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次期ネットの検討

未唯へ

 奥さんはヨーロッパに行くつもりはないみたいです。自分で計画を立てましょう。とりあえず、9月か10月ですね。

 だけど、ヨーロッパを横断するルートがあるかどうかです。

 明日は、本の処理でかなり、忙しくなる。2日間で片付けないといけない。

次期ネットのコンセプト

 ネットワークをやる理由は、コラボレーションです。ライブラリです。

 大量データを渡すだけではなく、取りに行くにはどういうカタチにしたらいいのか。5千か所から、システムの助けなしに。

 当り前のことができるというのを拡大解釈させます。

 単にコスト削減ではなく、インターネットの世界では当たり前のことをできる環境を作って、販売店に渡します。

 ネットワークは作ることを考えて、要件を明確にします。

 販売店に分散用のPCをなくすためには、5千から取りに来るということです。そのためのキャッシュをキャリアに用意してもらいます。

次期ネットの検討

 次期ネットの検討資料をすべて集める。それを、未唯空間のサブ空間に置きます。やり方は変えません。だからA7の世界を作り出します。

 偶々の事象を偶々でなくて、4つの次元に分けます。偶々、起こることと、ストックのところはキッチリさせます。偶々、起こることで進化させていきます。

 アナロジーを使って、進化理論を使って、未唯空間を使って、表現します。

Sへの確認

 前ほど、拒絶反応はないです。どこにあってもいいようにしておきます。

 当り前のことが当り前にできると言うのは、簡単だけど、イントラそのものが制約になっている、それと基幹系のやり方そのものがダメですね。

 システムの発想ではお金だけかかります。コラボレーションしながら、その部分だけを変えていくという、差別化の方法です。それで区別します。

販売店は甘えている

 販売店は甘えています。インターネットの世界に比べて、メーカーが入り過ぎている。自分たちで解決すべきです。メーカーも参画するならば、先行きのことを考えて、事務局とかファシリテーションという概念を持たないといけない。

 一番、甘えているのは、変わる意識がないということです。従来通りで行こうとします。組織を変えるだけの力を持っていない。

 インターネットの世界はお客が苦労しています。イントラの世界は甘えている。

 名古屋の体質とよく似ています。

木金休みの時の本の処理の仕方

 木金休みになると、困りますね。金曜日夕方に新刊書が出るから、次の日から勤務です。木曜日まで20冊を持っているわけにはいかない。

 今は、金曜日に入手して、土日に本を片付けられる。

 感覚的には、[日曜日]の夕方に借りることになります。本当に忙しない。どう見ても、一度に片付けられない。

 多分、[月曜日]~[金曜日]に本を片付けます。会社も使います。[土曜日]、[日曜日]の夕方までは、未唯空間に使います。
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重工業施設は満洲にしかなかった

『中国はいかに国境を書き換えてきたか』より

重工業施設は満洲にしかなかった

 天然資源を求めて、満洲には多数の流民が流れ込み、馬賊・匪賊あるいは軍閥となって、略奪を繰り返してきたが、二十世紀に入ってから日本の経営によって満洲は重工業とインフラを有する土地に変貌した。

 当時の中国(長城以南)には、西欧列強がつくった製鉄所(武漢)や造船関係の工場(上海)、飛行機組み立て工場(昆明)などがあったものの、基本的には紡績、食品など軽工業しかなかった。他方、一九四三年の時点での中国大陸全体の工業生産高に占める満洲の割合は、機械類では九五パーセント、鉄鋼で九一パーセント、硫酸アンモニウムが六九パーセント、電力六七パーセント、セメント七六パーセントと、中国大陸の工業生産のほとんどを満洲が占めていた。また鉄道は、満洲全土での総延長は一万一〇〇〇キロ。全満洲の主要都市が鉄道でほぼ結ばれ、大連-奉天(現瀋陽)-新京(現長春)-ハルビンを結ぶ幹線では高速列車が運行されていた。道路は国道六万キロ、地方道五万キロ。鴨緑江に架かる橋二十四を含む約三百の橋梁があった。さらに、第二松花江の豊満ダム、牡丹江の鏡泊湖ダム、鴨緑江の水豊ダム(現在は北朝鮮)など、この三つだけで総発電量は八○万キロワットにも達した。

