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デイリープランナー

絶対、何かを忘れる!

 今回はマウスを忘れました。スタバでのインスピレーションの操作ができない。

 それでも、頁を開いた後の入力は確認できました。

デイリープランナー

 デイリープランナーに替えてみます。KDMで購入した一日1ページで、24時間のバーチカル仕様、To Do、メモ、今日の予定からなるものです。一日の前やることに対して、時間を割り当てる。

 何しろ、8時半には家から出ないと。多分、9時になってしまうけど。そして、10時過ぎまでスタバで、その後に図書館という生活にしてみよう。外でできるインスピレーションが確保できたのだから。

ニーズがあるから行動できる

 モーゼはユダヤの民を無理矢理、連れて行こうとしたのか? 皆が出たがっていたので、出てぢうするのかの答えを与えた。シナイ半島を流浪したけど、多分、そういうもんでしょう。何もないところから作るもんじゃない。
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OCR化した15冊

『唐木順三』

 〈未完成〉で〈活溌〉

  奉天へ
  ヘーゲルの肖像
  ペテロフ一家
  亡命者と流離人

 満洲教育専門学校

  風変わりな教師たち
  行倒日本帝国主義」
  学校存続問題
  信州に帰る

『日本の覚醒のために』

 一神教と国家は食い合わせが悪い

 国家と宗教の二つの共生の仕方

 国民国家としての求心力が弱い中東

 イスラームは世界的規模のグローバル共同体
 「相互扶助と喜捨」の倫理、「自助と自己責任」の倫理

 イスラーム共同体が台頭する
 「戦争ができる国になる」という政治妄想

『子ども格差の経済学』

 はしがき

 教育は公共財でもある

『メロンとスイカの歴史』

 メロンとスイカの現在と未来

  世界中で愛されているメロンとスイ力
  古い品種を復活させる
  日本のスイカとメロン
  未来

 菜園や市場で完璧なメロンやスイカを選ぶ方法

『ミルクと日本人』

 社会分化と関係アクター

 乳業の資源蓄積と社会分化

 社会的ラグ

 官有資源と導入アクター

 民間資源と出資アクター

 アクターの機能分化

 供給と需要の媒介アクター

 経済的供給と福祉的供給

『再起動する批評』

 マクドナルドから見るアメリカヘの憧れ

『企業統治』

 企業家と組織

  【事例】グーグル 夢が事業をつくる
   起業への助走
   「検索エンジン」対「ポータルサイト」
   専門経営者の採用とビジネスモデルの確立
   ナスダック市場上場
   未来への挑戦

 同族による統治

  トヨタ自動車
   略史
   豊田家との関係
  他の自動車会社でも

 非営利組織

  何のための、そして誰のための組織か

   非営利組織とは
   なぜ非営利組織は存在するのか?
   非営利であるということ--利益の非分配と公益性--

  日本の非営利組織

   日本の非営利組織の分類
   日本の非営利セクターの規模と役割

  非営利組織の例 特定非営利活動法人(NPO法人)

   NPO法人のしくみ
   NPO法人の実像

  非営利組織のマネジメント

   ミッションとその実現
   有給と無給スタッフによる組織とドナーからの支援

  非営利組織の統治

『シュレーディンガーの猫を追って』

 可能態としての可能なものをめぐる可能性

『ルーズベルトの開発責任』

 訳者まえがき

『トランプ時代と分断される世界』

 最後の砦・ドイツの試練

  自由や寛容さを尊ぶ経済大国
  寛容と葛藤と
  新しい難民施設の建設の陰で
  難民施設が生んだ〝不公平感〟
  「ドイツには感謝しかない」、難民たちの思い
  全国に広がる〝見えない衝突〟
  躍進する反難民政党AfD
  集会を取り囲む異様な空気
  ペトリ党首の「現実主義」
  「メルケル辞めろ!」VS.「ナチスは出て行け!」
  〝壁〟の町で

『医者は患者をこう診ている』

 〇八時二三分 ミスター・E・K(うつ病、自殺懸念)

