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マクドナルドから見るアメリカヘの憧れ

『再起動する批評』より ⇒ スターバックスは日本型の高度サービスに進化する

40代前半の僕らの世代にとって、コークとハンバーガーがアメリカを象徴するアイテムだったということは、さすがにない。それがあったのは、僕の親世代がまだ若者だった時代のことだろう。マクドナルド1号店が銀座にオープンしたのは、1971年。まだ学生運動が盛んで、アメリカが日本の基地を経由してベトナムで戦争をしていた時代である。

僕が小学校低学年だったころ、地域の夏休みのラジオ体操には、マクドナルドのキャラクターであるハンバーグラーやドナルド、ビッグマックポリスといった着ぐるみたちか来ていた。ラジオ体操の後には、毎回、マックフライポテトやマックシェイクの割引券が配られていた。何も疑問には思わなかった。

当時のマックは今ほどありふれたものではない。大きな街の繁華街に行かなくては、店舗がなかった。街中にお出かけするときに、たまに連れて行ってもらえる。マックはそんな場所だった。

クラスの友だちが、マックの店舗の前にある赤い2階建てのバスでバースデーパーティを開いたということが話題になった。マックパーティバスだ。これは、店舗の外に置かれたパーティ専用の個室空間だ。ここを貸し切ってパーティを開くことは、80年代の子どもたちにとって憧れ以外の何ものでもなかった。

憧れという意味では、マックでのバイトも憧れを伴うものだった。高校生当時は、クラスで上位の可愛い女の子たちか、マックでバイトをしていたものだ。

マックバイトには、一般の従業員であるクルーを始めとする階級が存在する。通常の階級上昇とは別に、特別な存在には「スター」というポジションがある。「スター」は、制服が他のバイトとは違っている。このポジションは接客がうまい、主には見た目が華やかな女の子に与えられるポジションだった。

マックバィトが憧れを伴った理由のひとつに、着せ替え人形の「リカちゃん」があったのだろう。以前に歌手デビューを果たしたり、お天気キャスターになったことかあるリカちゃんだが、ついにはマックでアルバイトを始めてしまった。「リカちゃんのマクドナルドショップ」の発売は1984年。これには、もちろんマックの制服がセットになっている。その後も、リカちゃんが実在する企業の制服を着るケースは増えるが、これが最初期のタイアップということになるだろう。

ドライブスルーという言葉を知ったのも、リカちゃんのCMだった。「リカちゃんのマクドナルドショップ ドライブスルータイプ」が登場したのは、1986年のこと。これには、オープンカーがセットで付いてくる。実際に、マクドナルドの郊外型店舗が増えていた時代。クルマのある生活、アメリカ的な郊外での生活が、ここに映し出されている。

僕らの世代にとってのマクドナルドとは、家族や友だちで集まってのパーティを行う場所であり、街一番の可愛い女の子が働いている場所であり、親と一緒のドライブの途中で寄る場所だった。キラキラした場所であるマクドナルドの先に見えているのは、アメリカのライフスタイルだ。

こうしたアメリカヘの憧れが、主に子どもに向けて広告などを通して伝えられていたのは、あらためて驚くべきことだろう。当時のマクドナルドの営業、PRの手法は、今振り返ってみても見事である。戦後、アメリカの農務省は、余剰小麦を日本に援助物資として送った。その小麦はパンという形で、学校給食のメインの食材となった。将来、この国にパン食が定着すれば、アメリカの小麦輸出は拡大していく。小麦援助は、将来を見越した輸出政策の一環だったのだ。

アメリカのライフスタイルが、こうした食文化の輸出という要素を持って行われた時代と比べると、マクドナルドの「憧れ」を伴う輸出のスタイルは、随分と洗練されたものだ。日本でのマクドナルドの成功の本質は本家アメリカでレイ・クロックが進めた製造過程の合理化・マニュアル化の部分ではなかった。アメリカの生活様式、文化への憧れをともなったものとして、マクドナルドは日本に定着したのだ。

文化そのものの輸出。小麦時代に比べてバージョンアップした「アメリカ」である。

アメリカヘの憧れそのものが薄れていった時代。それが、マクドナルドがキラキラした場所ではなくなっていった1990年代だろう。現在のマックの惨状を見ると、アメリカヘの憧れが消失した現実も重なって見えるかのようだ。

