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農本主義 資本主義が終わっても心配することはない

『農本主義のすすめ』より 資本主義の限界--反経済の思想 資本主義への違和感 なぜ農は資本主義に合わないのか 人間は経済で生きているのではない

・資本主義の行き詰まり

 ここに来て、資本主義の行き詰まりが外からの視点で次々と明らかになっています。農に関してのみ、私が考える問題点を列挙してみましょう。

 ①働き手が激減しています。

  もちろんこれは人口のように「自然減」ではなく、農業の近代化によって「離農」が促進された成果です。ところが担い手不足は深刻で、「無人トラクター」の研究に税金が投入されているのですから笑ってしまいます。大規模化して生産性をあげないと後れをとると説く資本主義的な経済学ではこうなるのは見えていたはずです。

 ②共同体でかろうじて守られています。

  農家が集まって共同経営する「集落営農」という形態が勧められていますが、コストを下げるために組織したところはうまくいっていません。うまくいっているのは、地域を守ろうとする愛郷心(パトリオテきスム)によって、一人一人の百姓が手入れを分担している組織です。つまり資本主義的な尺度ではなく、天地有情の共同体への情愛で支えられている集落営農は頑張っています。

 ③イノベーション(技術革新)は限界です。

  低コスト、労働時間の短縮を目指してきた近代化技術の技術革新は限界です。とっくに天地自然は傷ついて悲鳴をあげているのに、鈍感な専門家だけが、まだまだイノベーションはできると意気込んでいますが、もう危険領域です。たとえば無人トラクターはトラクターに労賃を払うつもりでしょうか(機械代として支払い済みだと言うでしざっ)。あるいはトラクターに天地自然に没入する喜びを感知するAIを装備するつもりなのでしょうか(科学の進歩でそれも可能だと言うでしょう)。

 ④天地自然の悲鳴がとどろいている。

  東日本の秋空に群舞した赤とんぼ(秋茜)が激減しています。がっては東京駅の前でも飛んでいたのに、近年では見られないようです。西日本の赤とんぼの大多数を占める精霊とんぼ(薄羽黄とんぼ・盆とんぼ)は毎年東南アジアから飛来して田んぼで産卵しますが、飛来数が毎年とても不安定になっています。福岡県では、殿様蛙も薔蛙も赤蛙も、赤腹井守も田螺もどじょうも、源五郎も田亀も太鼓打ちも、絶滅危惧種です。絶滅危惧種ではありませんが、雀も目高も平家ボタルも激減しています。

  あれほど、どこでも見かけた生きものが姿を消そうとしているのです。「それは生態系保全の課題であって、農業経済の課題ではありません」と言い放つ経済学者には唖然とします。

 ⑤所得はもういい。

  日本政府が農業の「所得倍増」というスローガンを言い出したのには、驚きました。所得を増やそう、経済効率を追求しょうとこれまでやって来た結果が、荒れ放題の田畑や山や風景や生きものたちの姿なのだから、これからの政策は経済価値の追求ではなく、非経済価値をどのように評価して、国民のタカラモノにするかという政策を構想・立案しなくてはなりません。ようするに内からのまなざしが決定的に欠けているのです。

  経済学も、非経済価値を「外部経済」として把握しようと必死になっています。把握できて、金額で評価できるところはやふてほしいと願いますが、し上せん経済では把握も評価もできない世界が多いのは目に見えています。少なくともそれはどういう世界なのかを明らかにする経済学もあっていいでしきっ。その点では、ヨーロッパの農業政策には見るべきものがあります。

  大雑把に言うと、EU諸国の百姓の所得の三分の二は、税金で賄われています。それは「日本農業は過保護だ」というょうな見方を覆すばかりか、そのょうな過保護か過保護でないかというような議論を根底から否定するものです。農の経済価値ではない、自然環境や風景や国防の役割を評価しても、その対価は市場では得られないから、住民の公的な負担(税金)で支えようとする政策が実施されているのです。

 ⑥地域がもたない。

  資本主義の先進国でも、日本のように田舎の過疎化が激しい国はありません。それなのになぜ日本だけが、人口が都市に集中したのでしーっか。理由は二つあるような気がします。

