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ひめたんがダンケシェーンのセンター!

今日は乃木坂のライブ初日。Yahoo!リアルタイムで「#真夏の全国ツアー2017」でつぶやきを検索しながら、5時から進行を追っている。

生ちゃんの代わりにひめたんがダンケシェーンのセンター!で盛り上がっていた。

地上波でもライブ会場から中継があると言うことで待機している。いつ、やるんだ? アレキサンドロスの後じゃないのか? リアルタイムでヤキモキしている。アンコールのステージで始まった。

音楽番組を長々と聞く人って居るんだね。大体、その日のうちに乃木坂の部分だけがクリップしてネット配信される。そちらの方が余計な部分がなく、視聴者数とコメントで皆の関心のレベルが分かる。

そこで思い出したのが、Mu-Boxの活用方法を考えた時です。コンテンツを送るだけでは、意味がない。視聴率とかコメントでランキングが取れる仕組みを考えていた。データだけなら、地上回線で取れる。Mu-TVと合体させたかった。今なら、できるのに。
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世界の特別な1日 中近東の動き

『世界の特別な1日』より

 1948年2月2日 パレスチナ、ナノリヤ ユナイテッド・ネーションズ号、パレスチナに上陸

  イスラエル建国前夜、ユダヤ人難民の苦闘

  第二次世界大戦の終結から3年後の1948年、ナチス・ドイツを生き延びたユダヤ人難民の多くは、まだ行く場所がなかった。国連で議論が重ねられていたが、彼らの大半は中央ヨーロッパの難民キャンプで生活していた。米国へ移住した者もいたが、多くの人はパレスチナヘの移住を望んでいた。だが、すでにパレスチナには多数の移民がいて、1939年に英国が発表した白書でパレスチナヘの移民数は制限されていた。

  この写真はハイファ近郊のナハリヤの北港で撮られたものだ。不法移民船ユナイテッド・ネーションズ号でやってきた難民たちが岸に向かって泳いでいる。この船は700人の難民を乗せてイタリアのバーリを出発し、英国艦隊による封鎖をかいくぐってこの地に到着した。

  撮影したのは国際的に活躍する最初の報道写真通信社のひとつ、キーストン通信社のカメラマンで名前は知られていない。

  あらゆる禁止措置にもかかわらず、パレスチナを目指しだのはユナイテッド・ネーションズ号だけではなかった。1945~1948年にかけて、さまざまなシオニスト団体が難民を満載した何十隻という不法移民船を送り出した。そうした船のほとんどはイタリアの海岸から出航し、6万9000人以上が無事に移住した。だが、なかには英海軍に拿捕された船もあり、乗船していた人びとはキプロス島の勾留キャンプに収容されるか、母国に送り返された。1947年7月11日、フランスを出航した最大規模の難民船エクソダス号が数日後に英海軍に捕捉され、臨検となった。難民たちは抵抗し、戦闘のなかで難民早Aに死者3人、多数の負傷者が出た。この事件は世界中に報道された。

  1948年5月、すべてが一変する。英国によるパレスチナの委任統治が終了し、国連の承認のもとイスラエルが建国されたのである。

 1967年6月5~10日 イスラエル、エルサレム 第三次中東戦争

  国境を変えた、六日間の戦争

  1967年6月5日から10日にかけて、中東の国境が大きく変わった。徹底した短期決戦でイスラエルの領土は4倍に増えることになった。六日戦争--この写真はもっとも重要な記録のひとつに数えられる--はさまざまな理由から勃発した。

  歴史家によれば、アラブ諸国がヨルダン川の流れを変えてイスラエルヘの給水を断とうとしたことと、エジプトがティラン海峡を封鎖してイスラエル南部を隔絶しようとしたことが、主な理由だ。しかし、この戦争の背景にあったのは冷戦、すなわちソ連と米国の対立だった。前者はナセル大統領率いるエジプトとシリアを支援し、後者は国際社会におけるイスラエルの保証人だった。

  六日戦争はイスラエルの勝利に終わった。イスラエル軍は迅速かつ効果的な空爆で敵の空軍を壊滅させ、ヨルダン川西岸地区、ガザ地区、ゴラン高原にくわえ、シナイ半島のスエズ運河までを占領した。だが、いちばんの成果は東エルサレムを手に入れたことだった。6月7日、イスラエルは象徴的、宗教的に何よりも大切な「神殿の丘」と「嘆きの壁」を手中におさめたのである。