しかし、クラスの可愛い女の子が喜んでバイトしたがる場所かどこかと言えば、それはスターバックスコーヒーだろう。そして、そのスターバックスも当然ながらアメリカである。

スターバックスコーヒーの経営の最大の特徴は、広告費をかけないことにある。スターバックスは、マクドナルドのような画一化を嫌い、店舗により使っているソファや調度品を統一していない。店の内外装、椅子やソファ、インテリア、そういった居心地のいい場所の提供(「サードプレイス」という言葉が用いられる)を通じて、スターバックスはブランドをアピールする。

マクドナルドからスターバックスヘという流れは、そのままコーヒーの「第1の波=ファーストウェーブ」「第2の波=セカンドウェーブ」という流れに沿ったものでもある。

大量生産・大量消費、つまりマクドナルドのような安価なコーヒーを提供する巨大チェーンが第1の波。日本では、1970年代以降に定着していった。それに次ぐ、スターバックスのようなヨーロッパのスタイルのラテ系を取り入れたチェーンが第2の波。では、広告はもう古いものとして捨てられ、内装やロゴデザイソを使用したブランディングなどが用いられた。これは1990年代後半以降に日本で定着していく。

そして、その次が第3の波=サードウェーブとなるわけだが、このコーヒー文化の3つの波は、日本の消費段階の変化を見ているようだ。20年に一度、新しいコーヒーカップにすげ変えられて、違う昧のものとして注がれていくのだ。

2015年に日本に上陸した「サードウェーブ」を標榜したブルーボトルコーヒーは、少しずつ店舗の数を増やしつつある。一杯ずつハンドドリップで淹れるコーヒーを売りにしており、この丁寧さが「サードウェーブ」の表面的な定義である。だが、重要なのは、コーヒーの抽出法ではなく、この背景にある生活様式だろう。焙煎した豆から一杯一杯淹れるコーヒーを毎日飲む生活。リーマンショック以後の、手作り(クラフト)を重視した価値観で、消費者に訴えるのは働いている女性よりもむしろ男性(ヒゲにメガネにキャップ姿のイケメンたちだ)。自分でピクルスを漬けたりするようなライフスタイルとマッチしたポートランド風、ブルックリン風の脱消費的なマインド……。

カナダの哲学者ジョセフ・ヒースは、『反逆の神話--カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』(NTT出版)の中で、「大衆社会批判は過去四〇年にわたって、消費主義のきわめて強大な原動力となってきた」と言っている。脱消費社会的な言説こそが、現代の消費社会で最も流行っているものである。おそらく、これから浸透していくであろう波は、こういった様相のものになるだろう。

バージョンアップされたアメリカの影は、僕らのアメリカヘの憧れなんてすっかりなくなってしまったかのように装いながら、きちんと根付いている。
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乳業における資源蓄積と機能分化、階層分化の流れ

『ミルクと日本人』より 社会分化と関係アクター

社会的ラグ

 近代産業としての乳業の特徴の一つは、前時代から継承する産業基盤がなく、規制もなかったことである。前近代に確立していた業種は、株仲間などの同業者集団が、同業者数や商取引を規制し、流通経路を統制した。乳業にはそのような前時代の遺産はなかったことがら、小規模の同業者組織の結成・消滅が頻繁に繰り返された。統制力がある同業者団体が出現し、産業として自律的なしくみが確立されるまでにはかなり時間を要した。

 動物から搾られた生の乳を、毎日一定の時間までに多くの人々に届けるには、さまざまな制約があった。冷蔵庫がない時代には、牛の飼育地と顧客の居住地は近かった。すなわち生産地と消費地の近接が、生乳の需要・供給を成立させる条件であった。人口密度が高い都市と、その周辺部に乳業の産業基盤が形成され、生乳の流通圏になっていった。

 都市部から遠い牧場は生乳を加工し、乳製品を製造する道を模索した。製造機械の性能は低く、冷蔵設備も輸送手段も発達していない時代である。少量生産にとどまり、輸送コストもまかなえない。好循環に転換するには、機械、冷蔵、輸送の全般的な底上げ、つまり社会的基盤の整備が必要で、地方の条件が整うには時間を要した。乳業が成立する社会的資源の蓄積とミルクの普及には都市と地方の間に地域的な格差、すなわちローカルなラグがあった。