  一つめは、早く資本主義の先進国に追いつくために、経済価値のないものを踏み台にしたからです。自然環境をタダどりできたからこそ、戦後の高度経済成長は実現できたことは明白です。多くの農地や里山がエ場用地や住宅地、近年では大型のショッピング街に転用されたことを見ればいいでしざっ。土地代は支払い済みでしょうが、開発で失われた天地自然のめぐみは賠償されないままです。

  二つめは、非経済価値をきちんと評価する政治と価値観を形成しようとしませんでした。風景や自然環境はタダのまま過ぎてきました。EUのように風景や自然環境に対して、対価を払う「環境支払い」という農業政策が遅れているのは、その証拠です。

  現代日本の村は、非経済価値のタカラモノがどんどん滅んでいっています。

 ⑦非経済価値を表現できない。

  農業の語り方は、資本主義的になりすぎました。圧倒的に社会を覆う「経済」にすり寄った外側からの語り方が主流になっています。日本農業の生産額は八兆円、しかし農家の手取りは三兆円。稲作の労働時間は一〇アール当たり二五時間で、三〇年前の四割に削減できた。水田の農業粗収益は八万円だが、経営費が六万円だから、農業所得は二万円二〇アール)である、というような語り方です。

  経済至上主義に対抗するためには、非経済価値を心を込めて語らなければなりませんが、せいぜい「多面的機能」という借り物の用語で語る程度です。本気で内からのまなざしで、今年は赤とんぼいっぱい生まれたよ、平家ボタルが増えてきたよ、田んぼを渡る風はとても涼しいよ、と語って聞かせる時代になっているのに、対応できていません。

  百姓はまだまだ経済で語れば、経済で反論されることに懲りていません。百姓たちのTPP反対運動が、ほんとうに共感を得られていない理由は、国内では経済競争しても外国とは経済競争したくないという論理の破綻があるからでしざっ。農は資本主義に合わないことをしっかり表現してこそ共感の輪は広がるのです。

・資本主義が終わった後

 高度に発達した資本主義が、仮に大混乱の中で終わったとしても、たしかに投資している人は大損害を被るでしょうし、金融経済などは消滅するでしょうが、実体経済の市場はなくなることはないでしょう。範囲を狭めながらも地域に根ざして機能するようになるはずです。

 農にとっては、資本主義の終焉は歓迎したいことがいっぱいあります。いくつか大事なものを列挙してみましょう。

 ①自給経済の復活。食料だけでなく、商店、職人などの仕事、エネルギーなどの地域自給が本格的に戻って来ます。

 ②市場は、小さく分割され、地域に根ざしたものになる。

 ③生産性の追求は過去のものとなり、効率よりも生産の内実が評価される。

 ④産地間競争は終わり、地域自給を土台とした狭い範囲の流通が主流になる。

 ⑤「農政」は地域に移され、国の農政は、非経済価値を増やすコーディネーターに変身する。

 ⑥農業技術は生産性よりも、天地自然(環境)への貢献を目的にしたものへ大転換する。

 ⑦農学は、社会の土台を構想するものへと変革され、百姓や住民の参画したものに成熟する。

 ⑧農産物価格は、百姓がゆったりと天然自然を守っていく仕事をすることを補償する価格になる。

 ⑨百姓のなり手が増え、過疎地は解消され、村は魅力的な空間になる。

 ⑩百姓の、天地自然に抱きかかえられて生きていくライフスタイルが再評価され時代の主流になる。

 ⑪荒れていた田畑や山野はよく手入れされるようになり、美しい風景の村が復活し、国土も輝いていく。

 ⑫天地自然そのものが、安堵するにちがいありません。生きものたちは時流の変化に神経をとがらせることもなくなり、安心して生きるようになります。

 もうこれくらいにしておきます。私は資本主義が早晩終わるという見方のほうが説得力があるように感じます。しかし、資本主義が終わろうと終わるまいと、資本主義から片足出して、現代を生き抜くことが重要ではないでしざっか。それは、ポスト資本主義に備えるという以上に、資本主義を早く終わらせる生き方になるからです。
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