  この写真(と獅子門を通って旧市街に入るモシエ・ダヤン将軍の写真)を撮った従軍カメラマンは、六日戦争の2つの重要な象徴を写真におさめている。まずは東エルサレム占領の証拠だ。背景の真ん中にこの写真の主役となる金色の「岩のドーム」が見える。イスラム教最大の聖地のひとつで、まもなくイスラエルの手に落ちる。もうひとっは、イスラエル軍の[秘密兵器]であった科学技術と諜報能力の証拠だ。兵士たちはライフル銃ではなく、通信機器を装備している。画面を横切る電話線ですら象徴的で、写真の構図に驚くべき幾何学的バランスを与えている。

 1991年 イスラエル、ジェニン 第一次インティファーダ

  絶え間なく続く、パレスチナ占領地区の暴力と衝突

 目だし帽のようにクーフィーヤ(男性がかぶる布)で顔を覆い、左肩には警棒のようなものを乗せている。だが、もっと恐ろしいのは彼の右手にピストルが握られていることだ。その人差し指は引き金にかかっている。彼はパレスチナ人で、イスラエル軍の攻撃を待ちかまえているのだろう。彼のまわりにいるおおぜいの子どもや若者たちを守っているのかもしれない。マグナム・フォトのアッバス・アッタールは、1991年にヨルダン川西岸地区の北部にあるジェニンの近くでこの写真を撮影した。

  インティファーダ(パレスチナ人の抵抗運動)の真っ最中で、パレスチナ占領地区で暴力や衝突が起きない日は1日もなかった。イスラエル兵には戦車やブルドーザーがあった。だが、もういっぽうの西岸地区やガザ地区の若者たちの武器はほとんどが石と火炎瓶だった。彼らはお互い相手をテロリストや迫害者とみなしていた。のちに第一次インティファーダ、または「石の革命」と呼ばれる衝突は1987年12月にはじまった。発端となったのは偶発的な事故だった。ガザ地区のジャバリヤで、イスラエル軍のトラックがパレスチナ人労働者でいっぱいの2台のバンと衝突し、パレスチナ人4人が死亡したのだ。だが真の原因は、この地域に住むパレスチナ人のフラストレーションと(とりわけアラブ諸国から)見捨てられたという思いだった。彼らはガザ地区の難民キャンプにすし詰め状態で押し込められ、貧困を強いられていた。

  闘争は6年間にわすこt)、兵士、民間人あわせて160人のイスラエル人と、1000人以上のパレスチナ人が命を落とした。 1993年、パレスチナ解放機構(PLO)とイスラエルのあいだでオスロ合意が結ばれた。これにより一時的に衝突がなくなり、パレスチナの国としての礎が築かれた。とはいえ、西岸とガザ地区は今も国際的な地位をもたないまま存在している。アッバスの写真に写っている子どもたちは、新たな民族闘争である第二次インティファーダ(2000~05年)、第三次インティファーダ(2015年以降)の主唱者、あるいは犠牲者になったかもしれない。

 2011年2月9日 エジプト、カイロ カイロ、アラブの春

  30年の独裁を崩壊させた、デモ隊の18日間

  30年におよぶホスニ・ムバラク大統領の独裁政権をエジプト国民が崩壊させるのにかかった日数はたった18日間たった。1月25日、フェイスブックの「われわれはみなハーリド・サイードだ」の呼びかけに数千人のエジプト人が応えた。このサイトは、数ヵ月前にアレクサンドリアの警察によって不可解な死を遂げた若者ハーリド・サイードを追悼してつくられた。チュニジアに続き、アラブの春の風がエジプトにも吹いていた。

  おびただしい数のデモ参加者がカイロの通りに流れこみ、デモ隊は市内中心部にあるタハリール広場へ向かった。数日間、そこは若者、学生、活動家、労働者、芸術家、過激派、イスラム教徒、キリスト教徒、男性や女性の集団であふれていた。誰もが激しく怒り、「パン、自由、社会正義」を求めて叫んだ。当局はこれに武力弾圧で応じ、インターネットの利用を規制しようとした。

  報道写真家のモイセス・サマンは、タハリール広場の群衆の真ん中から、内早Aからエジプト革命を取材した。彼は催涙ガスと危険に身をさらし、こうした状況下でのあらゆる人間の強さを記録した。2月9日、デモ隊は恐れずにムバラクを蔑み、歌い、叫んだ。エジプトの旗を頭に巻いた少年が、誰かの肩に乗りひときわ高い叫び声をあげていた。

