未唯への手紙
未唯への手紙
OCR化した10冊
『「西洋」の終わり』
不平等と公平性
野蛮な来訪者
西洋の運命
『21世紀 ICT企業の経営戦略』
鴻海とシャープの経営の相違および買収後の展望
シャープのものづくりと、その経営不振の要因
オンリーワンの系譜と技術開発へのこだわり
シャープの経営不振の要因
鴻海の概要と特徴、危うさ
EMSとは
鴻海とは
郭氏のビジネスセンス
短いリードタイム
リスクテイク
高度な生産技術
人材獲得・待遇
鴻海の危うさ
鴻海によるシャープ買収の、台湾における背景
台湾企業によるクロスボーダーM&Aの増加
台湾政府による日台閣の産業連携推進
台湾企業の技術導入のスタンス
鴻海の、シャープ買収の意図
有機EL
白物家電
上流工程進出
シャープの今後は
堺ディスプレイプロダクトからの復活からの示唆
鴻海の傘下に入ることのメリットと懸念
日台連携の今後、日本企業のものづくりの今後への示唆
日台連携の今後への示唆
日本企業のものづくりの今後への示唆
『洋裁文化と日本のファッション』
シンガーミシン
『地域の足を支えるコミュニティバスデマンド交通』
安易にデマンド型交通を導入させない対策
デマンド型公共交通の問題点
コスト面
「予約・登録証」がバリアになる
MM(モビリティー・マネジメント)の導入
MMとは
取組み事例
バスマップの作製
二部料金制の採用
二部料金制とは
二部料金制導入に向けた課題
筆者が考える二部料金制
持続可能な地域をめざして
安易な幼稚園・小学校の統廃合を控える
病院・医院の維持
筆者が考える過疎地の公共交通の姿
幼稚園・旅館・自動車学校のバスの活用
郵便局の集配車の活用
『援助関係論入門』
他なる人
「他なる人」とは
「他なる人」と向き合うこと
援助者の逸脱
怠惰と善意
透明化の問題
人間の尊厳
理解しているという思い込み
援助関係の特徴
「困っている人」としてのクライエント
援助場面での一方的な透明化
『ダークサイド・スキル』
ダークサイド・スキル実践編
絶好調だった無印良品はなぜ苦境に陥ったのか
急激な拡大政策が裏目に出る
印鑑の多さは他責合戦の成れの果て
先に行動を変えないと意識は変わらない
いちばん使いにくい奴がいざというとき役に立つ
つまるところ大事なのは結果を残す人間
トップが現場の声を集めるときの副作用
勘と経験を排除する「MUJIGRAM」
現場を変えるヒントは他社にある
五合目社員と粘土層が情報の行き来を遮断する
デッドラインだけ決めて、やり方はすべてまかせる
自分と同じタイプを後継者に選ぶな
非主流派が活躍する時代
会社は社長の人格以上にはならない
『男子劣化社会』
家父長制神話
パワーとは何か?
「男らしくしなさい」--感情を抑えることの代償
夕ブー
みんなのための正義?
いわゆる賃金格差をなくす困難さ
シンメトリーな男女関係はセクシーでない
『マルセイユの都市空間』
移民社会の変容
第一次世界大戦期以降の人口移動
移民構成の多様化
第二次世界大戦からアルジェリア独立戦争まで
帰還民問題の諸側面
顕在的「他者」としてのアルジェリア人移民
アルジェリア版「マルセイユの晩鐘」事件
明日への希望
市中心部の「アラブ化」
ベルザンス街区の再開発
魅力ある地中海の港町ヘ
『世界の廃墟・遺跡60』
デトロイト
錆びゆく自動車の街
デトロイトにギアを入れると…
そして逆走
朽ち落ちたデトロイト中心
ミシガンセントラル駅
ミシガン・ビルディング
デトロイトの未来
『秩序の砂塵化を超えて』
「現象」としての「イスラーム国(IS)」 国家・脱国家・超国家
「反国家」の「組織」としてのIS
国内権力闘争から生まれた「イラク・イスラーム国」
「反国家」の「組織」としての実態
「脱国家」の「国家」としてのIS
ISは「国家」なのか
「未完の物語」としての「シリア分割」
「脱国家」のオルタナティヴ
「超国家」の「思想」としてのIS
共鳴する世界中のジハード主義者
反知性主義的「思想」ゆえの訴求力
「ぐれ」の一形式としての普遍性
「組織」、「国家」、「思想」の連環
現代イスラーム経済の挑戦 ポスト資本主義時代の新たなパラダイムのために
飛躍する現代イスラーム経済
広がる実践の裾野
なぜイスラーム経済は発展したのか
イスラーム経済のアイデンティティ・クライシス
急成長するイスラーム金融
何がイスラーム金融の「イスラーム性」を担保するのか
現代に再興するイスラーム社会経済システム
伝統的経済制度の再生という新たな挑戦
現代に再生するワクフ
社会と再びつながるイスラーム経済
利己主義と利他精神が共存する新たなパラダイムの可能性
不平等と公平性
野蛮な来訪者
西洋の運命
『21世紀 ICT企業の経営戦略』
鴻海とシャープの経営の相違および買収後の展望
シャープのものづくりと、その経営不振の要因
オンリーワンの系譜と技術開発へのこだわり
シャープの経営不振の要因
鴻海の概要と特徴、危うさ
EMSとは
鴻海とは
郭氏のビジネスセンス
短いリードタイム
リスクテイク
高度な生産技術
人材獲得・待遇
鴻海の危うさ
鴻海によるシャープ買収の、台湾における背景
台湾企業によるクロスボーダーM&Aの増加
台湾政府による日台閣の産業連携推進
台湾企業の技術導入のスタンス
鴻海の、シャープ買収の意図
有機EL
白物家電
上流工程進出
シャープの今後は
堺ディスプレイプロダクトからの復活からの示唆
鴻海の傘下に入ることのメリットと懸念
日台連携の今後、日本企業のものづくりの今後への示唆
日台連携の今後への示唆
日本企業のものづくりの今後への示唆
『洋裁文化と日本のファッション』
シンガーミシン
『地域の足を支えるコミュニティバスデマンド交通』
安易にデマンド型交通を導入させない対策
デマンド型公共交通の問題点
コスト面
「予約・登録証」がバリアになる
MM(モビリティー・マネジメント)の導入
MMとは
取組み事例
バスマップの作製
二部料金制の採用
二部料金制とは
二部料金制導入に向けた課題
筆者が考える二部料金制
持続可能な地域をめざして
安易な幼稚園・小学校の統廃合を控える
病院・医院の維持
筆者が考える過疎地の公共交通の姿
幼稚園・旅館・自動車学校のバスの活用
郵便局の集配車の活用
『援助関係論入門』
他なる人
「他なる人」とは
「他なる人」と向き合うこと
援助者の逸脱
怠惰と善意
透明化の問題
人間の尊厳
理解しているという思い込み
援助関係の特徴
「困っている人」としてのクライエント
援助場面での一方的な透明化
『ダークサイド・スキル』
ダークサイド・スキル実践編
絶好調だった無印良品はなぜ苦境に陥ったのか
急激な拡大政策が裏目に出る
印鑑の多さは他責合戦の成れの果て
先に行動を変えないと意識は変わらない
いちばん使いにくい奴がいざというとき役に立つ
つまるところ大事なのは結果を残す人間
トップが現場の声を集めるときの副作用
勘と経験を排除する「MUJIGRAM」
現場を変えるヒントは他社にある
五合目社員と粘土層が情報の行き来を遮断する
デッドラインだけ決めて、やり方はすべてまかせる
自分と同じタイプを後継者に選ぶな
非主流派が活躍する時代
会社は社長の人格以上にはならない
『男子劣化社会』
家父長制神話
パワーとは何か?
