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未唯への手紙

未唯への手紙

多くを求めすぎた攻勢(デミヤンスク包囲戦)

2016年10月09日 | 4.歴史
『第二次大戦の<分岐点>』より 北方軍集団 五つの激闘

1941年末の一連の反攻の成功は、スターリンに過大な期待を抱かせることになった。彼が夢見たのは、南方ではウクライナの資源地帯とクリミア半島を奪回し、セヴァストポリの守備隊を救出、モスクワ前面ではスモレンスクに進撃し、ドイツ中央軍集団を殲滅することであった。そして、北では、レニングラードを解放し、北方軍集団を撃破する!

このころ、氷結したラドガ湖の上を通しての補給路、いわゆる「命の道」を除いては、レニングラードは孤立している。放置すれば、大都市レニングラードのインフラストラクチャーは崩壊し、飢餓が訪れるであろう。そうした観点からすれば、スターリンがレニングラード解放作戦を急がせたのも、政治的には当然であった。が、それは、かろうじて「バルバロッサ」をしのぎきったばかりのソ連軍には過大な任務であり、その無理は、以後の作戦遂行過程で無惨なまでに露呈することとなる。

1941年12月17日、赤軍大本営は、レニングラード正面軍、ヴォルホフ正面軍、北西正面軍に、レニングラードからノヴゴロドに至る戦線での攻勢を準備するよう命じた。作戦構想は、こうである。まず北では、レニングラード正面軍が南東、ヴォルホフ正面軍が北西に進撃、ドイツ軍を挟撃・殲滅、レニングラードの解放にあたる。一方、南西正面軍も、その南で攻勢を発動、ドイツ軍部隊を拘束しつつ、デミヤンスク、スタラヤ・ルーサを攻略、またヴォルホフ正面軍と協同して、ドイツ軍の退路を断つことになっていた。赤軍大本営は、攻勢発起のための準備陣地奪取と部隊の集中をロー月26日までに完了すると予定していたが、ドイツ軍の抵抗と悪天候により、作戦発動を1月6日まで延期することに決めた。しかし、それでも時間が足りず、ヴォルホフ正面軍の歩兵ならびに戦車部隊の集中は1月7日ないし8日、砲兵の配置は1月10日ないし12日までかかった。ところが、一刻も早く勝利を、と焦るスターリンは、予定通り1月6日に攻勢を開始せよと厳命したのである。

赤い独裁者の望み通り、1月6日に開始されたヴォルホフ正面軍の攻撃は停滞した。ヴォルホフ川西岸に陣取ったドイツ軍の抵抗が激しかったこともさることながら、正面軍主力がまだ東岸後方にいたため、ごく一部の兵力しか投入できなかったからだ。たまりかねたヴォルホフ正面軍司令官キリル・A・メレツコフ上級大将は、赤軍大本営に3日間の攻撃停止を要請し、認められた。ただし、スターリンは、ヴォルホフ正面軍を再編成し、1月13日に、より協同の取れた攻勢を再開せよと留保をつけている。加えて、お目付役として、赤軍政治総局長レフ・Z・メフリスをメレツコフのもとに派遣した。攻勢が失敗すれば、メフリスが、メレツコフの助言者から審問官に変わることはいうまでもない。だが、1月17日に再開された第2打撃軍を中心とする攻勢は、功を奏した。ヴォルホフ正面軍は、ようやく対岸の陣地からドイツ軍を駆逐し、彼らに脅威を与えることができたのである。

予期しなかった本格的攻勢に、レープ元帥は襖悩した。北方軍集団の戦線が、膨らみきった薄いものであることを誰よりもよく知っていたのは、ほかならぬ元帥である。レープは、自分を解任するか、さもなくば、機動の余地があるうちに撤退させる許可をくれと、OKHに請願する。だが、戦線の反対側の独裁者は、スターリンに負けず劣らず酷薄だ。レープは「健康上の理由で」北方軍集団司令官職を解任されたのであった。

一方、ヴォルホフ正面軍の左翼、南方では、北西正面軍が1月7日にスタラヤ・ルーサめざす攻撃を開始していた。さらに南のカリーニン正面軍による攻勢がドイツ軍を圧迫したことにも助けられ、北西正面軍はめざましい進撃を見せ、その先鋒部隊は攻勢2日目にスタラヤ・ルーサ外縁部に達していた。スキー部隊は凍ったイリメニ湖の氷上を通って、ドイツ軍の後方に進出、補給線を遮断する。その東方、デミヤンスク周辺では、ドイツ第2軍団が罠にかかった。1月下旬までに、同軍団は、ラムシェヴァを通る細い回廊地帯を除いて、ほぼ包囲されてしまう。