  彼は青い空を指さす。それを見て、彼の下にいる者たちがおずおずとVサインを出した。多くの革命の写真のように、有刺鉄線がデモに参加する若者たちの顔に重なっている。写真を見る者の視点は、バリケードのこちら早Aにいる治安部隊と同じだ。彼らは同胞たちと戦いながら、何を考えているのだろうか。

  2月11日、ついにエジプト副大統領オマル・スレイマンが、ムバラク大統領が全権をエジプト軍最高評議会に委譲したことを発表する。喜びの波が広場に押し寄せ、幸福感に包まれた人びとの自由の歌と踊りが朝まで響きわたった。だが、彼らはほどなく民主主義への道のりがまだ長く、痛みをともなうことを知る。
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世界の特別な1日 イヤな時代

『世界の特別な1日』より ⇒ 嫌な時代の予感

1915年4月22日 ベルギー、イーペル 第一次世界大戦での毒ガス攻撃

 兵士に刻まれる、化学兵器の恐怖 「乾いた大地で溺れる」。窒息性の塩素系ガスの効果を兵士たちはそう表現した。彼らは突然、焼けつくような痛みと窒息感をおぼえた。咳をしたいが、咳き込むとひどく傷む。口と鼻から泡が出はじめ、皮膚が青ざめだした。もはや話すことも動くこともできない。運がよければ、死はすぐに訪れた。だが、ときには数時間、数日間と苦しみ続けた。第一次世界大戦中、西部戦線にいた兵士たちは、はじめてこうした毒ガスの効果を正確に伝えた。生き延びた彼らの心には、毒ガスで殺された何千人もの仲間の兵士の姿が永遠に刻みつけられていた。

 この写真は、毒ガスの恐怖をあらわそうとしたもので、実際の場面ではない。にもかかわらず、効果は絶大だ。

 撮影者は米浴A軍工兵隊のエバーツ・トレイシー少佐で、1918年に撮られた。トレイシーは戦略的偽装に長けていた。そして、実際に起きたことを記録するのではなく、場面を演出した。主役は手前左早Aにいる兵士で、その手で喉をおさえている。この種の写真は、命令に従わないとどうなるかを新兵に痛感させるために用いられた。必要なときには、どれほど不快でも防毒マスクをつけなければならないというわけだ。この写真はどんな将校の講義よりも雄弁だった。トレイシーは毒ガスによる死の恐怖よりも、マスクはつねに効果的だというイメージを打ち出した。

 毒ガスが戦争に登場したのは、その3年前の1915年4月22日。第二次イーペルの戦いで大規模に使用された。

 開戦当初、フランスの国境に近いベルギーの町イーペルは連合軍の重要な拠点になりつつあった。実際、ドイツ軍はその後、中立だったベルギーに侵攻している。化学兵器をはじめて攻撃に用いたのもドイツ軍だった。白分たちが風上にいることを活かし、ドイツ軍は168トンの塩素ガスを放出、フランスとアルジェリアの部隊は壊滅状態になった。10分と経たずに6000人が死亡し、約7キロにわたって前線に空白地帯ができた。ドイツ軍でさえ、このような結果は予測できなかった。そのため彼らはこの機会を活かしきれず、結局、カナダの師団が前線を奪いかえした。

 毒ガス攻撃は国際的な非難を浴びたが、すぐにどの軍隊も毒ガスを兵器として投入するようになる。より毒性の高い合成ガスを開発するための実験を重ね、ついにマスタードガスが誕生し、1917年にふたたびイーペルで実戦に使用された。1915年のときは、カナダ兵は尿をかけたハンカチやぼろ切れで口を覆って呼吸する(尿中のアンモニアが塩素を中和した)「だけ」でよかった。けれども新たな化学兵器にともない、防毒マスクが登場する。だがその改良は、つねに新しいガス兵器の開発より一歩遅れていた。

1920年5月5日 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ 赤軍兵士へのレーニンの演説

 消された、そこにいたはずの指導者たちの姿

 1920年5月5日、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ・レーニンはモスクワ中心部にあるチアトラリナヤ広場で赤軍に演説した。即席の木造のステージはその簡素さが、まもなく前線へ赴く兵士たちに10月革命の指導者が身近な存在であることを強調していた。成立してまもないロシア・ソビエト連邦社会主義共和国とポーランドとの戦争は本格化しており、それにくわえ、軍は「白軍」との内戦のさなかでもあった。諸外国に支援された反ボリシェビキ勢力である白軍との戦いのなかで、赤軍は指導者の励ましを必要としていた。その演説で、レーニンは自分たちの敵はポーランドの人びとではなく、ポーランドを支配する資本主義体制であるとくり返した。

