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インディアン戦争

『アメリカ史「読む」年表事典19世紀』より

1862年8月18日…ミネソタのスー・インディアン蜂起

 東はミネソタ州から西はモンタナ地方までを生活舞台とするスー・インディアン(ダコタ・インディアン、ラコタ・インディアンともよばれる)は、バッファローの狩猟で衣食住を賄い、バッファローを追って移動する平原インディアンであった。東部のミネソタ地方で生活していたサンティ・スー・インディアンは早くも1840年代に白人開拓者の侵入におびやかされ、やがて合衆国政府との交渉で日用品、食糧、現金を合わせた毎年の年金と引き換えに100万エーカー(約4000km2)の狩猟地を譲渡し、自分達は狭い保留地で生活するようになった。

 食糧などの年金支給は毎年6月頃に行われていたが、この年は7月になっても支給されず、飢えに苦しむ5000人のインディアンか州南西のミネソタ川渓谷にあるレッドウッドのインディアン局出張所に集まってきた。8月に入っても現金か届かないとの理由で、倉庫にある食糧も支給されなかったので、ィンディアンの怒りぱ頂点に達していた。

 8月17日に若いィンディアンがささいな理由で白人入植者の男女5人を殺害したのをきっかけに翌日の18日、族長のリトル・クローに率いられた約1000人の戦士か蜂起し、インディアン局出張所を襲い23人を殺し、10人の女性を連れ去った。その後、周辺の入植地を次々に襲撃し、1週間足らずの間に女性と子供を含む400人を惨殺し、強姦、強奪のかぎりを尽くし、ミネソタ川渓谷一帯を恐怖に落し入れた。

 州政府は1600人から成る志願兵を緊急に集め、9月23日にウッドレイクでスー・インディアン軍を撃破した。なだれを打って逃げるインディアンを追跡して約2000人を捕えて捕虜としたか、大部分は蜂起した戦士ではなかった。裁判の結果、303人に死刑か宣告され、16人に終身刑かいい渡されたか、宣教師ヘンリー・ホイップルのリンカン大統領への嘆願書で、リンカソか直接判決に介入し、大半か減刑され、36人か再度死刑判決を受げ、12月26日にマソカトの町で処刑された。

1866年8月…第二次スー・インディアン戦争始まる

 アイダホ州に近いモンタナ地方南西部のヴァージニアシティで1863年に金鉱か発見されるとゴールド・ラッシュか始まった。

 ジョソ・ボズマンはオレゴソ街道のララミー砦を通ってヅァージュアシティにいたる最短道の探査を重ね、1865年には通称ボズマソ道を確定し、多くの金採掘者か行きかうようになった。しかしボズマン道はバッファローの豊かな生息地で、スー・インディアンの重要な狩猟地であった。連邦政府との条約の上でもスー・インディアンに保障された領土であり、白人には通行はおろか立入りも禁止された領域であった。

 当然、白人にとってボズマン道の通行は非常に危険だったので、合衆国陸軍か入植者の通行の安全を確保することになり、1866年の春から活動を開始した。ヘソリー・B・キャリソトソ大佐の第十八歩兵連隊の2個大隊は、ボズマン道に沿って守備隊駐屯地を建設するため、北上を開始し、6月にはパウダー川上流のレノ砦を復活させ、その他に新しいふたつの砦を建設した。

 キ十リソトン軍を監視していたスー・インディアンは、駐屯地建設はバッファローの生息地を破壊し、狩猟地をおびやかす条約違反の侵略行動であるとして、合衆国軍を断固として追い払う戦闘を族長レッド・クラウドの指揮のもとで8月に開始した。

 12月21日にレッド・クラウドは、ウィリアム・J・フェッターマン大尉の部隊をおびき出し、待ち伏せしていた1500人から2000人のスー・インディアンとシャイアン・インディアンの連合軍が急襲し、フェッターマンと2人の民間人を含む81人全員を1時間足らずの戦闘で全滅させた。

