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米国は戦争好き?

『アメリカ史「読む」年表事典19世紀』より

1812年戦争の性格

 1812年戦争は「マディソン氏の戦争」、「米英戦争」、「西部の戦争」、「イングリッシュ・アンド・インディアソ戦争」、「第二の独立戦争」、「不毛で不必要な戦争」、「安上がりな戦争」など様々な名前で呼ばれている。それらの意味するところは次のように説明されている。

 マディソン大統領にとっては、大統領再選を果たすため西部や南部の土地獲得を求める主戦派議員を抱き込むための戦争だった。その戦争によって土地獲得の大きな障害になっているインディアンを排除し、インディアンを支援しているカナダのイギリス人を攻略し、できればカナダも手に入れることを目的としていた。さらに南部ではスペインの勢力を駆逐して西フロリダを奪取することであった。また、開戦の直接の原因であったイギリス軍によるアメリカ船員の強制連行・中立国の通商権侵害などの諸問題は、開戦直前に一旦はイギリス自ら停止を決定したこともあったので実際には不必要で不毛な戦争であり、戦争継続の大義名分は薄弱であった。しかし結果的に見るとこの戦争によってインディアンの抵抗闘争は、イギリスの支援がなくなったため弱体化し、イギリスのアタリカ北西部への干渉はオレゴン問題を残してほぼ完全に解決した。また、この戦争中にヨーロッパからの工業品の輸入か大幅に減少したため、ニューイングランド地方今中部沿岸諸州で工業生産か大きく伸び、経済的自立と産業革命に向かう第二の独立戦争となった。国債発行による戦費調達は困難をきわめたか、3年間の戦費は総額9300万ドル前後でおさまった。兵籍入隊者の総数は53万1622人で、そのうちの人的損害は戦死者が1877人、負傷者が約4000人であった。

1865年…南北戦争終結

 開戦当初、南北の内戦がかくもすさまじい殺戮と破壊をくり返し、4年もの長期におよぶとは、南北双方だれも予想していなかった。戦争が長期化するにっれ、戦争を継続するための戦費、兵力、軍需品を切れ目なく、迅速に供給しっづける戦争システムの構築を余儀なくされた。この戦争システムを統括するのは、形式はともかく実際上は戦闘を指揮し、議会に戦況情報を提供する大統領であった。一般市民や州を代表して立法権を行使する議会は追認機関となり、戦争遂行を現実に貫徹させている大統領と連邦政府に支配権力が集中していった。

 連邦を離脱して独立をめざす南部連合の軍事的立場は、北部にくらべて絶対的に有利な位置にあった。北部の連邦政府軍は南部へ攻め込んで、独立を獲得しようとしている南軍をただきっぶして南部諸州の軍事的な実効支配を維持しなければならなかったのに対して、南軍は侵入してくる北軍をただ押し返して、南部11州の領域を守るだけで良かった。南部連合か人口、経済面などのあらゆる領域で北部にくらべて、圧倒的に劣勢であったにもかかわらず、4年間にもおよぶ長期戦を維持できた最大の要因であった。

 南北戦争はそれまでの兵器よりはるかに高性能で、大きな破壊力を持つ近代的な兵器か使用され、恐ろしいほど多数の死傷者か出た悲惨な戦争となった。戦争終結までの4年間に南北両軍は大小合わせて2261回の戦闘を交えたとされている。

 両軍の人的損失ぱきわめて甚大であった。北軍の死者は、直接の戦死か10万アO人、捕虜収容所での死者か3万218人、戦病死か21万9240人で合計34万9528人であった。負傷者は27万5175人に達した。その他に脱走兵か26万8000人いた。南軍の死者は、直接の戦死か約9万4000人、捕虜収容所での死者2万5976人、戦病死か約13万8000人で合計25万7976人に達した。負傷者は20万人近くを数え、この他に脱走兵が十数万人と推定されている。南北両軍はこの4年間の内戦で合わせて60万人以上の兵士が命を落し、50万人近い兵士か重傷を負って家路に就いた。南北戦争で命を落した兵士の数は、第一次世界大戦での合衆国軍兵士戦死者11万6516人、第二次世界大戦での40万5399人の合計数よりも多い。

 南北双方の経済力を比較すると、北部の優位は圧倒的で、物量戦争の面から見ても南部に勝ち目はなかった。北部はアタリカ製造業全体の93%を占め、工場数は10万、工業労働者は110万人、生産高は15億ドルであったのに対し、南部の工場数は2万、労働者は11万人、生産高は1億5500万ドルであった。北部は銃砲の97%、鉄の94%、鉄道資材の96%を生産していた。約5万km以上あった全鉄道路線のうちの66%に当たる3.3万kmが北部にあった。北部の銑鉄生産量は1861年の67万3061トンから1864年には101万4281トンに増大した。

 船舶の95%以上は北部で建造され、北部の海軍は開戦時の90隻から641隻に増大したのに対し、南部の海軍は108隻の軍艦が就役したのみであった。戦費は北部の約62億ドルに対し、南部は27億ドルと推定されている。北部の国家債務は開戦時の648万4000ドルから終戦時の27億5576万4000ドルに増大した。
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