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アメリカ参戦までの道のり:隠された対日最後通牒

『ルーズベルトの開発責任』より

ルーズベルト大統領が日本に最後通牒を発したのは一九四一年十一月二十六日であった。この通牒は日本に対して、インドシナから、そして満洲を含む中国からの撤退を要求していた。これによって日本を戦争せざるを得ない状況に追い込んだのである。この事実をルーズベルト政権は隠していた。しかしこれは紛れもない歴史的事実であ

元来イギリスは、日本に対する外交政策は宥和的であった。それが変わったのは一九四一年六月二十二日のヒトラーによるソビエト侵攻以降のことである。チャーチルは極東における大英帝国の利権を守るとFDRから約束されたのだ。日本との戦争を起こすための役者に不足はなかった。チャーチル、スターリン、オーウェン・ラチモア、スチムソン、ラクリン・カリー等。これがわが国を裏口からあの大戦に導いた役者の顔ぶれである。

最後通牒であるハル・ノートは真珠湾攻撃以降も意図的に隠された。最後通牒を発した責任者はもちろんFDRである。日本の対米戦争開始で喜んだのはスチムソンでありノックスであった。彼らは根っからの干渉主義者であり、日本と戦うことになるのを喜んだ。もちろん戦いの始まりはもう少し遅くしたかったに違いない。フィリピンでも真珠湾でも、もう少し軍備増強したいと考えていたからだ。ルーズベルトもスチムソンもハル・ノートを「最後通牒」だと考えていたことは明らかである。スチムソン自身の日記にそう書き留めてある。関係者の誰もが日本に残された道は対米戦争しかないと理解していた。わが国はこうして憲法に違反する、議会の承認のない戦争を始めたのである。アメリカは戦う必要もなかったし、その戦いを(アメリカ国民も日本も)欲していなかった。

最後通牒を発する前日の十一月二十五日の閣議に参加していたのはハル、スチムソン、ノックス、マーシャル、スタークである。FDRが指名し登用した者ばかりであった。「どうやったら議会の承認なく、また国民に知られることなく戦争を始められるか」。彼らの頭の中にはそれだけしかなかった。私はFDRと同政権幹部の行なった隠蔽工作を白日の下に晒さなければ気がすまない。アメリカ国民は真実を知らなければならないっ

ここまで読み進まれた読者は、日本に対する最後通牒を、国民にも議会に知らせることなく発した者の責任を容赦なく追及すべきだとの私の考えに同意してくれると信じている。そして同時に罪を着せられたキンメル提督とショート将軍の潔白も証明されなくてはならない。ハルゼー提督がいみじくも述べているように、この二人はスケープゴートにされたのである。三千人にもなろうとする真珠湾攻撃での犠牲者に対する責任を本当に取るべき人間はほかにいた。この二人の軍人が身代わりにされたのであった。

キンメル提督は後年、FDRを歯に衣着せぬ厳しい調子で糾弾している。

 「ルーズベルト大統領と政権幹部の連中が悪意をもって真珠湾を守る陸海軍を裏切った」(原注:一九六六年十二月十二日ニューズウィーク誌)

 「FDRがその企みの中心人物である。彼が日本艦隊の動向をハワイに知らせるなと命じたのである。日本の動きをマーシャルには知らせていた。しかしFDRはマーシャルにも絨口令をひいた」(原注:一九六六年十二月七日ニューヨーク・タイムズ紙)

 日本に対する最後通牒(ハル・ノート)が通告されたのは真珠湾攻撃の十日前であった(訳注:正確には十一日前)。この最後通牒が日本軍の攻撃を誘引したのは当然の成り行きであった。真珠湾に船体を横たえる戦艦アリゾナは命を落とした千人の水兵の墓標である。同時にあの最後通牒の存在を、今を生きる者たちに伝える遺産でもある。真珠湾で戦死した海軍や陸軍の兵士が戦争を始めたわけではない。始めたのはルーズベルトらのワシントン高官である。

