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サファイアは内なる世界を作り出す

忘れるには理由がある

 火曜日でゴミ捨ての日だから、二袋もって、8時半前に家を出た。スタバに着いたけど、録音してある方のICレコーダーを老いてきてしまった。書き起こしができない。

 そこで難航している未唯空間第9章の内容チェックに切り替えた。その時に最新の状態をWorkファイルに入れていないことに気づいた。結局、{生ちゃん」は使わずに、紙での仕事をしていた。続けて、図書館での作業を考えていたけど、それもやめてしまった。何か、逃げ口上ばかりしている。

サファイアは内なる世界を作り出す

 サファイアの特徴は内なる世界を作り出すことです。外から与えられるのではなく、配置に沿って、内から作り上げていく。その為の手段を機能として表わしている。

 内なる世界を作るためには、まず考えること、個人の力を発揮する。共有意識を拡げていく。それらを技術革新がサポートする。

マウスパソコンは漏れが多そう

 「生ちゃん」の立ち上がりがうまくいかない。漏電しているのか、使おうとすると「ローバッテリー」になっていることが続いている。

中途半端な世界

 この世界はどう見てもおかしい。なぜ、こんなにも中途半端なのか。放り込むのであれば、もっと完成された世界でないとおかしいでしょう。では、何のために。ウソでしょう。

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エルサレムの人口戦争

カルキリヤを過ぎてランティス検問所(通過点)まで来ると、分離壁は再びグリーンラインに重なる。そこでフェンスはハスモナとモディイン・イリットの入植地を囲い込むために迂回し、そしてエルサレム近くになると表現しようのない複雑な軌道を描く。エルサレムの周辺には、ギヴァット・ゼエヴ、ネヴェ・ヤーコヴや、マアレ・アドウンミーム(人口三万六〇〇〇人、ヨルダンとの国境からわずか二〇キロ)の入植地があり、さらにエルサレムに近いベツレヘム周辺にハル・ホマ、ギロ、ベタル・イリット、グーシュ・エツヨンといった入植地がある。エルサレムとその周辺の状況はほかの地域よりずっと複雑で、イスラエルーパレスティナ紛争を最も象徴的に表している。このあたりの壁は二〇〇三年から建設され始めた。二〇一四年時点で、エルサレム都市圏内に予定されていた一四三キロメートルの壁のうち、すでに建造されたのが九三キロ、建設中が二三キロだ。その分離壁はイスラエル人とパレスティナ人を分離するだけでなく、パレスティナ人同士をも分断するものだ。まず、エルサレム都市圏とヨルダン川西岸地区、とりわけパレスティナの政治的首都であるラマッラーを切り離す。こうした状況であるから、エルサレムはパレスティナ人にとっては政治的・社会的展望の不在の象徴なのだ。

一九四九年、エルサレムは西エルサレムと東エルサレムにグリーンラインで分けられた。しかし、六日戦争(第三次中東戦争)でエルサレムはイスラエルに占領されて「統一」され、東エルサレムの六平方キロメートルのほか、当時はヨルダン川西岸地区に属していた六四平方キロメートルも併合された。現在、エルサレム都市圏の面積は一二六平方キロメートルだ。当然ながら、分離壁はグリーンライン上ではなく、つねに拡大し続ける入植地を囲い込むように造られている。都市問題専門の弁護士ダュエル・セイデマン氏はこう書いている。「イスラエルのユダヤ人はエルサレムをわがものとし、その中に潜入し、元に戻せない状況を作り上げている。この地域の安定にとっては悪い兆候だ」。今日、エルサレム旧市街あるいは東エルサレムのパレスティナ人地区に約二〇〇〇人のユダヤ人入植者が住んでいる。したがって、東エルサレムの境界線はヴァーチャルなものになり、そこに住んでいる人のアイデンティティーを示すものではなくなった。

この「統一された」都市の住民はますます分断されている。しかも住民は貧しくなるばかりだ。エルサレムに住むパレスティナ人は六七パーセントが貧困線以下の生活水準(二〇〇七年、ユダヤ人では三〇パーセント)で、現在その割合は七八パーセントに増えた。しかも、かなり前から、エルサレム市は市の東部で基本的公共サービス(インフラのメンテナンス、ゴミ収集)を行っていない。パレスティナ人地区には市の予算の一〇~一二パーセントしか充てられていないのだ。パレスティナ人地区の人口が市の人口の三七パーセントを占め、同じ税金を払っているにもかかわらずだ。エルサレム問題は日に日に複雑化し、イスラエルとパレスティナが首都を分割するという考え方は次第に現実からかけ離れてきている。