  「ポーランドの人びとにしめすのだ。諸君が労働者と農民の共和国の兵士であり、侵略者としてではなく、解放者としてやってきたということを。(中略)同志諸君、われわれはこの国の地主や資本家を倒すことに成功した。ポーランドの地主と資本家も倒すのだ!」

 レーニンはその情熱と、戦時中でも軍服を着ないことで有名だった。その指導者としての姿は、ほぼつねに軍服に身を包み、落ち着き払った様子でポーズをとるスターリンの公式イメージとは異なっていた。だが、演説するレーニンの写真のうちでこの1枚がいちばんよく知られているのは、ある意味、スターリンのおかげともいえる。この独裁者は、ゴリトシュタインが撮った写真から赤軍の指揮者レオン・トロツキーの存在をいっさい消すよう命じたのである。オリジナルの写真では、ステージの横にトロツキーの姿がはっきりと写っていて、その後ろにはレフ・カーメネフの姿も確認できる。彼らをあらゆる権力の座から引きずりおろし、殺しただけでは満足せず、革命の象徴的なイメージからも抹消したのである。

1936年9月8~14日 ドイツ、第三帝国 ナチス党大会

 人種差別と、全体主義の足音

 力と秩序、高潔、祖国の神秘--。これらは、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が年に1度の「祝祭」である全国党大会のあいだに開催した数々の集会で、国民や世界に伝えた党の指針だ。1933年以降、党大会は建築家アルベルト・シュペーアがニュルンベルクに建設した広大な会場(約11平方キロ)でおおむね8日間にわたり開催された。古都ニュルンベルクは、かっての帝国時代よりドイツ人のナショナル・アイデンティティを築きあげる上で重要な役割を果たしてきたが、ナチスはそこに強い象徴的意味をくわえた。1935年、ナチスはニュルンベルクで最初の人種を差別する法律を公布する。これは単なる偶然ではない。そして、終戦の際、連合国がドイツの戦犯を裁判にかけたのもニュルンベルクだった。

 この写真が撮られた1936年、第二次世界大戦ははじまっておらず、ヒトラーは相反するメッセージを世界に送った。3月、彼はベルサイユ条約を破棄してラインラントで再軍備をすすめた。一方、8月にはベルリン・オリンピックが開催され、ドイツは世界に好印象を与えた。だが、9月、全国党大会において、ヒトラーはふたたび敵意をあらわにする。このときの大会のテーマは「ドイツの名誉」。総統は、国際社会による制裁に立ち向かうことで名誉を回復したと声を上げた。

 この写真は、党大会の精神を完璧に伝えている。軍隊は欲望をもたない戦争の機械で、兵士は顔をもたず、統制された歯車のひとつにすぎない。金属製ヘルメットの列は、3本の巨大な旗に向かって収束している。かぎ十字を染めぬいた旗は垂直に固定され、はためくことはない。風でさえ、幾何学的で非人間的なこの会場を乱すことはできないのだ。
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宗教改革は社会改革--世俗化の肯定的意味と否定的意味

『宗教改革者たちの信仰』より 宗教改革は同時に文化の改革である

このような宗教改革によって生じた変化は実に社会生活においても起こってきた。だが宗教改革はそのような変化を社会に興していても、近代社会を生み出す直接の原因となったのではない。この点を明らかにするために、次に「世俗化」の二重の意味、つまり肯定的意味と否定的な意味を考えてみたい。

(1)世俗化の意味

 「世俗化」という言葉は、語源的にはラテン語の「世代」に由来する。中世では在野の聖職者たちは「世俗に住む」と言われており、修道院に住んでいた聖職者と区別されていた。また後に宗教改革時代になってから修道院などの教会の財産を国家が民間に譲渡したとき、世俗化という言葉が用いられた。したがって教会財の「払い下げ」や反対に教会から見るとその財産の「没収」といった意味で使われてきた。元来、世俗化とは神聖なものが世俗のために用いられる現象であり、たとえば修道院の建物は以前と変わらず、僧房、食堂、礼拝堂の形を残していながら、美術館や学問戟A究所として使用されたり、時には何らかの政党の事務所として用いられるような場合をいう。それは宗教が外形的には宗教的構造を保ちながらも非宗教的な目的に用いられている現象である。またこうした世俗化のプロセスを辿って近代科学、政治革命、職業倫理なども発展してきたといえよう。

