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フィンランドとソ連のあいだに危険な瞬間

限りなく完璧に近い人々』より ロシア

フィンランドとソ連のあいだに最も危険な瞬間が訪れたのは、一九七八年だろう。「ソ連とフィンランドで合同軍事演習をしようという提案が持ちかけられたのです」コルベ教授は思い出す。「フィンランドの政治家は『うちの部隊がおたくの部隊のうしろについて行くとか、おたくの部隊をうちの部隊の後方に派兵するくらいにして、お互いの軍隊を混ぜるのはやめておきましょう』と言って、うまくかわしました。冷戦時代はずっと、外交による侵略、つまり見えない侵略の危険にさらされていました」

そうした水面下における侵略の試みは、さまざまな形でおこなわれたが、なかにはイーリング喜劇のようなものもあった。当時のことを思い出して、「ホーム・ロシアン」という異常な現象について語ってくれる人が何人かいた。これは鉄のカーテン版バディシステムとでもいうようなもので、フィンランドの政治家や体制側の人間が、釣り合う立場のソ連の人間とペアを組む制度だ。

「ソ連大使館はもちろん強大な権力を持っていましたし、フィンランドの政治家には全員に『ホーム・ロシアン』、つまりソ連の外交官が一人ずつついていて、とても親しい付き合いをしていました。自分の別荘や家族の集まりに招くような関係です」コルベはそう表現した。

この関係は相互に有益だった。「ソ連はフィンランドがなにをしているか、知識階級や政治家がなにを考えているか、情報収集をしていました。でも真の目的がなんだったか、みんな承知していました」とコルベは言う。ソ連は、フィンランド人が仕事でロンドンやニューヨークに行って仕入れてくる情報をとりわけ重宝したそうだ。

ニール・ハードウィックがフィンランドに来だのは、冷戦が最も厳しい時代だった。私が泊まっていたホテルのバーで、当時のヘルシンキの想い出を話してもらった。「四〇年前のヘルシンキには東欧の趣が強かったですね。基本的には、義稗づけられていること以外はすべて、禁止されていました」彼は笑った。「ホテルのバーのような場所に行くのは、ひと苦労でした。外に列を作って並び、入口にはドアマンがいて、お酒は買えますが、友人を見つけたからといって別のテーブルに移ることはできません。自分のグラスを持って勝手に移動してはいけないのです。ウェイターに頼んで持ってきてもらわなくてはなりません。窓にも目隠しの覆いが掛けられていました。酒を飲んでいる人たちが通行人から見えないようにするためです」

一般のフィンランド国民の生活におけるソ連の影響は、絶大だった。国営ラジオでは、「近隣諸国のできごと」的な番組が毎日一五分間流れ、その内容は、ハードウィックいわく、「ソ連のソフトなプロパガンダ」満載だったそうだ。また各家庭には、ハウスブックなるものを保管し、家族全員の名前だけでなく、訪問者も逐一記録することが義務づけられていたそうだ。毎年一月、家族の誰かが地元の警察に(ウスブックを持って行って並び、内容をチェックしてもらい、スタンプをもらわなくてはならない。これを怠れば罰金が科されたそうだ。

メディアや出版業界は、ソ連の神経を逆なでするような内容の報道をしないよう、つねに注意を怠らなかった。「先輩の話では、外交方針についてはとくにデリケートだったようです」ヘイッキ・アイトコッスキは、そう語った。「新聞社は外相から強い圧力を受けていたそうです。フィンランドが独立国家でいられるか否かは、モスクワの一存にかかっていることを、基本的には誰もが承知していました。ですから、たとえば反ソ的な書籍は図書館から撤去されました。ゴルバチョフがヘルシンキに来て、フィンランドは中立国家だと発言したときは、大ニュースになりました。今日なら、『だからどうした。フィンランドはもともと自由国家じゃなかったのか?』と思うでしょうが、当時は大見出しで紙面を飾りました。ゴルバチョフは『独立国家』だと言ったのではありません。『中立』、つまりソ連圏の一部ではない、と言ったのです。『君たちは自由だ、好きなことをしてよい』と」(アイトコッスキは触れなかったが、一九九一年にゴルバチョフが誘拐され、退陣させられたとき、『ヘルシンギン・サノマーツ』紙は、そうなって良かったという趣旨の社説を掲載した。明らかにソ連共産党政治局の機嫌を損ねないよう配慮した論調だった)。