 この後、アyリカ軍は1867年8月1日のヘイフィールドの戦い、8月2日のワゴンボックスの戦いに勝利したが、スー・インディアンの断固とした果敢な抵抗と数百kmにおよぶ補給線を維持することの困難から、政府はついにボズマソ道を閉鎖し、3つの砦を放棄した第二次ララミー砦条約をスー・インディアンの族長レッド・クラウドと1868年11月6日に締結した。

 政府はこの条約でワイオミング、モンタナ、ネブラスカ、ダコタの各地にあるスー・インディアンの土地領域権を認めた。
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米西戦争

『アメリカ史「読む」年表事典19世紀』より

1898年4月25日…米西戦争始まる

 スペインは4月24日にアメリカに対して宣戦を布告した。アメリカは、4月21日以来スペインと戦争状態にあると宣言して、4月25日に正式に宣戦を布告した。

 両国の兵力は、スペインがキューバに15万人の正規軍に加えて義勇軍とキューバ人忠誠派軍が5万人、プエルトリコに8000人のスペイン正規軍、フィリピンに2万人の兵力がそれぞれ駐留していた。対するアメリカ軍は開戦当初、陸軍に関しては正規軍が3万人と州兵が10万人いたにすぎず劣勢は否めなかった。

 しかし海軍力では近代的な兵器を装備した新鋭の鋼装甲艦をそろえるアタリカ海軍か圧倒的に優勢で、戦艦5隻のうち4隻は第一級の新鋭艦であり、その他に巡洋艦、砲艦を含めて30隻以上の艦船が戦列にあった。他方、かっては海軍帝国を誇ったスペイン海軍は今や、イタリアから買い入れた戦艦1隻に、装甲巡洋艦6隻、巡洋艦11隻が主要な艦船であった。
1899年2月4日…米比戦争

 マッキンレー大統領は前年8月のマニラ市攻略戦において、早くもアギナルドのフィリピン革命軍を暴徒としてマニラ市入城を認めなかった。同年12月21日にはフィリピン遠征軍総司令官エルウェル・S・オティス将軍にフィリピン群島全体を、アタリカ軍の軍政下におくことを宣言させた。

 アメリカに深い疑惑をいだいていたアギナルドとフィリピン軍は、最後の希望としてかすかに期待していたパリ講和条約がフィリピン群島全体を正式にアタリカに譲渡したことを1月4日に知ると、アタリカの背信行為を激しく非難し、1月5日にフィリピンの独立を宣言し、反米活動と武力闘争に入った。アタリカの支配に対抗するため、自主独立と代議政治、個人の自由を認めるマロロス憲法を1月21日に発布し、1月23日にフィリピン共和国を正式に発足させた。

 フィリピン軍は2月4日の夜、アタリカのマニラ警備隊の前哨基地を攻撃し、激しい戦争に突入した。フィリピン軍はアタリカ軍に比べ、装備と訓練で大きく劣っていたため緒戦の2週間で3000人の戦死者を出す大きな敗北をこうむった。アjリカ軍は1900年12月末には7万5000人の大軍を投入して戦ったか、フィリピン軍はルソソ島北部の山岳地帯を根拠地にして、小部隊編成のゲリラ戦に転換して戦線を維持した。

 アメリカ軍は長期戦を強いられ、戦闘が終結した1902年には12万6000人の大部隊を展開させた。アギナルドは1901年3月22日にアjリカ軍に捕らえられたが、その後も戦闘はつづき、アjリカ軍がフィリピン軍征圧を宣言したのは1902年7月4日であった。アメリカ軍はこの間に2800か所以上でフィリピン軍と交戦し、4234人の戦死者と2818人の負傷者を出した。フィリピン軍の死傷者は1万6000人に達し、さらに一般市民はこの戦争で飢えや病気を含めて20万人が死亡したと推測されている。
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米国は戦争好き?