 そのさい、わたしたちが予め知っておかなければならないのは、世俗化かルター自身の信仰によって積極的に推進されたという歴史的な事実である。彼によると人は救済のために超世俗的功徳を積む必要はない。だから修道院に入って善行をなす必要はなく、世俗の中にあって敬虔に生き、与えられた職業を神の召命つまり天職とみなし、これに励むことによって神に喜ばれるものとならなければならない。したがって世俗化はゴーガルテンが『近代の宿命と希望』で語っているように「キリスト教信仰の合法的結果」にほかならない。ところが世俗化にはもう一つの局面があって、歴史の過程において「世俗化」が変質し、「世俗主義」に転落した点が重要である。ここでいう「変質」とは歴史的な風化作用であって、同様に「自由」が「恣意」(好き勝手)に、「個人主義」が「個我主義」(エゴイズム)に、「勤勉」が点取り虫の「貪欲」となるように、労働を支えていた「宗教的な精神」が内実を失って「亡霊」に変質していることをいう。このように「世俗化」は、当初、世俗の中で信仰が活動することによって起こった。そこには世俗化の肯定的意味があった。しかし世俗化か過度に進むと、人間が信仰を喪失して俗物化し、拝金主義や仕事へのファナティシズム、また快楽主義がはびこって、「世俗主義」にまで変質する。このようにして世俗化はキリスト教信仰から生まれた「子ども」であったのに、歴史のプロセスの中で今や産みの親とは全く異質な「鬼子」にまで変質し、親であるキリスト教に公然と反抗するものとなってしまった。

(2)世俗化理解の問題点

 このような世俗化の理解にも問題点が潜んでいる。たとえばゴーガルテンは世俗の支配と霊的支配との宗教改革的な区分、つまりルター的な二堰A国説に近代文化の世俗化の起源を捉えている。この見解も真理契機を含んでおり、その宗教改革の見方は、近代において生じた世俗化した文化世界の正当性を明らかにすることに役立っており、とりわけ国家の宗教的な制約からの解放の正当性を認めることに貢献した。だが、それでも宗教改革がその直接的な原因なのではない。

 また、マックス・ヴェーバーの有名な著作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はカルヴィニズムの倫理に資本主義の起源をとらえているが、それも現代の世俗化した世界の単なる精神史的な由来に限定された考察である。確かにヴェーバーはカルヴィニズムと資本主義との関係によって、資本主義の由来を全体的に明らかにできると考えたわけではない。だが、その重要な要因の一つを示すことができると考えたのであった。パネンペルクはヅェーバーを批判して、「職業倫理や禁欲的な生活態度というようなカルヴィニズム的な徳が、経済的な成功の重要な要因となり得たということから、カルヴィニズムの倫理の世俗化か純粋に現世的な成功のための努力によるものだと理解されるべきではない」と主張し、カルヴィニズムの倫理的生活態度はキリスト教的な救済という霊的な目的にではなく、純粋に現世的な目的に仕えていたことが明らかにされなければならないと考える。しかしこの点はカルヴィニズムの信仰から明らかにされるべき事柄ではない。

(3)宗教改革と近代世界との関係

 このように一六世紀ヨーロッパの宗教改革と近代の世俗世界の成立との関連についてゴーガルテンとヴェーバーは両者の密接な関係を認めている。しかしパネンペルクは、宗教改革が現代の世俗化した世界を直接成立させたのではなく、「宗教改革が現代の世俗化した文化世界の発生のための出発点を作り出したというのは、それが宗教改革の意図せざる教会史的、政治的、世界史的な結果であった」と説いている。この点でパネンペルクはトレルチの学説にしたがっている。それは彼の「宗教改革と近代」という論文に明瞭に説かれている。そのさい、もっとも重要なことは近代世界と宗教改革との間に連続と非連続との両方があるという点である。