FDRは大統領であると同時に軍の最高司令官でもあった。州兵も彼の管轄である。彼の真珠湾攻撃にいたるまでの二年間の行動は、わが国をドイツとの戦いに巻き込もうとするためのものであった。アーサー・クロックはニューヨーク・タイムズ紙(ワシントン支局)の記者であったが、FDRに次のように述べている。

 「あなたは一九三七年の『隔離演説』以来、日本にはとにかく冷たく、そして辛くあたった。その結果、日本を枢軸国側に押しやってしまったのである」

日本が枢軸国側に走ったことは大変な脅威となった。ナイ上院議員は次のように嘆いた。

 「日本が枢軸側についてしまったのは、わが国外交の拙策の結果である。日本には向こう側についてもらっては困るのである。日本はアメリカ国務省の強引な対日外交の結果、そうせざるを得なかったと主張した」

日本はわが国との戦いを避けるためには、ほとんど何でもするというような外交姿勢をとっていた。ベトナムからは米、天然ゴム、錫などが必要だった。日本のベトナムヘの進駐はフランスのペタン政権の了解を得た上でのことであった。言わずもがなのことであるが、もしオランダが日本に対して石油の供給を拒めば、日本は蘭印(インドネシア)に進駐するであろう。日本が生存するためには致し方がない。日本は元来フィリピンなどを含む南方地域には関心がなかった。しかし石油だけは違った。石油なしでは日本は生きていけない。商船も軍船も機能不全に陥ってしまう。

近衛(文麿)首相は和平を希求していた。ワシントンヘでもホノルルヘでも出かけて行ってFDRと直接交渉することを望んでいた。わが国の要求に妥協し、戦いを避けるための暫定協定を結びたいと考えていた。しかしルーズベルトは近衛との会見を拒否し続けた。日本に戦争を仕掛けさせたかったのである。そうすることで対独戦争を可能にしたかった。

駐日大使のジョセフ・グルーは日本がどれほど和平を望んでいたかを知っていた。だからこそ直接交渉すべきだとワシントンに献言した。FDRは、そして彼をとりまく干渉主義者たちは(会見を拒否し)、姦計を弄し、わが国を戦争に巻き込んだのであった。わが国はあの戦争を戦うべきではなかった。不要な戦争であった。先述のアーサー・クロック記者はFDRの対日禁輸政策を責めている。あの政策が両国間の緊張を高め、日本を対米戦争に追い込んだ。そう主張しているのである。

イギリスが日本に対して禁輸などすれば、東アジアの植民地の防衛などできるはずはなかった。香港も、シンガポールも、マラヤも、北ボルネオもイギリスは守ることなどできない。それにもかかわらず、米、石油、錫など日本の必要とする商品の供給を止めたのである。そうした原料の輸入が止まってしまえば、日本は一等国としての地位を保全できなくなる。

たしかに日本は中国との間で宣戦布告なき戦いを四年にもわたって続けていた。しかしソビエトも、日本と同じようにフィンランド、ポーランドそしてバルト三国に侵攻しているではないか。わが国はそのソビエトには何も言わず同盟関係を結んだ。これに比べ日本は満洲を除く中国そしてベトナムからの撤退も検討していた。南下政策は採らないという妥協の準備もあった。あれほど強力な国である日本にこれ以上の条件をわが国は要求できただろうか。天皇裕仁も近衛首相も和平維持のために信じられないほどの譲歩をしようとしていたのである。
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パラレル・ワールドの仮説

『シュレーディンガーの猫を追って』より 可能態としての可能なものをめぐる可能性

もっとも単純な理論こそがもっとも満足のいくものだ。理論を検討するには、誰にでも理解できて、いかなる数学的証明も必要としない、たったひとつの仮説に依拠するだけでいい。

どんな仮説だろう?