2月に入って、ソ連軍の攻勢はテンポを増した。第2打撃軍はノヴゴロド北方でヴォルホフ川の線を突破し、急進していた。レニングラード正面軍もキリシ西方で前進し、南北からの挟撃のかたちをつくる。ドイツ軍にしてみれば、危険な毒キノコを思わせる突出部が形成されたのである。

ところが、3月中旬までに、赤いキノコは毒を抜かれていた。第2打撃軍は、巧妙に構成されたドイツ軍の陣地網に、充分な砲兵援護や兵姑支援がないまま不用意な攻撃を行ったため、ひどく消耗しきっており、ドイツ軍を撃滅しつつレニングラードを解放するなどという二重任務はとうてい達成できない状態になっていたのだ。また、南に眼を転じると、北西正面軍はスタラヤ・ルーサとデミヤンスクを攻めあぐねていた。赤軍大本営は、レニングラード・ノヴゴロド攻勢の成否は、北方軍集団の右翼を潰滅させることが前提になると考えていたから、両市を迂回進撃するのではなく、占領せよと命じていたのだ。ゆえに、北西正面軍はラムシェヴァ回廊を遮断しデミヤンスクを奪取するための攻撃とスタラヤールーサヘの突撃を繰り返した。しかし、空輸により物資を補給されたデミヤンスク包囲陣の抵抗は頑強で、スタラヤ・ルーサの守備隊もまた一歩も譲らなかった。かくて、膠着状態が訪れる。

ドイツ軍は、この好機を逃さなかった。3月2日、レープの後任として北方軍集団司令官となったゲオルク・フォン・キュヒラー上級大将と会見したヒトラーは、3月7日から12日のあいだに戦線の間隙を埋めるとともに、突出してきたソ連第2打撃軍を包囲、またデミヤンスクの友軍を解囲する作戦を遂行するよう命じた。キュヒラーはこれに応じて、反撃作戦を練った。今や、第2打撃軍は、わずか10キロほどの幅の回廊状の地域を通っている二筋の細い道(ドイツ軍は、それぞれ「エリカ」と「ドーラ」と通称していた)に補給を頼っている。これを断てば、第2打撃軍は無力となるのだ。一方、デミヤンスク方面では、ヴァルター・フォンーザイトリッツ=クルッバッ(中将の6個師団、ザイトリッツ支隊が、ラムシェヴァを通る回廊を拡大し、デミヤンスクの味方を救援する攻撃にかかる。このようなドイツ軍反撃の兆候をみた赤軍大本営は、3月17日付でヴォルホフ正面軍に対し、先手を取って攻撃し、第2打撃軍の補給路を確保せよという意味の指令を出したが、もう遅かった。「肉食獣」作戦、ドイツ軍の反撃は、3月15日午前7時30分に開始されていたのである。

第2打撃軍がつくった突出部を南北から挟撃したドイツ第18軍は、ソ連軍の激しい抵抗に悩まされはしたものの、3月18日には「エリカ」、その翌日には「ドーラ」を遮断した。さらに3月20日、南北の挟撃部隊が手をつなぎ、ドイツ軍を包囲殲滅する役目を帯びていた第2打撃軍とそれに随伴していた第59軍は逆に包囲されてしまった。ソ連軍は、ただちに反撃に出て、「エリカ」を奪回したが、糸のごとく細い補給路であることに変わりはない。第2打撃軍が戦略的に意味のある攻撃を実行する能力は奪われてしまったとみてよかろう。

そのはるか南、デミヤンスク方面でも、ザイトリッツ支隊が3月20日に攻撃をはじめ、およそIか月後の4月20日までにラムシェヴォ回廊を奪回、4キロ幅の通路に拡大した。ソ連軍はこれを遮断しようと攻撃を繰り返したものの、大損害を出して撃退される。

こうして大勢は決した。これ以降も小競り合いが繰り返されたが、ヴォルホフ正面のドイツ軍撃滅、デミヤンスクやスタラヤ・ルーサの奪取といった目的、何よりもレニングラード解放という大命題が達成されることはなかったのである。ソ連軍の冬季攻勢が、こうした結果に終わった理由について、従来は、デミヤンスクのそれをはじめとするドイツ軍の奮戦に帰せられることが多かった。しかしながら、今では、むしろソ連軍の作戦に問題があったことがわかっている。おそらく、ソ連軍は、目標を絞り、兵力を集中すれば、戦略目標を達成できるだけの実力を備えていた。けれども、彼らは、というより、スターリンはあまりにも多くを望みすぎ、結果として、ドイツ軍が守り抜くことを許してしまったのだ。敢えていうなら、ドイツ軍の頑張りがソ連軍の企図をくじいたのではない。個々の部隊の戦いぶりが作戦・戦略レベルに影響を与えるような状況を、ソ連軍の作戦立案の不備がつくってしまったのである。

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