『入門 公共政策学』

 問題--いかに発見され、定義されるのか

 モデルケース:少子化対策

 問題への注目--一・五七ショック

  「問題」が認識されるために
  注目される四つの要因
  問題注目のサイクル
  少子化対策の場合
  過去最低の合計特殊出生率
  少子化問題への注目のサイクル

 フレーミング--出生率低下の捉え方

  どのような問題と捉えるか
  言説の影響
  リフレーミングの効果
  少子化問題のフレーミングと言説
  「少子化」というフレームは適切だったか

 問題構造の分析--小子化の要因とその関連性

  問題要因の探索
  階層化分析
  ブレインストーミングとKJ法
  コーザリティの分析
  要因のループヘの注目
  少子化問題の構造分析

『自己意識と他性』

 自己意識と他性--結論

『ハイデガー『存在と時間』を読む』

 時間性

  死の発見的機能
  死へと向かう存在の全体化する機能
  気遣いの「意味」としての時間性1-三つの「脱自態」
  歴史の条件としての脱自的時間性

『ホモ・サピエンスの秘密』

 中東の荒野で、ホモ・サピエンスのある部族が1人の「ねたむ神」と出会った

  その神の名は「ねたむ神」

 一神教のキリスト教徒にとって「善悪」の区別は単純で迷いないもの

  神に従う者だけが「善」

 人類は想像の社会秩序として「階級」と「差別」を生み出した

  神話世界に根拠を求め、身分や階級をつくり出す
  異人種征服から生まれたインドのカースト制度

 人類共通の「穢れ」の概念が差別という秩序をつくる

  世界に共通する穢れの概念
  女性差別が生まれるまで←

 人々は、自分たちの「暴力」の避難場所に「国家」をつくった

  5000年前は暴力に満ちていた?

 人類は3000年近くもの間「帝国」と共に歩んできた

  帝国は民族や宗教を超える

 帝国は巨大なコンバインのように人々を収穫して帝国民に加工していく

  「帝国」というシステム

 20万年の進化を遂げてきたいま、私たち人類は幸福だろうか?

  幸せを感じられない日本人

 人々にとっての、次の「幸福」とはなにか、その答えは、脳がもっている

  「幸福」は脳が感じるもの
  性欲は「情動」で愛は「感情」
  脳には「情動」のスイッチがある
  「感情」は『情動』のあとに生じる
  「情動」はどこからくるのか

  多彩な「情動」の種類

  「快の情動」が「幸福」を生む
  「苦の情動」が「不幸」感を生む

  ヨーロッパ的『幸福』の制度疲労

  人間の感じる真の「幸福」とは
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人類は国家を作り、帝国を作った

『ホモ・サピエンスの秘密』より

人々は、自分たちの「暴力」の避難場所に「国家」をつくった

 5000年前は暴力に満ちていた?

  1991年に、イタリアとオーストリア国境のアルプスの渓谷で、1人の男性のミイラ化した遺体が発見されました。この遺体は氷河で凍結して見つかったので、後にアイスマンと呼ばれます。

  このアイスマンは調査の結果、約5000年前の新石器時代の人物で、年齢は25歳から40代半ばで、左肩に負った矢尻による傷がもとで死亡したと発表されました。

  彼の生きた時代は、人類が狩猟採集から農耕生活に移行する頃で、激しい部族闘争の時代と考えられています。アイスマンの登場は、その説を補強するものでした。

  歴史学者スティーブン・ピンカーは、先史時代の遺跡の調査と、先住民族の研究成果から、この時代は人類が最も暴力的だったと、著書『暴力の人類史』で述べます。

  ピンカーは、その当時の地球に生きた人間の数を推計し、その1人が生涯で暴力によって死亡する確率を計算しました。その結果は驚くべきもので、部族によっては60%に達し、平均でも15%にのぼりました。これはまさに、ホッブズの言う「万人の万人に対する闘い」の時代であったとピンカーは述べます。

  トマス・ホッブズは、17世紀のヨーロッパ啓蒙主義の時代に、「人間性悪説」を唱えた政治思想家です。人間は自然な権利として暴力を持っていて、その行使には歯止めがないと言います。人類が戦争を止められない理由として現在もよく引用されるものに、「ホッブズのパラドクス」があります。