そのような配慮をするのも無理はない。冷戦時代の大半、フィンランド国境にはソ連の戦車がずらりと並んで発進命令を待っていたのだから。それに、仮にソ連が侵攻してきたら、誰がフィンランドを助けに来てくれるというのだろう。ヘアネットをかぶったスウェーデン軍か? それとも非武装化されたドイツか? フィンランドはアメリカからはあまりに遠い。だからフィンランド人は自分か最も得意とすることを実行したまでだ。理念よりも現実を優先し、プライドを飲みこみ、頭を下げて、やるべきことをこなす生き方に適応していったのだ。口に出してはならないことが飛躍的に増えていったことは、想像に難くない。

これまでの軍事的敗北、国内を分裂させた紛争、実用主義の必要に迫られて自主性を抑えてきたことなどは、フィンランドの自尊心を深く傷つけたに違いない。そして一九八九年に鉄のカーテンが崩壊すると、フィンランドはほぼ破産状態になって残された。ソ連が分解してしまうと、フィンランドは最大の貿易相手国を失った。輸出は激減し、数カ月のうちに経済は一三パーセント縮小した。一九九〇年代は、二〇世紀にさんざん経験してきた辛苦の数々を再び繰り返し、傷をなめつづけた長い一〇年間だったに違いないと想像する。

「いやいや、とんでもない。その時代はフィンランドのサクセスストーリーだよ」私の意見を聞いてローマン・シャッツは言った。「今ほどフィンランドの人口が増えた時代はない。ぼくはフィンランドの歴史が苦しみと占領の連続だったとは思っていないよ。一九一七年に独立して以来、フィンランドは国や文化を築くために必要なものをすべて手に入れてきたんだから」

だからこそ、フィンランド人は実利的な国民と言われるわけだ。だがこの一〇〇年間にフィンランド人の魂にはどのような影響があったのだろうか。「フィンランド人は実利的に生きざるを得ないんだ」シャッツは言った。「氷点下四〇度の気温のなかで暮らし、クマもいるんだぜ。二〇万個の湖や八ヵ月も続く冬に対応できれば、ロシア人なんか恐くないさ。フィンランド人には抜け目ない生存本能がある。ぼくに言わせれば、フィンランド化[ソ連に関する事柄について自己規制すること一は肯定的な言葉だ。なぜならこの状況に対応できる唯一の方法なんだから」

「自分たちが犠牲者だという感覚は、コ度も持っていません」コルベ教授も同意見だ。「一度も占領されずに済んだことが、フィンランドにとっての成功ですから」

だが実利主義にロマンは見出しにくい。現実主義的な政治路線に誇りを感じるのは難しいし、煙の立ちこめるクレムリンの一室で秘密の情報を交換したり、ハンコの別荘でロンドンで仕入れてきた情報を渡したり、ソ連大使館のクリスマスパーティーでスモークサーモンとウォッカを交換する男たちを英雄扱いはしにくい。そういう意味では、フィンランド化という言葉もまた、長年、フィンランド人との会話で口にできない数多くの話題の一つであったことは、驚くにはあたらない。

現在のフィンランドメディアはロシアをどう扱っているだろう? たとえばプーチン大統領は最近、フィンランドが現在、議題に載せているNATOの兵器の配備を許可したら、「報復措置」を取ると脅していた。フィンランドの新聞は、今でもロシアの指導者に対して尊敬の念を持って接しているのだろうか。「いえ、ロシアに対するバッシングを抑制することはありません」とアイトコッスキは言った。「私たちはもはや親ロシア派では決してありません。ただ、プーチン政権が邪悪で好戦的になったらどうなるか、という潜在的な脅威はつねにあります。そうなったら明らかにフィンランドはそれほど安全ではなくなります。なぜならフィンランドはロシアに近すぎますし、歴史書を読んだことのある者なら誰でも知っているように、一〇〇パーセント確かなことなどないのですから、心の底から安心することはできませんよ」
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