 また、ミルクを飲む習慣は栄養の知識と連動した。価格の点でも裕福な人々に有利であることはいうまでもない。知識を身につけた所得の高い層からミルクは普及していった。ミルク受容のプロセスには社会階層による違い、すなわち階層的ラグもあった。

官有資源と導入アクター

 本書ではまず最初に、産業基盤の形成という視点から「近世の牧牛資源」について述べる。幕府の試行的事業により、わずかであるが、近世に蓄積された牧牛資源があり、近代以降の「官有資源」の形成に影響を与えた。その「導入アクター」になったのは明治初期の政府高官である。

 明治政府の殖産興業によって官営工場が開設されたことはよく知られているが、同時期に農業分野でも官営の農業試験場が設置された。牧牛に関して、欧米の知識、技術の習得が進められ、人材養成が図られた。この時期に蓄積された牧牛関連の「官有資源」として、官営施設(試験場、諸施設、牧地等)、乳牛、人材(牧牛技術)をあげることができる。

 次の段階では、民営による牧牛業が始まったが、当初は官有資源が利用された。とくに重要だったのは人材である。明治政府は殖産興業が軌道にのると、官有物の払い下げを行ったが、廉価の物材(土地、施設、機械)の移転は問題視された。人材の移動による技術移転が最も摩擦が少ない。このように産業基盤の形成という視点から、「近世の資源」「官有資源」「民間資源」の連関と、関係したアクターについて述べる。

民間資源と出資アクター

 民営で牧牛、搾乳、牛乳販売業を経営する場合、企業的経営と自営業の二つの経営形態がある。企業的経営形態をとるのは牧畜業の規模が大きい場合である。牧地、乳牛の入手に相当の投資が必要となる。活用可能な資源を有効に用い、規模の大きい経営体を効率よく運営するため、経営体のなかで機能分化が生じる。

 それに対して、牧場といえるほどの広さの土地もなく、狭い牛舎で少数の乳牛を飼育・搾乳し、隣接している店舗で牛乳を卸売・小売する場合は、自営業的経営で事足りる。資本力が脆弱な、零細自営タイプの搾乳・販売業者が都市部に多く存在した。資源を有効に蓄積して事業を拡大させることは難しく、厳しい競争で淘汰され消滅していった。

 本書では、企業的経営の牧牛・搾乳業の事例を取り上げ、経営体が機能分化していく過程を記述する。具体的事例は渋沢栄一が関わった牧畜・搾乳業である。渋沢は第一国立銀行の頭取を務め、数多くの企業設立に関与した。近代の著名な資本家の一人である。

 諸資源を効率よく活用し、事業経営を成功させるのは資本家の役割である。渋沢は政府官僚経験者であり、政財界の人脈に通じていた。日本で未経験・未知数の牧畜・搾乳業を成功させるには官有資源の利用が不可欠であったが、渋沢は官有資源をめぐる政府の動向を知り、所管省ヘアクセスするのに有利な立場にあった。渋沢は「出資アクター」として事業資金を出資すると同時に、官有資源を効率よく利用し、民間資源の蓄積を進めることにおいても巧みであった。

アクターの機能分化

 渋沢のように出資者であり、かつ経営方針を決める経営上層は、トップマネジメント層にあたる。企業経営ではトップ層の方針をうけて、実務を遂行・管理する層、つまりミドルマネジメント層が必要である。近世と近代の相違点の一つは、近世商家では番頭など管理者養成の伝統的しくみがあったが、近代企業の場合は、トップマネジメント層(経営者層)が信頼できるミドルマネジメント層(管理者層)をどのように確保するか、新たな方法が必要とされた。ミドルマネジメント層に要求される実務的技能も前時代とは異なる。

 乳業経営においては、必要とされる「実務」は大きく二種類あった。一つは牧牛・搾乳の技術という「生産に関わる実務」である。もう一つは販売・営業など「商業振興に関わる実務」である。生産スキルの「管理アクター」と、商業マネジメントの「管理アクター」である。乳業が成長すると、「生産」部門と「販売」部門に機能分化した。

 産業の成長には、「出資者」トップマネジメント層と「実務者」ミドルマネジメント層がバランスよく連携し、それぞれの遂行能力を向上させることが肝要である。トップマネジメソト層が整えた経営基盤で、生産や商業マネジメントの「管理アクター」が実務能力やネットワークを磨いた。このような経営に携わる資本家、中間管理者に対して、「販売」体制に不可欠の存在だった牛乳配達人は労働者層に該当する。