  長く敵対する2人がいます。互いには強い不信しかありません。そんな2人が平和を求めて「相互不可侵条約」を結んだとします。しかし、2人は相手を信じることができません。常に相手の先制攻撃が不安です。そして、結局その不安に耐えられずに、どちらかが攻撃を始めてしまいます。

  この果ての無い闘いの世界は、人々を疲弊させ社会の安定はありません。そこで、人々は全員が納得して、自らの暴力の行使の権利を委ねられる、世俗を超越した権威をもつ存在を求めました。

  ホッブズは、その存在を理想の政治共同体として「リヴァイアサン」と名づけます。この「リヴァイアサン」に自分たちの支配を委ね、違反者の制裁、武力の行使も国家のもつ暴力に委ねます。これで人間は互いの果てのない闘いに終止符を打った、とホッブズは考えたのです。

  ピンカーは、人類がこの国家制度を持ってから、暴力死は3%にまで激減したと前掲書で結論づけています。

  しかし、この説には当然異論もあります。国家が誕生したことで、新しい暴力が生まれたのではないか。アイスマンの知らない未来、ホッブズも予測しなかった未来の「国家」は、その後どうなっていったのでしょうか。これから、それを見ていきましょう。

人類は3000年近くもの間「帝国」と共に歩んできた

 帝国は民族や宗教を超える

  メソポタミア北部に興ったアッシリアは、強大な軍事力を武器にして近隣諸国を次々征服。紀元前7世紀前半、メソポタミアとエジプトという2大文明圏を含む古代オリエントの統一を果たしました。これが人類初の帝国、アッシリア帝国の誕生です。

  帝国とは、複数の国や民族を含む広大な地域を統治する国家のこと。民族や宗教によって束ねられた国家から、民族や宗教を超えた帝国へ。これこそ人類が領土拡大の野望を叶えるために創出した新たなテリトリーの概念でした。ひとつの国家を丸ごと乗っ取り、そこに住む人々が異民族であろうと異教徒であろうと吸収して均一化する。まるでゲームのような国とり合戦が、幾多の帝国を生み出しました。

  なかでも地中海世界の覇者となったローマ帝国は、キリスト教を国教に掲げ、その後のヨーロッパ世界に多大な影響を及ぼします。一方、中東ではアッバース朝からオスマン帝国へと続くイスラム勢力による帝国が一時代を築きました。

  15世紀に始まった大航海時代は、帝国の版図を一変させます。陸続きの領土から、海を越えた領土の獲得へ。ヨーロッパ列強は、こぞって海を渡り、アメリカ大陸やアジア、アフリカ、オセアニアなどに侵攻。次々植民地を獲得しました。とりわけイギリス帝国は、最盛期には史上最大の領土をもつ巨大帝国にまで発展。日本もまたアジア太平洋地域に植民地を求め、大日本帝国の名を標榜していた時代がありました。

  第二次世界大戦後、多くの植民地は独立し、帝国の時代は終焉したかに見えます。しかし帝国を名のらずとも、社会主義政権のもとで異民族を束ねたソ連邦を「社会主義帝国」、他国の政治に干渉して軍隊を送りこむアメリカを「アメリカ帝国」と呼ぶこともできます。ヨーロッパ再統合を目指すEUを、ゆるやかな帝国とみなすこともできるでしょう。こうして見ると、人類の文明の歴史は、帝国の歴史でもあったのです。

帝国は巨大なコンバインのように人々を収穫して帝国民に加工していく

 「帝国」というシステム

  人類が作った帝国には、それを運営するための仕組みがありました。それを仮に帝国システムと呼びましょう。この帝国システムの中心にあるのが、国家です。現在多くの政治学者は、人々が自らの暴力を国家に委ねることで、国家が誕生したと考えています。

  この国家は自らを維持するための、基本的な機能を持っています。ひとつは国民からの徴税です。この徴税を遂行するための細かな決め事と、その違反に対する罰則も必要です。この決め事は「法律」と呼ばれます。この法律遵守の強制力として、国家は警察・軍隊をもちます。このとき使われる暴力は、国民が国家に委譲したものです。

