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アラブの革命

『イスラーム国』より

アラブの革命 ⇒ 2010年7月のエジプトで、ガイドのアムロさんと話していた時に、変革があることは感じたが、「イスラーム国」まで考えられなかった。

二〇一一年初頭、現代アラブ史の大きな転換点となった「アラブの春」と呼ばれることになるアラブ諸国における革命が起こり、複数の独裁政権が打倒された。これこそ、イスラーム主義者が数十年間待ちわびた事態であった。

この民衆革命は、全世界にとっても、ジハード主義者にとっても驚きであった。当時多くのアナリストは「これにより過激なジハード主義組織や、厳格なイスラーム主義は終焉を迎える」と考えた。ジハード主義、イスラーム主義のイデオロギーそのものがその役割を終えた、というのがその理由であった。独裁政権を倒したのは、「民主的でリべラルな世俗国家」の建設を掲げた平和的な民衆運動であり、これにより、「武力による独裁政権の打倒こそ唯一の解決」と説いたジハード主義者の主張は覆されたというのである。

西欧諸国は、「ジハード主義と、彼らが主張する暴力による体制打倒の考えは終焉を迎えた」とする分析が正しいことを願った。そして、西欧諸国政府は革命を成し遂げた指導者たちを祝福した。一方アルカーイダは当初、革命を論評することなく沈黙を保った。アルカーイダは革命の推移を注意深く追い、それが成功するか、失敗するかを見極めていたのである。

では、他のジハード主義組織は、革命に関しどのような反応を見せたのであろうか。彼らの反応を見ることは、旧勢力(アルカーイダ)と新勢力の思想の違い、そして厳格なイスラーム主義運動の新しい波を見ることでもある。

二〇一一年二月、イスラーム国の「戦闘担当省」は、エジプトで起きている抗争を批判し、「汚れた悪魔的な世俗主義」や「不信仰の民主主義」、民族主義や国家主義といった非イスラーム的イデオロギーに影響されないように呼びかけた。イスラーム国は、アラブ革命の波に否定的であり、これまでの「悪」よりさらに悪い事態をもたらすことのないよう警告した。

「信仰者たちの長」ムッラー・ムハンマド・ウマルのような、旧世代を代表する人物の反応は対照的であった。彼は二〇一一年二月一四日に声明を発表、「革命と革命家」に敬意を表し、「アフガニスタンのイスラーム首長国は、エジプト民衆のさらなる成功、これまで以上の勝利をアッラーに祈りたい」と述べ、独立したイスラーム主義の政府を樹立し、外国人による策謀を破壊するよう訴えた。

ムッラー・ウマルは、この革命を「イスラーム主義者が権力を得るための機会」と捉え、それは現実のものとなった。チュニジア、エジプト、リビアの革命の成功から数カ月後、各国の社会で最も力を持っているのはイスラーム主義者であることが明らかになった。彼らは当初から国政選挙、大統領選挙で勝利したが、ムッラー・ウマルが警告した「外国人による策謀」は、リビアとエジプトにもたらされた。

ウサーマ・ビンラーディンと副官のアイマン・ザワーヒリーは、チュニジアの革命の間沈黙を保っていた。そして二〇一一年の二月にエジプトのホスニ・ムバーラク(政権が打倒されるという大事件に際しても、二人は何の動きも見せなかった。ザワーヒリーは、数十年にもわたってムバーラク打倒を画策し、一九九五年にはエチオピアの首都アディスアペバでは暗殺未遂事件を起こしていたにもかかわらず、である。

ザワーヒリーは、ムバーラク政権が打倒されて一週間後、タハリール広場で一〇〇万人のエジプト民衆が「勝利の金曜日」を祝っていた時になり声明を発表した。それは長い音声声明で、退屈な印象を受けるものだった。それは「エジプト問題の根源」(一七九八年のナポレオン・ボナパルトの侵攻までも含んでいた)という講義だった。声明発表の目的は、タイトルにある通り、エジプト民衆が成し遂げたことに対する祝福と抱負を述べることであったとされたが、それは実際に起きた出来事とはかけ離れた、古い内容であった。ムバーラク政権退陣と崩壊に対する言及すらなかった。声明発表の遅れは、アルカーイダがこの声明を受け取り発表するまで、安全上の理由で時間を要してしまったことを意味しているようであった。ザワーヒリー達が、SNSやインターネットを「外国諜報機関に監視されている」として信頼していなかったのも一因だろう。

私が得た情報では、インターネットに発表されるこれらの声明は、アルカーイダのメンバーが、パキスタンのインターネットカフェにこっそり持ち込み、アップロードを行なっているとのことである。ビンラーディンを取り巻く状況は、彼の副官よりも厳しかった。彼はアボタバードの隔離された家に隠れており、諜報機関に逆探知されないよう、あらゆる通信機器を遠ざけていた。

一九九六年、私がトラボラの洞窟でビンラーディンに出会ったとき、彼はこう語った。「私は通信機器を一切使わないことにしている。携帯電話やコンピューター、すべてだ。アメリカや他の諜報機関に勘付かれるのでね」

二〇〇七年にアフガニスタンのアルカーイダの正式な支部となった「マグリブ諸国のアルカーイダ」(アルジェリァを中心にマグリブ諸国で活動しているサラフィー・ジハード主義組織)は、すべてのアラブ革命を熱烈に賞賛した。二〇一一年一月一三日に発表した声明は、チュニジアの人々にシャリーアの施行を推奨するものだった。同年二月二四日に発表された長文の声明では、「リビアの革命家たち」に次のようなメッセージを送った。

「ベンガジ(リビア北東部に位置する主要な港湾都市)、ダルナ(リビア東部に位置し、地中海に面する港町)、卜リポリ(リビアの北西部に位置し、地中海に面したリビアの首都)、トブルクの英雄たちよ、解放されたワルファッラ(部族)、ザンターン、マカールハ、タワーレクの人々よ。私達はあなた方の革命、ウマル・ムフタール(リビアの偉大なジハード指導者)の子孫を四〇年以上にもわたり抑圧し虐待したリビアの圧政者に対する革命を、喜びをもって注視している」

アルカーイダとイスラーム国の最大の意見の相違は、イスラーム国が、極めて厳格なイスラーム主義に則った政策・立場を取り、ジハード主義に属さない反体制運動はすべて支持しない意向を示したことである。たとえその運動がスンナ派ムスリムに率いられていたとしても、彼らは支持を拒否した。アルカーイダと「ヌスラ戦線」はシリアのジハード主義勢力として出現し、革命家としてのダイナミックな役割を果たした。なぜなら両者は、最終的には他のイスラーム主義勢力、非イスラーム主義勢力に勝利し、支配権を確立できると信じていたためである。一方イスラーム国は、自らに忠誠を誓わない、あるいは厳格なシャリーアの適用を行なわない勢力は、それがたとえジハード主義勢力であろうと「不信仰者」と決めつけた。
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