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人間活動とコロンブス交換で小氷期出現

『1493 入門世界史』より 一六四二年の世界はどうなっていたか?

大西洋と太平洋を横断する航海によって、突如として世界規模の経済システムが出現した。しかし、新しい貿易形態が生命史に新時代を招き入れたというのは、本当なのだろうか? この質問に答えるため、コロンブス第一回航海の一五〇年後に当たる一六四二年の世界を、想像の飛行機に乗って一周してみよう。高度一万メートル上空からは、コロンブス交換による大攬乱の初期に揺れる地球が見えるはずだ。いったい何が起こっているのだろうか?

一六四二年までのほぼ一〇〇年間、ヨーロッパでは、雪の多い冬、遅い春、寒い夏という異常な気候が毎年くり返されていた。川という川は凍結し、デンマークからスウェーデンまで、一六○キロメートルにわたって海面が凍り、歩行できるようになったという。農作物は生育が遅れ、まったく収穫できないこともあった。食糧不足のせいで、暴動や土地の不法占拠が起き、暴力が横行し、世の中から秩序はなくなったように見える。

この寒冷な時期は〝小氷期〟と呼ばれている。北半球では、一五五〇年から一七五〇年までの二〇〇年間つづいたと見られているが、場所によってばらつきがあるため、明確に期間を断定することはできない。当時、気象に関する記録をとりつづけていた人はほとんどいないので、小氷期については、樹木の年輪の幅や、極地の氷にふくまれる気泡の成分を調べるなど、間接的な方法によるしかないのだ。専門家は、小氷期の原因について、太陽の黒点活動や火山噴火をふくめ、さまざまな説を挙げてきた。ところが二〇〇三年、過去の気候変動を研究する古気候学者のウィリアム・F・ラディマンは、まったく異なった原因説を発表した。小氷期は、人間活動とコロンブス交換によって説明できるというのだ。

ラディマンによると、人間は共同体を作り、土地を開墾して農地にし、木を伐採して燃料や住まいに供してきた。ヨーロッパとアジアでは、森は斧によってひらかれた。しかし、コロンブス到着以前のアメリカ大陸では、先住民は火によって開墾していたのだ。北米の広い地域が、インディアンのたき火から立ちのぼる煙に何週間も覆われていたという。同様の光景は、アルゼンチンの大草原、メキシコの丘陵地帯、アンデスの高原地帯でも見られた。彼らは毎年、定期的に火入れを行なって、じゃまな下生えを燃やし、害虫を焼き払って農地をひらいたのである。南米・中米で出土した古代遺跡三一ヵ所を調査した結果、火入れの証拠となる土中の炭の総計は、二〇〇〇年以上にわたって顕著にふえつづけていたことが判明している。

そして、コロンブス交換が起きた。ユーラシア大陸からの病気や寄生生物がアメリカ大陸へ襲いかかり、きわめて多くの人命が失われた。そのため、何千年間も森の管理をつづけてきた先住民が激減し、火入れの炎は絶えた。ひらけた草地はまもなく森にのみこまれてしまった。北米のマサチューセッツに〝ピルグリム・ファーザーズ〟が上陸してから一四年後の一六三四年、入植者の一人ウィリアム・ウッドは、以前は明るくひらけた森だったのに、今や下生えがびっしりと茂り、「通り抜けるのもひと苦労だ」と不満を記している。このように森林は、北米、中米、アンデス、アマゾン盆地の大部分で自然状態へ回帰した。

ラディマンの主張は単純明快だ。新たにもちこまれた病気によって、先住民社会が崩壊した結果、森への火入れが激減し、樹木の生長が旺盛になった。火入れがなくなって森が生長するという過程が、大気中の二酸化炭素量を減少させたというのである。二酸化炭素は、〝温室効果ガス〟でもある。太陽熱を吸収して大気圏内にとどめ、地球の気温を上昇させる温室効果をもつ物質の一つだ。つまり、二酸化炭素の総量がへれば熱が蓄積されにくくなり、気温も低くなるはずだ。現代の科学者は、大気中の二酸化炭素の増加によって地球は温められ、気候変動が引き起こされている、と警告している。ラディマンはそれとは逆に、大気中の温室効果ガスがへったために寒冷な気候が出現した、と主張しているのだ。