  国家にはさらに、この大きな3つの機能を、効率的に動かす人々が必要です。この人々は「官僚」と呼ばれます。

  国家は、この3つの機能と官僚たちで作られます。これは「国家装置」と呼ばれることもあります。この「国家装置」は、1台の自動車ともたとえられます。運転席に誰が座っても、エンジンをかければ国家は動きます。政治体制も人格も関係ありません。アメリカの大統領がオバマからトランプになっても、アメリカという国家装置は、ドライバーに忠実に動きます。どの国の「国家装置」も基本は同じです。

  ここまで、国家を成立させる3つの機能と1つの組織をあげましたが、実は最後に最も大切なものがあります。それは「国境」です。

  この「国境」も国家同様に、人類の想像力の産物です。現在のように、地図上に明確な国境線ができたのは17世紀です。それ以前は、国家が統治する人々のいる地域、くらいの曖昧なものでした。その先は無人の辺境です。その辺境の先には、異境の人々の住む土地があります。

  帝国システムとは、この「国家装置」の前に、人々を収穫するコンバインのような装置をつけたものとも考えられます。この帝国システムは、国民となる人々を求めて前進を続けます。辺境を越え、新しい共同体に侵入し、そこで収穫した人々を「国家装置」に送りこみ、出てくるときには、立派な帝国の国民に加工しています。

  ローマ帝国は、このように、バラバラに点在していた人々を国家に組み入れているうちに、ついにはイギリスまで辿りつくほど巨大化していたともいえます。

  「帝国システム」の通過した後には、共通の政治権威のもとで、共通の言語を喋り、共通の法律を守り、共通の通貨を使い、時に軍隊にとられて兵士ともなる、そんな「帝国民」が誕生していました。
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時間性は、死によって顕わとなる

『ハイデガー『存在と時間』を読む』より 時間性

現存在の構造的全体に対する最初の名称は世界内存在でした。これは「余りに形式的」であったため、気遣いという第二の名称によって、置き替えられはしませんが、深められました。気遣いは超越する構造の内的複合を、現存在の実存する構造を、「充填」します。それは世界内存在を多くの実存在へと発散させましたが、それらの一部しか私は展開させていません(なかでも「理解」は後のコンテクストにおいて再び取り上げねばならないでしょう)。とりわけ、「気遣い」は「世界内存在」にはできなかったある事柄を指し示します。それはつまり、現存在はつねに自らに先んじているということであり、これに対応して、現存在は決して「完結」しないということが意味されています。「現存在が存在者として在る以上、それは自分の「全体」に決して到達しない。それを獲得するとき、その獲得は端的に世界内存在の喪失となる。現存在はもはや存在者として決して経験されることができないのである」。またもや、欠如的様態が実存論的構造にとって啓示的なのです。時間性は、存在者としての現存在のまったき無化すなわち死によって顕わとなります。

自分自身に先んじる私たちの存在にとっての一般的な名前が気遣いであるのなら、この概念をより明示的にする道は、死をより詳細に見ることでしょう。「気遣い」が「世界内存在」を具体化すると言われたのと同じ仕方で、私たちは「気遣い」のひとつの具体化を死の実存論的分析から期待することができます。現存在は具体的に、〈いまだーない〉への観点からある態度を受け入れます。「最も極端な〈いまだーない〉は、現存在がそれへとある態度をとっている何ものか、という性格を持っている」。死はもしかすると他の何にもまして、たとえそれが遠く離れているとしても、まるでひとつの対象であるかのように扱われうるのかもしれません。葬送の「儀式」があれほど重要なのはこのためです。それは自分がまさに生きているということを私たちに証明し、死がただ他者にのみ起こる何かだということを証明します。「実存論的」分析は、こうした死の具象化に甘んじることはできません。「死はいまだ眼前にないものではなく、極限まで切り詰められた最後の残りでもない」。葬送の「儀式」のような態度を、あるいは私たちが末期の患者を扱う仕方(病院の特別な区画へ彼らを閉じ込める)や私たち自身の死をたんにその日付に関して扱う仕方(それがいつ来るか尋ねる)を見ればー私たちに自ずとわかるのは、死に面しての極めて限定された態度があるということ、そして私たちがそれを不断に扱っているということです。

