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いちばん使いにくい奴がいざというとき役に立つ

『ダークサイド・スキル』より ダークサイド・スキル実践編 絶好調だった無印良品はなぜ苦境に陥ったのか

松井 そうですね。出世したいと思うと、どこかで自分の生き方を曲げないと上がれないんです。つまり、あちこち根回ししながら動いて出世すると、たとえば商品部の専務に呼ばれたときに、専務のところにいちばん良い人材を優先的に回すとか、そういうしがらみができてしまう。全社の資源を公平に配分するということができなくなって、どうしても部分最適に行動してしまう。そうしないと自分か生きていけないからですね。

 出世して、給料が上がって、いい生活をしたいというのは多数派です。多数派にいたほうが安心できるので、あちこち根回しして、上の覚えをめでたくするという行動に出る人がすごく多い。多数派ですから、徒党を組んでいくわけです。徒党を組むというのは、会議もそうですけど、飲みに行くときも全部一緒です。そして、営々と部長の言うことを聞いている。僕はそういう価値観はゼロなんです。とても嫌。だから、誘われても一切飲みに行かない。当然、使いにくい奴だなと思われます。

 僕がいつも人事部で、主流派にいたことがないのは、そういう理由です。でも、あちこちに顔を出してご機嫌伺いをする廊下鳶をやっている人ばかりが出世する会社は、やっぱりどこかおかしいわけです。西郷隆盛が言うように、金も名誉も、そして地位も要らない、こういう奴がいちばん使いにくい。でも、それはその人がそれなりの生き方を持っているからで、それが何より大事なんですね。

木村 ダークサイド・スキルのその5で「煩悩に溺れず、欲に溺れろ」といったのは、まさにそのことです。白分か何をなし得たいのかという価値観が、本当の欲だと私は思っています。

松井 だから、最後は生きざまの問題になるんです。やっぱり損得なしで、上に媚びたりするのとは無縁に生きる人じゃないと、本当にしっかり一本道を歩むということはできないんですね。僕は教師になるつもりで大学に入った。ところが、大学の全学連運動でデモに出て逮捕され、留置所に三週間入って、二十歳の誕生日もそこで迎えた。昔から権威に唯々諾々と従うのがとても嫌で、それで親不孝もしたわけですが、結局、教師の道も諦めざるを得なくなる。けっこう致命的な失敗をするわけですね。

 しかたがないので民間企業に入ったんですけど、そこでも、誰かに言われたからやるのではなくて、これはやらなきゃいけないということはやらないと気が済まない。上から見たら使いにくいし、どうにも邪魔だからということで、良品計画に出向させられます。一部上場企業の課長が良品計画という子会社に行くのに、同じ課長だった。普通は最低でも部長です。明らかに左遷でしたが、それはそれでしょうがない。だけど、それで腐っていく人というのをさんざん見てきました。

 先ほど他責という言葉がありましたけど、自分の異動は自分では決められない。でも、だからといって、会社が自分を正しく評価してくれなかったから、自分は左遷させられたんだと不満を持つ人は、その後にも浮上することはなかった。したがって、誰かのせいにしているだけではダメだというのは、理屈上わかる。それともう一つは、心情的に、与えられた仕事の中でベストを尽くさないというのは、僕自身がとても嫌。だから、どんなに待遇が悪くても、転籍業務という良品計画での自分の仕事をかなりリスクをとってやっていました。

 良品計画は創業してすぐの会社で、実質的に赤字でスタートしているわけですから、現実問題として、役に立たないと具合が悪い。働いて実績を残す人間以外を雇っておく余裕がないわけです。だから、僕は転籍という業務を五十万円の移行原資でやっていくんですけど、翌年には部長にしてくれて、その翌年には役員にしてくれた。

木村 わずか三年で、課長、部長、役員と駆け上がったわけですね。

松井 違うタイプももちろんいます。たとえば、総務担当で来てもらった人がいて、「お店にたくさんネズミが出るから、ネズミを退治してくれ」と言うと、「いや、申し訳ない。これをやるには保全と管財と総務がみんな要る」と言うんです。総務は駆除業者を手配しなければいけないし、オーナーと交渉もしなければいけない。施設に穴が空いたりすれば、保全がそれを塞がなければいけない。施設の維持管理が業務の管財も必要だと。西友の総務は六部署くらいありましたから、そのうちの半分は要ると言うんですけど、分社して間もない良品計画にはそんな人手はないわけです。

