイツ世界遺産と歴史の旅』より ⇒ ドイツ鉄道旅行はアーヘンから入って、フライブルグ、ゲッティンゲン、ハイデルベルグと大学都市を回って、ケルンへ。そこでトラブって、アーヘンに流れ着いた。アーヘンの駅で粘って、20ユーロ取り戻した。

アーヘン

 ケルンのガイドが引き続きアーヘンも案内してくれた。市民劇場横でバスを下車して、ドームまで歩いた。劇場は1822年から25年にかけて建てられた。

 途中、「エリーゼの泉」と呼ばれる温泉の横を通る。そばまでいくと、かすかに温泉のにおいがする。

 1815年のウィーン会議によって、アーヘンはプロイセン領となる。エリーゼの泉は、1822年にプロイセン王フリードリヒーヴィルヘルム3世によって礎石が行われた。彼の名を取って、前の広場をフリードリヒ・ヴィルヘルム広場という。

 建物は立派であるが、汲むための水が出ているだけで、クアハウスや温泉に入れる施設がここにあるわけではない。クアハウスは町の郊外にある。建物に向かって左端は観光案内所になっている。広場の地面から出ている噴水は温泉ではなく、普通の水らしい。

 商店が並ぶ通りを抜けると、アーヘン大聖堂(ドーム)の東側のゴシック様式の部分が見えてきた。

  「ドームの右側(東側)に見えているのは聖フォイラン教会です。1180年に創建されましたが、17世紀の火災や第二次世界大戦の爆撃で被害に遭い、1958年に復興しました」

 アーヘン大聖堂の入口は西側にある。

  「今見えている西側の入口の塔のある部分は一番新しい部分で、18世紀から19世紀にかけて増築されました。入口から見るアーヘン大聖堂は大変シンプルで、昨日見たケルン大聖堂と比べると規模は小さく見えますが、歴史はより古く、ドイツで初めて世界遺産に登録されたのが、このアーヘン大聖堂です。1978年のことで、世界遺産第1号です。フランク王国のカール大帝によって、786年に宮殿の教会として建設が始まりました。カール大帝はアーヘンに王宮を建てて、ここを起点に暮らしました。カール大帝は日本の奈良から平安にかけて生きた人です」

  「カール大帝は、814年に亡くなり、この大聖堂に埋葬されました。これから中に入って自由に見学できます。無料で入れますが、写真を撮る場合は入口で係の人に1ユーロ払ってチケットをもらってください。ライオンの頭があるブロンズの扉は『オオカミの扉』と呼ばれ、8世紀の終わりごろに造られた大変古いものです。内部は中央部分が八角形になっています。建築用語では『集中式』と呼ばれており、中心が八角形のドームを抱いています」

 初期の教会の建築様式に六角形や八角形をした集中式と呼ばれるものがある。イタリアのラヴェンナにあるサン・ヴィターレ教会(6世紀)が有名だ。アーヘン大聖堂もこの八角形のところが一番古い。ビザンチン様式の影響を受けた豪華絢爛で厳かな雰囲気を醸し出している。円頭アーチの柱が特徴の9世紀から10世紀にかけての口マネスク様式(ローマービザンチン様式ともいう)である。そして後陣など内部の礼拝堂はほとんど1414年にゴシック様式で増築された。

  「カール大帝の棺は、奥の方のゴシック様式の部分にあります。手前に同じような黄金のケースがありますが、こちらは聖母マリアの聖遺物を納めたものです。八角形の天井から下がっている環状大燭台は、12世紀に皇帝バルバロッサによって寄進されました。美しいステンドグラスもご覧ください」

 この場所で、936年のオットーからドイツの皇帝が戴冠式を挙げた。1531年にハプスブルク家フェルディナント一世の戴冠式を最後に、それ以降、フランクフルトで戴冠されるようになった。戴冠式に使われた「カールの玉座」は2階にあるが、時間指定のガイドつきツアーでしか見学できない。

 ドーム正面の塔全体の写真を撮るには、少し離れたところまで下がったほうがいい。正面からは19世紀の新しい塔の部分しか見えないが、横から見ると、西側の新しい部分、中央の古い部分、そして、東側のゴシック様式の部分全部を見ることができる。