死は、それがなければ私たちは現にそうしているようなこともできなくなるだろう、つまり時間を追い駆けながら立ち回ったり「時間を失う」ことについて話したりすることもできなくなるだろうというほどの存在感を持っています。これらすべては、異なった色合いにおいてではありますが、シモーヌード・ボーヴォワールの『人はすべて死す』でも展開されています。彼女は、死を免除されたある男を描いています。彼は他者たちに連れ回されるが行動せず、完全に無定形であるのですが、この物語の教訓は、死の緊迫が行動を促すものだということです。より構造的なハイデガーの解釈においては、死はある「切迫」です。「切迫しうるのは、たとえば雷雨、家屋の改築、友人の到着などであり、それらは眼前に、手許に、あるいは共に現に在る存在者である。[しかし]こうした様式の存在を、切迫しつつある死は持っていない」。そうではなく、死は現存在の「最も固有な可能性」です。「死は現存在自身がそのつど引き受けなければならないひとつの存在しうることなのである」。

ここで賭けられているのは現存在の先-構造です。先握・先視・先持は、現存在がつねに自分自身に先んじているということを露わにしていました。したがって必要なのは「終わり一般と全体性一般の形式的な構造を明らかにする」ことです。死は次の二つの問いに答えます。現存在はいかにして究極的に(その終わりへと向けて)自らに先立っているのか、そして現存在はいかにして究極的に全体でありうるのか。これら二つの問いが世界内存在と気遣いの分析から生じるということは、明らかでしょう。この二つのコンテクストにおいて、〈いまだーない〉と〈全体で在る可能性〉とが実存論的な規定として現れるのです。

それでは、死を実存論的に--すなわち他の諸構造もそのように理解されてきた仕方で理解するということは、何を意味するのでしょうか。間違いなく、たんにやって来る何ものかとしてではありません。〈いまだーない〉は現在の瞬間への連関を指し示しています。私が死ぬことが「いまだない」のは、いまです。しかしこの〈いまだーない〉は些細な事柄ではありません。反対に、この切迫する性格において、死は現前的で在る。私の最も固有な可能性として現前するのです。だからそれを、いつの日かどこかで何かのせいで現存在が終了することとして単純に理解すれば、死が実存論的に理解されることはありません。「死によって考えられている終わりが意味しているのは、現存在が終わりに到っていることではなく、この存在者の終わりへとI向かう’存在である」。したがって死は、どこでどのように実存していようと、現存在のある構造的な規定なのです。「死とは現存在が在り始めるや否や引き受けねばならない存在の仕方である」。

終わりへと向かう存在の発見的機能とは、現存在の時間性を露わにすることです。この分析において時間性が発見される仕方は注目すべきもので、それは過去の想起や記憶を通じてではなく、運動やその前後に従う数を観察することを通してのことでもありません。時間の発見に寄与するのは死の切迫であり、アリストテレスの『自然学』における図式でもアウグスティヌスの『告白』における図式でもないのです。もしも『存在と時間』のなかで実存躊としての誕生が何かしら認められているとすれば、それは死へと向かう存在のおかげであってそれ以外ではありません。このことは重要です。誕生とは、私たちがそのうちに立っている伝統の事実性であり、私たちが生まれ落ちる家と国そして私たちに根差す共同的で歴史的な遺産の継承です。私たちがそれらを何とか断ち切ろうとする場合でも、そうなのです。存在の時間性は基礎存在論の頂点ですから、死の分析は主要路の上における準備です。それが準備するのは現存在の時間性であり、これはこれで存在そのものの時間性を思考可能にするはずでした(それが『存在と時間』において果たされなかったのは確かですが)。

ハイデガーは終わりへと向かう存在の主な特徴をこう言って性格づけています。

 死とともに、現存在自身は自らに最も固有な存在しうることに直面する。この可能性において、現存在にとっては端的に世界内存在が懸かっている。それの死とは、もはや-現存在‐でき-ないという可能性なのである。この可能性として現存在が自分自身に直面するとき、現存在はそれの最も固有な可能性へと完全に差し向けられている。こうして自らに直面している現存在にとっては、他の現存在とのあらゆる関わりが失われる。この、最も固有で係累のない可能性は同時に最も極端なものでもある。存在しうることとして現存在は、死の可能性を追い越すことができない。死とは、絶対的な現存在不可能性の可能性なのである。こうして死は、最も固有な、係累のない、追い越しえない可能性として明らかになる。