答えはこうだ。宇宙は無限であり、無限な物質に満ちている。これこそ多くの学者が考えをめぐらし、星空を見て夢想する者が直感的に思い描いていることだが、そうだとすれば、この原則から、含まれる結論を演鐸しなければならない。それは、粒子に関する予想可能なあらゆる組み合わせが宇宙空間のどの領域にも存在する、ということだ--たとえわたしたちからはるか遠く離れており、点在するそれらの区域と関係を結ぶことが叶わず、そこから発せられるいかなる徴を受け取ることもできないとしても。

「あらゆる組み合わせ」の意昧とは何か。すべてはどこかに存在するということ、だとすれば必然的に、地球に似た天体が無数に存在するし、そのうちのいくつかはまったく同じでさえあって、そのいずれにもわたしたちが知っているような生命が無数にあるということだ。従って、地球上のあらゆる人間や出来事にはそれと対になるものが無数に存在し、それらはきわめてよく似ていたり、あるいは程度の差こそあれ、異なったかたちをしていたりする。ふたたびアリストテレスの言葉を用いれば、あらゆる可能態は現実態でもあるのだ。

かつて存在したもの、いま存在するかもしれないもの、かつて存在しえただろうもの、いま存在するもの。

そのすべてが、無限の宇宙の懐にある。なぜなら無限の宇宙は、定義からして、すべてを内包しているからだ。

きわめて単純な話だ。

パラレル・ワールドの命題が思考の必然であると認めるためには、あえて言えば、無限という考えだけで十分だ。なぜなら、宇宙空間が充足し、かつ、限界がないと認めることは、宇宙では人生のあらゆる潜在性が実質的な存在を与えられているという考えを受け入れることになるからだ。その確率がゼロではない以上、そしてたとえわずかな見込みだったとしても、物質を構成する諸要素は、配置転換によって並べ替えられ、それが空間のあちこちに場所を占める。そして空間は、無限であるがゆえに、そうした配置のあらゆる組み合わせを提示し、くみ尽くす。

たがいにまったく無関係な仮説に依拠しているにもかかわらず(天文学者にとっては宇宙の無限、物理学者にとっては「重ね合わせの原理」)、科学が夢見るパラレル・ワールドは奇妙なほど似通ったものになる。

まるで、大海原のなかの一粒の水滴のように。

天文学者のパラレル・ワールドは、通常の感覚にも理解ができ--だからこそ思い描きやすい--、惑星や銀河を含めていわゆる「宇宙」と呼ばれるもののうちにある。一方、物理学者のパラレル・ワールドは、べつな場所--「場所」という言葉が適切かどうかすらわからない--、すなわち、微視的な現実における波動を表すことができる数学的に構築されたヒルベルト空間のなかに広がっている。

だが、わたしたちにはいずれの空間にも到達できない以上、結果には大差ない、と思う

無限を想定することで仮想と現実が等号で結ばれるという考えには、太古から事欠かない。こんな思考実験がある。チンパンジーをタイプライターの前に永遠に座らせたままにしておく。すると、『イーリアス』や『オデュッセイア』を書き上げるときが必ずや到来する。さらには、ホメロスの作とされる詩を--それ以前、それ以後、べつなかたちで--さまざまに変形させたものも書かれるはずだ。つまり、ホメロスという名で人間になった猿の命が短すぎて書けなかった作品群だ。女たちに混じって女の恰好をさせられる以前のアキレウスの幼少期や、ヘレネーがメネラーオスに対する貞節を守ったためにトロイの戦争が起きなかったという異本や、トロイ人がギリシャ人に勝利する筋や、イタケーに帰ったところで終わってしまうオデュッセウスの冒険、などなど。というのも、チンパンジーには悠久の時間があり、偶然まかせにキーを叩いているうちに、人間の言語が生み出しうるあらゆる物語を作ることになり、そうすることで意味をめぐる無尽蔵の余白をくみ尽くしてゆくからだ。同様に、素粒子の記号体系の場合も、紙に打ち出された文字による言語のように偶然まかせに組み合わされることで、無限空間の闇のなかに、現実にまったく同じ結果を生むことができる。