供給と需要の媒介アクター

 消費者の戸口に届ける牛乳配達人は、供給側と需要側を具体的に橋渡しする「媒介アクター」である。動物性食品への禁忌が強かった日本では、明治初期に牛乳に対する需要は小さかった。供給側の動きが先行しており、牛乳配達人は見本の牛乳を持って顧客を開拓した。このような「媒介アクター」によって消費者として取りこまれていったのはどのような階層の家庭であろうか。

 牛乳配達人は供給側の末端に位置づけられた労働者であると同時に、需要側の牛乳飲用者の階層的構成に影響を与えた独特の存在である。「媒介アクター」がつなぐ顧客には階層的な偏りがあった。

 このほか、本書では需要促進のアクターとして、消費者だげではなく、軍隊の食料需要に言及する。また、需要・供給に影響する「規制」要因として近代の衛生問題、牛乳規則などについてもふれる。

経済的供給と福祉的供給

 このような需要・供給・規制は、経済的領域の活動である。対価を払って牛乳を入手するしくみである。対価を支払うことができない層は牛乳と縁遠いままたった。ところが、牛乳は栄養価が高いことから、対価の支払いが可能な層だけ、牛乳を飲んでいればよいということにはならなかった。ここが牛乳の興味深いところである。牛乳が近代社会の深層を探るツールとして役に立つゆえんである。

 経済的方法による分配で不充分な場合は、福祉的方法を用いることになる。日本で牛乳供給の福祉的対応に着手したのは関東大震災がきっかけである。福祉的領域における牛乳配給の「促進アクター」は社会行政の官僚である。福祉的供給の制度化を進めた結果、近代における配給対象は、貧困家庭の児童にしぼられることになった。

 しかし、敗戦による貧困、食糧欠乏で栄養不良の児童数が増加し、福祉的供給は拡大した。全児童を視野に入れたミルク配給が目標とされるようになり、「脱脂粉乳」が威力を発揮した。福祉的供給の延長線上に「学校給食」制度が整備された。教育活動の一環として取り扱われ、「福祉的供給」の域を超えて、「教育的供給」へと展開していくことになった。
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メロンとスイカの現在と未来

『メロンとスイカの歴史』より トルコのディナーの果物はスイカだった。それまでは日本の果物と思っていた。

甘いメロンの故郷はおそらく暑く湿度の高いインド亜大陸であり、スイカの故郷は暑く乾燥したアフリカなのだろう。だが今やメロンは世界中の温暖な地域で栽培され、大きな収穫があがっている果物だ。栽培にあまり手がかからず、場所もさほど選ばない。メロンは人類とともに長い旅を経てきたのだ。

世界中で愛されているメロンとスイ力

 中国はメロンやスイカの生産で他を大きく引き離し、世界の生産量(重量)の50パーセント超を占める。ほかに生産量が多いのは、スペイン、イラン、トルコ、アメリカ、ルーマニア、イタリア、モロッコ、インド、エジプトといった国々だ。2006年の統計によると、中国は毎年6000万トンのスイカ--一部はスナック用の種をとるため--を生産し、このほか、ハミウリをはじめとする甘いメロンやトウガン、ニガウリなども栽培している。トルコは約400万トン近いスイカに加え、ヘビウリや甘いメロンを多品種生産している。カンタロープメロンやイノドルス群のものを中心に、メロンの総生産量は176万5600トンを超える。ブラジルでもスイカは大変な人気で、非常に多様な品種が生産されており、スィカ生産量では世界4位だ。甘いメロンをもっとも多く輸入している国はアメリカ、スイカの愉人はドイツが最多で、それにアメリカ、カナダが続く。

 メロンの生産は先史時代同様、今も移民たちの労働に負っているところが人きい。19世紀末に、カリフォルニア州中央部の暑く肥沃な渓谷に移住してきたアルメニア人移民は、祖国から持ち込んだ甘いカサバメロンやペルシャメロンを栽培した。それからおよそ100年後、アフガニスタンと中央アジアからの移民も、祖国から携えてきた異国の甘いメロンの栽培に同じカリフォルニアで取り組んでいる。ただし病害虫に対する耐性や、傷みやすいメロンを迅速に市場に運ぶのがむずかしいといった問題があり、これまでのところ成功しているとは言えない。だがこのメロンはとてもめずらしく、食昧もよいため、農家も小売店もこの品種の栽培を継続したいようだ。