「男らしくしなさい」--感情を抑えることの代償
夕ブー
みんなのための正義?
いわゆる賃金格差をなくす困難さ
シンメトリーな男女関係はセクシーでない
『マルセイユの都市空間』
移民社会の変容
第一次世界大戦期以降の人口移動
移民構成の多様化
第二次世界大戦からアルジェリア独立戦争まで
帰還民問題の諸側面
顕在的「他者」としてのアルジェリア人移民
アルジェリア版「マルセイユの晩鐘」事件
明日への希望
市中心部の「アラブ化」
ベルザンス街区の再開発
魅力ある地中海の港町ヘ
『世界の廃墟・遺跡60』
デトロイト
錆びゆく自動車の街
デトロイトにギアを入れると…
そして逆走
朽ち落ちたデトロイト中心
ミシガンセントラル駅
ミシガン・ビルディング
デトロイトの未来
『秩序の砂塵化を超えて』
「現象」としての「イスラーム国(IS)」 国家・脱国家・超国家
「反国家」の「組織」としてのIS
国内権力闘争から生まれた「イラク・イスラーム国」
「反国家」の「組織」としての実態
「脱国家」の「国家」としてのIS
ISは「国家」なのか
「未完の物語」としての「シリア分割」
「脱国家」のオルタナティヴ
「超国家」の「思想」としてのIS
共鳴する世界中のジハード主義者
反知性主義的「思想」ゆえの訴求力
「ぐれ」の一形式としての普遍性
「組織」、「国家」、「思想」の連環
現代イスラーム経済の挑戦 ポスト資本主義時代の新たなパラダイムのために
飛躍する現代イスラーム経済
広がる実践の裾野
なぜイスラーム経済は発展したのか
イスラーム経済のアイデンティティ・クライシス
急成長するイスラーム金融
何がイスラーム金融の「イスラーム性」を担保するのか
現代に再興するイスラーム社会経済システム
伝統的経済制度の再生という新たな挑戦
現代に再生するワクフ
社会と再びつながるイスラーム経済
利己主義と利他精神が共存する新たなパラダイムの可能性
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利己主義と利他精神が共存する新たなパラダイムの可能性
『秩序の砂塵化を超えて』より 現代イスラーム経済の挑戦 ポスト資本主義時代の新たなパラダイムのために
イスラームの理念に適った経済システムを現代世界に再び作り出そうとする現代イスラーム経済の挑戦は、1975年9月にたった一つの銀行から始まった1)。それから、およそ40年が過ぎ、その実践はイスラーム世界の各地に浸透し、しっかりと根を下ろしている。また、当初は金融に限られていた業種も、2017年現在では食品、日用品、アパレル、ツーリズムと裾野が広がり、ムスリム(ィスラーム教徒)たちが日々の暮らしで接する機会も格段に多くなった。
このような現代イスラーム経済の実践は、そもそも、欧米列強の進出によってもたらされた近代資本主義の弊害を克服するために、イスラーム独自の経済パラダイムを提起することをめざして始まったものである。「イスラーム経済の父」とも称される近代南アジア最大のムスリム思想家サイイド・アブル・アアラー・マウドゥーディーは、英領インド時代に行った講演(1941年10月)で、近代資本主義がもたらした富や資源の偏りや社会的不公正を排除し、適度な成長を可能にするための新しい経済のあり方をイスラームから提案したいと述べている。
では、イスラーム経済の今日の隆盛は、そうした当初の目的の実現を意味しているのだろうか。その答えの半分はイエス、半分はノーである。「イエス」と言えるのは、現代イスラーム経済の実践が、たしかに近代資本主義にはない独自の経済活動に取り組み、一定の成功を収めたからである。とくに、貸付の利子をとってはならないというイスラームの教義に適った経済活動を見事に具現化したイスラーム金融は、その最たる例である。
金融取引に利子があって当然と考える私たちからすれば、無利子と金融の結びっきは明らかに矛盾である。 BBCや『ウォールストリート・ジャーナル』も、実践開始間もないころ、イスラーム金融の試みを「voodoo economy(呪術的経済)」と福楡したことがある。しかしこのような冷ややかな視線を尻目に、イスラーム金融は利子によらない金融手法を見事に開発し、多くの顧客を獲得することに成功した。拓楡していた側にいた欧米諸国は、いまや官民挙げてイスラーム金融の振興に乗り出すまでになっている2)。また、2007年に発生した世界金融危機の際には、これからの望ましい金融システムのあり方として、イスラーム金融に全世界の注目が集まった。このエピソードは、近代資本主義とは異なる独自の経済パラダイムとして、イスラーム経済がすでに多くの人々に認知されていることを物語っている。
他方、イスラーム経済の発展を手放しで喜んでいない人々も多くいる。それが、前述の問いかけに対して「ノー」と言わざるを得ない部分である。彼らは、イスラーム経済の現状が、必ずしも当初めざしていた独自のパラダイムの実現に結びついていないと考える。より踏み込んだ言い方をすれば、イスラーム経済の現状は、近代資本主義の単なる模倣であり、従来の制度やしくみにイスラームという宗教的なラベルを貼り付けたに過ぎないと批判する。このような現状認識に立って、現代イスラーム経済の原点に立ち返り、ポスト資本主義時代を担う新たな経済パラダイムの提起をも予感させるような実践に取り組もうとする人々も出てきている。
本章では、そうした新たな経済パラダイムの生成を予感させるような現代イスラーム経済実践の最新事例として、「ワクフ」と呼ばれるイスラーム独自の財産寄進制度の再生プロジェクトに着目する。そして、そのプロジェクトに参画している行為主体がどのような新しい社会経済システムを生み出そうとしているのか、そのダイナミズムの描写を試みる。
本書全体の構成との関係で言えば、本章が取り組むテーマは、行為主体の次元に着目したものであり、とくに、行為主体のミクロレペルでの経済行動が、マクロレペルでどのような新しい制度やシステムに帰着するかを考えることが課題であると言えよう。こうした課題を意識しながら、本章で取り上げる新しい社会経済システムの特徴と意義を考えることで、近代資本主義の限界を身近に感じ、新たな経済パラダイムを渇望し始めている私たちがそこから何を学べるのかについても、想いを巡らせてみたいと思う。