  「横から見るには、大聖堂の北側に回るのがいいです。大聖堂の東側から商店街を通って北側に出ると横から見えます。商店街の一角には、1975年に作られた人形の噴水があります。大聖堂北側200メートルのところに市庁舎があります。ゴシック様式の建物でカール大帝の王宮の場所だったところです。市庁舎は左右2本の塔がありますが、東側の塔はグラヌス塔といって、かつては王宮の城壁の一部で778年からありました。時間があれば、市庁舎北側のマルクト広場に回ってください。こちらから見る市庁舎はまた違った趣があります。市庁舎は、1349年のカール4世皇帝の戴冠の時に出来上がりました。内部は帝国の間(戴冠の間とも)が見どころで、1349年から1531年までは国王の戴冠式の記念宴会場として使われました。『オットー3世帝、カール大帝の霊廟を開く』などの壁画が広間にあります」

(ハイデルベルク旧市街)

 ネッカー川にかかる一番美しい橋が、アルテブリュッケである。日本語に訳すと「古い橋」となるのでちょっと味気ない。13世紀、もともと木造の橋がかかっていた。プファルツ選帝侯の宮廷が1720年にマンハイムに移された後、選帝侯であったカール・テオドールが1786年から1788年にかけて石橋に造りかえた。そのため、「カール・テオドール橋」とも呼ばれている。先ほどワインの樽のところで説明したカール・テオドールである。後に、カールこァオドールの記念像がこの橋に造られた。

 マルクト広場の真ん中にある噴水はヘラクレスの泉と呼ばれ、中世のころには、罪人を寵に入れてこの噴水のところに掛け、その寵を回してさらし者にした。

 広場の東側にある建物は市庁舎で16世紀に建てられたルネッサンス様式である。

 広場の西側にある教会は、ハイデルベルク城の「ルプレヒト館」のプファルツ選帝侯ルプレヒト3世(1400年から皇帝ルプレヒト1世)によって14世紀に建てられた「聖霊教会」で、ゴシック様式である。1544年に完成した。ルプレヒト3世と妃の墓碑はこの中にある。この墓碑はフランス軍の破壊を免れた。教会そのものは火災に遭い、18世紀に再建された。

 ドイツの都市にはたいてい町の中心にマルクト広場があり、市庁舎と教会がある。

 マルクトとは、英語のマーケット、つまり市場のことで、昔、市が開かれていた広場である。

 教会の回りにたくさんの小さな土産店が連なっているが、これらの店の歴史も大変古い。教会の塔は82メートルの高さがあり、上ることができる。

 教会からハウプト通りへと行く道に、フランスとの戦争で唯一破壊を逃れた「ツム・リッター(騎士の家)」と呼ばれる建物がある。1592年に建てられた美しいルネッサンス様式で、元々フランス出身のタオル商人シャルル・ベリエの館だった。一番上に「騎士の像」があることから、1703年からツム・リッターという名前でホテルとして使われている。

(ハイデルベルク大学)

 ハイデルベルクの人口は15万で、日本の感覚では大都市というほどではないが、ドイツでは10万人以上の都市を大都市と呼んでいる。

 大学の町として知られるハイデルベルクは学生の数が多い。駅の周辺を通ると自転車が多いことに驚かされるが、ドイツでは自転車を利用する学生が多いのだ。

 ハイデルベルク大学の校舎は、旧市街にある。マルクト広場から西へと伸びるハウプト通りを歩くと左手に見えてくる。この建物を見ても大学ということが分からずに通り過ぎる人も多い。

 大学広場に抜ける路地を入ると、右手に「学生牢」と呼ばれる建物がある。当時の大学は自治を行っており、悪い行いをした学生への刑罰として、学生牢に閉じ込めた。上の階に上がると、壁や天井が閉じ込められた学生が書いた落書きで埋めつくされている。

 ヨーロッパでは、古い大学は町の中にある。しかし、学部が増えるとその校舎だけでは足りなくなるので、一部の学部は別の場所にあることが多い。ハイデルベルクの場合も例外ではない。

 ハイデルベルク大学は、1386年にプファルツ選帝侯ルプレヒト1世によって創設された。ドイツでは最古の大学である。ただし、当時はドイツという国はなく、神聖ローマ帝国だったので、帝国内にはすでにウィーンとプラハに大学があり、ハイデルベルク大学は帝国で3番目の大学であった。