 ニガウリは、アフリカの奴隷貿易とともに新世界に入ってきたと思われる。現在はカリブ海地域や中南米で非常にポピュラーな野菜だ。カナダのトロントやバンクーバーの市場にニガウリを持ち込んだのは、インドをはじめとするアジアからの移民だ。多くの生産者が、今もさまざまなメロンの改良に取り組み続けている。

 甘く香しいガリアメロン(ハネデューメロンとマスクメロンを交配させたもの)は1970年代にイスラエルで開発され、現在、ブラジル、スペイン、アメリカ、パナマ、エジプト、コスタリカで商業生産されている。

 フランスでは、フランス産の甘い極上のメロンが国の誇りとなっている。南フランスのカヴァイョン地方は地元産のカンタロープメロンで有名だ。1864年には、作家のアレクサンドル・デュマが、このおいしいメロンを死ぬまで毎年12個受け取るという条件で、自身の全194著作をカヴァイョンの図書館に寄付したという逸話も残る。1987年には、カヴァイョンのシャラントメロンをたたえ、保存し、改良し、販売促進するため、「同胞騎士団メロン勲章」が創設された。カヴァイョンのレストラン・プレヴォー(2013年にミシュランのひとつ星に認定された)は6月から9月までのメロンの旬の時期には、地元産のメロンを料理に使用し、舌ビラメのメロンと香料添え、メロンのヤギのチーズ添え、メロンとロブスターといったメニューが登場する。

 スペインは多品種のスイカとメロンを生産するが、ピエル・デ・サポ(「ヒキガエルの皮」)が一番有名だ。このイノドルス群のメロンは、シャキシャキとした食感の白く甘い果肉をもつ。緑色の果皮はしわがよっているため、この名がついている。ピエル・デ・サポはスペインで開発された品種だが、スペイン国内での消費量が非常に多いため、現在はブラジルと中米で輸出用に栽培され、祖国スペインに逆輸入されている。

 あまり知られてはいないが、スペイン独特のイノドル群のメロンにアマリージョ・オロ(「黄金しがある。果皮は黄金色だが、なかの果肉はうすいピンクや白、うす緑と変化に富んで美しく、果汁をたっぷりと含んだその味は、メロン栽培者にしてメロンの目利きであるエイミー・ゴールドマンに「至上の喜び」と評されている。

未来

 メロンやスイカの種子―ときには副産物であり、ときには採種を目的としたものiも世界各地で重要な産物だ。M・M・バンダーりは1970年代に、インドで収穫されたスイカについてこう語っている。スイカは、その大半が新鮮なうちに果肉を食べるものだが、種子は、乾燥させてから挽いて粉にし、それをトウジンビエ[イネ科の雑穀]の粉と混ぜ、ングラという菓子の材料にする。小さく平たい種子は、乾燥するとデルモンドのような味になると言われている。例年非常に大量のスイカがとれるので、家畜のエサにされるものも多い。

 アフリカのさまざまな地では、エグシメロン--スイカの仲間で、あまりおいしくはない--を、種子をとるために栽培する。種子からとれるたんぱく質と油は安価で、重要な補助食品だ。アジアでも、食べられるスイカの種子を大量に生産している。スナックにもなるし、粉末が食品の原料にもなる。これを原料に使った有名な菓子に中国の月餅がある。

 世界の高品質のメロンの多くが、生産地とその近隣でしか食べられていないというのは事実だ。繊細な果実は、輸送や保管時に傷んでしまうからだ。アフガニスタンのメロン栽培農家は、ラグビーボール型の食味のよいイノドルス群のメロンを栽培することで、大麻栽培への依存や、戦争で生じた国の荒廃にも立ち向かえると確信している。だが今のところ、傷む前に十分な量のメロンを市場に運べておらず、利益を上げるまでにはいたっていない。また、栽培農家の計画倒れになることもときにはある。数年前のナイジェリアでは、大量のスイカが収穫されたのに輸送システムが破綻し、道路脇で何千個ものスイカが腐っていった。ほんの数キロ先の市場には、スイカがまったくなかったのにだ。