なお、本章が取り上げるワクフの再生プロジェクトのフロンティアは、束南アジアのシンガポールである。イスラームあるいはイスラーム世界というと、中東が中心であるという認識がいまだに根強い。しかし、現代イスラーム経済の画期的なアイデアや実践が常に「周縁」地域から登場していることは、多くの事実が物語っている。前述の南アジア(環ィンド洋域)の思想家・マウドゥーディーの発言はその典型である。近年では、そのイノペーションの軸足が、さらに東(=東南アジア、インド洋と太平洋の漫遁域)に移りつつある。したがって、本章で論じるシンガポールにおける現代イスラーム経済の最新実践は、本書がめざす「環太平洋パラダイム」構築の一翼を担うものでもあると言えよう。
近代資本主義の力は強い。400年以上世界に君臨してきた歴史が如実にそれを物語っている。現代イスラーム経済実践の草創期から、その思想的バックボーンとして来し方行く末を眺めてきたイスラーム経済学者のウマル・チャプラは、2007年に世界金融危機が起こり、世界中でイスラーム金融に注目と期待が集まったときに、「長い間存続してきた近代資本主義型金融システムが、イスラーム金融の提起する急進的な構造改革を受け入れると考えるのは、あまりに期待のしすぎであろう」と発言している。イスラーム経済に精通しているからこそ、その可能性と限界を冷静に分析した言説である。
その上でチャプラは、「しかし、イスラーム金融が提起するいくつかの原理は、グローバル金融システムの健全性と安定性を実現するために不可欠なものとなるはずだ」と続ける。チャプラによれば、この発言は、現代イスラーム経済の叡智(ィスラーム経済知)は、イスラーム世界だけのものではなく、ポスト資本主義時代の新たな経済パラダイムを渇望するすべての人々にとって有用であることを主張するためのものだという。
ここでチャプラが意図しているのは、イスラーム経済知の普遍化の試みである。信仰がベースにあるイスラーム経済の実践にそのベースを共有していない非ムスリムが敢えて取り組む動機はそれほど大きくない。利子禁止の教義にもとづくイスラーム金融に多くの非ムスリムが参画しているのは、そこから得られる経済的利益があるからである。イスラーム金融のさらなる市場拡大のために、そうした非ムスリムを狙った競争力優先の商品を開発することによるアイデンティティの危機については、すでに述べた通りである。
イスラーム経済知の普遍化とは、そのようなイスラーム経済の近代資本主義への一方的な擦り寄りではなく、イスラーム経済の実践が提起する独自の経済ビジョンやしくみを、宗教的言辞を使わずに概念化・モデル化することを指す。それによって、信仰を共有しない非ムスリムでも有用性や実行可能性が理解・活用できる、いわば「誰でも使える」普遍的な経済知に昇華させることを意図している。
チャプラは、イスラーム金融が構想された初期のアイデアに、健全で安定した金融秩序形成の鍵があると考え、それらを1)損益を応分負担する金融取引の優越、2)レバレッジ(自己資本以上に投資すること)の抑制、3)実物経済の活性化に寄与する金貸しの重視、4)債権譲渡の制限といった一般のバンカーでも理解可能な概念に置:き換えて、それらにもとづく望ましい金融システムを提起している。
それでは、本章が取り上げてきたイスラーム金融を活用したワクフ再生の取り組みが提起するイスラーム経済知とは何か。それは、「各行為主体の徹底した利己主義によって生成される富の社会還元システム」ではないだろうか。まず、ワクフの設定は、教義に忠実に生き、あの世で自らが救われたいと思うムスリムによって行われる。ここには構造的に利他心が入り込む余地はない。なぜなら、彼らは、稼いだ富を困っている他者のために使えば自分が天国に行ける教義に従っているに過ぎないからである。
そして、ワクフ再生資金は、ムスリム・非ムスリムを問わず、純粋に金儲けを動機として集められる。資金を出す人々の多くは、どれだけこのプロジェクトから利益が得られるかを判断基準として、出資の可否を決定する。再生後のワクフ物件が多くの収益をあげればあげるほど慈善・福祉活動が充実するが、その背後には、出資者たちによる厳格な費用便益計算が隠れている。こうして、行為主体がおのおの利己主義を徹底することによって「利他的なもの」が充実するという特異なシステムがワクフというしくみを中心に生成しているのである。
このような利己主義と利他的なものが絶妙に共存する21世紀型のイスラーム社会経済システムからは、利己主義の蔓延や暴走によって様々な弊害を生みだしている現在のグローバル資本主義とも、利己主義の抑制による利他的なものの再興を訴える傾向にあるこれまでのポスト資本主義論とも一線を画す、前世紀の理論化が構想しえなかった新たなパラダイムの可能性を感じずにはいられない。
ただし、脱領域性を特徴とするこのシステムは、国家による制度設計や国民経済の存在をその存立条件としている今の世界経済システムといった前世紀の「常識」と正面から対立することは免れ得ない。それは、レベルは異なるが、第3章で指摘された「国家」と「市場」の一筋縄にはいかない関係と似ている。今後こうした前世紀の「常識(=国家や国民経済)」との付き合い方を模索するなかで、このシステムの新たなパラダイムとしての実際のフィージビリティ(実行可能性)もおのずと判明するであろう。
さらにワクフの設定の動機付けの脱宗教化や、他の類似する従来の慈善・福祉制度と比べたときの優位性の解明など、21世紀型イスラーム社会経済システムを自家薬寵中のものにするには、ミクロなレペルにおいて解決すべき課題も少なくない。しかし、近代資本主義の限界を身近に感じ、新たな経済パラダイムを渇望しながらもその決定打を打ち出せないでいる私たちこそ。イスラーム経済のフレッシュな実践が提起しているこの経済知の活用を真剣に考えるべきではないだろうか。よりよい未来を描くためのバトンはすでに私たちの手許にあるのだ。
イスラームの理念に適った経済システムを現代世界に再び作り出そうとする現代イスラーム経済の挑戦は、1975年9月にたった一つの銀行から始まった1)。それから、およそ40年が過ぎ、その実践はイスラーム世界の各地に浸透し、しっかりと根を下ろしている。また、当初は金融に限られていた業種も、2017年現在では食品、日用品、アパレル、ツーリズムと裾野が広がり、ムスリム(ィスラーム教徒)たちが日々の暮らしで接する機会も格段に多くなった。