『アメリカ史「読む」年表事典19世紀』より

1812年戦争の性格

 1812年戦争は「マディソン氏の戦争」、「米英戦争」、「西部の戦争」、「イングリッシュ・アンド・インディアソ戦争」、「第二の独立戦争」、「不毛で不必要な戦争」、「安上がりな戦争」など様々な名前で呼ばれている。それらの意味するところは次のように説明されている。

 マディソン大統領にとっては、大統領再選を果たすため西部や南部の土地獲得を求める主戦派議員を抱き込むための戦争だった。その戦争によって土地獲得の大きな障害になっているインディアンを排除し、インディアンを支援しているカナダのイギリス人を攻略し、できればカナダも手に入れることを目的としていた。さらに南部ではスペインの勢力を駆逐して西フロリダを奪取することであった。また、開戦の直接の原因であったイギリス軍によるアメリカ船員の強制連行・中立国の通商権侵害などの諸問題は、開戦直前に一旦はイギリス自ら停止を決定したこともあったので実際には不必要で不毛な戦争であり、戦争継続の大義名分は薄弱であった。しかし結果的に見るとこの戦争によってインディアンの抵抗闘争は、イギリスの支援がなくなったため弱体化し、イギリスのアタリカ北西部への干渉はオレゴン問題を残してほぼ完全に解決した。また、この戦争中にヨーロッパからの工業品の輸入か大幅に減少したため、ニューイングランド地方今中部沿岸諸州で工業生産か大きく伸び、経済的自立と産業革命に向かう第二の独立戦争となった。国債発行による戦費調達は困難をきわめたか、3年間の戦費は総額9300万ドル前後でおさまった。兵籍入隊者の総数は53万1622人で、そのうちの人的損害は戦死者が1877人、負傷者が約4000人であった。

1865年…南北戦争終結

 開戦当初、南北の内戦がかくもすさまじい殺戮と破壊をくり返し、4年もの長期におよぶとは、南北双方だれも予想していなかった。戦争が長期化するにっれ、戦争を継続するための戦費、兵力、軍需品を切れ目なく、迅速に供給しっづける戦争システムの構築を余儀なくされた。この戦争システムを統括するのは、形式はともかく実際上は戦闘を指揮し、議会に戦況情報を提供する大統領であった。一般市民や州を代表して立法権を行使する議会は追認機関となり、戦争遂行を現実に貫徹させている大統領と連邦政府に支配権力が集中していった。

 連邦を離脱して独立をめざす南部連合の軍事的立場は、北部にくらべて絶対的に有利な位置にあった。北部の連邦政府軍は南部へ攻め込んで、独立を獲得しようとしている南軍をただきっぶして南部諸州の軍事的な実効支配を維持しなければならなかったのに対して、南軍は侵入してくる北軍をただ押し返して、南部11州の領域を守るだけで良かった。南部連合か人口、経済面などのあらゆる領域で北部にくらべて、圧倒的に劣勢であったにもかかわらず、4年間にもおよぶ長期戦を維持できた最大の要因であった。

 南北戦争はそれまでの兵器よりはるかに高性能で、大きな破壊力を持つ近代的な兵器か使用され、恐ろしいほど多数の死傷者か出た悲惨な戦争となった。戦争終結までの4年間に南北両軍は大小合わせて2261回の戦闘を交えたとされている。

 両軍の人的損失ぱきわめて甚大であった。北軍の死者は、直接の戦死か10万アO人、捕虜収容所での死者か3万218人、戦病死か21万9240人で合計34万9528人であった。負傷者は27万5175人に達した。その他に脱走兵か26万8000人いた。南軍の死者は、直接の戦死か約9万4000人、捕虜収容所での死者2万5976人、戦病死か約13万8000人で合計25万7976人に達した。負傷者は20万人近くを数え、この他に脱走兵が十数万人と推定されている。南北両軍はこの4年間の内戦で合わせて60万人以上の兵士が命を落し、50万人近い兵士か重傷を負って家路に就いた。南北戦争で命を落した兵士の数は、第一次世界大戦での合衆国軍兵士戦死者11万6516人、第二次世界大戦での40万5399人の合計数よりも多い。