死は私の最も固有な可能性である、つまりそれはつねに私のものである、ということになります。死において私は、少なくとも、世人としての他の皆がするようなことはできません。誰も「ひと皆が」死ぬように死ぬことはできないのです。それゆえに、死はまた終わりへと向かう存在における係累のない可能性です。死において、私は他者と関わることがない。私はつねに再び死自身へと投げ返されている。死は真っ先に常識の日常的領域から絶縁する。それはひとつの超越する契機ですが、日常的な世界へは向かいません。むしろそれは、私の最も固有な可能性として、私を私白身の自己へと引っ張る超越であり、自己所有と自己本来化という超越する運動です。それは「追い越されることができない」、つまり終わりへと向かうこの存在よりも包括的なものは何もない。それは誕生から死までを「我がものとして」います。最も固有な、係累のない、追い越しえない可能性という、これら終わりへと向かう存在の三つの規定は、あらゆる存在理解にとっての死の重要性を示しているのです。「現実性よりも高いところに可能性は存している」。しかし、最高の可能性はつねに私たちの先にあります。それはすべての無化というかたちにおいて全体に成る可能性、すなわち死です。

終わりへと向かう存在の発見的ないし啓示的な機能が第一の近似において提示するのは、死が私たちの時間性を開示させるということであり、その提示の仕方によれば、時間の主要な特徴はいまだないもの、先にあるもの、つまり未来だということになります。未来とはさまざまな出来事の到来ではなく、「到来しつつ」あり切迫しているのは、現存在自身なのです。「死へと向かう存在が[…]現存在の存在に属しているとすれば、それが可能になるのはただ到来的なものとしてのみである」。この到来は企投の基本的な特徴です。「到来に根拠づけられた「自分自身のため」に向けた自己企投は、実存性の本質性格である。実存性の第一次的な意味は到来なのである」。

しかし、死は現存在の先‐構造や到来を指示するだけではありませんーそれは現存在の時間性にとって発見的であるだけではない。この意味で、分析にとって死は不安よりもさらに中心的です。死はまた、現存在の可能的な全体性もしくは完結性とも関わっているのです。
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レヴィナスによる自己意識と他性

『自己意識と他性』より 自己意識と他性--結論

本書の目的のうちの一つは、自己意識と他性の間の関係性に光を当てることであった。しかし、先に、私はいくつかの異なる類型の自己意識を区別し、分析してきたのに対して、他性概念はこれまでかなり非体系的に用いられてきた。いろいろな種類の他性が存在し、もしどの程度自己意識がそれによって影響されるあるいは条件づけられているのかを探究したいならば、どの種類の他性を指示しているのかを精確に特定することか必須である。

しかしながら、私の論述から明らかになったはずであるように、私は、三つの根本的に異なる類型の他性を区別することか可能であると考える。すなわち、(一)非自己(世界)、(二)他者としての自己自身、(三)他者の自己という形式での他性、である。しかし、他者の他性とは別の類型の他性が存在するという提案は、レヴィナスによって(主に『存在とは別の仕方であるいは存在の彼方へ』に先立つ著述において)異議が申し立てられてきた。

レヴィナスによれば、私が生きている世界は、すべて私とは異なる対象に満たされた世界であり、それゆえ、それはすべてある一定の他性によって性格づけられる。私はこうした対象に異なる態度で、実践的態度と同様理論的態度で遭遇し、こうした対象を扱う。しかし、私がそれらを研究し、購入し、仕事で使うとき、異他的なものや異なるものを馴染んだものや同じものへと絶えず変貌させ、それによってそれらにそれらの異様さを失わせる。志向性は、私を異他的なものに関係づけるけれども、非相互的関係性である。それはけっして私を家から離れさせない。レヴィナスが論じるように、認識する主観は有名な賢者の石のように作用する。すなわち、それはそれが触れるあらゆるものを変えるのである。それは異他的なものを吸収し、その他性を無効にし、同じものへと変貌させる。