このような現代イスラーム経済の実践は、そもそも、欧米列強の進出によってもたらされた近代資本主義の弊害を克服するために、イスラーム独自の経済パラダイムを提起することをめざして始まったものである。「イスラーム経済の父」とも称される近代南アジア最大のムスリム思想家サイイド・アブル・アアラー・マウドゥーディーは、英領インド時代に行った講演(1941年10月)で、近代資本主義がもたらした富や資源の偏りや社会的不公正を排除し、適度な成長を可能にするための新しい経済のあり方をイスラームから提案したいと述べている。
では、イスラーム経済の今日の隆盛は、そうした当初の目的の実現を意味しているのだろうか。その答えの半分はイエス、半分はノーである。「イエス」と言えるのは、現代イスラーム経済の実践が、たしかに近代資本主義にはない独自の経済活動に取り組み、一定の成功を収めたからである。とくに、貸付の利子をとってはならないというイスラームの教義に適った経済活動を見事に具現化したイスラーム金融は、その最たる例である。
金融取引に利子があって当然と考える私たちからすれば、無利子と金融の結びっきは明らかに矛盾である。 BBCや『ウォールストリート・ジャーナル』も、実践開始間もないころ、イスラーム金融の試みを「voodoo economy(呪術的経済)」と福楡したことがある。しかしこのような冷ややかな視線を尻目に、イスラーム金融は利子によらない金融手法を見事に開発し、多くの顧客を獲得することに成功した。拓楡していた側にいた欧米諸国は、いまや官民挙げてイスラーム金融の振興に乗り出すまでになっている2)。また、2007年に発生した世界金融危機の際には、これからの望ましい金融システムのあり方として、イスラーム金融に全世界の注目が集まった。このエピソードは、近代資本主義とは異なる独自の経済パラダイムとして、イスラーム経済がすでに多くの人々に認知されていることを物語っている。
他方、イスラーム経済の発展を手放しで喜んでいない人々も多くいる。それが、前述の問いかけに対して「ノー」と言わざるを得ない部分である。彼らは、イスラーム経済の現状が、必ずしも当初めざしていた独自のパラダイムの実現に結びついていないと考える。より踏み込んだ言い方をすれば、イスラーム経済の現状は、近代資本主義の単なる模倣であり、従来の制度やしくみにイスラームという宗教的なラベルを貼り付けたに過ぎないと批判する。このような現状認識に立って、現代イスラーム経済の原点に立ち返り、ポスト資本主義時代を担う新たな経済パラダイムの提起をも予感させるような実践に取り組もうとする人々も出てきている。
本章では、そうした新たな経済パラダイムの生成を予感させるような現代イスラーム経済実践の最新事例として、「ワクフ」と呼ばれるイスラーム独自の財産寄進制度の再生プロジェクトに着目する。そして、そのプロジェクトに参画している行為主体がどのような新しい社会経済システムを生み出そうとしているのか、そのダイナミズムの描写を試みる。
本書全体の構成との関係で言えば、本章が取り組むテーマは、行為主体の次元に着目したものであり、とくに、行為主体のミクロレペルでの経済行動が、マクロレペルでどのような新しい制度やシステムに帰着するかを考えることが課題であると言えよう。こうした課題を意識しながら、本章で取り上げる新しい社会経済システムの特徴と意義を考えることで、近代資本主義の限界を身近に感じ、新たな経済パラダイムを渇望し始めている私たちがそこから何を学べるのかについても、想いを巡らせてみたいと思う。
なお、本章が取り上げるワクフの再生プロジェクトのフロンティアは、束南アジアのシンガポールである。イスラームあるいはイスラーム世界というと、中東が中心であるという認識がいまだに根強い。しかし、現代イスラーム経済の画期的なアイデアや実践が常に「周縁」地域から登場していることは、多くの事実が物語っている。前述の南アジア(環ィンド洋域)の思想家・マウドゥーディーの発言はその典型である。近年では、そのイノペーションの軸足が、さらに東(=東南アジア、インド洋と太平洋の漫遁域)に移りつつある。したがって、本章で論じるシンガポールにおける現代イスラーム経済の最新実践は、本書がめざす「環太平洋パラダイム」構築の一翼を担うものでもあると言えよう。
近代資本主義の力は強い。400年以上世界に君臨してきた歴史が如実にそれを物語っている。現代イスラーム経済実践の草創期から、その思想的バックボーンとして来し方行く末を眺めてきたイスラーム経済学者のウマル・チャプラは、2007年に世界金融危機が起こり、世界中でイスラーム金融に注目と期待が集まったときに、「長い間存続してきた近代資本主義型金融システムが、イスラーム金融の提起する急進的な構造改革を受け入れると考えるのは、あまりに期待のしすぎであろう」と発言している。イスラーム経済に精通しているからこそ、その可能性と限界を冷静に分析した言説である。
その上でチャプラは、「しかし、イスラーム金融が提起するいくつかの原理は、グローバル金融システムの健全性と安定性を実現するために不可欠なものとなるはずだ」と続ける。チャプラによれば、この発言は、現代イスラーム経済の叡智(ィスラーム経済知)は、イスラーム世界だけのものではなく、ポスト資本主義時代の新たな経済パラダイムを渇望するすべての人々にとって有用であることを主張するためのものだという。
ここでチャプラが意図しているのは、イスラーム経済知の普遍化の試みである。信仰がベースにあるイスラーム経済の実践にそのベースを共有していない非ムスリムが敢えて取り組む動機はそれほど大きくない。利子禁止の教義にもとづくイスラーム金融に多くの非ムスリムが参画しているのは、そこから得られる経済的利益があるからである。イスラーム金融のさらなる市場拡大のために、そうした非ムスリムを狙った競争力優先の商品を開発することによるアイデンティティの危機については、すでに述べた通りである。
イスラーム経済知の普遍化とは、そのようなイスラーム経済の近代資本主義への一方的な擦り寄りではなく、イスラーム経済の実践が提起する独自の経済ビジョンやしくみを、宗教的言辞を使わずに概念化・モデル化することを指す。それによって、信仰を共有しない非ムスリムでも有用性や実行可能性が理解・活用できる、いわば「誰でも使える」普遍的な経済知に昇華させることを意図している。