かの有名なボルヘスの寓話が付随的に示してくれるのは、無限をめぐる仮説さえ無用ということ。この手の思弁に実質を与えるには、膨大な数の領域に移行すれば十分なのだ。一冊の書物を作りあげている文字数を(ページごとの文字数、そしてI冊分のページ数から)設定し、アルファベットをランダムに並べ替えてできるすべての本が印刷されているさまを想像してみるといい。そして、すべての書物を--計算式は忘れたが、その数は高校で習う数式で簡単に算出できる--、ひとつの書架に並べてみるといい--ボルヘスはこれを「バベルの図書館」と呼んだ--。書架はとてつもなく大きいが、それでも収められている本の数は有限だ。こうしてひとが手に入れるのは、まったく意味をなさない何千もの記号の連なりであり、なかには時として、迷子になりながらも理にかなったわずかばかりの単語、文章、ページがある。一方では、かつて言うところの「書かれうる」あらゆるテキストもあり、それは、さらに以前の言葉に言うところの「図書館」の棚のいずれかに存在する宿命にある。

すでに書かれた、これから書かれるだろう、あるいは書かれたかもしれない、すべての書物。世界中の図書館に納められたすべての書物、そしてアレクサンドリアで灰燼と化したすべての書物。紛失した古代ギリシャやローマの悲劇、ソフォクレスやシェイクスピアやラシーヌが書かなかった偉大な悲劇。失われながらも、あるいは存在しないままに再発見されるテキスト。カエサルが占い師の忠告に耳を傾けて暗殺を免れたとしたら成し遂げていたはずのこと、ローマに対するカルタゴの勝利、ウェリントンに対するナポレオンの勝利、一度も存在したことのない文明の誕生と絶頂そして凋落を綴った数々の学校教科書。論証された命題とその反対命題の両方を扱う哲学概論。あらゆる論証と、それに対応するすべての反証。少なくとも一見したかぎりは双方が反駁を許さない、神の存在証明と非存在の証明。ひとりひとりの実在を語り尽くす物語。すなわち、死の正確な瞬間を告げる細部に至るまで、あなた自身の人生をめぐる詳細な物語。そればかりでなく、偽りを語るあらゆるかたちの伝記もあり、そこには本書も含まれる。いずれも首尾一貫していながら、たがいにまったく相容れない物語の数々を区別するのは不可能だ。それは、シュレーディンガーの波動方秤式によって示される、一個の粒子における重ね合わせの状態と同じだ。そしてもちろん、ボルヘスの登場人物が結論づけているように、あらゆる言葉の総体には、そのほとんどが読解不可能ななかで、いままさに白‥分自身が書いているテキストも含まれている。あるいは、いまわたしのパソコンの画而に現れつつあるテキストも例外ではない。
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非営利組織の統治

『企業統治』より 非営利組織 何のための、そして誰のための組織か

非営利組織のマネジメント

 ミッションとその実現

  非営利組織と営利組織とでは・その運営の仕方にどのような違oがあるのでしょうか。この節では、非営利組織のマネジメントを概観しましょう。

  営利組織は、基本的に利益の確保という目的のためにさまざまな事業という手段を用いています。Anthony and Youngによれば、営利組織の強みは以下のようなものです。営利組織にとって、利益の確保は営利組織における第1の基準であり、営利組織はその目標に向けて組織全体を動員することができます。また売上、コスト、利益を量的に(=お金という尺度で)比較したり分析したりすることも簡単にできます。あるいは組織がいくつかの事業を手がける際にも、同一の基準で評価することが可能ですし、同じ理由から全体のマネジメントも容易になります。