 トレルチは宗教改革と近代とを直接結びつけることをしなかった。彼は宗教改革時代のプロテスタンティズムを古プロテスタンティズムと呼び、近代のそれを新プロテスタンティズムとして区別する。彼は宗教改革それ自体はなお中世に属するものとし、近代は確かに宗教改革との関連を保ってはいるか、その厳密な意昧での出発点は、宗教改革がもつような中世的な構造が崩壊した後、いわゆる新プロテスタンティズムによって開始されたと考えた。つまり彼は近代世界はヱ(世紀の宗教改革によって成立するというよりは、むしろ一八世紀の啓蒙主義と関連していると考えたのである。トレルチによれば「近代世界は古い宗教的な束縛の破壊という仕事を徹底的な仕方でなしたが、真に新しい力を生み出すことはなかった」。したがって近代世界にはキリスト教的な古代や中世のような偉大な統一性をもった文化総合が生まれていない、と言う。

 このように宗教改革から近代世界が直接生じたのではなく、そこにある両者を分かつ「深い裂け目」を今日では「絶対主義と教派主義の破壊」に求められている。このような両世界の分裂は一七世紀に開始され、クロムウェルのイギリス革命や一八世紀のアメリカとフランスの革命に続く一連の革命によってヨーロッパの国民に広がった。だから「言葉の厳密な意昧での近代は、一七世紀の教派戦争によって始まったのであり、それは宗教改革によってでも、もちろんルネサンスによるようなものでもない」と考えられた。したがってトレルチとパネンベルクの両者はルターの宗教改革を古プロテスタンティズムとみなし、近代世界によって生じた「断絶」によって新プロテスタンティズムと近代世界とを結びつける点で一致している。ところがパネンペルクが近代世界とプロテスタンティズムとの関係を指摘する際に注目したのは、トレルチとは違って「教会分裂と三〇年戦争」の終わりの時期に断絶を捉えている点である。彼はプリンストンの歴史学者、セオドァ・K・ラブの議論にもとづいて次のように述べている。「一七世紀後半、教派戦争の終わりの段階で、とりわけドイツにおける三〇年戦争の時代に、全ヨーロッパ史の進展における深い溝が生じた」。この深い溝は1〇〇年以上も続いた宗教戦争であって、それによって一七世紀後半において啓蒙主義が開始され、それ以前の宗教改革の時代とが切り裂かれた。
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ブライダル(婚礼)産業と少子化の関係

『シティプロモーション:地域創生とまちづくり』より 西宮マダムの「婚活おせっ会」の取組み わが国の婚活事情 ⇒ 愛情とも家庭ともブライダルとのつながりはない。我が家では結婚した未唯もノブも結婚式はしていない。巴に海外への新婚旅行は1年以内に行なっている。そして、すぐに子どもが生まれた。家庭というのはそんなもんでしょう

是非住みたいまち、できれば住みたいまちランキング1位を獲得している西宮市は、人口約48万8千人、比較的人口転出が少ない地域である。しかし、人口動態から考えると、今後は人口の転入傾向が弱まり、高齢化が急速に進む。結果として単身世帯、高齢夫婦世帯の増加、若い世代の減少、地区内での支え合いなどのコミュニティ活動の継続が困難になることは他地域と変わりはない。ゆえに、西宮市人口の将来像は出生を見込める人口の転出入に左右される。

現在、西宮市へ転入する理由、「交通の利便性」「子育て支援の充実」「海、川、山の豊かな自然に恵まれている」「芸術文化活動やスポーツが盛ん」「美しいまちなみ」といった西宮市の行ったアンケート結果がある*3.西宮の地に憧れて転入した人を対象としたアンケートだが、先に問題とするように出生が見込める人口増加が重要である。よって、学校に通うために転入した、職場が近いからといったことだけでは、将来の問題解決にはならない。出生が見込める人口増加を考えることが、今後の西宮市の発展につながることから現在、人口減少に悩む地方自治体が地域活性化のために、婚活を通じて地元の魅力を発信する手段がある。観光を資源としている地域ではメディア等に取り上げられることで、結婚する若者たちを観光客として取り込む起爆剤としている。

ご多分に漏れず、西宮市においても『婚活』をプロモーションするのだが、出生を見込め、地域に居住する人の増加のためだけでなく、西宮地域の零細企業の活性化を同時に考えていきたい。西宮市の知られざる伝統産業や、観光スポットとなる飲食店や特産品を製造する零細小売業に光を当てる。また婚礼というめでたく、希望を感じられる行事に関わることで新しいコミュニティが生まれ、楽しさや生きがいを見出すことで活性化につなげるのも目的の1つである。出生が見込める人口増加だけでなく、自治会等の人の絆が崩壊する時代、人と人のつながりのある街として、子育てする若い母親や行政および潤A業施設とのコミュニケーションを潤滑にするための効果的な手段として実施していくことを目的としている。
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