チャプラは、イスラーム金融が構想された初期のアイデアに、健全で安定した金融秩序形成の鍵があると考え、それらを1)損益を応分負担する金融取引の優越、2)レバレッジ(自己資本以上に投資すること)の抑制、3)実物経済の活性化に寄与する金貸しの重視、4)債権譲渡の制限といった一般のバンカーでも理解可能な概念に置:き換えて、それらにもとづく望ましい金融システムを提起している。
それでは、本章が取り上げてきたイスラーム金融を活用したワクフ再生の取り組みが提起するイスラーム経済知とは何か。それは、「各行為主体の徹底した利己主義によって生成される富の社会還元システム」ではないだろうか。まず、ワクフの設定は、教義に忠実に生き、あの世で自らが救われたいと思うムスリムによって行われる。ここには構造的に利他心が入り込む余地はない。なぜなら、彼らは、稼いだ富を困っている他者のために使えば自分が天国に行ける教義に従っているに過ぎないからである。
そして、ワクフ再生資金は、ムスリム・非ムスリムを問わず、純粋に金儲けを動機として集められる。資金を出す人々の多くは、どれだけこのプロジェクトから利益が得られるかを判断基準として、出資の可否を決定する。再生後のワクフ物件が多くの収益をあげればあげるほど慈善・福祉活動が充実するが、その背後には、出資者たちによる厳格な費用便益計算が隠れている。こうして、行為主体がおのおの利己主義を徹底することによって「利他的なもの」が充実するという特異なシステムがワクフというしくみを中心に生成しているのである。
このような利己主義と利他的なものが絶妙に共存する21世紀型のイスラーム社会経済システムからは、利己主義の蔓延や暴走によって様々な弊害を生みだしている現在のグローバル資本主義とも、利己主義の抑制による利他的なものの再興を訴える傾向にあるこれまでのポスト資本主義論とも一線を画す、前世紀の理論化が構想しえなかった新たなパラダイムの可能性を感じずにはいられない。
ただし、脱領域性を特徴とするこのシステムは、国家による制度設計や国民経済の存在をその存立条件としている今の世界経済システムといった前世紀の「常識」と正面から対立することは免れ得ない。それは、レベルは異なるが、第3章で指摘された「国家」と「市場」の一筋縄にはいかない関係と似ている。今後こうした前世紀の「常識(=国家や国民経済)」との付き合い方を模索するなかで、このシステムの新たなパラダイムとしての実際のフィージビリティ(実行可能性)もおのずと判明するであろう。
さらにワクフの設定の動機付けの脱宗教化や、他の類似する従来の慈善・福祉制度と比べたときの優位性の解明など、21世紀型イスラーム社会経済システムを自家薬寵中のものにするには、ミクロなレペルにおいて解決すべき課題も少なくない。しかし、近代資本主義の限界を身近に感じ、新たな経済パラダイムを渇望しながらもその決定打を打ち出せないでいる私たちこそ。イスラーム経済のフレッシュな実践が提起しているこの経済知の活用を真剣に考えるべきではないだろうか。よりよい未来を描くためのバトンはすでに私たちの手許にあるのだ。
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「組織」、「国家」、「思想」の連環
『秩序の砂塵化を超えて』より 「現象」としての「イスラーム国(IS)」 国家・脱国家・超国家
イラクとシリアにまたがる地域に突如出現した「イスラーム国(IS)」は、いわゆるイスラーム過激派としての姿にどこか既視感を覚えさせつつも、今日の世界にさまざまな課題を突きつけた。 ISは、両国の政治的混乱--イラクでは2003年のイラク戦争以来の内政の混乱、シリアでは2011年の「アラブの春」の一環としての紛争--を深刻化させるだけでなく、越境的な宗教国家の建設を目指すことで、国民国家から構成される今日の中東の地域秩序そのものを揺るがした。また、ISのメンバーやシンパによるテロリズムは世界中に拡散しており、翻って、各国における排外主義や極右政党の台頭の一因となっている。このように、ISは中東の内部に局所的に出現したイスラーム過激派であると同時に、今日の世界を特徴づける一つの「現象」と捉えることができる。
本章は、ISという「現象」の見取り図を示し、その動態を理解するための視座の検討を目的とする。 ISを扱うことは、本書の設定する分析次元で言えば「行為主体」、トピックは「政治」にそれぞれ対応するが、それを「現象」として捉えることで、「環太平洋パラダイム」の構築に向けた一つのヒントを導き出してみたい。
2014年6月の「建国」宣言と強大な軍事力を背景にした急速な勢力拡大を受けて、ISに関する多くの著作が日本や欧米諸国、さらには中東諸国でも刊行された。その多くは、主にISの歴史や思想を扱ったものであり、イスラーム過激派の「組織」としての成立過程や特徴を浮き彫りにしている。また、その営みを通して、イラクとシリアにおける「国家」としての支配の実態や、ジハード主義の「思想」とテロリズムの世界的拡散の背景を明らかにすることに寄与している。
ISを「組織」としてのみ捉える見方は、彼らを悪魔化しようとする世界規模の世論と共鳴するかたちで、世界から断絶されたイラクとシリアの内部に巣くうイスラーム過激派の人間集団としての側面が過剰に強調されることによって、結果的にISという「現象」に対する視野を狭めてしまう副作用をともなう。
国内外の主要なマスメディアは、イスラーム教徒一般への配慮から「過激派組織TS」、ないしは「自称『イスラーム国』」といったかたちで--ポリティカル・コレクトネスの観点から--、ごく一部の特異な人間集団としての側面を強調している。しかし、ISの「組織」としての意思や能力をもって「現象」全般を説明する方法は、すべての「現象」が彼らによって主体的に引き起こされているかのような錯覚を招くおそれ、言い換えれば、彼らの存在を実態よりも過大に評価してしまう危険がともなう。
それを象徴するのが、2014年8月に開始された米国主導の「有志連合」によるイラクとシリアで活動する「組織」としてのISへの空爆作戦であろう。こうした「テロとの戦い」が世界中でのテロリズムを抑止できたかといえば、むしろ逆の効果をもたらし、欧州や中東での「ISによるテロ」の拡散を助長してきた。