 宣伝担当の人もそうでした。JRの原宿駅の線路側に宣伝ボードが立っていて、これがものすごく目立つ。年間契約で借りて、そこに月替わりで広告を出していく。担当者に「看板はいつできるんだ」と聞くと、「来週できます」と言うんですが、一週間たっても二週間たっても、いっこうに掲示されない。本人は「間に入っている広告会社に指示を出した」と言うのだが、宣伝ボードは空のまま。これでは仕事をしたことになりません。

 出身母体はセゾンですから、当然大きな広告代理店を使います。したがって、こんな仕事はみんな下請けに流れるわけです。担当者が下請けにちゃんと流していればそれでいい。でも、流していないから、看板はいつまでたっても掲示されない。でも、担当者は「私はちゃんと自分の仕事をしました」と言うわけです。西友だったら成立するかもしれない。でも、金のない中で宣伝費を出している良品計画のような会社にとっては、来週出るということなら、来週出ることがマストなわけです。その間に業者が何社はさまっていようとも、確実に一週間後に掲示するのが仕事です。

木村 小さな会社の仕事のしかたは、一部上場企業とは違うと。

松井 でも、そういう人たちが最初に出向・転籍してくるわけです。そうすると、経営者から見たら、総務担当も宣伝担当も基本的に役に立たない。僕はそんなことはしない。西友時代は言うことを聞かない奴だと思われていたけど、良品計画に来たら、松井がやると言ったらちやんとやる。目に見える結果が出る。そういう評価になって、結果的にスピード出世することになりました。成熟した企業と、これから伸ばしていかなければいけない企業には、やっぱりそれぞれ違いがある。

木村 何かをやろうとしたときに、部門間の相互不可侵条約みたいなのが働いて、自分の守備範囲ではないことには口出ししないというのが、大企業ではよくあるケースです。しかし、そこをリスクをとって行けるかどうか。
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他者の中途半端な認識

『援助関係論入門』より ⇒ 「他者は存在しない」とすれば、片付く問題では

一般に、対人関係とは、複数の人のあいだに何らかの相互作用が発生している事態をさしていますが、ここでは、二者関係に限定して、一方に「私」をおき、もう一方に「他なる人」(他者)をおいて、「私」と「他なる人」との関係性を素材に考察を進めていきます。

では、「私」にとっての「他なる人」とは、どのような存在なのでしょうか。

これについては、さまざまな議論が積み重ねられてきていますが、その要点の一つは、私にとって、他なる人の経験は直接的には与えられないということにあります。たとえば、痛みを例にあげると、私の痛みは、私に対して直接的に与えられ、私はまさに「痛む」ことになりますが、他なる人の痛みが私に直接与えられることはありません。

もちろん、その人が痛んでいることは、その叫びや表情、姿勢などから間接的に推測することはできます。しかし、私はその人の痛みを痛むことができません。したがって、私にとっての他なる人とは、その経験が間接的にしか与えられないような存在であるということになります。

このことを拡張していくと、他なる人が何を考えているのか、何をしようとしているのか、何をどのように感じているのか……などといったことについても、すべて私は直接的に知ることができません。もちろん間接的にうかがい知ることはできます。しかし、痛みについても、その人は痛いふりをすることができますし、考えていることや感じていることに対しても、嘘をつくことができます。私は、それを見抜けることもあれば、勘違いをすることもあります。

先にふれた、援助対象の主観的な側面については、本人に聞いてみなければ基本的にはわからないという事実にもつながります。

すなわち、他なる人とは、私の理解や把握を、推測や予想を、期待や予期をいつでも超える可能性を有している存在なのだといえます。理解できないわけではありませんし、予想がつかないわけでもありません。たしかに、期待した通りに動いてくれることもあります。しかし、他なる人の「他なる」ゆえんは、私の理解や予想に回収し尽くせないことにあるのです。

可変的な半透明性

 そのため、他なる人とは、私にとって、「半透明な存在」であるということができます。その人について理解できる部分もありますし、時間をかけて理解を深めていくこともできます。そういう意味では、まったく不透明な存在であるとはいえません。しかし同時に、理解し尽くすこともまたできないので、完全に透明な存在であるともいえません。

 また、私との関係において他なる人が有するこうした半透明性は、決して固定したものではありません。私に対してある人が示す透明度は、容易に変化しうるものです。たとえば、初対面のときは、その人のもつ透明度が最も低くなります。すなわち、見えている部分が少ないといえます。もちろん、まったく不透明なわけではなく、実際に、一目見ただけでも、私はその人について、性別や年齢層をはじめ、顔つきや背格好、声の調子や表情、服装や持ち物などから、必ずしも言語化できないものも含めて第一印象といったものを形成しています。