 日本が降伏する数カ月前の一九四五年四月の中国共産党第七回大会で、毛沢東は「もし、われわれがすべての根拠地を失っても、東北さえあれば、それで中国革命の基礎を築くことができる」と述べて、満洲に進撃することの意味を明確にしていた。それから三ヵ月後、日本が降伏する直前の八月八日に、ソ連軍が満洲に侵攻したのに続いて、毛沢東は東北占領を指令し、軍隊を満洲に派遣した。目的は、満洲の戦略的位置と満洲にある資源、さらに日本が建設した重工業施設であった。建国(一九四九年十月)四年後の一九五三年に、中国の第一次五ヵ年計画が始まるが、重工業基盤のあった満洲ではそれ以前の一九五一年から始まっている。今日においても、東北三省は機械製造工業、化学工業など全国で重要な位置を占めており、鉄鋼の鞍山、石炭の撫順、大慶油田はいずれも満洲にある。満洲は中国の経済発展に必須不可欠である。それは軍事大国を支える上でも不可欠である。

二回にわたる大きな区画改編

 建国以前の満洲は、黒龍江、興安、瞰江、合江、松江、吉林、安東、遼北、遼寧の九つの省に区分されていたが、建国後、興安省の全域、瞰江省と遼北省の一部が内蒙古自治区に併合され、それ以外の地域は合併して黒龍江省、吉林省、遼寧省の三省となった。建国から一九六九年までの期間、内蒙古自治区は満洲の興安省全域と瞰江省と遼北省の一部を含んでいた。

 一九六九年に図2-4のような大掛かりな重要な変革があった。興安省全域と合江省のかなりの地域が黒龍江省に併合され、遼北省、松江省全域、瞰江省、安東省の一部が吉林省に編入された。また遼北省、熱河省、安東省の一部が遼寧省に編入された。内蒙古の区域は全面的に縮小された。さらに内蒙古は西方地域でも縮小され、それまでの半分となった。

 この大掛かりな行政区画改編は一九七九年七月一日に、それ以前の区画に戻った。この二回にわたる区画の大きな変更は、二つの重要な政治的軍事的配慮からなされた。まず建国時期の行政区画の狙いは、蒙古民族の居住地区を対象に、内蒙古を中心として満洲に居住する蒙古民族を包摂して、その地域に漢民族の居住地区を混ぜることにより、蒙古民族が独立した社会国家をつくることを阻止することにあった。

  一九六九年における全面的な改編は、同年春に中ソ国境で起きた中国軍とソ連軍の軍事衝突を契機として生まれた「中ソ戦争」の危機に対処することを目的とした全面的な改革であった。すなわちソ連軍が中国に侵攻する場合、その経路は満洲東部の緩芥河方面と新疆地区を除けば、満洲東北端の満洲里から満洲に侵攻してくるソ連軍を黒龍江省で、中央部ではザバイカル方面からモンゴルを経由して北京に直進してくるソ連軍を内蒙古で、あるいは西北地区ではモンゴルから内蒙古を経て蘭州(甘粛省の省都)方面に侵入し、中国の核関連施設を破壊するソ連軍を甘粛省と寧夏回族自治区で迎え撃つという戦略構想に基づいて区画されている。そのことは「中ソ戦争」の危機がなくなった七九年七月に、それ以前の行政区画に戻っていることから裏付けられる。
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ドイツの快進撃に幻惑される

『昭和天皇』より

畑陸相に「国際信義は大切なり。満洲事変以来我国は国際信用を失ひあり」と嘆く昭和天皇は、二月二十一日、沢田茂参謀次長が「桐工作」、すなわち宋子良を通じた蒋政権との和平交渉開始を報告すると、「成功すれば真に結構」と大変喜んだ。。六月二十四日、交渉が進展し、蒋介石、汪兆銘、板垣征四郎の三者会談が検討されつつあることを知った昭和天皇は、木戸内大臣に、「七月上旬に葉山に行幸は如何なるものなりや」と尋ねた。これらの史料から、昭和天皇の桐工作への期待の大きさがわかる。日中戦争が収拾できれば英米との関係改善につながり、防共協定強化も必要なくなることはこれまでの経緯から明らかである。しかし、木戸は、これはまだ謀略段階で少数者しか知らない上、蒋政権側に、「陛下が此成果を心待ちに御待にあり居る様に印象づけることは好ましからず」として予定通り行動するよう進言した。結局、桐工作は、交渉条件か折り合わず、九月末に中止となる。