 昔のヨーロッパの大学は、最初から校舎があったわけでなく、一番大切なこと、つまり、教える人(先生)と学ぶ人(生徒)がいるということで成り立った。建物は後からついてくる。

 ハイデルベルクの場合は、昔はマルクト広場の聖霊教会で授業が行われていた。
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自動運転でどう変わるか

『「自動運転」革命』より 自動運転の未来 ⇒ 「買う」ことから「使う」ことに変わる!それで始めて革命となる。

誰が買うのか

 導入した直後は、自動運転が実用化したことが好意的に報道され、夢が実現したと受け入れられる一方、自動運転による事故も起きるだろう。すでに事故は起きていて「本当に大丈夫か」と不安視する報道もされているが、それがより顕著になってくるだろう。たとえば、ンペタ2の自動運転であるにもかかわらず、居眠りをしたり、よそ見をしたり、果ては飲酒をしての人身事故などを起こしてしまう人が出てくるかもしれない。それについての報道も、自動運転は悪なのではないかという方向になり、本当に夢の乗り物なのだろうかと疑いの目が向けられる。最終的には夢から覚めてしまうのではないかと思うだろう。

 長距離貨物輸送車に積極的に自動運転を搭載する動きが出てくるかもしれないが、一方で、最初から疑いの目を持っている人もいるはずで、事故が起きれば利用を制限する動きは強まり、自動運転車は技術的に未熟で、やはり人間がやるべきだという方向に動くかもしれない。

 そういったマイナスの影響を受けて、自動運転車の売れ行きは徐々に落ちていくだろう。最終的には、個人所有の長距離移動主体のユーザー向けの限定的なマーケットになるだろう。個人所有向けというのは、事業体として貨物輸送をやっている場合、経営者がドライバーを雇うため、経営者が許可しない限りドライバーは自動運転を使えない。危険とされる自動運転車の利用が制限されるのはもっともで、では誰が使うかというと、自分でリスクを背負えるような個人所有のドライバーである。な。おかつ、高速道路での利用に限定されるので、長距離を移動するようなユーザーがマーケットになってくるだろうと考えられる。

 一方で自動運転の実用化と並行して、海外では隊列走行技術が実用化すると考えられる。隊列走行はすでに述べたように、前の車について運転する技術で、今までの自動運転の話とは少し流れが違い、認識部分では自動運転よりも敷居が低い。その点でも事故は起こりにくい。

 日本は少し遅れるかもしれないが、外国の動きを受けて法整備が進んでいくだろう。先頭の車はドライバーが運転しなければならないが、隊列走行で後続の車は無人で動かせるようになる。自動運転と呼べるかどうかは微妙だが、こうして実用化が進んでいくだろう。もう一つの流れとして路線バスや高速バス、物流トラックといった自動車運送事業への完全自動運転に向けた動きが生まれるだろう。地域や路線を限定すれば求められる技術レベルが下がるため、完全自動運転の導入も現実的になる。初期はレベル2のかたちで運川されながら実績を積み、最終的には完全自動運転が試験的に少しずつ導入されるだろうと考える。

公共交通はどう変わるか

 一方、自動車運送事業においては、完全自動運転車の運用が拡大していくだろう。それまでは、路線バス、高速バス、物流トラックを主として導入されるが、徐々にタクシーや配送トラックにも導入が進むだろう。これは、線ではなく、面で完全自動運転が動かせるような技術的な基盤が整うためである。ただし、そのエリアは、市街地の中心部などに限られ、市街地聞を面で結ぶところまでは進まない。基本的には、どこかの市街地の中で価値の出せる事業に特化して動くようになってくるだろう。

 ここまでくると、完全自動運転の利用形態の幅も広がるようになるので、車の形も、既存のものが最適ではないことに人々が気づく。たとえばタクシーといっても運転者がいないので、既存の車の形にこだわる必要はなく、運転席を前提としないさまざまな自動車の形が模索され始める。

物流はどう変わるか

 物流についても、2020年から2025年の間にレペル2、あるいはレベル3の自動運転車をどんどん取り入れていくが、2025年から2030年には完全自動運転車に切り替わるだろう。人が運転するよりも自動運転のほうが安全で、なおかつ、メンテナンスさえしていれば、人間が運転するよりもコストを抑えられるかもしれない。となると、もはや人が運転する理由はなくなってしまう。重労働な中長距離のターミナル間を運転するドライバーは高齢化による引退で徐々に減り、最終的にはほぼ100パーセントが自動運転に切り替わるだろう。