 アメリカのドナルド・N・メイナードやディーナ・デッカー=ウォルターズ、イスラエルのハリー・パリスといった栽培者や研究者、またウガンダやウズベキスタン、トルコ、スーダン、ナイジェリア、スペイン、ブラジル、そしてその他の世界中のメロン栽培国の科学者たちは、市場への運搬が容易な、おいしいメロンの栽培に取り組み続けている。一部の研究は、菌への感染やつる枯れ病、作物を全滅させることもある害虫への耐性をもつ品種の交配に注力している。

 アフリカやインドで発見された野生の在来種にも日を向け、こうした、長い時代を生き抜いてきたメロンがもつ遺伝的潜在能力を、現代のメロンの改良に利用することも行なわれている。他の農作物もそうだが、メロンは世界の多くの地域で単一栽培[収穫が多く、高収入が得られる品種だけを栽培すること]されている。このため栽培者や植物学者は、昔からある栽培品種が姿を消し、遺伝的多様性や遺伝的能力が失われつつあることを懸念している。シード・セイバーズ・エクスチェンジやシーズ・オブ・ダイバーシティといった組織は、絶滅しかけている在来品種のメロンを救おうとしている。こうしたメロンの多くは、1940年代までは、家庭や市場の菜園で栽培されていた。だが効率や生産性を追求する工業型農業では風味の違いにはあまり注意が払われず、運搬や保管の際に傷まない、均二な性質をもつ作物を必要とした。このため、多様な在来品種は嫌われたのだ。

 現在、さまざまなメロンの交配試験が行なわれているが、おもしろいものもある。他の果物と同じように、少々酸味もある甘いメロンの開発だ。本来メロンにも酸味はあるが、これまで数千年以上にわたり、交配では重視されてこなかった。甘味と酸味を組み合わせた甘くおいしいメロンというのは、これまでにないアイデアだ。

 スイカの歴史はアフリカからはじまったが、スイカの未来もこの地にある。今日、世界で栽培される1億トンのスイカの大半はアフリカ以外で生産されているが、アフリカ大陸には、スイカの改良に生かせる資源が、まだまだ多く眠っているのだ。

 アフリカに自生する在来種のスイカは、見た目も昧も、満足のいくものではないだろう。苦いものも、非常に小さいものも多い。だがコンテストで賞をとるのは巨大なスイカであっても、消費者が欲しがっているのは、冷蔵庫やランチボックスに収まるような、ごく小さなスイカだ。今もアフリカの砂漠の荒れ地に転がっている小さな野生種のスイカが、「小型化」の遺伝子をもっている可能性もある。

 このほかにも科学者は、種なしの品種がないか、さらには、今では取って代わられた品種でも、拡大しつつある種子の需要に応えられるものがないか、アフリカの野生種のスイカに熱いまなざしを向けている。また、単一栽培により遺伝子の多様性が失われたことを遺伝学者が憂慮している現状において、アフリカの野生種のスイカは、自然における遺伝子バンク[生物多様性の保全を目的とし、さまざまな遺伝資源を収集し保存する仕組み]の役割も果たす。

 カラハリ砂漠のクン族やサン族、グウィ族、ガナ族にとっては、人間と食物との関係は古代から変わらない。野生のスイカは今も、家畜の飼料であり、自分たちが食べる野菜であり、その種子は軽食になり、食事の材料となる。そして、水分をたっぷりと含み、水筒代わりになるスイカのおかげで、人間は乾季を生き抜くこともできるのである。
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教育と家族制度の関係

人類という観点で教育を見る

 人類の場合、こんな風に使うんですね。そういう感じ。

 人類として、なぜ教育するのか、もっと効率的にしないといけない。平等である必要はないけど。

教育と家族制度の関係

 子供の教育は家庭が負担者となって、私的に行うべきとの思想が強い国である。ゆえに格差の連鎖を行われている。

 公共部門が教育費用を負担すべきという発想はきわめて希薄。教育は公共財である。つまり、インフラに当たる。これを一歩進めないといけない。教育そのものと家族制度そのもの。教育と家族制度との関係がここでつながります。

メロンとすいかの歴史

 すいかは日本のものだと思っていた。姿格好が日本というイメージです。トルコに行ったときにデザートとして、すいかの食べ放題が出てきた。おいしかった。歴史から見ると、トルコ辺りがすいかの原産地なんですね。

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