ほかの場所よりもとりわけエルサレムでは、人口増加競争が行われている。土地を占有するための闘いだ。人口戦争はュダヤ人コミュニティ側に有利ではない。一九六七年以降、エルサレムのアラブ人人口はュダヤ人人口の倍の速さで増え、今日では全体の三六パーセント(三〇万人)を占める。超正統派のュダヤ教徒(出生率が高い)の増加も穏健なュダヤ教徒の流出を補うには十分ではなかった。二〇一三年のイスラエルの調査によると、過去二〇年間で三〇万人のユダヤ人がエルサレムから転出し、転入してきたのは二〇万人のみだ。この傾向が今後二〇年続けば、アラブ人の人口はュダヤ人と同じくらいになる。ただし、パレスティナ人は建設許可が得られない--三〇年前から不可能になっている--ので自分たちの土地に家は建てられないのだが……。エルサレムに居住する権利は七年間不在にすると失われるので、そうならないために、多くのパレスティナ人は市内の狭いアパートにぎゅうぎゅう詰めになって暮らす。そうして、「永住権のある住民」のブルーカード(身分証明書)という貴重な宝物を維持するのだ。「彼らの生活は、まるで自分たちがそこに存在することを証明することに集約されているかのようだ。そのために、そこで生活していることを証明する電気料金の請求書やどんな受領書でも保存する」。エルサレム市内のパレスティナ人住民の数を減らす目的で壁が造られ、日々パレスティナ人が居住権を失っているにもかかわらず、状況はそれと反対になっている。

イスラエル人(ユダヤ人)とパレスティナ人の対立のほかに、壁はパレスティナ人同士の間に境界線を作る。「今日、エルサレム住民にとって、〝ヨルダン川西岸地区の住民〟になることは地獄だ」。パレスティナ人の若者のなかには親より上の世代に逆らい、タブーを破ってイスラエル国籍を申請する者までいる。あるフランス人ジャーナリストはこう分析する。「利便上の理由からイスラエル人になるアラブ系エルサレム市民(五パーセントに上る)は、いつかエルサレムを首都とするパレスティナ国家が誕生するという希望を失ってしまったようだ」。ヨルダン川西岸地区のパレスティナ人は次第に自分たちのルーツや経済の中心地、社会的・宗教的生活から切り離されつつある。彼らはますます分断されている。

アブ・ディスという町ではパレスティナ人コミュニティはふたつに分断されている。住宅と商店または学校の間、中心街と大学の間に壁がある。本来なら徒歩五分で行けるところを、壁のせいでバスで最低三〇分けかかる。しかも、道路が封鎖されていれば、子どもや学生は学校や大学に行けずに終日を過ごすことになる。こうした状況で学業を無事に修めることは大変な努力と根気を必要とする。フェンスに囲まれたアル・ヌマン村のある女性は大学卒業証書を取得した。彼女の家族は非常に誇りにしている。アル・ヌマン村はエルサレム都市圏に属しながら、住民はヨルダン川西岸地区の住民カード(グリーンカード)しか持てないという特殊な村だ。村の子どもたちは学校に行くのに一時間も歩かなくてはならない--しかも、イスラエル兵が検問所を通してくれればという条件付きだ。東エルサレムのジャバル・ムカバルという地区でも同様だ。この地区は別のパレスティナ人地区アッシャイフ・サッドと壁で分離されている。ふたつの地区は関係が深く、同じ親族がふたつの地区に分かれて住んでいるケースが多いのだが、今ではまったく切り離されてしまっている。二〇〇六年五月からは、特別の許可証を持っていなければ、丘のてっぺんにある地区の入口の門--日夜、イスラエル兵士が監視している--を通ることができなくなった。将来、壁が完成すれば、住民たちは完全に壁に阻まれることになるだろう。

二〇〇三年、イスラエル政府は家族呼び寄せ措置に終止符を打った。こうして、同じ家族のメンバーが色の異なる身分証明カードを持つことになった。たとえば、ブルーカードを持つサナアさんと結婚して三人の子どもがいるアリさんは、週一回、休日である金曜日にしか家族に会えない。彼はグリーンカードしか持っていないので、ペツレヘムから出られないのだ。こうした分断は重大な事態に発展することもある。たとえば、エルサレムの病院が徒歩で数分なのに、エリコの病院に車で一時間かけて行かねばならないケースだ。イスラエル兵が通過を拒否したために、女性が出産のために死亡したり、死産したりした。パレスティナ人がエルサレムにある専門医の診察を受けることはほとんど不可能になりつつある。エルサレム周辺の多くの村は病院にアクセスできない。搬送に時間がかかったために死んだ人は多い。

こうした状況のもと、「安全保障」の論理はどうなっているのだろうか? 「これまでエルサレムのパレスティナ人は、心の底からイスラエルに反発していなくてもパレスティナ人というだけで困難な生活を送ってきた」と、ダュエル・セイデマン氏は言う。「この微妙なづフンスは壁の出現で揺らどうとしている。皮肉なことに、ナーブルスからエルサレムに侵入するテロリストを防ぐべきセキュリティー・フェンスが、東エルサレムに住むパレスティナ人を過激化させているのだ」。こうしてイスラエル人を憎む世代が生み出される。「隣人の庭の境界線を越えたら、いい隣人とは言えないでしょう」と、ある若いイスラエル人はうそぶいた。
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