  一方、営利を目的としない非営利組織は、その組織上の目的を自らが定めたミッション(使命)の実現にその重点をおいています。ミッションは、組織内部で働く人々に「われわれはなにを達成しようとしているか」ということを示すと同時に、組織外部の人々からの支援を得るために非営利組織が発するメッセージとしても機能しています。

  ドラッカー(Drucker、P.F.)は、ミッションには以下の3点が含まれるべきであると述べています。第1にそのミッションが非営利組織自身のもつ強みに適合し、成果を生み出しうるものであること、第2にそのミッションが外部のニーズをくみ取ったものであり、事業を進める上での機会となるものであること、そして第3に非営利組織のメンバーを動機づけ、信念をもってあたれるものであることです。

  こうして定義され、またときに応じて変わってゆくミッションは、非営利組織の経営者によって実行されてゆきます。経営者たちは、利益ではなくミッションを基礎に個別具体的な目標を設定し、組織を導くのです。

  ミッションに基づく経営は、営利を目的とする組織とは異なる性格をもつことになります。Masonは、非営利組織の目的は営利以外にあり、企業が金銭を目的としているのに対して、非営利組織は金銭をミッション達成のための手段とみなしています。これは、結果よりもプロセスを重視するということでもあります。そして、その目標達成は損益に優先されるため、経営資源を過大に消費して赤字を出しても許容されることもあります。

  非営利組織のマネジメントは、図表9-5に示されるMOSTECと呼ばれるフローによって行われます。

  MOSTECは、基本的に理事会(意思決定機関)と事務局(執行機関)によって行われています。図表9-5はNPO法人と財団法人における意思決定と執行を表しかものです。理事会は主としてミッション(M)の確立、目標(O)の設定、戦略(S)の決定に携わります。一方、執行機関は日常的な戦術(T)を選択し、執行(E)します。また理事会、事務局双方のレベルで評価・統制(C)が行われます。通常、執行責任者は理事を兼務し、意思決定と執行の機能が連結されるようになっています。

 有給と無給スタッフによる組織とドナーからの支援

  Mason[1984]は非営利組織の特徴として図表9-6のように必要な資源の調達とサービスの分配とが分離していることが多い(=資源を拠出する人と受益者がイコールでない場合が多い)ことを指摘しています。

  さらにMasonは、非営利組織は自身が生み出すサービスの市場価格を正確に測定できないこと、外部資源に依存することから利害関係者に配慮した経営が求められること、利害関係者との共存のために複数の目的を追求すること、などを組織上の特徴としてあげています。

  先述したように非営利組織は、現場のボランティアから組織の経営責任を担う理事に至るまで、多くの無給・非常勤スタッフによって支えられています。また非営利組織も銀行などから資金を借り入れたり、営利組織と同様に利害関係者と関係をもったりしますが、図表9-7のように必要とする資源(ヒト・モノ・カネ・情報)の拠出を外部に依存せざるを得ない場合も多いのです。一般個人、篤志家、企業・地域、自治会、助成財団などから寄付を、会員からは会費を、政府からは助成金や事業委託を、ボランティアからは労働力の提供を受けています。

  非営利組織は多くの利害関係者をもち、ボランティアの比重が高いのですが、そのような組織はアドホクラシー(adhocracy)としての特徴をもっています。アドホクラシーは、有機的で柔軟、暫定的な性格をもつ組織で、外部環境の変化に応じて柔軟に変化し、また成員の交代といった内部の変化にも適応できるよう階層の数も少なく、分権化された組織のことです。また非営利組織は、スペシャリストやプロフェッショナルの役割が大きいことも特徴です。

  一方で田尾・吉田によれば、そのようなアドホックな組織は、利害が衝突した際の調整が難しい、責任の所在が不明確になる、分権化されているために組織全体でみると運営コストが高くなるといった短所ももっています。そのような組織をまとめるために リーダーシップの重要性が指摘されます。自発的に参加するボランティアたちのモティベーションを保ち、メンバーの入れ替わりが多く分権的な組織をまとめるうえで、リーダーシップを発揮できる人材の確保が求められるのです。