 短距離については、当然、完全自動運転車も増えるとは思うが、100パーセントにはならないかもしれない。たとえば宅配便は、配送所から配送所への中距離輸送では客に会うことはないが、各戸に届ける短距離輸送の際は、客に物品を渡すという行為がある。人と人とのつながりを大事にし、それを付加価値とする業者が現れて、人間による運転が二定数維持されるだろうと考える。

鉄道はどうなるか

 ここで話題を変えて、公共交通機関の中でこれまであまり触れてこなかった鉄道の話をしたい。この頃までに鉄道の自動運転技術も順調に進歩しているはずだが、完全自動運転バスが鉄道を超えた価値を持つようになっている可能性がある。

 完全自動運転バスが普及すると運賃が下がる。また、現在のように運転手不足で柔軟に運用できないということもなくなり、車両さえあれば、好きなだけ走らせることができるようになるので、完全自動運転バスは非常に利用しやすくなるだろう。すると、自動運転車のカーシエアよりも安いコストで大量輸送できるようになり、東京の山手線や東急東横線といった、駅と駅の間隔が短い路線では徐々に利用者が減少し、いわば低料金の移動は完全自動運転バスに顧客を奪われていくことが予想される。

 鉄道はあえて自動化しないでもコスト的に賄うことができた。コスト的に鉄道に勝るような乗り物はほかに存在しなかったからだが、いよいよここで競争者が生まれ、鉄道も自動化を進めずにはいられなくなるだろう。

 ただし、新幹線のような長距離輸送は例外である。個室で快適に移動したいとグリーン車に乗っていた人たちが、自動運転車に流れていく可能性はあるが、高速で移動できる点を考えると新幹線の優位性は変わらない。

個人の日常はどうなるか

 人間の文化の発展は、最初のころは歩くしか手段がなかったが、馬などの動物を移動の手段として扱えるようになり、その後に車を得て一気に加速した。

 物の流れあるいは人の流れが非常に速く効率的になることで、その時代の覇者になれる。仮に自動運転で日本が後れをとったとしても、海外に行ったら自動運転車が走っていて非常に効率的だということだったら、否が応でもそういった流れに乗らないといけないだろう。技術的には、もはやそれほど難しい話ではなくなってきているので、思っているより速く世の中は動いていくのではないかという危機感をもっている。

 自動車そのものの変化にとどまらず、市場が変わることで、これまでとは違うビジネスチャンスが現れ、自動車を取り巻く環境のいろいろなところに変化が起きるだろう。自動車を中心としたビッグバンのようなイメージだ。そういう大きな変化が今後10年余りの間に起きる。

 スマートフォンを思い出してほしい。10年前は、まだまだ少数派で、さらにその5年前には、完全に今でいうガラケーの時代だった。スマートフォンだってそのくらいの速さで普及したのである。自動車の買い替えサイクルと携帯電話の買い替えサイクルはかなり違うので、そこまで速くはないかもしれないが、1990年代半ば頃からだと、自動車の形も変わり、かなり安全になって、ずいぶん乗り心地がよくなった。同じぐらいのスパンでこれまで述べたような変化は当然起きてくるだろう。

 完全自動運転車では、ガソリンではなくて電気や水素が主な動力源になってくるだろう。もともと自動運転車の制御としても電気のほうが相性がいいし、住かのにも快適だろう。そう考えると内燃機関だけの車両はさらに加速度的に減っていくだろう。
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ローザ・ルクセンブルク

『資本蓄積論』より 刊行のことば

一九八九年のベルリンの壁の崩壊を契機として、ソ連邦や東欧の社会主義諸国が崩壊して以来、社会主義とりわけマルクス主義の思想や理論は影響力を失い、いまだ混迷を脱していない。

それに代わって影響力を持つにいたったのが、社会科学の分野でも、政治の世界でも、新自由主義の潮流である。この潮流は一九七〇年代以降、市場を通じて商品・労働力・資本・資源の効率的配分を行うべきだとする立場から、国有企業の民営化、経済に対する政府規制の緩和・撤廃を主張し、実践した。しかし、新自由主義的な実践が進む中で、社会と経済のあらゆる分野での格差の拡大が顕著に現れるようになり、新自由主義が軽視してきた社会保障・社会福祉の問題、あるいは非正規雇用の増大の問題が注目されるようになり、現代の社会問題を解決するための政策は、新自由主義ではなく社会主義の思想を基礎にせざるを得ないという認識が、徐々に広がりつつある。