レヴィナスによれば、世界と世界内的存在者の他性も自己のうちに内的に見出すことができる他性もすべて純粋に形式的な類型の他性である。それらはすべて主観によって思考し、同化し、吸収することができる差異であり、それゆえ、主観によって支配され、制御され、構成される全体性に固有かつその内部にある差異であり続ける。

レヴィナスは、一方で、否定性と差異と、他方で、本当の他性との間の差異を強調しなければならないことを確かに明らかにする。伝統的形而上学(スピノザとヘーゲル)において、否定性は(自己)規定のために必須であるが、否定性は止揚することができ、それによって全体主義的体系に同化することができるのに対して、真の他性についてはこうは言えない。「もし他者を所有し、把握し、認識することができたならば、それは他者ではないだろう」。他者が主観性に関係づけられた、相関している、依存するものとみなされるかぎりで、主観によって吸収することができるあるいは主観に統合することができる何かであるかぎりで、真の他性は扱われておらず、内的差異の戯れか扱われているにすぎない。

レヴィナスによれば、西洋哲学は他性に対するこうした態度によって性格づけられてきた。西洋哲学は、打ち勝つことができないアレルギーによって、他者であり続ける他者に対する恐怖によって苦しめられており、したがって持続的に他性を同性に還元しようとしてきた。だから、レヴィナスにとっても同様に、西洋哲学は存在論的一元論と批判されるだろう。換言すれば、差異は同一性に還元され、超越は内在に還元され、他者は同に還元されてきたのである。

レヴィナスにとって、真の、根底的他性は他者のうちにのみ見出すことができる。「絶対的他とは他者である」。他者の他性はそれを私から区別する性質を所有することに存するのではない。この本性の区別は、他性を無効化するだろう種類の基礎にある類似性と比較可能性を含意するだろう。だから、それは、レヴィナスが同と他の間の区別は単純に全体性の暫定的断裂ではないと強く主張するとき、あるいは、彼が、同と他がどんな仕方であれ絡み合っているということを否定するとき、何ら驚くことではないはずである。

レヴィナスによれば、他者との真の遭遇は概念化やカテゴリー化することができない何かの体験である。それは、内面性に還元不可能である、全体的かつ絶対的な他性との関係である。それは、単に主観によって吸収されるのではない何かとの遭遇、単純に触れられず、動かされず、変化しないままにされるのではない何かとの遭遇である。反対に、根底的他性との真の遭遇は、私の基礎そのものにおいて私を圧倒し揺さぶる遭遇である。レヴィナスの独創性は、正義と不正義の問題をわれわれに他者への原本的、非還元主義的取り組みを提供すると捉えていることである。他者との真正の遭遇は、知覚的あるいは認知的ではなく、本性上倫理的である。他者が私を問い、私に対して倫理的要求をなす倫理的状況においてこそ、すなわち、私が他者に対する責任〔応答可能性〕を想定しなければならないときこそ、他者は非アレルギー性の仕方で現前的である。他者との真の遭遇は、他者の主題化ではなく、他者に対する非無関心である。

私は、他者の根底的他性を強調しようと望んでいるかぎりで、レヴィナスは正しいと考える。われわれが他者に直面する際に、われわれはまさに還元不可能な類型の他性に遭遇している。だから、私自身における他性と世界内的対象の他性とを他者の他性と明確に区別するべきであり、単純に一にして同じ他性の三つの異なる変奏が扱われているという提案に反論することが重要である。私は対象を露呈し規定することができるのに対して、他者は私の認識から逃れ、けっして私に対して真に現前的になることはない。他者はどんな対象とも違っているだけではなく、異的であり、はるかにずっと根底的種類の超越を所有しているのである。しかし、このことを承認することができ、世界の他性と自己における他性が真正の類型の他性であり、単に主観によって制御される内的差異の戯れではないとなお強く主張することができる。反対に、それらがまさに主観性の自己構成のために必須の類型の他性なのである。
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