 そして、ことばを重ねていけば、あるいは、かたわらで見ていくうちに、第一印象が修正されたり強化されたりしながら、透明度も少しずつ高くなってはいきます。とはいえ、予想もつかない言動を目の当たりにして、一気に透明度が低くなることも少なくありません。

 このように、私にとっての他なる人とは、可変的な透明度をもった半透明性であるということができます。とはいえ、くり返し確認しておくと、その透明度がどれほど変わるものであったとしても、完全に透明となることはありません。他なる人とは、私の理解や予想を常に超え出る存在なのであって、不確定な側面を必ず残しているものなのです。

半透明な「私」

 ただし、他なる人ではなく、実は「私」もまた、私にとって完全に透明であるなどということはありません。自分でもある行為の動機が理解できないことはよくあることで、だからこそ、たとえば、自らその内実を知ることのできない無意識の存在が仮定されたりもしています。

 したがって、他なる人は、私に対してだけでなく、他なる人自身にとっても半透明な存在にすぎないことになります。しかし、過去にさかのぼったうえで動機や理由を明確にするという点では、たしかに限界を有してはいるものの、今何を感じ、何を考え、どうしたいと思っているのかといったことについては、本人に直接与えられているのであって、他なる人に対しては、やはりことばをはじめとするさまざまな手がかりから間接的に推測するしかありません。
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デマンド型公共交通の問題点

『地域の足を支えるコミュニティバスデマンド交通』より 安易にデマンド型交通を導入させない対策

コスト面

 昨今では、路線バスやコミュニティーバスでは、輸送力が過剰であるから、運行コストを下げるため、デマンド型交通を導入する動きが活発化している。導入した自治体を取材したところ、「路線バスやコミュニティーバス時代の4害り程度で運行が可能になった」という声を聞く。デマンド型交通には、輸送の安定性を担保するため、地元のタクシー事業者に運行を委託し、セダン型のタクシーが用いられる。

 デマンド型交通の利点は、筆者は以下の3点だと考える。

  ① 路線バスでは需要量が少なく、路線の維持・確保できない地域では、事前に予約することでタクシー事業者も空車を走らせることなく、確実な収入が見込める。また行政は、乗合よりも少ない費用で運行できる。

  ② 利用者にとれば、比較的低廉な費用でドアツードアの輸送が可能。

  ③ 新規に開設する場合、路線バスのようなバス停がなくてもよいため、開設しやすい。

 路線バスでは、需要が少なくて対応が難しい過疎地などでは、公共交通の切り札になる場合もある。

 一方、筆者は問題点も多くあると思っている。筆者がデマンド型交通は万能ではないと考えるのは、以下の理由が挙げられる。

  ① 登録や事前予約は面倒である。

  ② 利用者が増加すればコストが嵩む。

  ③ ドアツードア型のサービスに近づくと、行政が補助金を出して運賃を安くしているタクシーと同じになる。

  ④ まとまった予約などがあれば、輸送定員が少なく対応しづらい点がある。

  ⑤ 個別に対応していたのでは、乗合よりも高コストになる。

 登録や事前予約は面倒であるだけでなく、個人情報の管理の問題にもつながってしまう。また登録や事前予約を採用すると、非居住者はそのサービスを利用できなくなる問題が生じる。②に関しては、デマンド型の公共交通はタクシーメーターで表示された金額との差額を行政が負担するため、路線バスやコミュニティーバスのように利用者が増えればよいわけではない。利用者の増加は、新たな行政の負担となってしまう。

 ③に関しては、デマンド型の公共交通が便利過ぎると、タクシーやバスの利用者が、デマンド型の公共交通へ転換する恐れがある。導入するには、路線バスやコミュニティーバスでは経営面で成立しない地域であるなど、地域を選んで導入する必要がある。都市部では、道路が狭陰であるため、路線バスが運行できない地域もある。また1960年代に開発された住宅地では、起伏が激しくて高齢者がバス停までのアクセスに支障を来すような地域もあり、そのような場所ではデマンド型の公共交通を導入する動きもある。

 だがデマンド型の公共交通の利用者が増えた場合には、乗合タクシーに変えることなども計画段階から考慮しなければならない。

 ④⑤に関しては、デマンド型の公共交通は輸送定員が少ないことから、まとまった予約などがあれば、輸送力不足で積み残しを出す危険性がある。このような場合は、臨時便を出して対応しなければならない。④と関係するが、⑤で挙げる大都市近郊区間では、個別に対応していたのでは、車両や運転手も必要となるため、乗合よりも高コストになってしまう。路線バスやコミュニティーバスでは、輸送力過剰で対応できない地域などに限定する必要がある。