これと並行して、四月上旬からドイツ軍の電撃作戦か始まり、あっという間に西ヨーロッパを支配下に収めていき、五月末にはイギリス軍の大陸からの撤退が始まった。昭和天皇の、「独軍は対英本国上陸作戦を実施し得るや」という問いに対し、沢田参謀次長が「可能なり」と答え、さらに沢田が「独逸軍の攻撃精神の旺盛〔中略〕に比し英仏は政治は其日暮し 軍隊は充実せず 現状維持か精神堕落」と述べるなど、ドイツ軍の戦果にすっかり幻惑されてしまっていた。

政界でも、ヨーロッパの状況の影響で近衛を中心とする政界再編の動きが表面化しはじめた。木戸も内大臣就任前はこの動きに関与していた。しかし昭和天皇は「米内々閣をなるべく続けしむる方よろしからん」と考えていた。しかし、六月十七日、フランスのペタン元帥はドイツに休戦を提議し、のち二十二日降伏した。新聞には「欧州新秩序」の見出しか躍った。これにより、フランス領インドシナ(仏印)当局は、仏印北部から延びる米英からの蒋介石政権の援助物資輸送ルート(援蒋ルート)の一つを遮断し、六月二十日、日本陸軍の監視団派遣を認めた。

昭和天皇は、これに関連して、木戸に「我国は歴史にあるフリードッヒ大王やナポレオンの様な行動、極端に云へばマキアペリズムの様なことはしたくないね、神代からの御方針である八紘一宇の真精神を忘れない様にしたい」と述べた。この場合、「マキアペリズム」とは道義的に問題ある権力行使を、「八紘一宇の真精神」とは、公正な態度で他の地域と親睦を図ることを意味していると判断できるので、相手の窮地につけこむことに躊躇を感じていたことがわかる。しかし、昭和天皇は側近に気持ちを洩らしただけで、行動しようとした形跡はない。明らかに昭和天皇は気力を失いつつあった。

イギリス降伏間近とみた陸軍が六月十九日以降、イギリスにイギリス領ビルマと香港からの援蒋ルート封鎖などを要求した際も、このままでは、「香港占領と云ふことになり、結局、宣戦と云ふことにな」り、「米国は少なくともエムバーゴ〔支援〕〔の〕手段に出るだろう」と、悲観的な見通しを木戸に述べた。しかし、やはりそれ以上の行動には出なかった。ただし、イギリスの譲歩により開戦は避けられた。

フランス降伏でドイツがヨーロッパ中心部の覇権を確立したことに影響され、近衛文麿、有馬頼寧元農相らは、政界再編による国内体制強化による日中戦争収拾をもくろみ、二十四日、近衛は枢密院議長を辞任して新体制運動開始を表明した。昭和天皇はその進展状況に深い関心を持ち、近衛と連絡をとっていた木戸にたびたび状況を聞いている。

七月十四日、昭和天皇は、木戸に「内外の情勢により内閣の更迭を見るは不得止とするも、自分の気持は米内に伝える様に」と指示した。昭和天皇は米内内閣の存続をあきらめたのである。このころ、政界、軍部、新聞のいずれもが「欧州新秩序」に浮き足立っていたが、協調外交路線を持続してきた松田において、「ヴェルサイユ条約を初めとしての諸平和条約に依り規律せられたる欧州体制は、二十年の歳月を経て茲に崩壊を見るに至った〔中略〕欧州国際関係を支配する幾多の要因の交互錯綜によりて、欧州の旧体制が日一日と開放されて、所謂ニュー・オーダー(新秩序)の登場が急迫を告げて居る」と、ついにドイツの覇権を認めた。

外交進講役の松田さえドイツの覇権を認めたことは、昭和天皇が協調外交・融和路線継続の国際政治上の根拠をほぼ完全に失ったことを意味する。昭和天皇が気力を失った原因は、時期や状況から見て、これ以外に考えられない。イギリス危うしという状況か昭和天皇にとっていかに衝撃的だったかがわかる。
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