本章では、ISを「現象」として捉えるために、「組織」、「国家」、「思想」の三つの視座からの分析を行い、その融合の可能性を検討する。具体的には、ISの三つの特徴、すなわち、①現行の政府に対峙する「反国家」の「組織」、②国民国家の構造的・認識的枠組みを超越する「脱国家」の「国家」、③世界規模で共鳴者を生み出す「超国家」の「思想」の分析を行う。この三つの視座は、分析のレベルで言えば、ナショナル(national)、トランスナショナル(trans-national)、スープラナショナル(supra-national)にそれぞれ対応する。
ISを今日の世界を特徴づける一つの「現象」として、「組織」、「国家」、「思想」の三つの視座から捉えてきた。そこで明らかになったのは、ISの三つの側面が個別に存在するのではなく、それぞれ「反国家」、「脱国家」、「超国家」の側面から一つの連環を築いている実態であった。
「反国家」の「組織」としての快進撃は、「脱国家」としての「国家」--すべてのムスリムが「国民」となり得る「イスラーム国家」--を標榜している事実に支えられていた。そして、その「国家」が他ならぬイラクとシリアの地で生まれた背景には、両国が紛争によって「破綻国家」と化したことだけではなく、「未完の物語」としての「シリア分割」という構造的問題があった。
イラク戦争と「アラブの春」によって既存の国民国家が構造的・認識的に大きく動揺するなかでISは、それを単純に再生させるのではなく、新たなオルタナティヴを提示する勢力として台頭した。さらにISは、自らが築いた「国家」の保全と版図の拡大を掲げ、世界中のムスリムにジハードを呼びかけた。この「超国家」の「思想」としてのISは、瞬く間に世界中に拡散し、各国で共鳴者によるテロリズムを誘発した。逆説的なことに、その「思想」の内実が貧弱であるがゆえに、ムスリムのみならず非ムスリムの共鳴者をも生みだす普遍性を帯びる可能性を見せた。
こうしたISの「組織」、「国家」、「思想」の三つの側面の連環を「現象」として、包括的に捉えるには、既存の社会科学と地域研究の協働が不可欠となるだろう。いずれか一つの側面からISを分析することは、おそらく既存のディシプリンでも可能である。しかし、特定の側面のみに目を奪われ、他の側面との相互の関係を過小評価したとき、それは、単なる分析上のアポリアだけでなく、現実の政策にも深刻な問題を生むことになりかねない。
例えば、ISの過激な「思想」が、敵と味方とを峻別する鮮烈な二分法的世界観と、イスラーム世界が異教徒や不信仰者・背教者に攻撃されているという過剰な被害者意識に支えられていることは、イスラーム政治思想の専門家が知悉するところである。しかし、現実のテロ対策の現場では、「組織」としてのISを武力によって壊滅させるという方法、具体的には、シリアとイラクの実効支配地域に対する軍事作戦が採用された。確かに軍事作戦は「組織」の壊滅を導くことなる。だが、それによって「思想」が持つ訴求力は高まり、結果的に他の国や地域で共鳴者を増やすことにつながることも警戒すべきであろう。
また、軍事作戦によって「国家」としてのISを壊滅させることも、それが「未完の物語」としての「シリア分割」における多様な国家構想の一つとしてのイスラーム国家の理念一般を否定するものになれば、結果的にそこに暮らす人びとの主体的・創造的な国家建設の営みをやせ細ったものにしかねない。既に中東の各地ではイスラーム主義者たちをISと同一視し、十把一絡げに「テロリスト」として排除する動きが高まっており、翻って、それがイスラーム過激派になる者を増やすという悪循環を引き起こしている。
こうした分析上および政策上のアポリアのなかで、本章ではISの「組織」、「国家」、「思想」の諸側面を、「国家」をキーワード--「反国家」、「脱国家」、「超国家」--に融合的に捉える視座について検討した。これは結局のところ「システム・体制」の拠り所としての現行の国家の行き詰まりを浮き彫りにするものであり、第1章で論じられた権威主義の強化や第2章の民主主義の揺らぎと問題意識を共有する。
「現象」としてのISを捉えるための融合的な視座については、いまだ問題提起の域を出るものではないが、線形的な従来の社会科学の思考やそれに基づく政策のあり方を問い直し、今日の世界が経験している新たな課題の本質を捉え、新たな知を創出するための契機となりうるであろう。
イラクとシリアにまたがる地域に突如出現した「イスラーム国(IS)」は、いわゆるイスラーム過激派としての姿にどこか既視感を覚えさせつつも、今日の世界にさまざまな課題を突きつけた。 ISは、両国の政治的混乱--イラクでは2003年のイラク戦争以来の内政の混乱、シリアでは2011年の「アラブの春」の一環としての紛争--を深刻化させるだけでなく、越境的な宗教国家の建設を目指すことで、国民国家から構成される今日の中東の地域秩序そのものを揺るがした。また、ISのメンバーやシンパによるテロリズムは世界中に拡散しており、翻って、各国における排外主義や極右政党の台頭の一因となっている。このように、ISは中東の内部に局所的に出現したイスラーム過激派であると同時に、今日の世界を特徴づける一つの「現象」と捉えることができる。
本章は、ISという「現象」の見取り図を示し、その動態を理解するための視座の検討を目的とする。 ISを扱うことは、本書の設定する分析次元で言えば「行為主体」、トピックは「政治」にそれぞれ対応するが、それを「現象」として捉えることで、「環太平洋パラダイム」の構築に向けた一つのヒントを導き出してみたい。
2014年6月の「建国」宣言と強大な軍事力を背景にした急速な勢力拡大を受けて、ISに関する多くの著作が日本や欧米諸国、さらには中東諸国でも刊行された。その多くは、主にISの歴史や思想を扱ったものであり、イスラーム過激派の「組織」としての成立過程や特徴を浮き彫りにしている。また、その営みを通して、イラクとシリアにおける「国家」としての支配の実態や、ジハード主義の「思想」とテロリズムの世界的拡散の背景を明らかにすることに寄与している。
ISを「組織」としてのみ捉える見方は、彼らを悪魔化しようとする世界規模の世論と共鳴するかたちで、世界から断絶されたイラクとシリアの内部に巣くうイスラーム過激派の人間集団としての側面が過剰に強調されることによって、結果的にISという「現象」に対する視野を狭めてしまう副作用をともなう。