 デマンド型の公共交通を検討する際には、導入する地域や利用範囲、利用者を限定するなど既存のタクシーやバスとの役割の分担を十分に考え、問題点を抑えて利点を生かすための工夫が不可欠である。

「予約・登録証」がバリアになる

 デマンド型の公共交通は、従来の定時定路線型の乗合バスや乗合夕クシーとは異なり、需要がなければ運行されない。このことは、サービスを提供する側の視点で見れば「経費削減」として長所になるが、利用者の視点からは、利用する際に「事前予約」が必要となり、「登録証の提示」が義務づけられることが多い。

 「予約する」「登録証を作成する」という行為は、利用者に負担である。まず、定められた時間までに電話などをして予約をしなければならず、面倒である。急に利用したくなったとしても、予約時間を過ぎてしまっていたら、利用できなかったりする。

 三重県玉城町では、町民などに携帯端末を配布して予約しやすくしているが、利用者の9割は電話予約であり、その他は窓口に来て予約するなど、依然としてアナログのツールを利用した予約が多い。

 また「デマンド型の公共交通」とは言っても、導入する自治体により、システムは大きく変わってくる。従来の路線バスや乗合タクシーをデマンドに置き換えた路線があるタイプから、滋賀県米原市の「らくらくタクシーまいちゃん号」や三重県玉城町の「元気バス」のように、路線が定まっていない「面の交通」というタイプまで、千差万別である。

 そうなると居住者であっても、そのデマンド型の公共交通の特徴を理解していないと、利用しづらいと言える。

 別な見方をすれば、居住者であってもわかりづらく利用しづらい制度であれば、非居住者にとれば、わかりづらいだけでなく、利用を排除されてしまうことにもなる。「登録証」という制度は、居住者しか登録できないだけでなく、居住者であっても住所、氏名、生年月日、電話番号などの個人情報を登録しなければ「登録証」が公布されない。それらを他人に知られたくないために登録しない人もいるので、一種のバリアとなっている。

 三重県玉城町の「元気バス」の事例では、ワゴン車には電動車椅子などを乗せるリフトが装備されていないことも「登録制」を採用する大きな要因である。電動車椅子で利用する人はデイサービスなどの別の輸送手段に回ってもらう必要があるため、登録をする際には、社会福祉協議会の事務局で面談まで行っている。

 三重県玉城町でも、「登録制」が一種のバリアになることは認識しており、社会福祉協議会の賛助会員として、年会費1万円を支払った人に対しては、「元気バス」を利用できるようにはしている。玉城町にはアスピア玉城という温泉施設があることから、ここを訪問する人も多いため、このような方法で対応してもよいかもしれないが、その他の地域では、「非居住者用」として運賃を設定し、利用する意思がある人に対しては、サービスを提供できるようにする必要性を痛感している。

 これは「二部料金制」であり、居住者は住民税や固定資産税などで、デマンド型の公共交通を運行する際の「基本料金」に相当する部分を負担している。「元気バス」は、幸い無料で運行しているが、他の自治体などでは低廉ながら運賃を徴収している。低廉ながらでも、運賃を徴収している部分は「従課運賃」に相当する。非居住者は、基本料金(運賃)を支払っていないことから、居住者とは別に基本運賃に相当する金額を含んだ運賃を設定すれば、デマンド型の公共交通を利用したい非居住者にとっても、便利であるだけでなく、利用できる環境が提供されることになる。
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「私は私の世界」のネームプレート

寝てばかりいる

 寝てばかりいる。ここから何も生まれない。では、何から生まれるのか。エアコンから生まれるのかな。だから、すっと、エアコンの下にいる。

 もっと、中を出せるようにできないのかな。

教育変革から始める

 オンデマンドとかシェアというけど、それを従来の公共とかビジネスの範疇で考えていてはダメです。市民の覚醒が前提です。その部分をどう考えていくのか。

 やはり、教育変革からやっていくしかない。教育自体をシェアに変えていく。上から認められてやるとか、皆から認められてやるとか、では物足りない。それでは能力が発揮できない。自分ができるところからやっていけばいい。

「私は私の世界」のネームプレート

 考えるネタを作ってきて、ここまで来た。まだまだ足りない、まとまらない。なのに何故、こんなにダルいのか。

 「私は私の世界」のネームプレートを復活させましょう。スケジュール通りにやるのはダメだし、スケジュール内のもダメ。日常化。非日常があって、初めて、非日常がある。

 一日100項目位をICレコーダーに放り込むような生活。他者の世界ではなく、自分の頭の中の刺激。全てがトリガーであり、全ての答えは自分の中にある。

 「だから、どうなる」というのは他者の世界の論理です。私の世界ではない。私の世界をもっとハッキリさせよう。
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