非営利組織の統治

 非営利組織の統治は営利組織とは異なっており、また社団法人型の組織と財団法人型の組織では統治構造も異なります。図表9-8にあるように、社団型の非営利法人は社員総会、理事会、事務局というラインがあり監事が監査を行うのに対して、財団型では理事会、事務局というラインに評議員会と監事がチェックを行う形になります。

 理事もしくは理事会は、非営利組織において必置の最高管理機関であり、法人を代表して意思決定と執行の責任を負っています(NPO法人の場合は、理事は必置ですが、理事会は設置しないことも可能です)。ドラッカーはその著書のなかで理事たちの役割を、機関を統治する「統治者」、自ら資金を出し、また資金を集める「スポンサー」、機関の使命を説明し、逆風にあるときには機関を護り、関係者やコミュニティに対して機関を代表する「大使」、専門的な能力を有する「コンサルタント」と表現しています。また米国のNational Center for Nonprofit Boardsは、理事会の役割を以下のように定めています。

  ①組織のミッション、目的を決定すること

  ②執行責任者(CEO)を選任すること

  ③執行責任者を支援し、その業績を評価すること

  ④有効な組織計画を確定すること

  ⑤適切な財務資源を確保すること

  ⑥財務資源を有効に管理すること

  ⑦組織のプログラムやサービスを決定、評価、強化すること

  ⑧組織の公共的地位を確立すること

  ⑨法律的、倫理的高潔性を確立し、説明責任(accountability)を維持す ること

  ⑩新しい理事を探すこと、理事会の業績を評価すること

 理事会は組織の受託者であり、株式会社の受託経営者である取締役会に似ているところもあることがわかります。

 理事や理事会は、長期的な視点でこれらの事項についてかかわっています。一方、業務を執行する事務局は、日常的な事項について知悉しており、事務局長は日常業務の責任者として、非営利組織の実質的な経営者になります。つまり組織上の上位に位置する理事や理事会に対して、事務局は日常的な運営にかかわる経験と情報量の多さにもとづく実質的な影響力をもっていることになり、両者の間には単なる組織上の上下という以上の関係にあります。とりわけ規模が大きく非常勤の理事が多い組織の場合は、十分に統治が機能しないこともあり得ます。

 こうしてみると非営利組織のマネジメント同様、非営利組織の統治にも独特の特徴があることがわかります。そのような特性をよく理解した上で、組織の強みを生かせるような運営が求められるのです。
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乃木坂はコミュニティ

乃木坂はコミュニティ

 乃木坂はやはり、コミュニティですね。そう考えたときに、欅のコミュニティが心配になる。全体主義に向かっている。その乃木坂は今、変節点に向かっている。乃木中の選抜発表を見ていて、そう感じた。

 それぞれがバラバラでなく、分化していながら、全体をなすコミュニティの在り方が求められている。コミュニティはどこへ向かうのか。

 ひめたんの元気のなさが伝播している。乃木中は半年ぶりなのに、何も触れていない。バナナマンも自信がなかったんでしょう。

生活費の分析

 お金の分析をしないといけない。半月で2.5万円もなくなっている。やるなら、徹底的にやりましょう。

「存在と時間」の「時間」は死までの時間

 ハイデガーの「存在と時間」のうち、「時間」部分をピックアップさせます。「時間」は死と理解しています。その先に向かわないと。「時間」は哲学の大きな対象です。私の存在にとっても大きい。

 <今>が不思議でしょうがない。意識できている<今>が全てなんでしょう。不思議でしょうがない、二つのもの、「存在と時間」を取り上げたハイデガーの大きな力でしょう。

ものすごく辛い

 セブンイレブンのわさビーフはすごく辛い。だけど、慣れるものです。
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