国内外の主要なマスメディアは、イスラーム教徒一般への配慮から「過激派組織TS」、ないしは「自称『イスラーム国』」といったかたちで--ポリティカル・コレクトネスの観点から--、ごく一部の特異な人間集団としての側面を強調している。しかし、ISの「組織」としての意思や能力をもって「現象」全般を説明する方法は、すべての「現象」が彼らによって主体的に引き起こされているかのような錯覚を招くおそれ、言い換えれば、彼らの存在を実態よりも過大に評価してしまう危険がともなう。
それを象徴するのが、2014年8月に開始された米国主導の「有志連合」によるイラクとシリアで活動する「組織」としてのISへの空爆作戦であろう。こうした「テロとの戦い」が世界中でのテロリズムを抑止できたかといえば、むしろ逆の効果をもたらし、欧州や中東での「ISによるテロ」の拡散を助長してきた。
本章では、ISを「現象」として捉えるために、「組織」、「国家」、「思想」の三つの視座からの分析を行い、その融合の可能性を検討する。具体的には、ISの三つの特徴、すなわち、①現行の政府に対峙する「反国家」の「組織」、②国民国家の構造的・認識的枠組みを超越する「脱国家」の「国家」、③世界規模で共鳴者を生み出す「超国家」の「思想」の分析を行う。この三つの視座は、分析のレベルで言えば、ナショナル(national)、トランスナショナル(trans-national)、スープラナショナル(supra-national)にそれぞれ対応する。
ISを今日の世界を特徴づける一つの「現象」として、「組織」、「国家」、「思想」の三つの視座から捉えてきた。そこで明らかになったのは、ISの三つの側面が個別に存在するのではなく、それぞれ「反国家」、「脱国家」、「超国家」の側面から一つの連環を築いている実態であった。
「反国家」の「組織」としての快進撃は、「脱国家」としての「国家」--すべてのムスリムが「国民」となり得る「イスラーム国家」--を標榜している事実に支えられていた。そして、その「国家」が他ならぬイラクとシリアの地で生まれた背景には、両国が紛争によって「破綻国家」と化したことだけではなく、「未完の物語」としての「シリア分割」という構造的問題があった。
イラク戦争と「アラブの春」によって既存の国民国家が構造的・認識的に大きく動揺するなかでISは、それを単純に再生させるのではなく、新たなオルタナティヴを提示する勢力として台頭した。さらにISは、自らが築いた「国家」の保全と版図の拡大を掲げ、世界中のムスリムにジハードを呼びかけた。この「超国家」の「思想」としてのISは、瞬く間に世界中に拡散し、各国で共鳴者によるテロリズムを誘発した。逆説的なことに、その「思想」の内実が貧弱であるがゆえに、ムスリムのみならず非ムスリムの共鳴者をも生みだす普遍性を帯びる可能性を見せた。
こうしたISの「組織」、「国家」、「思想」の三つの側面の連環を「現象」として、包括的に捉えるには、既存の社会科学と地域研究の協働が不可欠となるだろう。いずれか一つの側面からISを分析することは、おそらく既存のディシプリンでも可能である。しかし、特定の側面のみに目を奪われ、他の側面との相互の関係を過小評価したとき、それは、単なる分析上のアポリアだけでなく、現実の政策にも深刻な問題を生むことになりかねない。
例えば、ISの過激な「思想」が、敵と味方とを峻別する鮮烈な二分法的世界観と、イスラーム世界が異教徒や不信仰者・背教者に攻撃されているという過剰な被害者意識に支えられていることは、イスラーム政治思想の専門家が知悉するところである。しかし、現実のテロ対策の現場では、「組織」としてのISを武力によって壊滅させるという方法、具体的には、シリアとイラクの実効支配地域に対する軍事作戦が採用された。確かに軍事作戦は「組織」の壊滅を導くことなる。だが、それによって「思想」が持つ訴求力は高まり、結果的に他の国や地域で共鳴者を増やすことにつながることも警戒すべきであろう。
また、軍事作戦によって「国家」としてのISを壊滅させることも、それが「未完の物語」としての「シリア分割」における多様な国家構想の一つとしてのイスラーム国家の理念一般を否定するものになれば、結果的にそこに暮らす人びとの主体的・創造的な国家建設の営みをやせ細ったものにしかねない。既に中東の各地ではイスラーム主義者たちをISと同一視し、十把一絡げに「テロリスト」として排除する動きが高まっており、翻って、それがイスラーム過激派になる者を増やすという悪循環を引き起こしている。
こうした分析上および政策上のアポリアのなかで、本章ではISの「組織」、「国家」、「思想」の諸側面を、「国家」をキーワード--「反国家」、「脱国家」、「超国家」--に融合的に捉える視座について検討した。これは結局のところ「システム・体制」の拠り所としての現行の国家の行き詰まりを浮き彫りにするものであり、第1章で論じられた権威主義の強化や第2章の民主主義の揺らぎと問題意識を共有する。
「現象」としてのISを捉えるための融合的な視座については、いまだ問題提起の域を出るものではないが、線形的な従来の社会科学の思考やそれに基づく政策のあり方を問い直し、今日の世界が経験している新たな課題の本質を捉え、新たな知を創出するための契機となりうるであろう。
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書くことを中心とする生活
書くことを中心とする生活
まず。一つのことから始めよう。書くことを中心にする生活にするためには、テーマですね。未唯空間への反映が主になる。そのためのキッカケとか刺激は自分で作り出すしかない。
私の世界に向かってのアピールになります。他者の世界は関係ない。私は私の世界の境界線は私が自由に決められる。これは放り出されたモノの特権です。全てを私のモノにすることもできるし、小さく小さくすることもできる。
机のスペース
机の上を書くスペース、読むスペースを追加しよう。この机はずっと、食卓だったモノだから、拡がる。スキャナーと映らないテレビはそのままにしておく。
自分に対するアピール
ネームプレートを使って、「私は私の世界」をアピールしよう。何に対して。自分に対して。
スケジュールをシステム化するのは、ノートで対応して、仕組みにを作り出す。仕組みより御も動機ですね。思考・行動に対するスケジュール。