想像の飛行機でアメリカ大陸上空を飛んでみれば、小氷期の影響がはっきりと見てとれる。インディアンが管理していた土地は森にのみこまれ、さらに雪に覆われている。ボストン港はもちろん、もっと南のチェサピーク湾も大部分が凍りついている。北のメインやコネティカットでは、ヨーロッパからもちこまれたウシやウマが、雪の吹きだまりの中で息絶えている。カナダに入植地モントリオールを建設したばかりの四〇人ほどのフランス人は、厳しい寒さで今にも凍死しそうだ。

それではメキシコまで南下し、中国へ向かう銀の輸送船団を追っていこう。小氷期は、東アジアでも猛威をふるっている。こちらで問題になっているのは雪や氷ではなく、寒冷な日照りつづきで渇水になる時期と、豪雨の時期が交互にやってくることだ。一六三七年から一六四一年までの五年間は、過去五〇〇年で最悪の干魅に見舞われていたのに、翌一六四二年には、雨で作物は水浸しになっている。太平洋東部で頻発した火山爆発とも相まって、被害はますます深刻化している。噴火によって大気中に吐き出された亜硫酸ガスが水蒸気と混ざり合い、硫酸塩の微細な粒に凝結し、太陽熱を宇宙へはね返しているのだ。このことも、気温低下の原因の一つになっている。

何百万という人々が命を落とした。国民の大量死と雨の多い寒冷な天候のせいで、中国の農地の三分の二は耕作されず、飢饉の発生に拍車がかけられている。人肉食いが横行しているとのうわさもある。時の支配王内での党争と北方勢力との戦争で、身動きがとれないのだ。スペイン王室と同じく、明の皇帝はスペインから輸入した銀で官軍をまかなっているが、兵たちは銀で税金を納めることになっている。ところが銀の価値が下落して税収がへり、国庫は財源不足におちいった。六つの省で、農民による大規模な反乱が起きている。そして、一六四二年から二年後の一六四四年、首都北京は、反乱軍の指導者李自成に占領されてしまうのだ。

中国でのこうした急激な変化は、富と権力がより大きなスケールで移行していた時期の一例にすぎない。同様の変化は、世界中で起きていた。

世界の大都市が移動した

 コロンブスがラ・イサベラを建設した一四九四年には、もっとも人口の稠密な大都市は、熱帯地方に集中していた。一都市をのぞいて、すべて赤道から緯度三〇度以内に位置していたのである。世界最大の人口を擁していたのは、唯一の例外である北京だ。二番目が、南インドのヒンドウー教国ヴィジャヤナガル王国の同名の首都で、人口が五〇万を超えていたのはこの二都市だけだった。つづいて、エジプトのカイロ、そして中国、イラン、インドの数都市、メキシコにあったアステカ帝国の首都テノチティトラン、現在のトルコであるオスマン帝国の首都イスタンブール、さらに、西アフリカのイスラーム国ソンガイ王国の首都ガオと、アンデス山中のインカ帝国の首都クスコも挙げられるだろう。このように世界の主要大都市には、おそらくはパリをのぞき、ョーロッパの都市は一つも入っていない。現生人類ホモ・サピエンスが最初に見上げたのがアフリカの空だったように、世界の中心はつねに暑い地域にあったのだ。

 しかし、コロンブス到着から一五〇年後の一六四二年、この摂理は変わりつつある。まるで地球が引っくり返されて、富と権力のすべてが南から北へ流れ出したかのようだ。栄華を誇った熱帯の大都市は、今や没落しつつある。数百年たつと、イギリスのロンドンやマンチェスター、アメリカ合衆国のニューョーク、シカゴ、フィラデルフィアのように、世界の主要都市はすべて北半球の温帯地方へ集中していく。一九○○年には、世界で最大の人口を擁する都市は、もっとも西洋化された東京をのぞいて、すべてヨーロッパかアメリカ合衆国に位置するようになる。

 なんとも衝撃的な変化が起きているのだ。あっという間に、何千年もつづいてきた人類史の秩序はくつがえされてしまった。だが、今日では、生態系や経済面でのあわただしい交換は、宇宙から届く自然放射線のようなものになった。史上かつてなく多くの人々が住むこのせわしない惑星に、自然放射線はつねに降りそそいでいるが、わたしたちはまったく気づかない。それと同じように、ブラジルに日本人の森林伐採者がいても、西アフリカに中国人のエンジュアがいても、あるいはネパールでリュックを背負って登山していたヨーロッパ人がニューヨークでディナーを楽しんでいたとしても、もはや誰も驚いたりはしない。形こそ違っても、似たような交換は何百年も前から起きていたのだ。そうした過去の交換こそが、今ある世界までの道のりを語ってくれるに違いない。
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