このたび、我々がその選集(経済論集および政治論集)を刊行しようとするローザ・ルクセンブルクは、一八七一年にロシア領ポーランド王国のザモシチに生まれた。若くして社会主義運動に入ったが、一八八九年、官憲の手から逃れるためにスイスのチューリヒに亡命した。一八九三年には、ポーランド王国社会民主党の結成に加わり、パリで発行されたその機関紙『スプラヴァ・ロボトニチャ(労働者問題)』の編集に携わった。一八九八年にはベルリンに転居し、ドイツ社会民主党(SPD)に入党し、活動の拠点をドイツに移したが、ポーランドの労働運動に終生かかわり続け、ポーランド語論文も多数著している。

彼女は、二〇世紀の新しい状況に合わせてマルクス主義を発展させようと試みた一人であり、マルクス理論についての深い理解に基づき、二〇世紀初頭の欧米先進国および植民地の政治経済状況の分析を試み、社会主義運動を発展させ社会主義の理想を実現しようとした。そのため彼女は、二〇世紀の社会主義運動において最も取り上げられた人物の一人であった。特に急進的な社会主義勢力は、しばしば彼女の理論や戦略を自己の運動の武器にした。

彼女は二〇世紀への転換期に繰り広げられた修正主義論争においては、ベルンシュタインの修正主義論を批判し、二〇世紀初頭の帝国主義論争においては、カルヴァーやシッベルの保護貿易論、あるいはベルンシュタインやヴァン・コールの植民地是認論を批判した。さらに、一九〇五年の第一次ロシア革命の際に生じた政治的大衆ストライキ論争においては、政治的大衆ストライキを労働者の最後の手段とするSPD中央派の抑制的・受動的な立場を批判し、より積極的な攻撃の手段と見なす立場をとった。この意見対立は、一九一〇年に大衆ストライキ論争が再燃した時に、彼女やカール・リープクネヒトを中心とした急進左派が、ベーペルやカウツキー等のSPD中央派と決定的に対立する原因となった。

SPDの主導権は、その後一九一三年に、党内の革命的勢力と改良主義的勢力の調停者の役割を果たしていたペーベルが死去すると、改良主義者でありプラグマティストでもあるエーベルトの手に移り、このような状況の下でSPDは、一九一四年に第一次世界大戦を迎えた。このとき同党は、帝国主義戦争に反対することを義務づけた一九一二年の第ニインターナショナル・バーゼル決議に反して、ドイツ帝国議会において戦時公債法案に賛成票を投じ、「祖国防衛」「城内平和」の立場をとり、第二インターナショナルを崩壊せしめた。

ローザ・ルクセンブルク等のマルクス主義的急進左派グループは、党の戦争協力政策を批判して直ちにグルッペ・インタナツイオナーレを結成し(その後スパルタクスグルッペ、さらにスパルタクスプントヘと名称を変更)、反戦闘争を組織した。ローザ・ルクセンブルクは戦前の反戦演説を理由にした裁判の判決に基づいて一九一五年二月から一年間投獄され(一九一六年七月からの軍事裁判の起訴後勾留期間を含めると、拘束期間は三年四ヶ月に及んだ)、カール・リープクネヒトは、一九一六年にベルリンのメーデーにおいて反戦・反政府演説を行ったために投獄された(二年六ヶ月間)。

しかし、戦争がドイツの侵略戦争であることが明確になるにしたがい、帝国議会議員団の中にも、党の規律を破って戦時公債法案に反対票を投じる者が増加した。一九一六年に彼らはSPD帝国議会議員団から除名されたため、独自の会派を結成した。戦争の長期化とともに次第に反戦闘争が高揚する中で、一九一七年にはドイツ独立社会民主党(USPD)が結成された。しかし、スパルタクスグルッペも参加した同党は、革命的マルクス主義者から改良主義者にいたるまでの雑多な勢力の寄せ集めにすぎず、目前に迫りつつあった革命を指導する能力を備えていなかった。