 南北双方の経済力を比較すると、北部の優位は圧倒的で、物量戦争の面から見ても南部に勝ち目はなかった。北部はアタリカ製造業全体の93%を占め、工場数は10万、工業労働者は110万人、生産高は15億ドルであったのに対し、南部の工場数は2万、労働者は11万人、生産高は1億5500万ドルであった。北部は銃砲の97%、鉄の94%、鉄道資材の96%を生産していた。約5万km以上あった全鉄道路線のうちの66%に当たる3.3万kmが北部にあった。北部の銑鉄生産量は1861年の67万3061トンから1864年には101万4281トンに増大した。

 船舶の95%以上は北部で建造され、北部の海軍は開戦時の90隻から641隻に増大したのに対し、南部の海軍は108隻の軍艦が就役したのみであった。戦費は北部の約62億ドルに対し、南部は27億ドルと推定されている。北部の国家債務は開戦時の648万4000ドルから終戦時の27億5576万4000ドルに増大した。
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エネルギーさえあればしあわせになれるか

未唯へ

 疲れましたね。土曜日から張りつめていたのと、足のトラブルが影響している。
 こんなに疲れていては、木金に動けません。

未唯空間8.5のまとめ

 2月分を8.5にまとめています。次元が一つあがりました。逆に言うと、2月に考えたことのまとめです。ここはまともです。最初からインタープリターがいないことはわかっていた。

 この最大の欠点に対して、メーカーはどうしていくのか。総企あたりが出てくるしかない。メーカーだけでも、販売店だけでもダメです。もっと大きなところを動かしていかないといけない。知恵も使わないとダメ。社会を変えるというのはそういうことです。

エネルギーとしあわせ

 エネルギーさえあればしあわせになれるか。これが根元的な問いです。
 ICTを使って、下からの情報を集めて、上からコントロールする。今までの一方的に流すのとは違っているのは確かです。この考え方だけでは、人の問題は解決しません。

 では、下から上に上げるにはどうしたらいいのか、というのがポイントです。政治的に捉えたときに、個人・集団・国家との関係が社会のどのような影響を与えるかを考えないと答えは出てきません。経済とかエネルギーだけではダメです。社会の中に歴史を取り込んだのが正解です。

未唯空間8.5.1 エネルギー問題Ⅰの循環

 8.5.1.1 国内外の潮流

  太陽光発電からの余剰電力を売電価格の約2倍の固定価格で買い取り、電気料金に上乗せする。国民に負担を強いる。

 8.5.1.1 2 低炭素エネルギー

  低炭素エネルギー社会の構築は、地球環境問題はもとより、エネルギーセキュリティの観点から非化石エネルギーヘのシフトが加速。

 8.5.1.2 イノベーション

  第一に「イヒ石から非化石への燃料転換」、第二に「化石燃料のクリーン化や高度利用技術の確立」が必要になっている。

 8.5.1.2 3 認識

  大きな転換点にある。今までのエネルギー社会の延長に、これからの社会の未来像はない。パラダイムシフトが求められる。

 8.5.1.3 スマートグリッド

  自然エネルギー系の電力を既存の系統制御に最大限に取り込むことができる次世代送配電システムである。

 8.5.1.3 4 スマートメーター

  メガインフラとディマンド側を双方向で管理する電力の新しい系統制御を作り出す。エネルギーコストを削減するシステム。

 8.5.1.4 グランドデザイン

  既存のメガインフラをグリーン化した上で安定供給しながら、全体のエネルギー構造を低炭素型へと変革させていく

 8.5.1.4 1 ICT活用

  情報インフラとして、スマートグリッド構想のようにグリーンビジネスの新たなモデルを情報通信で創造していく
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