疲れないペンはない
クロスを使い始めたが親指が疲れる。昔使っていた、パワータンク1.0を文房具屋で探したが見るからない。名古屋のハンズで探しましょう。
書くペンで内容が変わってくる。お気に入りのペンは何本ももっていた方がいい。気分で変えていく。
何を託されているのか
ICレコーダーから書き起こしをしていて、時々、ビックリすることがある。こんなことを考えていたんだ.こんなことを言っているんだ。それはあたかも、ムハンマドが洞窟の中でご託宣を記述している姿を想像させる。だから、クルアーンには絶対に聞き間違え、書き間違いがあると思っている。
『「西洋」の終わり』
「「西洋」の終わり」はぐだぐだ述べているだけで、焼き直しが多い。題名(不平等と公平性、西洋の運命)は興味を引くけど、ポイントが不明。
『洋裁文化と日本のファッション』
「洋裁文化」はアメリカの文化。シンガーミシンは宣教師みたいなもの。アメリカ文化の先鋒を担う。ロシアのペテルスブルグの近代化にもシンガービルが出てきた。シンガーがロシアに及ぼした影響は大きい。
シンガービルの高さは制限されていた。王宮(エルミタージュ)よりも高い建物は認められていない。これはペテルスブルグに言った時に聞かされた。遠望したときに、高い建物が今でもない。シンガービスはそれに従った。ロシアを破れなかった。その点、日本は和装文化がありながら、アメリカ文化を吸収していった。ミシンそのものもシンガーを凌駕していった。
『地域の足を支えるコミュニティバスデマンド交通』
デマンド交通では。皆、自分の商売のことを考えている。共有意識からシェア社会で考えれば、未来があるのに、自分の利益だけを考えるから中途半端でみすぼらしいものになる。全てを知った上での上から目線がないからでしょう。当たり障りのないところで答えを出そうとしている。あたかも自分が発案したかのように。それでは何も進化しません。
『援助関係論入門』
「援助関係論」は他者という概念にたどり着きながら、肝心の答えが出ていない。他者が本当にいるのかどうか哲学的な問いが必要。そんなことは哲学をやれば、すぐに出てくるし、生まれながらの実感でしょう。他者がいることを前提ににしているから、答えが出ずに同じところをぐるぐると回っている。
『ダークサイド・スキル』
「ダークサイド」はありきたりです。組織が味方であり、あまりにも自分を目立たせるためだけに組織がある。組織で商売しているというけど、本来そうなのか。自分のことしか考えないものが組織としてあり得るのか。組織という単位が合っているのか、多分、合っていないでしょう。だから、規模みたいなものでどうにか生きている。
まず。一つのことから始めよう。書くことを中心にする生活にするためには、テーマですね。未唯空間への反映が主になる。そのためのキッカケとか刺激は自分で作り出すしかない。
私の世界に向かってのアピールになります。他者の世界は関係ない。私は私の世界の境界線は私が自由に決められる。これは放り出されたモノの特権です。全てを私のモノにすることもできるし、小さく小さくすることもできる。
机のスペース
机の上を書くスペース、読むスペースを追加しよう。この机はずっと、食卓だったモノだから、拡がる。スキャナーと映らないテレビはそのままにしておく。
自分に対するアピール
ネームプレートを使って、「私は私の世界」をアピールしよう。何に対して。自分に対して。
スケジュールをシステム化するのは、ノートで対応して、仕組みにを作り出す。仕組みより御も動機ですね。思考・行動に対するスケジュール。
疲れないペンはない
クロスを使い始めたが親指が疲れる。昔使っていた、パワータンク1.0を文房具屋で探したが見るからない。名古屋のハンズで探しましょう。
書くペンで内容が変わってくる。お気に入りのペンは何本ももっていた方がいい。気分で変えていく。
何を託されているのか
ICレコーダーから書き起こしをしていて、時々、ビックリすることがある。こんなことを考えていたんだ.こんなことを言っているんだ。それはあたかも、ムハンマドが洞窟の中でご託宣を記述している姿を想像させる。だから、クルアーンには絶対に聞き間違え、書き間違いがあると思っている。
『「西洋」の終わり』
「「西洋」の終わり」はぐだぐだ述べているだけで、焼き直しが多い。題名(不平等と公平性、西洋の運命)は興味を引くけど、ポイントが不明。
『洋裁文化と日本のファッション』
「洋裁文化」はアメリカの文化。シンガーミシンは宣教師みたいなもの。アメリカ文化の先鋒を担う。ロシアのペテルスブルグの近代化にもシンガービルが出てきた。シンガーがロシアに及ぼした影響は大きい。
シンガービルの高さは制限されていた。王宮(エルミタージュ)よりも高い建物は認められていない。これはペテルスブルグに言った時に聞かされた。遠望したときに、高い建物が今でもない。シンガービスはそれに従った。ロシアを破れなかった。その点、日本は和装文化がありながら、アメリカ文化を吸収していった。ミシンそのものもシンガーを凌駕していった。
『地域の足を支えるコミュニティバスデマンド交通』
デマンド交通では。皆、自分の商売のことを考えている。共有意識からシェア社会で考えれば、未来があるのに、自分の利益だけを考えるから中途半端でみすぼらしいものになる。全てを知った上での上から目線がないからでしょう。当たり障りのないところで答えを出そうとしている。あたかも自分が発案したかのように。それでは何も進化しません。
『援助関係論入門』
「援助関係論」は他者という概念にたどり着きながら、肝心の答えが出ていない。他者が本当にいるのかどうか哲学的な問いが必要。そんなことは哲学をやれば、すぐに出てくるし、生まれながらの実感でしょう。他者がいることを前提ににしているから、答えが出ずに同じところをぐるぐると回っている。
『ダークサイド・スキル』
「ダークサイド」はありきたりです。組織が味方であり、あまりにも自分を目立たせるためだけに組織がある。組織で商売しているというけど、本来そうなのか。自分のことしか考えないものが組織としてあり得るのか。組織という単位が合っているのか、多分、合っていないでしょう。だから、規模みたいなものでどうにか生きている。
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