一九一八年一一月、敗戦必至の状況下でドイツ革命が勃発した時、革命に反対していたエーベルト指導下のSPDは、革命の流れに巧みに合流し、USPD右派指導部を引き入れて臨時革命政府を樹立し、その指導権を握った。同時にエーベルトは、陸軍最高指令部のグレーナー少将と秘密協定を結び、帝政の解体によって危機に瀕していた軍・将校団の温存を確約し、「ボルシェヴィズム」の脅威に当たらせようとした。USPD右派指導部は、妥協に妥協を重ねていた。一二月半ばに開催された第一回全国労兵評議会大会は、一九一九年一月一九日に国民議会選挙を実施するというSPDの方針にそった決議案を採択するとともに、労兵評議会を最高権力機関とするというUSPDの方針にそった決議案を否決し、最高権力機関としての労兵評議会の存続に自ら終止符を打った。これ以降、急進的勢力とSPDとの対立が激化し、USPD左派の支配下にあった人民海兵団と正規軍との流血の衝突が起こった。これに抗議する党末端組織の圧力を受けてUSPD右派指導部は、一二月二九日、臨時革命政府から去り、こうして臨時革命政府はSPDが単独で率いることになった。

ローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒト等のスパルタクスブントは、ここに至り、他の急進左派グループとともに、同年大晦日にドイツ共産党(KPD)を結成した。結党大会において、ローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトは、第一回全国労兵評議会大会に現れた力関係の冷静な評価に基づいて、党の現在の最も重要な任務は未成熟な大衆を教育・啓蒙することにあり、そのためには国民議会を革命的に利用すべきであり、したがって国民議会選挙に参加すべきであると主張したが、彼らの提案は反対多数で否決された。

こうして武力革命路線をとったKPDは、準備の整わないうちに反革命的な義勇軍に攻撃され、ベルリンにおけるいわゆる一月闘争において敗北した。一九二九年一月一五日、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは、義勇軍の兵士によって殺害され、ドイツ労働運動は最良の指導者を失った。ロシア革命を成功に導いた革命家レーニンやトロツキーと対等の権威をもって発言出来た彼女たちを失うことによって、KPDは漸次、スターリン支配下のロシア共産党・ソヴィエト共産党およびコミンテルン(共産主義インターナショナル)の影響下に置かれ、それに従属するにいたった。

こうした社会主義者としての生涯にわたる活動のなかで、ローザ・ルクセンブルクは、SPD内での主要な論争においては、常にマルクス主義の立場から、重要な論文を発表し演説を行った。しかし、彼女は、そうした政治論文と関連して、『ライプツィヒ人民新聞』紙、「フォーァヴェルツ(前進)』紙、『ノイエ・ツァイト(新時代)』誌等に、欧米の政治経済情勢を分析した多くの論文も発表している。

彼女の政治的主張は、綿密な経済情勢の分析を伴っており、唯物史観の観点からの政治経済情勢分析の手本をなしている。『社会改良か革命か』、『社会民主党の危機』等に、それは窺える。それだけではなく、彼女は、一九〇七年以来、ベルリンの党学校において講師として経済学を教授するなかで、『国民経済学入門』や『資本蓄積論』等のもっぱら経済学と経済問題を論じた著作を著している。これらの著作は、マルクス理論の帝国主義時代における新たな展開として、以前から、欧米及び我が国の経済学者によって研究されてきたマルクス経済学の古典となっている。

彼女は、経済分析において、一国的な視点を取ることを否定し、国境を越えた世界経済的視点から考察した。このことは、『ポーランドの産業的発展』において、ポーランド経済をロシア経済との不可分の結び付きのなかで捉えたこと、また『社会改良か革命か』において、世界市場の完成の予測により資本主義崩壊の必然性を論証しようとした点に認められる。『国民経済学入門』では、歴史学派の経済学者の国民経済に関する定義を批判することから論述を始めている。『資本蓄積論』においては、世界市場を諸国民経済の集合と捉えるのではなく、国境を越えた区分である資本主義領域と非資本主義領域に分け、両領域の間で行われる商品流通を通じて、資本主義的蓄積は進行すると捉えた。このような彼女の世界市場論的視角にたつ経済情勢の認識は、今日の我々に教えるところが大きい。彼女の経済学関係の著作をまとめて、経済論集として刊行する所以である。経済論集に続き、政治論集の刊行も予定されている。
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